β

消さない傷

手渡された指輪を右の薬指にゆっくり嵌める。
ゆっくりなのは、きっと緊張しているから。
嵌め終わると、プリシラは胸の前で両手をくみ目を閉じ、深呼吸して心を静め契約の言葉を紡いだ。
「サラマンダーの吐息、シルフの踊り、ウンディーネの涙、ノームの宝石。それらすべてが世界の根源、理の源。 我が願いに耳を傾け、我が
願いを疾とくと叶えたまえ。我は求める。全ての理の真理を」
流れるように紡がれたプリシラの言葉は風に乗り、空へと舞い上がっていく。
だが、それから暫くしても目に見えた変化は無く、傍で見ていたリンの小さく喉を鳴らす音だけが聞こえた以外、 他に音は何も聞こえなかっ
た。
「何も…起こらないの?」
不安げな声で向けた視線の先にいるパントは、そんなリンの不安など杞憂だと言いたげに、黙って祈るプリシラを 見ていた。
「風が…」
ふと呟かれたケントの言葉にリンは周りを見ると、木々が少しずつざわめくように動き出し、やがて取り巻く風が 自然でない、不規則な動き
で流れだすのが感じられ、プリシラの方を見たリンは、そこで初めて彼女に確実な変化が現れてきている事を知った。
薄ぼんやりと霞がかかったような、まるで半透明だが髪の長い裸体の女性がプリシラの周りを踊り、炎を思わせるほど真っ赤な蜥蜴のよう
な動物が足元を這いまわり、小さな、だが酷く長い髭を生やした樽のような姿をした老人のような男が立っていて、青色の薄い光を湛えた女
性がプリシラと背中を合わせるように佇んでいる。
「あ、あれは?」
突然現れた三人と一匹ーだが、どう見ても普通の人間には見えないー出現に驚いたリンは、思わず隣にいるケントに聞くが、ケントも分から
ずただ首を振る。
「まずは一つ、成功したようだね」
「あれは一体何ですか?」
満足そうに頷くパントに隣に控えていたセインが初めて口を開いた。
「四大精霊だよ。この世の全てを司る、ね」
話している間にも、プリシラを中心として風が大きく螺旋を描くように渦巻いていき、その動きに合わせるように周囲の風も激しく動き始め、そ
の風の強さに思わずたたらを踏むリンをケントは自分の身体で庇うようにその強風から身を守る。
パントやビクトリーも渦巻く風に煽られるマントと髪を押さえ突風に顔をしかめる。風の勢いは留まる所を知らないように、益々勢力を拡大さ
せていき、その勢いはまるで至近距離で飛竜の羽ばたきを受けたかと思わせる程だ。
だが、これだけ周りに影響を及ぼしているというのに、不思議にプリシラ自身の周りはまるで凪のようだ。
やっと突風が止んだと思い、一息つこうとしたその目の前でプリシラの身体が炎の柱に包まれた。
「!?」
青白い炎に包まれたプリシラに向って、足を踏み出そうとしたセインとリンを腕を伸ばし制する。
「大丈夫」
指を口元にあて、囁くようにパントはそれだけを告げた。
魔法を扱う者なら、それが具現化された本当の炎でない事は一目で分かる。炎の精霊サラマンダーの作り出した炎は具現化された炎とは
性質が違う。
だが、それは決して幻などという生易しいものでは無い。
実際の炎は身を焼くが、サラマンダーの炎は魂を焼く。集中を切らし、サラマンダーとの対話を閉じれば、プリシラはたちまち魂を焼かれ死
んでしまうだろう。
確かによく見れば、炎はプリシラの衣服、髪の一本すら焼いていない。だが、その激しさ、苛烈さは業火といっても差し支えない程だ。
炎がプリシラの頬を舐め、白い腕に巻き付く度に誰かの息を飲む音、小さな悲鳴がセインの耳を突く。
固唾を飲んで見守る面々の目の前で、やがて炎は現れた時の激しさとはまるで違う、プリシラ自身に温もりを与えるように揺らめきながら掻
