フロランヴィルの領主

 フロランヴィルの領主(le seigneur de Florinville)は、ノストラダムスの予言者的なエピソードのひとつ、いわゆる「白豚と黒豚の話」に登場する人物。史実としてのノストラダムスとの接点は全く裏付けられていない。

 後述する初出では単にド・フロランヴィル氏(Monsieur de Florinville)と呼ばれていた(Monsieurは、中期フランス語では身分の高い人物の呼称でもあった)。

 だが、テオフィル・ド・ガランシエールの Lord of Florinville という英訳やピエール=ジョゼフ・ド・エーツの le seigneur de Florinville という表記を経て、そちらが広まった。
 城があった領地はファン(Fains, 現存する北フランスの地方自治体)なので、「ファンの領主フロランヴィル殿」とでもしておく方が無難なのかもしれないが、詳細を特定しきるまではとりあえず通俗的に広まっている「フロランヴィルの領主」という呼称を用いる。

白豚と黒豚の話

 ノストラダムスの生涯には、いわゆる空白の期間がある。最初の妻を失った後、1544年にマルセイユで確認されるまでの、確たる足取りがつかめない時期のことである。

 この時期のエピソードはいくつかあるが、とりわけ有名なもののひとつが、この「白豚と黒豚の話」である。この話を最初に紹介したのは、1656年の注釈書の著者である。そこでの紹介はエドガー・レオニによる英訳のおかげで容易に確認することができる*3
 ここではオリジナルの方から該当箇所を全訳しておこう。

全訳

 ファンの城にフロランヴィル夫妻 (Monsieur & Madame de Florinville) を訪ねた時に、私〔1656年の解釈書の著者〕は彼らから、ミシェル・ノストラダムスがここに滞在し、今の領主の祖母に当たるフロランヴィル夫人を診たと聞いた。彼女は今も存命で*1、そのときに起こった話を面白がって、ほうぼうに伝えていた。

 フロランヴィル氏がノストラダムスとともに城内の家禽飼育場(Basse-Cour)を散歩していると、白と黒の2頭の子豚が目にとまった。彼は戯れにこの2頭の豚はどうなるのかとノストラダムスに尋ねた。彼はすぐさま答えた。「我々が黒い方を食べ、狼が白い方を食べるでしょう」と。

 この予言者を嘘つきに仕立てることを意図したフロランヴィル氏は、こっそりと料理人に白豚を殺し、夕食に出すよう命じた。彼は白い豚を殺し、下ごしらえをし、時間になると焼くための準備で串を刺しておいた。ところが、調理場の外で用足しをしている隙に、飼い馴らすために飼われていた仔狼(louveteau)が入ってきて、焼く準備ができていた白豚の尻肉を平らげてしまった。戻ってきた料理人は領主の怒りを買うことを恐れ、黒豚をつかまえて殺し、調理して夕食に出した。

 何が起こったのかを知らずに勝ったと思っていた氏は、ノストラダムスにこう語りかけた。「さてムッシュー、白豚は今我々が食べておりますから、狼が触れることはないでしょうな」と。「私はそうは思いません」とノストラダムスは答え、「テーブルに載っているのは黒豚ですよ」と続けた。そこで料理人が呼ばれた。彼は事の次第を告白し、(料理とは)もっと別の愉快な肴を提供した*2

コメント

 この話について、1656年の注釈書の著者は、上記のようにフロランヴィルの領主の子孫から聞いたとしている*4

 その後、ガランシエールの著書に採録され*5、さらにピエール=ジョゼフ・ド・エーツによる伝記(1711年/1712年)*6、著者不明『ノストラダムスの生涯と遺言』(1789年)などにも引き継がれていった。
 しかしながら、これが史実であったことを裏付けるような史料は全く確認されていない。

 志水一夫は、ディオゲネス・ラエルティオスが伝えるデモクリトスのエピソードに、ヤギのミルクを見ただけで、それが初子を産んだ黒ヤギのものであると見抜いたというものがあることから、それが元になったのではないかと推測していた*7
 しかし、デモクリトスのエピソードは白か黒かを当てるものはないし、これからどうなるのかを言い当てるものでもない。だから、「白豚と黒豚の話」の共通点は、単に黒い動物が出てくるというだけにとどまる。
 志水の場合、別の伝説である「逢い引きを見抜いた話」と「白豚と黒豚の話」を、ともにエーツ(1711年)が初めて紹介したと信じていたことからそのような推論に結びついたものと思われるが、その前提は誤っている。
 すでに見たように「白豚と黒豚の話」の初出は1656年の解釈書であるのに対し、「逢い引きを見抜いた話」は初出未詳で20世紀に登場した可能性すらある。
 少なくともエーツの伝記にそのような話は載っていない。

 「逢い引きを見抜いた話」がデモクリトスの焼き直しに過ぎないことはほぼ疑いないところであろうが、その出典をそのまま「白豚と黒豚の話」に直結させることには慎重であるべきだろう。

 参考情報として、9世紀の占星術師アブー・マアシャル(アルブマサル)のエピソードを紹介しておこう。
 あるときアブー・マアシャルはカリフに呼び出され、もう一人の占星術師とともに、カリフが気にかけていた牛がどんな子を産むか訊ねられた。アブー・マアシャルは黒い牛で額に白斑があると答え、もう一人は黒い牛で尾の先が白いと答えた。腹を割かれた牛から出てきた胎児は、黒い牛で尾の先が白かった。アブー・マアシャルの予言は外れたかに見えたが、丸まった胎児の額には尾が重なっていて、あたかも額に白斑があるかのように見えたという*8
 このエピソードは白、黒の言い当てに近く、しかも外れたかに見える結果が覆される点も、デモクリトスのエピソードよりは近い。

 アブー・マアシャルの名はノストラダムス自身「偉大なるアルブマサル」と賞賛していたくらいで、ヨーロッパ社会では知られていただけに、元になった可能性はあるように思われる。

 このエピソードは、10世紀の法官アッ・タヌーヒーの『キターブ・アン・ニシュワール・ウル・ムハーダラ』(座談の糧)全11巻の内の第1巻に収録されていたものだという。ラテン語訳などが伝わっていたかどうかは不明だが、第1巻の写本は20世紀にフランス国立図書館で発見され、1922年にイギリスのマーゴリウスによって英訳が出版された*9
 フランス国立図書館に入った時期は不明だが、もし17世紀に入っていたのなら、当時の知識人の中に知っていた者がいたとしても不思議ではないだろう。


【画像】前嶋信次『生活の世界歴史〈7〉イスラムの蔭に』


【画像】桂令夫『イスラム幻想世界』


【画像】羽仁礼『図解西洋占星術』




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最終更新:2012年01月17日 22:16

*1 レオニの英訳では領主が存命とされているが、挿入句の捉え方が不適切と思われる。

*2 Eclaircissement..., pp.40-41

*3 Leoni [1982] pp.20-21

*4 Leoni [1982] p.20, Leroy [1993] p.64

*5 Garencieres [1672] f.A5 verso

*6 Haitze [1712] pp.23-28

*7 志水 [1998] p.86

*8 羽仁礼『図解西洋占星術』p.147、桂令夫『イスラム幻想世界』pp.195-196に依拠した。

*9 前嶋信次『生活の世界歴史7 イスラムの蔭に』河出書房新社