百詩篇第3巻35番

原文

Du plus profond1 de l'Occident2 d'Europe3,
De pauures4 gens vn ieune5 enfant6 naistra,
Qui par sa langue seduira grande troupe7 :
Son8 bruit au regne9 d'Orient plus croistra.

異文

(1) profond : profont 1605 1628 1649Xa
(2) l'Occident : l'occident 1568I
(3) d'Europe : d'Eutrope 1589PV
(4) pauures : pouures 1557U 1557B, pouure 1568A, poures 1589PV 1590Ro, pauure 1627 1644 1672
(5) ieune : Ieune 1650Le 1668A
(6) enfant : Enfant 1712Guy
(7) troupe : trope 1589PV, trouppe 1605 1649Xa 1649Ca 1650Le 1668
(8) Son : Sont 1600 1867LP
(9) regne : Regne 1672 1712Guy

(注記)1588-89 はI-23に差し替えられていて不収録

校訂

 troupe は綴りとしては正しいが、むしろ trope とする方が韻にあう*1

日本語訳

ヨーロッパ西部の最も奥深い場所の、
貧しい人々の中から一人の幼い子供が生まれ、
その弁舌によって大群衆を籠絡するだろう。
その名声は東方の王国で一層大きくなるだろう。

訳について

 大乗訳はおおむね許容範囲だが、4行目「その名声は 西の方の王国にも広まるだろう」*2は、西と東を取り違えた単純な誤訳。
 山根訳もほぼ問題ないが、2行目「貧しい家に一人の子供が生まれるだろう」*3が微妙。貧しい人々(pauvres gens)が複数形で述べられているため、一つの家庭というよりもそういう階層の中からと理解すべきだろう。

信奉者側の見解

 テオフィル・ド・ガランシエール(1672年)は「説明の必要なし」とだけ述べ、具体的な関連付けは行わなかった。バルタザール・ギノー(1712年)も、ヨーロッパの貧民層の出身者が成長してから東方に行き、そこで名声を高めることの予言としていたが、具体的な関連付けは見られない*4

 アナトール・ル・ペルチエ(1867年)は、ナポレオン・ボナパルトと関連付けた。彼はヨーロッパの西の最奥をコルシカ島と解釈し、2行目以降は叩き上げで皇帝にのぼりつめ、その途上で多くの名演説を残したこととした。4行目はエジプト遠征のことだという*5
 この解釈はチャールズ・ウォード(1891年)、ジェイムズ・レイヴァー(1952年)、セルジュ・ユタン(1978年)らが踏襲した。*6

 ジャン・ムズレット(未作成)ら(1947年)は近未来に現れる反キリストの予言で、悪魔的な考えを持つ聖職者夫妻から生まれ、東方へ赴くことが予言されているとした(ムズレットの原文は2行目冒頭が De pauvres religieux となっている)*7

 ヘンリー・C・ロバーツ(1949年)はアドルフ・ヒトラーと結びつけた。彼に先行するアンドレ・ラモン(1943年)、ロルフ・ボズウェル(1943年)、マックス・ド・フォンブリュヌ(未作成)(1939年)らはこの詩に触れていないので、ロバーツの解釈はヒトラーと結びつけた最も早い部類に属するものであろう。
 ジャン=シャルル・ド・フォンブリュヌ(1980年)やモーリス・シャトラン(未作成)(1994年)もヒトラーとしていた*8
 この解釈は日本では黒沼健(1970年)が比較的早い時期に紹介した。ただし、黒沼はヒトラーの生まれが「西欧の最奥」とはいえないことや、父親が税関吏であったことから貧しい生まれともいえないことなども指摘していた*9
 川尻徹は出自の点からはヒトラーよりもゲッベルスに当てはまると解釈していた*10

 エリカ・チータム(1973年)は、ナポレオンにもヒトラーにも当てはまる詩としていた*11

同時代的な視点

 エドガー・レオニはナポレオンに当てはまることを認めつつも、詩が書かれた時点で既に歿していたフランシスコ・ザビエルにも十分当てはまる詩だと指摘していた。エヴリット・ブライラーもザビエルに適合するとしていた*12

 ピエール・ブランダムールは、「西欧の最奥」がノストラダムスの暦書などではしばしばイギリス諸島と並列的に用いられていることを指摘した。高田勇伊藤進が指摘するように、この読み方が正しいとすれば、ナポレオン、ヒトラーはもちろん、ザビエルとする読み方も斥けられることになる*13

 ピーター・ラメジャラーはそれを踏まえたうえで、当時まだ20代だったジョン・ディーのことではないかとした。当時のディーはイングランドよりも大陸での評価が高く、その学識に基づく講義はパリ大学やルーヴァン大学で多くの学生達に支持されていたという*14

 ジャン=ポール・クレベールは、当時貧民層を救ってくれると信じられていた終末の皇帝のイメージが投影されているのではないかとした*15


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  • 映画俳優のチャップリンはイギリスの貧民街で生まれ、アメリカ(西欧の奥深く)に渡った。そこで、ヒトラーを風刺する映画『独裁者』を作った。そのモデルとなったヒトラーと誕生年月が同じ、1889年4月である(チャップリンの方が4日早い)。(1-2行)そのモデルとなったヒトラーは演説によってドイツの大勢の人を魅了し、当時の日本にまで影響を与え、ドイツと同盟した。(3-4行) -- とある信奉者 (2013-02-01 22:41:40)

  • 上記の解釈は関係代名詞を無視した強引な解釈であることを断っておく。 故に、未だ成就してない可能性の方が高い。しかし、現時点で出来る解釈を提示したかったのだ。 -- とある信奉者 (2013-02-04 12:20:42)
最終更新:2013年02月04日 12:20

*1 cf. Brind’Amour [1996]

*2 大乗 [1975] p.106

*3 山根 [1988] p.126

*4 Garencieres [1672], Guynaud [1712] pp.274-275

*5 Le Pelletier [1867a] pp.205-206

*6 Ward [1891]pp.286-287, Hutin [1978], レイヴァー [1999] p.264

*7 Mezerette & Edouard [1947] pp.197-198

*8 Fontbrune [1980/1982], シャトラン [1998] pp.84-85

*9 黒沼『世界の予言』pp.141-142

*10 川尻『滅亡のシナリオ』

*11 Cheetham [1973/1990]

*12 Leoni [1961/1982], LeVert [1979]

*13 Brind’Amour [1996], 高田・伊藤 [1999]

*14 Lemesurier [2003b]

*15 Clébert [2003]