その時、目に飛び込んできたものは、嘘みたいな光景だった。

 葉月さんに呼び出されて、学校に着いた。
 来たのはいいが、それからどうしようか困っていたところ、葉月さんの声がした。
 校舎の入り口方向からだった。
 声のする方向へ歩いて行き、校舎入り口が見える位置までやってきて、俺は見た。
 葉月さんが弟と闘い、あしらわれ、最後に放り投げられるところを。

 遊園地のアトラクションで空へ向かって一気に飛び、スリルを味わうものがある。
 テレビでしか見たことはないが、葉月さんが飛んだ様子はまさにアレと同じ。
 何十メートルも一気に飛んだわけではなかった。せいぜい、二メートルちょいというところだろう。
 しかし、葉月さんは着地に失敗し、地面にぶつかり、動かなくなった。
 正直に言ってしまえば、俺は葉月さんが喧嘩のような荒事で負けることはない、と思い込んでいた。
 俺、妹、澄子ちゃん、花火。全員が葉月さんと接触し、投げられるかあしらわれるか、されてきた。
 だから俺にとっては、視界の中で葉月さんが地面に倒れ伏している光景そのものが、冗談みたいなものだった。
 遠くから見ていたのもそう思えた理由の一つだし、相手が弟だった、というのも理由に挙がる。
 しかし、冗談に見えていても、葉月さんが倒れて動かなくなっているのは、決して冗談なんかではない。

 葉月さんの元へ駆け寄り、その体を起こす。
 声をかけてみると、か細いうめき声が返ってくる。
 見た感じ、どこかを怪我した様子はないが――外傷は見えるものばかりではない。
「……骨折はしてないはずだよ。軽い脳震盪じゃないかな」
 弟はそう言っていた。
「自分でやっておいて、よく言えたもんだな?」
「兄さん。誤解してるみたいだけど、僕はやめましょうって葉月先輩に言ったんだよ。
 襲ってきたのは葉月先輩の方だ。僕は怪我したくなかったから、対処した。それだけだよ」
「……たぶん、だろうとは思ってた」
 一度その気になった葉月さんは、暴れて気が済むまで止まらない。
 その場に居合わせて、なすすべ無く投げられるのが俺で、逆に投げ返すのが弟だった、というだけだ。

「なんで……」
「なに、兄さん?」
「なんで、お前は葉月さんを投げることができた? 
 この人が強いってことは知ってる。だけど、その葉月さんをお前が投げ返したなんて、俺には予想外だ。
 いや、信じられない、信じたくない、っていうぐらいだ。結果を見たら、信じるしかないけど」
「そうだろうね。僕だって、自分で信じられない。
 体を鍛えるために特別なことはしてないのに、とっさに葉月さんの動きに反応できた」
「お前、運動は得意だったけど、格闘技まで得意なのか?」
「そんなわけないよ。僕には似合わないよ、そういう荒っぽいこと。きっと怖くてなにもできない」
「でも、実際はこうやって葉月さんを気絶させてる。それについて、どう思う?」
「……知らない。なんでこんなことができるのか、僕にはさっぱりだ」
 弟は神妙な面持ちで、葉月さんを見下ろしていた。

 葉月さんの体を、校舎入り口の近くへと移動させる。
 地面にずっと寝かせているよりはマシだろう。
 コンクリートは堅いが、地面に寝かせた時のように砂だらけになることはない。
「悪い、葉月さん。もうちょっとだけ、そこに居てくれ」
 弟と、話をつけてくるから。

