ジャン=エメ・ド・シャヴィニー(Jean-Aimé de Chavigny, 1536年-1605年頃?)は、ルネサンス期フランスの詩人。現在ではむしろ医師・占星術師ノストラダムスの秘書として知られる。
彼はもともとジャン・シュヴィニャール(Jean Chevignard)という名で、のちにジャン・ド・シュヴィニー(Jean de Chevigny)と改称し、さらに1581年頃からジャン=エメ・ド・シャヴィニーと名乗った。
生涯
広く流布した説によれば、シャヴィニーは1524年頃に生まれ、神学と法学の博士号を取得したあと1548年にボーヌ市の市長となり、ノストラダムスが『予言集』を執筆する少し前(1554年頃)に、市長職を捨ててノストラダムスに弟子入りしたという。また、シャヴィニーは1566年7月1日夜にノストラダムスの生前最後の姿を見たのは自分で、予言めいた言葉をかけられたと語っている。そして1604年 に没したという。
だが、地方史家
ベルナール・シュヴィニャールらの調査の結果、市長になるあたりまでの経歴(生年も含む)は、18世紀になって何の史料的裏付けもなしに形成された虚像であることが明らかになっている。そもそも、当時のフランスでは24歳で市長になった例はないという指摘もある。
通説に批判的な立場の論者は、実際のシャヴィニーの出生データを1536年1月23日ボーヌ生まれとしている。これは、1561年にシャヴィニー自身がノストラダムスにあてた手紙の中で、自分を占ってもらうために述べたものである。シュヴィニャールの研究では、シャヴィニーの家は代々鞘商人(鞘製造業者)であったという。また、学歴についてはモンペリエ大学で医学博士号を取得したことが裏付けられるという指摘もある(当時のモンペリエ大学の学生簿などを調査したV.-L. ソーニエによる)。
シャヴィニーが1554年以降ノストラダムスのそばにいたことにも疑問が投げかけられている。それによれば、シャヴィニーは1556-1557年にはパリに上京し1560年頃までジャン・ドラの下でギリシャ語を学んでおり、実際にノストラダムスの秘書となったのは前出の手紙のあと、1561年夏ごろとされる(その頃、ノストラダムスが顧客あての手紙に最近新しく若いフランス人秘書を雇ったと述べていることがその傍証とされる)。
ノストラダムスを最後に見たという話についても、疑問が投げかけられている。ノストラダムスが死ぬ少し前に口述した遺言書(これには家族への遺産配分のみでなく、教会への寄付や町の貧者への施しにまで言及がある)にはシャヴィニーへの言及が全くなく、本当に1566年にノストラダムスのそばにいたかが確認できないためである。
なお、没年については1604年説が多く採られているものの、これについても否定的な見解が出されている。シャヴィニーの著作の中には、1605年10月の日食を見たことが書かれているからである。史料的に裏付けられる形での没年は分かっていない。
作品
下記著作の他、多くの文献に詩を寄せている(ベルナール・シュヴィニャールの調査では、1555年から1608年に出された20冊の文献の中で彼の詩を確認できるという)。その中には、ノストラダムスの暦書が含まれている一方で、ノストラダムスに便乗した占星術師
コルモペードの暦書も含まれている。
ジャン・ド・シュヴィニー名義
- 『リヨンの城砦』(La Citadelle Lyonnoise)
アントワーヌ・デュ・ヴェルディエ(未作成)の書誌(1585年)でジャン・ド・シュヴィニーの未公刊の手稿として言及されていたが、この手稿の本来の著者はカトラン・フォルチュネである。これは1890年にリヨンで出版された。
- 『傑出した君主ジャック・ド・サヴォワの讃歌』(Hymne de tres-illustre Prince Jacques de Savoye)
この手稿は行方不明である。上記のケース同様、フォルチュネの手稿の可能性も指摘されている。
- 『ガラテアとドリス。リュシアンの対話』(Galatée et Doris, Dialogue de Lucien)
この手稿は行方不明である。上記のケース同様、フォルチュネの手稿の可能性も指摘されている。
ジャン=エメ・ド・シャヴィニー名義
これは公刊されたものではないが、シャヴィニーが集めることができたノストラダムスの「暦書」類の内容を年代順にまとめ上げたものである。
以下の2つは『フランスのヤヌスの第一の顔』の一部を抜粋した再編集版である。
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最終更新:2009年09月20日 14:31