き消えていった。
「精霊達が彼女に試練を与えているんだ。決して邪魔をしてはいけないよ」
念を押すように一同を見渡すパントに頷きながら、だが、ビクトリーはぽつりと呟いた。
「あと二つ…」
ビクトリーの言葉に、炎の試練に耐えたプリシラにほっとする間もなくセインは硬い視線を彼女に送った。パントの言う通りなら、試練を行う
精霊はまだあと二人もいる。
プリシラの足元の草花が白く変わっていっている事に最初に気付いたのはケントだった。
「あれは…?」
怪訝そうに呟くその言葉に、リンの目が驚愕に見開く。
「嘘…。だって、今は夏でしょ?」
同じ光景を目の当たりにした者達もーパント以外はー事態を理解出来ず、ただ押し黙っていた。
立っていると、じっとりと汗を感じてくるほど外の気温は高い。なのに、プリシラの足元は真っ白に染まっていた。まるで真冬の早朝のように、
霜が降りているのだ。
やがて、霜はプリシラの靴底を凍らし、ブーツへと徐々に這い上がってくる。
それが水の精霊ウンディーネの試練だと気付いた時には、プリシラの上半身までもが、既に凍りついていた。
「氷漬けにする気なの?」
リンはその愁眉を寄せ、マーニ・カティの柄を強く握り苦しそうに呟いた。
試練だと分かっていても、このまま黙って見ている事は思いもよらないほどの我慢を試される。飛び出しそうになる気持ちと足を、ぐっと地面
を踏みしめる事で何とか耐えた。
今はプリシラを信じる事しかできない。
そして、リン達の見ているその前で、瞬く間にプリシラは一体の氷の彫像へと移り変わっていった。
両手を組み、顎を少し上げ、目を閉じ祈っているその姿は、まるで最高級の芸術品を思わせる。
ぎりっと誰かの歯を噛み締める音が風に乗って誰かに聞こえた。
それは、それほど静かな時間。
誰もが瞬きすら忘れたように氷の芸術品と化したプリシラを凝視していると、やがてその視線に答えるように、ぴしっと亀裂の入ったような乾
いた音が響いた。それは何度も何度も聞こえ、一つの音が聞こえ終わる前に違う音に塗り潰されていくように、何重にも重なって聞こえた。
そして、氷の表面に無数の亀裂が入ると、ぱんっと小さくない音と共に氷が一瞬で弾け飛ぶ。
細かい氷の粒は、真夏の太陽に晒されキラキラと光り、まるで祝福の雨のように祈り続けるプリシラへと降りそそいだ。
その光景に、彼女が水の試練を乗り越えたと分かったセインは顔を上げ目を閉じると、ゆっくり息を吸い、大きく吐き出す。
試練はあと一つ。
氷の祝福が消えると、プリシラからほんの数歩離れた所に、小柄な老人が何時の間にか現れていた。
「何時の間に…」
リンの小さな呟きは、だが、その場全員の呟きだった。
ツルハシを持った小さな老人はまるでプリシラ以外見えないというように、彼女の近くへと歩み寄る。
プリシラは視線が合うように地面に両膝を付くと、両手を組み目を閉じた。
老人はツルハシを地面に下ろし、柄の部分に片手を置くと黙ってプリシラを見つめた。
その小柄な身体に似つかわない猛禽を思わせる鋭い視線を受け、プリシラは閉じていた瞼を開く。若草色の瞳と茶色の瞳が交差する。
老人のその眼差しは深く、プリシラ自身の魂の、その奥を見通すような光を湛え、時々何かを試すかのように、茶色の瞳が小さく輝いた。そ
して、プリシラはその全てを受け止めた。
やがて、老人は小さく微笑むとプリシラの組んだ両手を、皺の深く刻まれた自分の手で包み込む。老人が手を離した途端、眩いばかりの光
が両手から零れた。
