彼の出身地は中国最大の塩湖である
「解池」の近くにあり、その出身地から塩の密売に関っていたといわれ
また、暴利をむさぼる塩商人を殺したともいわれている。
官吏に追われて幽州に逃げ、おそらく姓名を変えて関羽と名乗った。
その後、劉備・張飛と出会い、終生劉備に忠誠を尽くした。
劉備が故郷で挙兵したとき、張飛とともに劉備の護衛官となった。
劉備は関羽・張飛に兄弟のように恩愛をかけた。
地元・山西省の研究では、関羽は劉備より年上ながら
劉備を兄として仕えたという。

曹操が呂布を破った後
劉備が曹操を裏切って敗れ袁紹の元に逃げると、曹操の捕虜になった。
曹操は関羽を偏将軍に任命し、非常に手厚く礼遇した。
だが、関羽は功績を立てて曹操に恩返しをしてから
劉備の下へ戻ろうと考えていた。

官渡の戦いでは、関羽は敵将の顔良の旗印と車蓋を見ると
馬に鞭打って突撃し、大軍の真っ只中で顔良を刺し殺し、
顔良の首を持ち帰った。
この時、袁紹軍の諸将で相手になれる者はいなかったという
曹操は即刻上表して、漢寿亭侯に封じた。
顔良を討ち取るという功を立てた関羽は必ずや劉備のもとに戻ると曹操は考え、関羽に重い恩賞を与えた。
関羽はこれらの賜り物に封印をして、曹操に手紙を捧げて別れを告げ
袁紹の下にいる劉備の下へ去った。
曹操はその義に感嘆し、関羽を追いかけようとする部下に対して
彼を追ってはならないと言い聞かせた。

赤壁の戦いの後
劉備が益州に入ると、関羽は荊州の守備を任され
曹操・孫権に睨みを効かせていた。

しかし荊州に駐屯していた曹操配下の楽進が国境を侵犯し、苦戦したようである。
彼の荊州の統治ぶりは、呉志『陸遜伝』によれば、恩得と威信が行き渡っていたものであったようだ。
しかし関羽は部下には優しいが、同格の士大夫を見下すという悪い癖があり
このことが後に彼自身の災いを招くこととなる
(関羽は庶人から成り上がっており、もともと士大夫より低い身分だった。反対に張飛は部下には苛酷だが、士大夫は尊敬するという性格であった)


関羽の演義での話

董卓配下の猛将華雄を、曹操に勧められた酒が冷めないうちに斬った

袁紹軍の顔良のみならず、その同僚文醜をも討ち取った

曹操の元を去るとき、曹操軍の検問に見咎められて
6人の将軍を斬り殺して突破した

赤壁の戦い後、敗走する曹操軍を華容道で待ち伏せするが
検問突破を不問に付した恩義を衝かれ、見逃した

矢傷で重病となったために華佗の治療を受けた

孫権軍に処刑されたあと、呂蒙を祟り殺した

全て創作である。

青龍偃月刀も関羽の時代にはまだ存在していなかった
最終更新:2008年10月22日 18:36