ユビキタスで出来ること

 ユビキタス情報社会の発展は、もはや誰の目にも明らかだが、その直接的な利益がどのような形で私たちにもたらされているかを考えたとき、明確な答えを用意することはむずかしい。

 多くの場合において、人々は情報技術の発展により、あらゆる機器の機能が発達したことをその利点として挙げるが、こうした発展は操作の複雑化をもたらし、多くの人々を機械化された社会から疎外してきた感も否めない。チャップリンがモダン・タイムスの中で描いたような、人々が機械化社会の中にその尊厳を失いながら飲み込まれていく光景が、今日では現実になりつつある。

 そうした中で、ユビキタス社会の心温まる一面を先日知ることができた。

 宮城二女高でシックハウスのために、教室に入ることができず、別校舎で自習せざるをえなくなった生徒がいた。そこで、NTT労組出身の民主党議員がかつての職場の同僚に働きかけ、教室と別教室に回線をつなぎ、リアルタイムで授業の映像が流れるようなシステムを整えたという。

 こうした助けを求めている一人の弱者を助けることは、たしかにかつての情報技術ではむずかしかっただろう。web2.0以前の情報技術は、多数の対象者に対して情報を一方的に配信することしかできなかった。しかし、ユビキタス社会の発達につれて、人々は自分にもっとも適当な情報を目的に応じて取捨選択することが可能になり、見捨てられていた人々も自分らしく生きることができるようになったのだ。

 もっとも、この社会のもっとも大きな問題点は、その使える幅の広さや与えられる(あるいは受け取ることのできる)情報の多さが災いして、人々が自ら立ち止まって考えることを放棄しかねないということである。与えられたあまりに多くの情報で消化不良を起こし、結局なにも知ることができないのならば、これ以上悲しいことは無い。

 先日うかがったこの話からみても分かるように、これからのユビキタス社会の発展は、私たちの良識をいかに生かすかにかかっていると私は考えている。発達した情報技術をよりよい方向に使うことによって、最大多数の最大幸福を実現していきたいものだ。


これからの労働組合に求められるもの

 いわゆる「失われた十年」を生きた若者たちにとって、労働組合の主張は欺瞞的でしかなかった。というのも、彼らが主張するのは、もっぱら「われわれの権利」であり「労働者階級全体の利益」てはなかったからである。さらに踏み込んでいうのならば、彼らが大切にしていたのは、正社員としての利益であり、そのためならば非正規雇用の人々を乱雑に扱うことすら、ためらいもせずに行ってきた。作者は、たとえば日教組が補助教員の待遇改善に取り組んでいるなどという話は聞いたことが無い。もう取り組んでいたとしても、それが掛け声のみで終わっていること、あらゆりる学校の職員室にいけば、良く分かるはずである。

 もちろん、資本主義社会であるのだから、人々は自らが社会に果たした役割を正等に評価され、その努力の多少、あるいはリスクの多少に応じて生じる待遇の差を受け入れるべきである。しかし、今日の非正規雇用と正規雇用の労働者を分断しているのは、残念なことにこうした要素ではない。

 まず、時代的な背景がある。失われた十年を生きた若者たちはほとんど正規雇用にあずかるチャンスが無かった。そればかりか、正規雇用の人々は雇用の流動化の中でも利得権を死守したがために、いつまでたっても、一度すべり落ちた人が立ち直ることはできずにいた。

 こうした中で、労働組合は、そうした多数の若者の意見を無視し、もっぱら比較的恵まれた労働者の既得権を守ることを主眼に置いた。しかし、かつてのイギリスの例を見ても分かるように、比較的恵まれた階層の闘いは停滞するものである。良い雇用、良い環境を勝ち取るための意欲が少ない彼らを組織化したことにより、労働活動は早晩衰退化した。

 また、若者にとっては、彼らのイデオロギー的背景が何から端を発するものかすらわからず、結果としてうさんくささが先行したために、フリーターや派遣労働者の組織化が進まなかったという背景がある。たしかに、非正規雇用では、代わりは多くいるのだし、解雇も比較的容易であるのだから、組織化がむずかしいという背景はあるのだが、しかし、蟹工船にも描かれているように、すべての人々が組織化されれば、そういった恐怖はたちまちに消えてしまうものなのだ。付け加えて、賃金の上昇がもたらすリスクよりも、求人にかかる費用のリスクが上昇するような状況下においては、待遇改善を受け入れざるを得ないということもある。こうしたことから考えると、やはり、雇用主にあがなうことが出来るぐらいの勢いにまで組織化が進まない背景には、こうしたイデオロギー的労組への反発があるのだろう。