その眩い光に目を奪われた一瞬に、ノームの姿は現れた時と同じように何時の間にか消えていた。
と、同時に、組んでいた右手の薬指に嵌めていた指輪が突然砕け落ちた。
だが、暫く誰もが動かず、じっとプリシラを見ていたが、やがて、ほうっと小さく息を零し、両手を組んだまま立ち上がったプリシラに向ってリ
ンが一番に駆けだす。今度はパントも止めなかった。
契約は無事終了したのだから。

「半透明の女性が風のシルフ、火蜥蜴が炎のサラマンダー、小さな老人が大地のノーム、青色の光を湛えた女性が水のウンディーネ。理の
魔法は精霊にその力を借りる魔法だからね。彼らと話す事ができなければ理の、自然魔法を行使する事は不可能なんだ」
大きく息を吐くプリシラの張った気を落ち着かせるようにと何事か話しているリンを見ながら、パントは魔道士の間では常識といわれている四
大精霊を分かりやすくセイン達に説明しながら歩き出した。
「おめでとう、プリシラ」
にっこりと笑うパントに向ってプリシラは少し上気した顔を下げる。
「あの指輪はどういうものなんですか?」
セインの質問にパントはプリシラの足元にしゃがみ込むと、宝石とリングの砕けた指輪を摘みあげた。
「この宝石は魔法を溜めやすい魔石という石でね、これに私達高位の魔道士が長い年月をかけ魔力を溜めていくんだ。理の魔法を使うのな
ら賢者が、光の魔法を使うのなら司祭が、闇の魔法を使うのならドルイドが。という具合に」
宝石を掴んでいた爪と、千切れたリングだけになった哀れな指輪の成れの果てをセインに見せながら、パントは続ける。
「でも、これ自体はいわゆる精霊界の門を開く、ただの『鍵』みたいなものなんだ」
「鍵?」
「そう、だって不思議じゃないかい?例えば修道士はすでに光の魔法を行使する事ができる。なのに、どうしてこの指輪を使わなければいけ
ないのか。それは、より高位な精霊に語りかけをしてもいいか、四大精霊に許可を貰う為さ。語りかける資格があるかどうか。一度精霊を呼
んで試すんだ」
「もし、資格無しとみなされたら?」
「その時は各々の行使すべき力の裁きを受けるだけさ。君達も見たように、あの精霊達の力の裁きをね」
事もなげに言うパントにセインは小さく息を飲む。
「そんな…危険じゃ…」
呟くように言うセインに、パントは表情を改めた。
「そう、危険だよ。とてもね。資格を授けられず、命を落とした魔道士は少なくない。でも、それぐらい厳選しなくては困るんだ。誰彼好き勝手
に高位の魔法を使う事の方が、もっと危険なんだ」
酷く真剣な口調で言うパントを見ながら、当然だ、と、ビクトリーは小さく頷いた。魔法は使う者にはもちろん、使わない者にも往々にして恐怖
と畏れの対象になるものだ。この世界では、魔法という存在は当たり前に認められている。だが、同時に畏れられてもいる。
力のある魔法使いが世界を魔法の力、もしくは魔法的な存在で支配しようとすれば、その試みが実行されれば、例え失敗したとしても人々
の脳裏から永遠に魔法の恐怖と恐れと憎しみが消える事は無いだろう。
畏れられ、迫害され、追放され魔法使いは忌み嫌うべき存在でしかなくなるかもしれない。
そして、今まさにその恐れが現実のものになろうとしているのだ。ネルガルという、一人の果てしない天才魔道士の歪んだ欲望によって。
そして、パントがこの軍にいる理由はまさにそれなのだ。
ネルガルの欲望を満たさせない為に、自分のできる事を果たす為に。そして…一人の魔道士として、師をも上回るといわれる天の才に触れ
てみたいという知識に対する渇望を満たす為に。
もちろんそんな思惑があるなど口にしないし、口にするつもりもない事だが。
