原文
Le
1 grand empire
2 sera tost
translaté3
En lieu petit qui bien tost
4 viendra croistre:
Lieu bien infime d'exigue
5 comté
6
Ou
7 au milieu viendra poser son
sceptre8
異文
(1) Le grand : La grand 1672Ga
(2) empire 1555 1557U 1557B 1568 1589PV 1590Ro 1590SJ 1650Le 1668 1772Ri 1840 : Empire
T.A.Eds.
(3) translaté : transsaté 1605sn
(4) bien tost : bien-tost 1644Hu 1649Xa 1772Ri
(5) d'exigue : d'exiguë 1649Ca 1650Le 1667Wi 1668P, dexigue 1653AB 1665Ba, d'exiguĕ 1668A
(6) comté : conté 1588-89 1610Po, Comté 1620PD 1672Ga
(7) Ou : Où 1568C 1591BR 1597Br 1606PR 1607PR 1610Po 1611A 1611B 1620PD 1627Ma 1628dR 1644Hu 1650Ri 1653AB 1665Ba 1667Wi 1716PR 1981EB
(8) son
sceptre : son sceptré 1591BR, son Sceptre 1590SJ 1649Ca 1650Le 1668, sceptre 1627Ma, septre 1627Di, son Scepter 1672Ga
日本語訳
大帝国がすぐに移されるだろう、
小さな場所に。それは瞬く間に成長するだろう。
狭い伯爵領のじつに取るに足らない場所、
その中央に彼の王杖を置きに来るだろう。
訳について
大乗訳は2行目「やがて弱き国となり」がまずおかしい。croistre (croître, 成長する、増大する)が訳に反映されていない。
同3行目「弱き者の要求を入れ」も不適切。comté (伯爵領)をはじめとして訳されていない語が多すぎる。
山根訳は3行目「狭すぎる地域の小さな土地」が上記と同じような問題点を含んでいる。
信奉者側の見解
テオフィル・ド・ガランシエール(1672年)は、神聖ローマ皇帝カール5世が神聖ローマ帝国を弟フェルディナント1世に譲り、スペインを息子のフェリペ2世に譲ったことでそれぞれは小さくなったが、スペインはその後急成長を遂げたことの予言と解釈した。
1691年ルーアン版『予言集』に掲載された「当代の一知識人」の解釈では、ナッサウ伯家出身でオラニエ公の位を継ぎ、名誉革命を経てイギリス王になったウィレム(ウィリアム3世)についてとされている。
アンリ・トルネ=シャヴィニー(1860年)はナポレオンの予言とした。大帝国を築き上げたナポレオンがエルバ島に流された後、そこを脱出して百日天下を実現したことと解釈したのである。
チャールズ・ウォード(1891年)もナポレオンとしたが、トルネ=シャヴィニーの解釈を知らなかったようで、まだ誰も指摘していないらしい解釈としていた。
ジェイムズ・レイヴァー(1952年)もトルネ=シャヴィニーの解釈を知らなかったようで、エリゼ・デュ・ヴィニョワが解釈の中で百日天下などについて触れていないことを挙げ、従来の解釈者たちの不備を批判した。
ナポレオンとする解釈は
セルジュ・ユタン、
エリカ・チータムなどが支持した。
ジョン・ホーグはナポレオンとする解釈と、前出のカール5世とする解釈を両方とも採用し、いずれも的中と解釈した。
川尻徹(1987年)は、1990年代の日本経済が大失速し、日本中の都市がスラム化する様子と、野党が政権を奪うことが予言されているとした。
加治木義博(1993年)は、熊本藩の藩主の直系である細川護煕が1993年に非自民連立政権を樹立したことと解釈した。
同時代的な視点
ロジェ・プレヴォは13世紀の東ローマ帝国の情勢がモデルと推測した。東ローマ帝国は第四次十字軍によってコンスタンティノープルを奪われ(1204年)、ラテン帝国の建国を許した。しかし、その亡命政権の一つであった小規模なニカエア帝国が勢力を伸ばし、ミカエル8世パライオロゴスのときにコンスタンティノープルを奪還し(1261年)、東ローマ帝国再興に成功したのである。
ピーター・ラメジャラーは、14世紀後半から15世紀前半の教会大分裂がモデルと推測した。この時期には、
アヴィニョンにも教皇庁があり、それ以降発展した。
なお、こうした実証的な解釈と信奉者側の解釈の双方に、何の説明もなくアヴィニョンが頻出するのは、おそらくアヴィニョンを含む周辺地方の古い呼び名がコンタ・ヴネサン (Comtat Venaissin, ヴナスク伯爵領) であるためだろう。コンタ (Comtat) はコンテ (Comté) の南仏方言で、意味は同じである。
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最終更新:2018年07月16日 13:53