百詩篇第3巻58番

原文

Aupres du Rin1 des montaignes2 Noriques3
Naistra vn grand de gents4 trop tart5 venu,
Qui defendra SAVROME6 & Pannoniques7,
Qu'on ne saura qu'il8 sera deuenu.

異文

(1) Rin : Rhein 1650Ri 1653 1665
(2) montaignes : Montagnes 1672
(3) Noriques : Moriques 1589PV 1649Ca 1650Le 1668, Notiques 1644 1650Ri 1653 1665, noriques 1660
(4) gents : ens 1665
(5) tart 1555 1840 : tard T.A.Eds. (sauf : trard 1610)
(6) SAVROME 1555 1840 : Saurome T.A.Eds. (sauf : Sarmates 1672)
(7) Pannoniques : Pannonicque 1588-89 1660
(8) qu'il : quil 1672

校訂

 ピエール・ブランダムールは2行目の gents を gent と校訂し、3行目 SAVROME をSAUROM. と校訂した。ブリューノ・プテ=ジラールは支持したが、ピーター・ラメジャラージャン=ポール・クレベールは全く言及していない。もっとも、彼らも実質的に同じ読みをしているので、ブランダムールの校訂は十分に説得的といえる。

 なお、高田勇伊藤進は1555で saurome と書かれていたと述べていたが*1、これはブランダムールの注記 en petites capitales (小さな頭文字で=小文字と同じフォントサイズの大文字で)を見間違えたものだろう。
 閲覧環境によっては適切に反映されない可能性もあるが、一応、上の原文でも文字サイズを少し小さくした。

日本語訳

ライン川の近く、ノリクムの山々の、
非常に遅れてきた人々の中から一人の偉人が生まれ、
サルマティア人たちとパンノニア人たちを守るだろう。
しかし、彼がどうなるのかは分からないだろう。

訳について

 大乗訳「ノーリック山から出てラインの近く」*2はそうおかしいわけではないが、原文では山は複数形であり、「ノーリック山」という単独の山はない。
 同2行目「おそくなってから偉大なる人が生まれる」は、「人々の中から」(de gent)の意味合いが反映されていない。
 同3行目「彼はポーランドとハンガリーを打ち負かす」は、ヘンリー・C・ロバーツの英訳 Who shall defend the Poles and Hungarians *3と比べても明らかにおかしい。defend と defeat を取り違えたか。
 同4行目「彼のしたことを人はなぜか忘れるだろう」も、ロバーツの英訳 So that it shall not be known what is become of him.と比べてさえも、明らかに意味が離れていることが分かる。

 山根訳はおおむね許容範囲内。2行目「民衆のなかの英雄 来るのが遅すぎた男が生まれるだろう」*4も、やや強引ではあるが、絶対にそう訳せないというものではない。

信奉者側の見解

 テオフィル・ド・ガランシエール(1672年)は「これは平易だ」(This is plain)とだけ注記した。ヘンリー・C・ロバーツ(1949年)はなぜかこの注記をノストラダムス自身のものとした上で、歴史の流れのなかで埋もれてしまったノストラダムスの時代の事件や人物を描写したものだったのだろうとした(ロバーツの邦訳書では、This is plain が「予言は計画だ」と訳された上で、前後の文章も原文から乖離したものになっているが不適切)*5

 ガランシエール以後、20世紀半ばまでこの詩を解釈した者はいないようである。少なくとも、バルタザール・ギノーテオドール・ブーイフランシス・ジローウジェーヌ・バレストアナトール・ル・ペルチエチャールズ・ウォードマックス・ド・フォンブリュヌ(未作成)アンドレ・ラモンの著書には載っていない。

 ロルフ・ボズウェル(1943年)はアドルフ・ヒトラーと解釈した。ヒトラーはオーストリアのブラウナウの生まれで、ノリクムが現在のオーストリア周辺に当たることや、ブラウナウがライン川の源流と比較的近いことに対応するとした。3行目はヒトラーの領土拡大についてで、パンノニアの一部であるオーストリアやサルマティアの一部であるポーランドなどを併合したことと解釈した*6

 類似の解釈はアレクサンダー・チェントゥリオ(未作成)クルト・アルガイヤーエリカ・チータムセルジュ・ユタンジャン=シャルル・ド・フォンブリュヌなどが採用してきた*7。とりわけチェントゥリオは、1939年にベルリン国立図書館で『予言集』の古版本を閲覧した際、この第3巻58番のページに栞が挟んであった上、帝国総理府から返却されたばかりだと司書に伝えられたというエピソードを紹介した*8

同時代的な視点

 ノストラダムスが生きていた当時はリトアニア=ポーランド王国(ヤギェウォ朝)が存在していたときだったことから、エドガー・レオニは、オーストリア(ノリクム)のハプスブルク家からリトアニア=ポーランド王国を併呑する君主が現れることを予言したものだったのではないかとした。その一方でレオニは、ヤギェウォ朝は1572年に途絶えたこと、17世紀のトルコの侵攻に対してオーストリアとポーランドが同盟を結んだことはあったが、第二次ウィーン包囲(1683年)では詩の情景と逆にポーランドがオーストリアを守ったことなどを指摘した*9

 ピエール・ブランダムールは4行目の意味するところは、故郷から遠く離れてしまい、消息が分からなくなることとしたが、特定のモデルは指摘していなかった*10
 特定のモデルを指摘していないのはピーター・ラメジャラージャン=ポール・クレベールも同じである*11


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最終更新:2022年02月06日 00:22

*1 高田・伊藤 [1999] p.258

*2 大乗訳 [1975] p.111

*3 Roberts [1949] p.96

*4 山根 [1988] p.132

*5 Garencieres [1672], Roberts [1949], ロバーツ [1975]

*6 Boswell [1943] pp.171-173

*7 アルガイヤー [1985] pp.55-56, Cheetham [1973], Hutin [1978], Fontbrune [1980/1982]. ユタンのみ疑問符付き。

*8 cf.アルガイヤー前掲書

*9 Leoni [1961]

*10 Brind’Amour [1996]

*11 Lemesurier [2003b / 2010], Clébert [2003]