「もちろんこの魔石に魔力を籠めるのは時間がかかる上に骨が折れる事だ。だから、おいそれと渡したりはしないさ。ちゃんと資格のある者
と見極めたからプリシラに渡したんだよ」
そして、先程とはくるっと表情を変え、パントは軽く笑うと、摘んだ指輪を指先でクルクルと回しながらウィンクしてみせる。
「さぁ、プリシラ。両手を開いて」
パントはプリシラの組んだままの両手を指差しながら、どこか楽しげに言う。
「あ、はい」
無意識に組んだままでいた両手を、パントに言われるがままプリシラはゆっくりと開く。
開いた手の平には子供の拳ぐらいの大きさの透明な宝石が転がっていた。
「え…?何時の間に」
手の平はしっかりと組まれていたのだ。何か物があれば、なによりこんな大きな物があればすぐに分かる。
だが、プリシラが実際開いた手の平には、紛れも無く透明な宝石が陽光を受けキラキラと輝いていた。
向こうが透き通るほど透明で、光のかかり具合では見えなくなる程だ。
「すごい、これほど透明度の高い宝石は見たことが無い。プリシラ、君はノームに特に気に入られたようだ」
宝石を手にし、角度を変え、太陽の光に翳したりと、パントはしきりに感心する。
「透明という所が凄いんだ。無色ゆえにどの色にも染まれる。普通宝石は色を持っていて、その色によって力を強く借りられる精霊が分かる
んだが、無色という事はどの精霊の力も借りる事ができるんだ」
珍しく興奮気味のパントをみて、リン達はやっとプリシラが凄い事を成し遂げたんだという実感が沸いてれくるのだった。
「それを授けた大地の精霊でしたっけ?あの老人の選定が一番安心でした」
どこか安堵を含ませた声で言うセインに、パントは小さく肩を竦めた。
「そうだね。認められたからね」
「どういう意味ですか?」
「己の力を使役するに足りる人物とノームに認められたからさ。でなければ、彼は持っていたツルハシをプリシラの頭上へと容赦なく振り下
ろしていただろう」
その回答に、セインはごくっと小さく喉を鳴らした。
実際、魔道士の精霊との契約はそれほど難しいものでは無いだろうと、幾らか楽観的に考えていたのは確かだ。
元々、彼らは杖なり下級の魔法なりと精霊との対話を可能としている。だから、もう一度対話をし直すぐらいの理解しかセインには無かった。
だが、それが酷く危険で、命がけな事なのだという事が分かり、改めてプリシラの魔法を使役する能力の高さに感謝するのだった。

「んじゃ、早速闘技場に行ってみよう」
おもむろにマントに手を突っ込み取り出した、表紙が真っ赤な魔道書を、ほいっとプリシラに手渡すビクトリーに りンは思わず詰め寄る。
「そんな…早すぎるわよ!」
「早いも遅いも。魔法を使うって決めたのならもう後ろにばかり下がってられないでしょ?」
それは戦場にでて、敵と戦うという事。
「いざ戦場に出て、敵と遭遇して。それで固まられたら、それこそ目も当てられないわ」
人を殺す事実に慣れておけ。彼女はそう言っているのだ。
世間話をしているのだろうか?そう思えるほど簡単に言う軍師の口調にリンは眩暈を覚えそうだった。
普段はスチャラカでも、軍略の事となると人が変わったかと思うほど冷徹な部分を覗かせる事がある。
それは事実をただ言い当てているだけに過ぎないのだが、その事実を口にする事に彼女は躊躇いがない。
無駄な事は省き、必要な事だけを求めているから。
残念ながらこの物資にも人材にも乏しい軍では、完璧な戦略を練る前に戦術レベルで対応していかなくてはならないのだ。
「でも、プリシラは精霊との契約を終えたばかりよ?疲労だってあるだろうし…」