 弟と対峙する。
 今回ばかりは、弟の奴にきついお灸を据えてやらなきゃならない。
「そんな怖い顔しないでよ、兄さん」
「お前、ここまでして、これだけのことをやらかしておいて、俺に怒られないとでも思っていたか?」
「そうか。そうだね。やっぱり怒るよね……兄さんは」
「なんで、俺が怒るのを理解しているくせに、あんなことを言った?
 お前が見つけた、お前の居場所っていうのは、花火の隣だろう。
 ……付き合うことになったんだな、お前ら」
「うん。兄さんこそ、葉月先輩と付き合うようになったんだよね。
 それを聞いたから、僕も花火と付き合えるようになった。ありがとう」
「まさかとは思ってたけど、本当に俺に彼女ができるまで、花火と付き合わないようにしてたんだな」
「そうだよ。兄さんに生涯の伴侶ができるまでは、我慢することにしてたんだ」
 弟がさらりと口にするものだから、ついスルーするところだった。
 この男、現状に相応しくない台詞を口走ったぞ、今。
「もうちょっと先だと思っていたけど、まさかこんなに早いなんてね」
「……待て。さっきの台詞、もう一回言ってみろ」
「え? 兄さんに彼女ができるまでは、花火と付き合うのを我慢する、って」
「違うだろ。一部台詞が変わってる」
「――ああ、彼女じゃなくて、生涯の伴侶って言ったね。僕」
「それだ! 伴侶って、お前……葉月さんとはまだ付き合いだしたばっかりだぞ」
「そうだね。でもさ、兄さん」
 弟が首を傾げる。問いかけてくる。

「葉月先輩と別れられると、本当に思ってる?」
「……別れようなんて、まだ思わないさ」
「仮の話さ。あるかもしれないでしょう? 別れを告げなきゃいけない状況が。
 もしも、突然父さんが家を売り払って、お祖母ちゃんの家に住むことになったら。
 いや、これじゃ例えが駄目か。
 もしも、兄さんが模型作りに今以上に熱心になって、海外で修行することになったら。
 兄さん、葉月先輩との関係をどうする?」
「日本を脱出したら、ってか。スケールが大きいな。葉月さんには、きっと……別れを切り出す。
 いつ戻ってくるか分からない俺を待つより、他の奴を相手にした方が葉月さんのためだ」
「兄さんならそう言うと思った。でも、そんな理由じゃ、葉月先輩とは別れられないよ」
「お前は、葉月さんとは違う。彼女の気持ちなんか――」
「読めるよ。全ては理解できないけどね。
 兄さんが遠くに行くことになったら、全ての環境、身辺の問題、人間関係、全てを投げ捨てて、兄さんについていくはず。
 そもそも、兄さんが海外へ行ったら、妹も兄さんについていくだろうから、葉月先輩としては絶対にそうせざるをえない」
「妹が? 無えよ、それは」
「兄さんは実に鈍感だな」
 お手上げのポーズで、弟がそう言った。
 ……むかつく。喧嘩売ってんのか。いや、とっくに売られているか。

「まあ、妹の話は別。今は葉月先輩のこと。
 兄さんは、どこまで愛されてるか分かっていない。
 仮の話ばっかりで悪いけど、もしも兄さんと葉月先輩が、一晩同じ部屋で過ごすことになったら。
 葉月先輩は、たぶん兄さんが拒んでも、強引にセックスに持ち込むよ。
 口をふさいで、両手首をベッドにくくりつけて。兄さんに貫かれて、満たされるまで、止まらない」
「お前、言ってることが凄まじくキモチワルイぞ」
 嫌いな言い方をするなら、キモい。
「兄さん達と、僕と花火を置き換えてみたら分かるんだ。
 ちなみに、花火が兄さん、僕が葉月先輩だからね。つまり……」
「花火と、したってことか。昨晩」
「惜しい。昨日花火の家に行ってから、すぐだよ。
 まあ、花火は嫌とは言わなかったから、変なことはしなかったけど」
 けど、嫌だと言ったら、花火を縛り付けてでも、セックスしたってか。
 犯罪じゃねえか、それ。
 弟が正真正銘の変態だって自白した。とりあえず、然るべき所に突きだしてやりたい。
 ついこの間までそんな素振りは見せなかったのに、突然変貌した。
 一体、弟に何があった?

