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194年
劉備は身を寄せていた徐州牧・陶謙に位を譲られて徐州の牧となる。
劉備が袁術と戦っている最中、張飛は徐州の留守を任されていたが、
そこで陶謙の旧家臣曹豹と対立、それが呂布の徐州介入を招くことになり、
結果劉備は呂布に敗北。
劉備と呂布は一旦は和睦するも、その後再び呂布に攻められた為
曹操の元に身を寄せる。

呂布を討たんとする曹操の軍に劉備とともに従軍。
張飛はその戦いでの功績を認められて、曹操より中朗将に任命された。
その後、劉備が曹操に背き、袁紹、劉表に相次いで身を寄せると
それにも付き従って、各地で転戦した。

208年
荊州牧・劉表が死ぬと、曹操が荊州に南下する。
曹操を恐れた劉備が妻子も棄てて、わずか数十騎をしたがえて逃げ出すという有様の中、張飛は殿軍を任され、当陽の長坂において敵軍を迎えた。
張飛が、川と二十騎の部下とを背にして橋を切り落とし、
「我こそは張飛。いざ、ここにどちらが死するかを決しよう」と
大声でよばわると、曹操軍の数千の軍兵はあえて先に進もうとはせず
このために劉備は無事に落ち延びることが出来た。

劉備は赤壁の戦いの後、周瑜に協力して荊州の南部四郡を攻略すると、
張飛を宜都太守・征虜将軍として新亭侯に封じ
しばらくして南郡に転任させた。

211年
劉備が劉璋に招かれて益州入り。

212年
法正らと謀って益州攻略を企てると、諸葛亮と共に援軍として後発。
巴郡太守・厳顔を生け捕りにした。

張飛は、自身が大軍を率いてやってきたのに、厳顔が少数で抗い
、降伏しなかったことに腹を立て、厳顔を詰問した。
厳顔は「あなた方は無礼にも、我が州(益州)に武力をもって侵略した。我が州には首をはねられる忠臣は居ても、降伏する将軍はいないのだ」と張飛を面罵した。腹を立てた張飛は、部下に彼の首を切らせようとしたが、厳顔がそこでさらに「首をはねるなら、さっさとすれば良い。どうして腹を立てることがあるのだ」といったので、張飛は厳顔を見事だと思い、彼を釈放し、以後は賓客として扱った。

益州奪取における張飛の功績を劉備は評価し、諸葛亮・法正、そして荊州の留守を守った関羽らとともに金銀財宝を与え、巴西太守に栄転させた。

215年
曹操が漢中の張魯を降すと、張郃は巴西の住民を奪い
漢中へ移住させようと企てた。
張飛は、張郃の軍と50日あまり対峙した後、精鋭の一万人ほどを率いて山道の隘路を利用して迎え撃つ計略を立てた。
結果、張郃はその計略にはまり、狭い山道の中で軍が前後で間延びしたために各個撃破され、自身はたった数十人の部下とともに脱出する羽目になる。こうして張飛は張郃の軍を撃退することに成功した。

219年
劉備が漢中を攻略すると、張飛は右将軍・仮節に任命された。

221年
劉備が蜀漢を建国すると、車騎将軍・司隷校尉・西郷公に昇進した。
しかし同年、劉備が呉に対して荊州奪還戦の準備をしている最中、かねてから張飛に恨みを抱いていた部下の張達・范彊に殺された。
劉備は張飛の都督から上奏文が届けられたと聞くと
その内容を聞く前に「ああ、(張)飛が死んだ」と悟ったという。

260年
劉禅によって桓侯と諡された。