そう言うリンにビクトリーは顎先を親指と人指し指で挟むと、プリシラに視線を向ける。
「やれる?」
それはリンの意見を尊重しているようにも取れるし、プリシラの意思を確認しているようにも思えた。
「大丈夫です」
手渡された魔道書を握り締め、プリシラは緊張の中に強固な意志の光を湛え、ビクトリーを見返した。実際、疲労を感じていないかといえば
嘘だが、覚悟を決める意思がプリシラにはあった。
精神の高揚はしばしば肉体の疲労を超越する。
その目に向ってビクトリーは何時ものように、にっこりと笑うと、じゃ、行こう、とプリシラの肩を軽く叩いた。
自分の言葉一つにかかる責任を理解し、果たす覚悟が十分備わっているビクトリーの笑顔に、プリシラは力強く頷いた。



怒号と悲鳴と歓声とが入り混じるそこでは連日、当たり前のように命のやり取りが行われ、独特の雰囲気に包まれている。
得意な武器を聞かれ、職種を尋ねられる。それから左右どちらかの大部屋に連れて行かれ順番を待つ。名前は聞かれない。ここでは、名
前ではなくナンバーで呼ばれるからだ。
それは、表向き闘技場で活躍した戦士を見物に来た貴族達が売買の対象にしたり、売名行為を慎むためとされているが、実際、その昔、貴
族等が奴隷達を戦わせ、命のやり取りを楽しんでいた頃の名残が未だ残っているからだ。
奴隷達に名前は必要ない。名とはその個々人を表す、人としての証であるからで、奴隷に個人としての証明は必要とされなかったからだ。
闘技場に参加する者達は表向きは「挑戦者」という立場だが、結局悪しき風習ににのっとれば「命をやり取りする古代の奴隷」として見られ
ているという事だ。
耳をつんざくような歓声や罵声に包まれ出てきたプリシラはこの異様な雰囲気の中でも一際異彩を放っていた。
どうみても、こんな場所に出てくるような人物ではない。
「おーおー!ねーちゃんっ!戦えんのかぁ!?」
「震えてんじゃねぇか!俺が立たせてやろうかぁ?ここでよぉっ!」
そう言って自分の股間を指差す男と、それを取り巻く男たちの下品な野次に、リンの口元が大きく歪む。
「まーま。こういう場所なんだし」
ぽんっと肩に置かれた手の方を向けば、くすんだ短い茶色の髪を揺らし小首を傾げる黒い瞳と目が合い、リンは重いため息をついた。
どんな時でも、当事者より傍観者の方が忍耐を試される事の方が多い。自分があの場に立っているのなら、きっとこんな野次など気にもな
らなかっただろう。
軍を動かす事において、全てにおいての決定権を持つビクトリーだが、戦闘そのものに対しては徹底的な傍観を強いられる。彼女の忍耐の
強さにリンは改めて賛辞を送りたい気持ちになるのだった。
「相手は…賢者か」
対戦相手が賢者である事にビクトリーは、ほっと安堵の溜息を小さくついた。
お互い魔道士であるのなら、距離を一定にしたまま、呪文を詠唱する事だけに専念できる。これが戦士など、魔法を使わない者との戦いで
は、絶対的な間合いが必要な魔道士には不利だからだ。
最初の一撃は見舞えるだろう。だがかわされでもしたら、次を詠唱するまでの時間を与えてくれるかどうかは疑わしい。相手がよほどヘボな
ら話は別だが、それでも身体能力の点で魔道士より劣っている戦士などいないだろう。
そうならない為にも、戦士などが相手になった場合は自分の間合いをいかに作るかがポイントになる。
だが、変な話だがもしこれが闘技場外での戦いならプリシラは間合いを自分で作る事なく、セインやケント達の後ろに控え魔法の有効範囲
を常に確保しておく事ができるだろう。