 もちろん、労働者は大資本と対立する存在であるが故に、国家に寄生している大資本と戦う労働者に国境や民族性などなく、よって愛国心よりもまず大切なのは、われわれが置かれている状況を科学的に分析する学問なのだというマルクス主義者の主張はかつては有効だったのだろう。しかし、現在においては、資本はかならずしも対立すべき相手ではなくなった。というよりも、今日において大きな力をもっている資本とはもっぱら、年金組合や投資組合などの匿名性の高い、かつ個人の独占性の低いものであり、その本質はステルス化して見えにくくなりつつある。雇用主も中小零細で、大企業からの買い叩きなどの搾取にあえぎ、かならずしも経営が楽ではないケースも多い。こうした背景から考えても、私たちは新しい労働組合のありかたを模索すべき時期にきた。

 時代背景もかつてとは大きく変貌を遂げてしまった。旧ソ連の崩壊から噴出した民族紛争や宗教紛争の例を挙げるまでも無く、人間の業が生み出す民族意識や宗教意識は大資本云々とは関係なくぬぐいがたいものであることが明らかになった。人間は本態的に弱い動物であるという前提を大切にしながら、独りよがりな正義に傾くことなく、愛国心や民族意識を取り入れたすべての労働者階級の利益を代弁する労働組合の設立が今日では切に求められているのだ。


諸悪の根源を求める心理

 毛沢東選集の中で「矛盾の集中点を叩け」という言葉があった。

 なるほど、たしかにその言葉は明快である。世の中には、あらゆる悲劇の原因としての諸悪の根源があり、そうしたものを除去していくことで理想の社会が築かれていくという考え方である。しかし、この理論は、人が本態的に弱い動物に若かず、誰だって間違いを犯しうるという謙虚な反省に欠けているように思える。たしか、共産主義の理論では自己批判という制度があるが、強すぎる自責心は逃避にしかならないことも往々としてあるのだから、むしろ過ちやエゴを受け入れながらうまく社会を動かしていく方法を模索したほうが、私たちは心穏やかにすごせるのではないかと私は考える。事実、共産主義の失敗は私たちをこうした結論へと導いてくれた。

 しかし、こうした諸悪の根源を求める心理は、資本主義がもっとも発達したアメリカと日本において現在でも見られる。

 とくに顕著なのは、ネオコンといわれる人々に見られる価値観、あるいは日本の政権与党の一翼を担っている宗教団体の構成員に見られる価値観である。

 彼らは、世の中のあらゆる事物に対して、善と悪という評価をあたえ、その悪なるものを排除することで善に満たされた世界が実現できると考え、そうした思想の下で強い政治的権力を掌握した。そうした寛容さに欠けた教義は、宗教団体としていかがなものかという批判に対しては、悪に悪としての自覚を促すことが、悪に対する最大の思いやりなのだという考え方を提示した。

 しかし、彼らはアメリカと日本の政治に対して、少なくない傷を残した。

 市況の悪化は、資本主義社会のもつ構造的な欠陥による部分が多かったとしても、彼らが残した一番の傷跡はなんといっても、思考停止を政治の世界に持ち込んだことであろう。

 冷静になって考えてみれば分かることだが、自分の立場を絶対的な善と考え、対立する立場を絶対的な悪だと考える、あるいはそのような価値観を教えられてそれを鵜呑みにすることによって、それ以上謙虚な反省を加えずとも生きていくことが出来るようになる。しかし、このような独りよがりな考え方は、かならずや他の考えを持った人々との対立を生み出すのだ。

 すべての人々が、一つの考えを鵜呑みにし、自らは善であると主張する社会が、いかに反省と謙虚さに欠けた傲慢で殺伐とした世界なのかを、私たちはもっと良く想像すべきである。そうすれば、彼らの暴走を私たちの手で食い止めることはいまよりももっと容易になるだろう。


同一化願望という病理
呪いの論理で突き動かされた改革
努力の意味
怠惰であることを認める平等
民族的少数者として生きること
責任ある自由とはなにか
グローバル化が孕む問題点
世界同時革命の現実性
フェアトレードからみる大局的視野の欠落という病理
配分が機能する社会の利益は富裕層にこそ還元される
公共事業は諸悪の根源か
完全雇用という正義
情報の非対称性はなぜ考慮に入れられないのか
ゲーム理論の面白さ
囚人のジレンマを抱えながら
利己心を克服することで利益が達成される
私たちは貧困とどのように向き合うべきか
脱工業化社会で求められる教育
他人の中で自分を規定するのではなく……
差別という矛盾
役割人格に左右される個人
賦課方式の崩壊と少子高齢化
沈黙の春から学ぶ謙虚さ
巨石文明の崩壊はどこから生じたか
誰が私たちを創造したか? 旧約聖書創世記を読む
クローンは人間の生活を豊かにするか

最終更新:2009年03月25日 00:39