予兆詩第152番

予兆詩第152番(旧141番)1567年11月について

原文

Du retour d'ambassade1, don de Roy, mis au lieu.
Plus n'en fera: sera2 allé à Dieu3.
Parens4 plus proches, amis, freres du sang
Trouvé tout mort pres du lict & du banc.

異文

(1) d'ambassade conj.(BC) : d'Ambassade T.Eds.
(2) sera : Sera 1649Ca 1650Le 1668
(3) Dieu 1649Ca 1650Le 1668 : DIEV T.A.Eds.
(4) Parens : Parans 1605 1649Xa

(注記1)この詩の初出である『1567年向けの暦』は現存していないため、底本になっているのは1594JFである。
(注記2)ジャン=エメ・ド・シャヴィニーの手稿『散文予兆集成』には、綴り直されたバージョンが収録されている。

日本語訳

大使館から帰還して、王からの贈り物は然るべき場に置かれる。
もはやすることはないだろう。ゆえに神の許へ召されるだろう。
より近き親類、友人たち、血を分けた兄弟たち
寝台と長椅子の近くで、突然の死が発見される。

訳について

 tout mort は中期フランス語の慣用表現で raide mort(不意の死、突然の死)の意味*1

信奉者側の見解

 ノストラダムス自身の死(1566年7月)を予言しているという見解で一致している*2。わけても詳しい解釈を展開したのは、ヴライク・イオネスクである。彼は筑波大学で行った講演の中で以下のような解釈を展開した*3
  • この詩が予兆詩の最後で、もともと1567年12月向けの詩もなかった。
  • 1566年7月に死んだノストラダムスが、1567年11月の項にこの詩を置いたのは意図的なものである。彼は王から称号をもらった1565年1月と1566年7月の間、そして66年7月と67年11月の間がそれぞれ17ヶ月間となるように、シンメトリーを作るための意図的なものである。
  • 二行目のDieuの前に17語あり、Dieuを含む後半も17語ある*4。これは、神(Dieu)を対称軸とするシンメトリーである。何より、DIEVと、大文字で書かれていること(後述)は、「特別の意味強調」を示している。このように、ノストラダムスは、聖数17を織り込んだメッセージを作るために、あえて、詩を「1567年11月」に配置した。
  • 三行目parensには、paransという異文もあり、これならば「より近い歳月」という意味になる。また、DIEVが大文字で書かれていたのにはもう一つ「仕掛け」がある。神をヘブライ語(ヤハウェYHWH)になおし、これを数字に置き換えると、1566となり、死の年が出てくる。すなわち、指定した年月よりも早い1566年に死ぬことを予言していたのである。

同時代的な視点

 この詩を最初に解釈したシャヴィニーは、ノストラダムスが寝台と長椅子の間で倒れていたなどとは述べていない。シャヴィニーの解釈は短いので、参考のために全訳しておこう。

「この最初の行は、翌年の交渉を示しているように思える。他の3行は、我々がその生涯について語ったとおり、この月(注:1566年7月)の2日夜明け直前に亡くなった我らが著者(注:ノストラダムス)の話を含んでいる。彼はまさしく『寝台と長椅子の近くで、突然の死が発見される』と語っているのだ。その病気の間、つまりは8日間、彼は人と会うのも寝台に横になることもほとんどしたがらなかったからである。」*5

 見てのとおり、この詩をノストラダムスと結び付けているシャヴィニーですら、寝台と長椅子の間で倒れていたとは語っていない。息子セザール・ド・ノートルダムの年代記も同様である。ノストラダムスを身近に見ていたはずの彼らが何も語っていないのだから、倒れていた場所に関する説明は、後の時代に捏造されたものだろう。

 「1567年11月について」と題されている詩なのだし、ノストラダムスの死とは関連性が薄いと見るべきではないだろうか。そもそも、1567年向けの予兆詩を見渡すと、死や遺産相続を連想させる詩が多いので、どれかが当たっているように見えたとしても不思議ではない。

 イオネスクの指摘についてだが、1567年12月向けの予兆詩が存在しないというのは事実に反する。また、ノストラダムスが称号を受けた時期は1565年1月だとセザールが記録していると主張しているが、セザールの年代記に時期は明記されていない*6。仮にイオネスクの言い分が正しいとしても、1565年1月の17ヶ月後は1566年7月ではない。

 また、イオネスクはDIEVという原文に特別な意味を見出しているが、シュヴィニャールの校訂に明らかなように、この大文字化はシャヴィニーによる改変の可能性がある(シャヴィニーはこの種の大文字化をよくやっている)。parans についても、そういう異文があるのは事実だが、シャヴィニーのテクストを写しただけの1605年版で見られる異文なのだから、単なる誤植と見るべきで、オリジナルに遡ると見ることはできない。

 シュヴィニャールは、より根本的な疑問点として、この詩そのものが改竄されている可能性を指摘している。その根拠となっているのが、1567年に出版されたイタリア語訳版『1567年向けの暦』である。そこに載っている11月向けの詩は以下の通りである(訳文はシュヴィニャールのフランス語訳を参照させていただいた*7)。

 Premio alli Ambasciador'nel suo ritorno,
 Il Rè che stà in honor di vita privo,
 Parenti, amici, senza alcun soggiorno,
 Fratei di sangue anchor com'Io ti scrivo.

 帰還すると、大使館員たちには褒美。
 栄誉を受けている王は生命を奪われるだろう。
 親類、友人たちは一切の遅滞なしに、
 血を分けた兄弟たちもまた、吾が汝に記したごとくに。

 見てのとおり、部分的な一致は見られるが、全体としては明らかに異質な内容になっている。イタリア語訳の方は、王の死と、それに際して迅速に集まった人々のことを詠んでいるように見える。
 シャヴィニーは、詩百篇の解釈でもかなり自由に原文の書き換えなどをおこなっている(第7巻17番では1行丸ごと差し替えている)。そういう人物がオリジナルの発表後30年近くたって提示した原文と、オリジナルの出版とほぼ同時期のイタリア語版に示された訳とでは、当然後者の方が信頼できる可能性も考慮しなければならないだろう。


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最終更新:2010年09月05日 13:38

*1 DMF

*2 Bareste[1840]p. 65-66, Le Pelletier[1867a]p.91-92, Centurio[1977]p.18-19, Fontbrune[1982]p.57, Hogue[1997]p.909-910, レイヴァー[1999]p.111 etc.

*3 以下はイオネスク『ノストラダムス・メッセージII』pp.262-269を要約

*4 イオネスク[1993]では「17文字」とあるが、文脈からして17語の誤訳であろう。

*5 Chavigny [1594] p.154

*6 Nostredame [1614] p.801

*7 Chevignard [1999] p.189