だが、ビクトリーの思惟が届かない闘技場では、魔法の詠唱範囲を自分で常に確保しなければならない。
実践経験のまったくないプリシラにそれができるかといえば、正直首を縦には振れない所だ。
開始の合図と同時に二人同時に魔道書を開く。が、やはり向こうの方が多少場慣れしているのか、呪文の詠唱速度、印を結ぶ速度共にわ
ずかだがプリシラを上回っていた。
エルファイアーの呪文が完成すると同時に賢者は手の平をプリシラに突き出す。
賢者の足元から光の粒が頭上へと舞い上がり、瞬く間に火球へと変化しプリシラに向かって足元に着弾すると同時に魔方陣が浮かび上が
り、その魔方陣を舐めるように紅蓮の炎が沿い、巨大な火柱が天に向って吹き上がるとプリシラを瞬く間に包み込む。
がたんっと椅子を蹴飛ばし、リンが手すりを乗り越える勢いで身体を突き出した。
先程のサラマンダーの炎とは違う。賢者の放った炎はプリシラの身を焼く。
「あーあ、もったいねー。黒コゲじゃもう抱けねぇぜ?」
そんな光景は慣れっこなのか、隣に居た男が残念そうに呟く。
だが、揺らめく紅蓮の炎の中から、微かに指先が複雑な印を描いているのがリンの目に微かに映っていた。

着弾した炎が一瞬で自分の周りを囲み、骨を溶かすほどの紅蓮の炎を吹き上げた瞬間は流石にプリシラも息を飲んだ。
攻撃魔法の凄さは、自分が扱えなかった代物だとしても、その威力は何度も目にしてきた。エルクやパントやニノなどが使う理はもちろん、
カナスの闇魔法、ルセアの光魔法など、攻撃の魔法は補助の魔法と比べ攻撃的である事は間違いが無い。人を癒すのではなく傷つけるも
のだから。
だが、覚悟はある。
人を傷つける事と引き換えにするだけの理由が自分にはある。

指先が描いていた印が完成すると同時に、先程の賢者と同じように光の粒がプリシラの頭上へと舞い上がり、同じような火球が生み出され
る。それは賢者のエルファイアーよりも強い輝きを放っているように見えた。
突き出された手の平から放たれた紅蓮の炎は、エルファイアーの火柱をかき消すほどの勢いで放たれる。
エルファイアーに耐え、更に呪文を行使するプリシラに賢者は驚きに目をむくが、唱えていた呪文は所詮ファイアーだと思ったのか避ける事
もせず、もう一度魔道書を手に取った。
魔法使い達が魔法を唱えている時に身体を包むように浮かび上がる淡い光を、魔法使い達は魔法障壁と呼び、呪文の程度によって障壁の
強弱は左右されるが、どんな魔法を唱えた場合でも障壁は必ず生まれ、術者を魔法攻撃から守る。
賢者自身が唱えた呪文はエルファイアー。ファイアーよりも高度な呪文であり、それを行使する精神力もまたファイアーに及ぶものではない
。となれば障壁の威力もファイアー程度なら軽くいなせる。
呪文が高位であればあるほど、障壁は強力になるといわれている。もちろん、その魔道士の力量によって左右されるが、所詮下級のファイ
アーしか唱えられないバルキュリアなら恐れる事は無いと賢者は考えたのだろう。
だが、もう少しきちんと考えるべきだった。
エルファイアーの直撃を受けてなお反撃に出られるほどの障壁を持つのなら、自分より力量の高い相手なのだったという事実を。
自分の周りに張り巡らされている障壁をあっさりと砕いていくその圧倒的な魔力の塊を目の前にして、ようやく事実を悟り慌ててその場を逃
れようとするが、逃げる間もなく着弾したファイアーの炎は渦巻くように賢者の身体を一瞬で包み込む。
炎に包まれのたうちまわる賢者の頭髪は一瞬で焼け焦げ、焦げた黒い指で掻きむしった拍子に頭皮がずるりと剥がれ黒い皮膚を突き破る