「兄さん、どう? 僕と花火のことを聞いて」
「何にも無えよ。あえて言うなら、お前ら二人の関係じゃなく、お前の変態振りについてだけだ」
 花火が俺のことを、昔好きだったからって――なんともない。
 大切なのは今だ。今の花火が、そして俺が、どんな気持ちでいるのかだ。
「そっか。そうだよね。……取り越し苦労だったね。二人がどうかなるって、ずっと不安に思ってたんだ。
 生涯の伴侶を得た兄さんは、ずっと一途な思いを抱いて生きていくよね」
「……もう、めんどくさいからそういうことにしていい。
 お前が花火命の方向性で生きていくなら、俺は何も言わない。
 でもな、勝手に家を出ていくことだけは、絶対に止めてやる。
 そもそも、出て行く必要がないだろ? 存分にバカップルやってりゃいいじゃねえか」
「それができれば苦労しないよ。
 兄さんは、澄子ちゃんが僕のことをどう思っているか、知っているよね?」
 頷く。あと五回は頷けるぐらい、よく分かってる。
 弟とは理由が違うが、澄子ちゃんに監禁されたこともある。
「なら――僕と花火が付き合ったら、彼女がどうなるのか、想像できるよね」
「想像したくないがな」
 発狂するんじゃないか、澄子ちゃん。
 本気の喧嘩するぐらい大嫌いな相手が、好きな男の恋人になったんだ。
 前回の事件とは比べものにならないほど、恐ろしいことをやらかすだろう。

「でしょう? でも、僕も花火も、彼女の暴走に付き合っていられないんだ。
 だから、僕は家を出て行く。花火と二人きりで生きていくんだ」
「どうやって生きてくつもりだよ。お金は? 住まいは?」
「働いて、なんとかするよ」
「働くって、どうやって?」
「なんとかして見つける」
「あのな、そういうなんとかするっていうのは、手段を持つ人間が言うもんだぞ。
 いずれかの手段を用いてなんとかする、っていうのが正しい使い方だ。
 お前には、何か金を稼ぐための手段や、働き先を見つけるための手段があるのか?」
「それをなんとかするために、僕は自分のとれる手段を全部とる」

 嘆息する。
 どこまで頭が悪いんだこの弟は。
 悪いのは学校の成績だけじゃなく、常識や世間に対する見方までなのか。
 不良すぎる。素行不良という意味の不良ではなく、もっと広くて大きい意味で。
「友人との雑談の一ページだけどな、俺らが仮に世間に放り出されたら、即ホームレスの仲間入りだって結論に落ち着いたぞ。
 ちなみに年齢不相応に老成している友人だから、めちゃめちゃ具体的に、筋道立てて、ホームレス入りの根拠を述べてくれた。
 身元不明、住所不明。そんなどこの馬の骨ともしれない子供、誰が働かせようと思う?
 せいぜい、同じように正体不明な、ブラックな仕事しかできないぜ、きっと」
「そんなことない。どこかに雇ってくれる人はいるはずだよ」
「そう言える根拠はどこからやってきてるんだよ」
「僕が信じてるから。僕の言うことをわかってくれる人は、絶対にいる」
「お前さあ…………いや、なんでもない」

 こいつと同じようなこと考えたことあったよなー、俺。懐かしい。
 たしか中学三年で、進路希望の紙を書けって教師に言われて書かされることになって、考えた。
 義務教育が終わったなら、もう働いていいってことじゃん、なんてな。
 俺がそう思ったのは、家庭で両親や弟や妹から、なんとなく仲間はずれにされてる気がして、クサってたせいだろう。
 とにかく早く自立したかった。これからは両親の力を借りずに生きていく。
 そう真剣に考えていて、いつまで経っても進路希望の紙を書けず、教師に何度も呼び出された。
 なんだったっけな、今の高校を受験しようって決めたきっかけは。
 ――母の姿を見たから、だったか。
 ちょうどその時期、父が会社のトラブルで、二週間ほど家に帰れなくなった。
 そのせいで、母が家事をすべて放棄して、寝たきり状態になった。
 何を言っても反応しないし、布団からたたき出しても起きようとしない。
 完全に自分の世界に籠もりっきりになったんだ。
 仕方ないから、その頃の生活は兄妹で分担して行うことになった。
 それで、あーこういうのも楽しいな、となり、家を出るのを躊躇った。
 結果、自分の成績ならクリアできるレベルの高校を受験し、無難に合格。そして今に至る。

