詩百篇第8巻43番


原文

Par le decide1 de deux choses bastars2
Nepueu du sang occupera le regne3
Dedans4 lectoyre5 seront les coups6 de dars7
Nepueu par peur pleira8 l'enseigne9.

異文

(1) decide : decidé 1720To
(2) bastars 1568 1590Ro 1605sn 1628dR 1649Ca 1649Xa 1665Ba 1697Vi 1720To 1772Ri 1840 : bastards T.A.Eds.(sauf : Bastars 1672Ga)
(3) regne : Regne 1672Ga
(4) Dedans : Dedaus 1611A
(5) lectoyre : le toire 1572Cr, lectoire 1644Hu 1650Ri 1665Ba 1697Vi 1720To, Lectoyre 1981EB 1772Ri, Lectoure 1672Ga
(6) coups : cops 1568X, corps 1590Ro
(7) dars 1568A 1568B 1568C 1653AB 1981EB 1665Ba 1697Vi 1720To 1772Ri : darts 1568X 1590Ro, dards T.A.Eds.
(8) pleira 1568 1591BR 1605sn 1611A 1628dR 1649Ca 1649Xa 1653AB 1672Ga 1772Ri : pliera T.A.Eds.(sauf : plira 1611B, plaira 1665Ba 1697Vi)
(9) l'enseigne : l’anseigne 1607PR, l’enseiɓue 1653AB, l'Enseigne 1672Ga

(注記1)1653ABではl'enseigne の gnの部分がそれぞれ上下逆に印字されている。
(注記2)版の系譜の考察のために1697Viも加えた。

校訂

 lectoyre は1672Gaがそう読んだように Lectoure の誤記と見るのが素直な読み方である。

 pleira は現代フランス語から見れば pliera の方が適切だが、ジャン=ポール・クレベールによると、ロマン語には pleiar という語があるようなので、pleira という綴りが誤植なのか意図的なものなのかは分からない。

日本語訳

二つの非嫡出的なるものの没落によって、
その血統の甥が王国を占拠するだろう。
レクトゥールでは投槍の攻撃があるだろう。
甥は恐怖により旗を畳むであろう。

訳について

 既存の訳についてコメントしておく。

 山根訳はほとんど問題がない。

 大乗訳1行目「私生児は二つのことで分割されて」*1は不適切。
 ヘンリー・C・ロバーツの英訳にあるdecision を division とでも読み間違えたものか。
 なお、テオフィル・ド・ガランシエールは decision と英訳しつつも division の方が良いと指摘していたが、ロバーツの原書にはそれを匂わせる記述は一切ない。

 大乗訳3行目 で、lectoyre(ロバーツの原文では Lectoure、英訳では Lectore)を「読書台」と訳しているのは、英語の lectern として読んだものか。

 大乗訳4行目「甥は恐れて旗をかかげる」は誤訳。
 ロバーツによる仏語原文では peur(恐怖)が抜け落ちているため、「恐れて」とある大乗訳はフランス語原文からでなくロバーツの英訳から転訳したことが明白だが、そこには正しく fold up(折り畳む)とある。hold up とでも混同したか。

信奉者側の見解

 ナポレオン3世の登位と没落を鮮やかに描いた詩とされ、アナトール・ル・ペルチエが事前に正しく解釈していたとして知られている詩である*2
 それによると、「二つの非嫡出的なるもの」とは、七月王政(1830年-1848年)と第二共和制(1848年-1852年)を指し、これらが短命であった結果、ナポレオン・ボナパルトの甥ナポレオン3世が即位したことを示しているという。
 ル・ペルチエは1867年の段階で後半2行の中にナポレオン3世の敗北を読み取ったが、3行目の「レクトワル」についてはレクトゥール(未作成)(Lectoure, ジェール県の地名)の誤記か、「これまで気付かれてこなかった何か」を暗示したものであろうとした。

 この語については、スダンの戦い(1870年)の20年ほど後になって、チャールズ・ウォードが新解釈を提示した。
 彼は lectoyre をル・トルセー(Le Torcey)のアナグラムであろうとして、ル・トルシー(Le Torcy)と解釈した。ル・トルシーはスダン付近の地名(現在はスダン市内)であり、まさしくスダンの戦いが予言されていたことの証拠だとしたのである*3

同時代的な視点

 ロジェ・プレヴォは、この詩のモデルを15世紀末のヴァロワ朝の状況と推測している。
 1495年と1496年にフランス王妃アンヌ・ド・ブルターニュが出産した2人の男児はいずれも死産であったため、国王シャルル8世の死後、(甥ではなかったが)その義理の兄弟に当たるオルレアン家のルイが王位を引き継ぐことになった。
 しかし、ルイ12世に都合のよい相次ぐ死産は当時ゴシップの種となり、ルイがアンヌに対し、レクトゥールで薬物入りのオレンジを与えたのだと噂されたのである。

 この解釈は、ピーター・ラメジャラーにも支持されている*4


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最終更新:2020年06月06日 23:57

*1 大乗 [1975] p.241. 以下この詩の引用は同じ

*2 Le Pelletier [1867a] pp.265-266, Hogue [1997/1999] etc.

*3 Ward [1891] p.340

*4 Prévost[1999] p.89, Lemesurier[2003b] p.279