ようにして白い頭蓋骨が覗く。だが、真っ白い頭蓋骨も瞬く間に炎の洗礼を受け、黒コゲていく。顔の皮膚は殆ど崩れ落ち、目玉が高熱によ
って白い煙を微かに上げくしゃくしゃと縮みながら燃え、空ろな二つの入り口を炎をに提供する。炎は容赦なくその貪欲な舌を開いた入り口
めがけて滑り込ませていった。
内臓や肉の焼ける匂い、血の蒸発する音、骨が急激な乾燥を強いられ軋んでいく音、生きながらバーベキューにされる賢者の喉から地獄
の底から絞り出していくような音の無い悲鳴。
その全てがプリシラの耳に、鼻に、目に、網膜に、脳裏に、記憶に、心に焼きついていった。
やがて、声の無い叫びをあげ続ける溶けた口がだんだんと崩れ、まるで濃い獣脂が流れ出すようにボトボトと皮膚の塊を地面に落としてい
った。
その光景をやんややんやと訳の分からない歓声をあげ異様なほど興奮している観客達の狂ったような姿に、リンは人の中の凶暴さを目の
当たりにしたようで、胸が悪くなるほど気分がおかしくなっていく気がした。
人が死んでいくその姿を喜び、人が人を殺すその場面を最高の娯楽とする。それは決して切り離せない、人の善良と反対にある一面をまざ
まざと見せ付けられたようで、くそっ!と心の中で唾を吐いた。
自分に敵対する人間を倒す事に躊躇いは無い。そうしなければ自分が死んでしまうからだ。
だが、人を殺す行為に喜びを感じた事は無いし、快感だと思った事も無い。
何時も命を奪うその痛みに必死で耐えるだけだし、その命の重みに潰されないよう、自分の戦うべき理由を見失わないようにするだけだ。
しかし、この観客達にはそれが無い。当然だ。自分たちが手を下した訳ではないのだから、痛みを感じる必要がないのだ。
目の前で燃えていた賢者はすでに連れられていったが、それはまるで物を扱うかのように淡々としていた。
もっと早く連れて行けばいいのに、暫くそのままにして観客の興奮をわざと煽る一種のエンターテイメント性にリンはもういいと言いたげに頭
を振った。
「もういいでしょ?ビクトリー。プリシラは良くやったわ」
厳しい顔と口調のリンにビクトリーは、そうね、と、それだけを小さく頷く。その表情は本当にいつも通りで、リンは感じすぎていた苛立ちが急
激に収まっていくのを感じた。
「ビクトリーって…凄いね」
自分以外の人間の命を断ち切る覚悟。
それは、見ず知らずの人間の人生を、いつか同じように死んでいくその瞬間まで自分自身に刻み込んでいく事。
人を直接その手にかけなくとも、ビクトリーは自軍と敵軍すべての人生に対しての責任を常に負っている。
かくんっと頭を下げ、ぼそりと呟くリンの頭をビクトリーは座ったまま、ぽんぽんと軽く叩くと、リン達の方が凄いよ、と小さく呟いた。
人の命を奪う瞬間に、自分が立ち向かっている訳ではない。例え、命を下す権限が自分にあっても命を奪う行為を果たすのは自分ではない
から。
そして、その覚悟と責任を新たに持つ事になったプリシラに視線をやりながら、ビクトリーは自分以上に彼女の傷を理解できる男の横顔をち
らりとだけ見た。

崩れた指が一本床に落ちていたが、後ろを歩いていた男はまるで道端のゴミを踏むように靴底と床の間に指を挟ませる。
炭の欠片は男が歩くたびに床に点々と落ちていく。賢者がこの世に生きていた証はもう床に擦るようにこびりついた炭だけで、それも数日も
しないうちに他の「証」と混じり分からなくなっていくだろう。
勝者の名乗りを受けてもプリシラは立ちすくんだようにその場に立っていた。
「初心者」にはよくある事で、闘技場の中いでは珍しい光景でもない。もちろん、それを揶揄するような野次も絶える事がない。