 ようやく弟にも、昔の俺も夢見た、自立した生活を望む心が芽生えたってわけだ。
 理由は別だけど、家から出て生きたいという思いは一緒。
 でもな、弟よ。
 お前より先に、お前の考えていることをやろうとした男は、こう考えるんだ。
 絶対にお前をそんな無頼の世界には送りださねえ、って。
 正論ではきっと、弟との口論は平行線になる。できないって言っても、できるとしか返さない。
 そりゃそうだ。絶対にできると信じて疑わないんだから。
 だから、別方向から攻めさせてもらう。
「百歩譲って、お前がまともな就職先に収まって、収入を得られるとしよう。
 その就職先が住み込みの仕事だったとしよう。
 だけど、生活っていうのは収入だけで成り立つものじゃないんだぞ。
 花火との生活はどうする? 二人とも身元不明なのは変わらない。
 結婚なんかできないし、子供を産むにしても、まともな病院に行けるかどうか。
 そんなんでいいのか? そこまで、花火と一緒に話したか? 覚悟を同じくしているか?」
「花火は、僕にずっとついていくって言ったよ」
 あいつもどこまで考えているんだか。
 まあ、バカップルはどんな奴らでも同じ事考えるらしい。
 二年時同じクラスだったイケメン西田君と、その彼女の座を奪い取った三越さん。
 西田君が十八歳の誕生日を迎えたら、即入籍して同居を始めるとか言い出してる。
 弟と花火のカップルとどっこいどっこいだが、法に則って結婚しようとしている時点で、まだ同級生カップルの方がまともだ。
「もう一度、花火と真剣に話し合ってみろ。就職、結婚、出産、育児。それらにかかる生活の全てについて。
 考えた上で、かつ一から筋道立てて説明できたら、俺は何も言わん。
 自信満々の人間の意志を曲げるのは俺の趣味じゃない。
 最終的にお前を家から出すか判断するのは、両親と祖母になるだろうよ」
「兄さん、忘れたの? 僕らの両親も、世間からは認められていない夫婦だってこと」
「知ってる。だから俺は真剣にお前と話してるんだ。
 お前や妹を、両親みたいな生活を送るような人間にはさせたくないからな」
「そう。でもね、兄さん。僕は…………父さんや母さんのような生活でもいいって、考えてる」
「なんだと?」
「だってさ。法的にアウトな両親でも、僕らみたいに仲の良い兄妹を産んで、育てることはできるんだ。
 両親にできたんなら、僕と花火にできないはずがない。否定することができる?」
「……ああ」
 否定してやるよ。しまくってやるよ。
 甘く見るなよ。たっぷり自分の家族を観察し続けてきた、俺の目を。
 もしかしたら葉月さんが聞いているかもしれないけど、この際だ。構うものか。

「破綻してるよ。俺の家族は。
 両親は兄妹同士。しかも結婚してない。近親相姦で子供を三人も産んだ。
 伯母がおかしくなったのは、そのせいだ。細かい事情までは知らないが――伯母は家族を愛してたんだと思う。
 でも、伯母の弟と妹は禁断の関係を結んでしまった。だから、凶行に走るまで、おかしくなったんだ。
 伯母がお前と妹を集中して攻撃したのは、自分の弟と妹にそっくりだからだ。
 両親の代わりにいじめることで、心を安定させていたんだ。
 そっくりだからな、お前ら四人は。顔だけじゃなくて、その関係まで。
 俺が伯母を刺したことで、結果的に落ち着いたが、何も解決しちゃ居ない。
 うちの家族は、祖母を除いて、血の繋がった姉弟と兄妹で、仲良しこよしの家族ごっこをしてるだけだ。
 身内だから、上手くやっていけるのは当たり前だ。
 決して家族なんかじゃない――破綻してる家族なんだ。
 本物の家族みたいだけど、それは非常に良くできた偽物にすきない」
「……兄さん、僕らのことが嫌いなの?」
「お前らは家族だよ。両親も、本物の両親だ。他人なんか入り込めない繋がりがある。
 だけど……なんていうか、違うんだ。小さいんだ。井戸の中で満足している蛙と同じだ。
 分かれ。うちの家族は、花火と花火の両親の三人みたいに、ありふれた家族とは違うんだ」
「…………そう。兄さんまで、そう言うんだね」
 兄さんなら分かってくれると信じてたのに。
 弟の呟きは、俺の耳に届く前にかき消えてしまいそうなぐらい、弱々しかった。

