百詩篇第7巻29番

原文

Le grand duc1 d'Albe2 se viendra rebeller,
A ses grans peres3 fera le tradiment:
Le grand de Guise4 le viendra debeller5,
Captif mené & dressé6 monument7.

異文

(1) duc 1557U 1557B 1568A 1568B 1590Ro : Duc T.A.Eds.
(2) d'Albe : l'Albe 1600 1610 1650Ri 1716
(3) peres : Peres 1772Ri
(4) Guise : Gurse 1665
(5) debeller : deceler 1600 1644 1650Ri 1653 1665 1867LP, decelier 1610 1716, declerer 1627
(6) dressé : dresse 1672
(7) monument : mouuement 1600 1610 1627 1644 1650Ri 1653 1665 1716

校訂

 3行目 debellerについてはいくつかの異文があるが、いずれも取るに足らない。deceler (暴く)は単に隣接する字の取り違えによって生じた誤植だろうし、declerer や decelier はその誤植がさらに変化したものだろう。

日本語訳

アルバの大公が謀反しにきて、
その偉大な父祖たちへの裏切りをするだろう。
ギーズ家の大物が彼を倒しに来るだろう。
捕虜は引き立てられ、記念碑が建てられる。

訳について

 大乗訳1行目「アルバ公は反抗し」*1は、grand duc (大公)と viendra (来るだろう)のニュアンスが落ちている。2行目「彼の祖父に策略をほどこし」は、祖父が複数形になっている意味合いが反映されていない上、tradiment を「策略」と訳すことに疑問がある。3行目「ギーズは彼を征服し」の問題点は1行目と同じ。

 山根訳はおおむね許容範囲内だが、細かいニュアンスについて大乗訳と共通する問題点がある。

信奉者側の見解

 テオフィル・ド・ガランシエールは、1556年にアルバ大公がフェリペ2世の命令でローマに進軍したことと、それを阻止するためにアンリ2世がギーズ公の軍勢をローマに遣わしたことの予言と解釈したが、それ以降、20世紀前半までの主だった論者の解釈は途絶える*2
 ジャン=シャルル・ド・フォンブリュヌも同じ出来事と解釈した*3

同時代的な視点

 まず史実を整理しておこう。1556年に教皇庁国務省長官であったカルロ・カラファ(教皇パウルス4世の甥)がハプスブルク家に対抗姿勢を示し、戦争準備をした。これに対しフェリペ2世はアルバ公に命じ、教皇領を侵攻させた。教皇は同盟関係にあったフランスに援軍を要請し、ギーズ公の軍隊が派遣された。
 この戦いの最中に、ギーズ公はフランスのサン=カンタンの危機的状況を踏まえて呼び戻された。アルバ公はローマの市門前にまで迫ったが、ここで和約が結ばれ、教皇は中立の立場を取ることを約束した*4

 テオフィル・ド・ガランシエールらの解釈は固有名詞も含めて見事に的中しているように見える。しかし、この詩の初出は1557年9月6日版である。現在進行形だった事件をもとに詩を書いた可能性は当然想定されるべきだろう。

 実際、詩をよく見ればアルバ公の行為もギーズ公の行為も「~しに来る」という表現が使われており、「アルバ公がローマで狼藉を働く」とも「ギーズ公がアルバ公を倒す」とも述べておらず、当時まだ出ていなかった結果について、慎重に断定を避けていることが読み取れる。

 ルイ・シュロッセやジャン=ポール・クレベールは、上記の出来事をモデルと推測しているが、当然事前に的中させたとは見なしていない*5


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最終更新:2010年07月08日 22:41

*1 大乗 [1975] p.209

*2 Garencieres [1672]

*3 Fontbrune [1980/1982]

*4 以上の経緯は柴田・樺山・福井『フランス史2』p.82、テュヒレほか『キリスト教史5』p.311による。

*5 Schlosser [1986] p.221