「そこまで言うんなら、兄さんにはもう、何を言っても無駄だね。
 言っても無駄なら、力尽くで、僕は意志を通す。邪魔するんなら、兄さんでも容赦しない」
「さいで。やれるもんならやってみな」
 もうギプスが必要ないぐらい、右肘は回復してる。
 でも、弟と喧嘩をやらかすぐらい回復しているはずがない。
 そもそも、折檻するために拳骨を喰らわすことはあっても、単純な暴力を振るう目的で他人を殴ったことはほとんどない。
 つまり、俺の格闘スキルはRPG風に言うなら、レベルワン。かつ、適正無し。
「葉月先輩だって、僕には敵わなかったんだ。
 葉月先輩に投げられてばっかりの兄さんに、止めることは絶対にできないよ」
「わざと投げられてたんだよ。女性相手に本気を出すはずがないだろ」
 どこぞの国のトマト祭りが霞んで見えるぐらい、真っ赤に染まった嘘を吐いてみる。
 嘘を吐いた俺は、これから弟の手によってトマト祭りならぬ血祭りにあげられるのか。
 暴力反対。喧嘩を買っておいて、言うのも変だが。
「……強がったって、無駄だよ」
「はっきり言ってやる。お前なんぞ、指先一つでダウンだ」
 一度言ってみたかったこの台詞。強がりもほどほどにしておけよ、俺。
 唯一の勝ち目があるとするなら、奇襲。
 けど、俺は弟の姿を見ているわけで。さらに、弟も俺の姿を捉えているわけで。
 奇襲作戦はとっくに失敗している。
 奇襲が駄目なら、もう――特攻しかない。
 弟の顔面目掛けて、右で殴るように見せかけて、左の拳を放つ。
 後は知らん。博打みたいなもんだ。
 ただ、通常の丁半博打と違うのは、イカサマされてるせいで賽の目が絶対に丁しか出ないという理不尽仕様なところ。
 半に全額乗せている俺としては、もはや奇跡を期待するしかない。
 丁と半の概念が入れ替わりますように。そんなあり得ない希望を抱くしかない。

「いくぜ、歯ぁくいしばれっ!」
 威勢の良いかけ声と共に、俺は弟に殴りかかった。

*****

 指先じゃないよ、これ。
 兄さんの拳に殴られた僕は、まずそんなことを思った。

 吹き飛ばされて、倒れる。
 口の中が切れてる。どの歯を舐めても、血の味しかしない。
 兄さんが近寄ってくる。逃げるために立ち上がっても、膝が笑っていて、バランスを保てない。
 膝をつく直前。俯いた顔に、兄さんの蹴りが突き刺さった。
 無理矢理体を起こされて、今度は右側へ放り投げられた。
 受け身をとれず、無様に着地する。
 寝転がった僕の上に、兄さんが乗っかった。
 そのまま、兄さんは僕を殴り始めた。
 この間までギプスに包まれていた、右腕だけで。
 一発ごとに顎の骨にヒビが入っていく。記憶が一ヶ月分ずつ飛んでいく。そんな気がした。

 強すぎる。力の差がありすぎる。敵わない。
 勝てないのか、兄さんには。
 葉月さんは、僕が強いと言っていた。実際、僕は強さを見せて、葉月さんを倒した。
 でも、兄さんは僕なんかよりもずっと強かった。
 心だけじゃない、体まで。それに頭も良い。どこを見ても、完全無欠。
 なんなんだ、僕は。本当に兄さんの弟なのか?
 どうしてここまで劣っているのに、僕は兄さんの弟として生まれてきたんだ?

 こんな僕じゃ、花火を守れない。兄さんはきっと、そう言いたかったんだ。
 僕じゃ、花火にふさわしくないのか? 兄さんこそ、花火にふさわしいのか?
 どうしたら、兄さんのように強くなって、花火を守れるような男になれるんだ。
 知りたい。教えてよ、兄さん。いつもみたいに、数学の数式を説明するみたいに、わかりやすく教えてよ。

 でも、兄さんは教えてくれない。ただ力一杯殴ってくるだけ。
 わからない。何にも、考えられない。殴られすぎて、わからなくなってきた。

「もうやめなさい、弟君! これ以上やったら、あなたもお兄さんも! 何を考えてるの!?」
 あ、葉月先輩だ。葉月先輩が兄さんを蹴り飛ばして、僕を解放してくれた。
 ありがとうございます。でも、勘違いしてますよ。
 今の言葉を言うのなら、兄さんにです。
 殴られているのは、僕の方だったじゃないですか。そうでしょう? 

 ――あれ、変だ。
 どうして今頃、右手が痛くなってるんだろう。
 いっぱい血が付いている。
 骨まで歪んでるんじゃないかな、これ。
 やり過ぎだよ、兄さん。

「早く行くぞ! 今しかない」
 花火が僕の体を起こしてくれた。花火の肩に助けられながら、よたよたと歩き出す。
 ごめんね、花火。僕は兄さんに勝てなかった。
 僕は君に相応しくなんか、ないんだよ。花火に相応しいのは兄さんしかいない。
 ――でも、でもね。
 どうしても諦めたくない。君が好きなんだ。
 君と一緒にいるためだったら、僕はなんでもする。
 兄さんに勝たないといけないなら、勝つまで戦ってみせる。
 そう思っているんだ、本当に。

「待ちなさい! 弟君! 葵紋花火!」
 葉月先輩の声。反応して、花火が足を止める。
 これ以上、ボロボロの僕をどうしようっていうんです?
「全部聞いていたわ、あなたと、お兄さんの話は!
 あなた達の家庭事情について知ったのは初めてだけど、そんなことは私はどうでもいいの。
 私が気に入らないのは、あなたのその姿勢よ! 
 逃げてばっかり! 木之内澄子から、お兄さんから!」
「あの女……言わせておけば」
 いいんだ、花火。葉月先輩の言っていることは、事実だから。
「私はあなたが強いって言ったわ。……でも、撤回する! あなたは、弱いわ!
 心が弱く、魂が籠もっていなくて、強くなれるものですか!
 暴力を振るうだけなら、竹刀にだって、拳銃にだって、自動車にだって、何にだってできる。
 でも、本当の強さっていうのは、体に籠もった心の強さだけよ!
 考えるのをやめないで! やめてしまったら、そこで終わりなのよ!
 そんな姿が、あなたの望んだ姿だっていうの?
 お兄さんに負けて、悔しいと思わないの? 答えなさい、弟君!」
 葉月先輩の言葉が止む。
 僕からの返答を待っているように、静かになった。
「……おい、気にするなよ」
「うん。わかってるよ。大丈夫さ」
 わかってる。僕は逃げているだけ。
 目の前の問題から、兄さんの影から。

 でも――勝てないんだ。悔しいに決まってるじゃないか!
 こんなみじめに敗北したくない。花火と一緒に生きられるぐらい、強くなりたい。
 僕は心が弱い。そんなことじゃ強くなんかなれない。
 じゃあ、どうすればいいっていのさ? どうすれば、兄さんみたいに強くなれるんだ。
「大丈夫だよ。私がずっと傍に居る」
「ありがとう、花火」
 僕は花火と二人で生きる。……でも、それでいいのか? それは、花火に重荷を任せるってことじゃないか。
 弱い僕の代わりに、花火が負担する。
 そんなのは嫌だ。二人で助け合って生きていくのがいいんだ。

 そのためには、強くならなきゃいけない。
 強くなるために、僕はどうしたらいいんだ?
 兄さんの真似をすれば――兄さんのように強くなれるのか?
 花火と二人で生きていくと、澄子ちゃんが邪魔をする。
 花火は澄子ちゃんを排除すればいいと言うけど、そんな馬鹿なことはしたくない。
 僕は、家を出て、澄子ちゃんの目から逃げる方法を選んだ。
 それは僕の選択だ。

 もしも、兄さんが僕の立場だったらどうしたんだろう。
 わからない。僕は兄さんじゃない。僕は、僕だ。
「お兄さんの言ってることを、お兄さんの気持ちになって、考えてみなさい!」
 葉月先輩は、そう言う。
 兄さんの気持ちになって考える。
 こんな時、大事な選択の決断を迫られた時、兄さんだったらどうする?
 兄さんじゃなくて、僕の好きなヒーローだったら?
 彼らだったら――――どんな選択をして、みんなを救う方向に導いてみせるんだ?
最終更新:2010年09月06日 15:50