「ねーちゃん!怖いなら俺が慰めてやるぜ。今晩、俺んとこ来なよっ!」
「怖いなら出てくるんじゃねぇよ!さっさとひっこめっ!」
だが、そんな野次すら聞こえないようにプリシラはただ、一点を、賢者が焼け焦げのたうちまわっていた場所を凝視していた。
「君、次の者の邪魔になるから早く退場して」
一向に動こうとしないプリシラに係りの者が近づき下がるようにその身体を後ろに押した。
その行為は優しさとは無縁の、ただ道具をどかすような無造作な行為だった。
腕を組んで黙ったまま厳しい顔で見ていたセインは、だが、その係りの者に乱暴に押されプリシラが無様に尻餅をついた途端、手摺を乗り
越えるようにして下の闘技場へと飛び降りた。
「…ここって高いよね?」
手摺と下を交互に見ながらビクトリーは呆れたような顔を見せる。その内プリシラの元にいくだろうと思っていたが、まさか飛び降りるなどと
いう行為に出るなんて思いもしなかったからだ。

尻餅をついたプリシラを溜息と同時に冷やかな目で見下ろし、邪魔そうに手を伸ばしたその間に突然、文字通り降ってきた影に係員はびくっ
と身体を強張らせた。
セインは尻餅をついていたプリシラの手を取り立ち上がらせた。
「き…君っ!挑戦者以外の者が入ってきては困るんだが…!」
ぱくぱくと暫く口を空転させていた係員がやっと絞り出した声は、だが、向けられたセインの表情に一瞬で凍りつかせられた。
凍りついた係員に向ってセインは小さく頭を下げると、プリシラの手を取ったままさっさと出口に向って歩き出した。




安い宿屋の一室にはランプが一つしか置いてなく、酷く薄暗さを感じさせる。
セインはベットの上で、ただ黙って震えるプリシラのその身体を暗闇の中抱きしめ続けていた。
「…すみません…みっと…も…なくて…」
混乱していた思考が散らばっていた統合性を何とかかき集め、徐々にだが、事態の理解をプリシラはかろうじて成功させていった。
「もう…だいじょう…」
そして、震えながらも自己に対して何とか確信を持つように、確認するように言葉を紡ぐプリシラに対し、返したセインの口調と返答は、優しさ
とか気遣いといったものとは酷く対極なものだった
「姫は人の命に手をかけた。どんな理由があろうとも、人一人を殺したんだ。その痛みを自覚しないで、向き合わないで目をそむける事は俺
が許さない」
叱咤というには静かな声だった。だが、プリシラの身体が腕の中で一瞬にして強張るのが分かったが、セインは訂正する事無く更に続けた。
「きちんと自分の中で整理して、自覚を持てないうちに大丈夫だなんて言っては駄目だ」
手厳しいほどの冷酷さで告げられたその通告に、プリシラは改めて自分が「人殺し」の一員になった事実を突きつけられた気がした。
「人を殺したその痛みはこれから姫が身体に刻んでいく消えない傷。消しちゃいけない傷なんだ。この痛みを忘れなければ大丈夫」
セインの冷静な、ある意味穏やかとも言える口調と「大丈夫」という言葉がプリシラの神経を一気に逆撫でる。
「何が…何が大丈夫なんですか!?」
顔を上げ、苛烈な叫びを漏らしたプリシラの脳裏に燃えさかる賢者の姿がありありと浮かび上がり、ぐっと胃の辺りが捩れる程の不快感に
襲われる。シーツを握り締め、必死に吐き気に耐えるプリシラの肩をセインはただ黙って支えた。
これからプリシラは何度もこのような羽目に陥るだろう。戦場に出ても、敵を前に身を竦ませるかもしれない。
このまま、自分の責任に対して不理解なままでいれば。
そして、そうしない為に自分はここにいる。
「人を殺しても…正義だと言えるのですか?」
唇を震わせながら問うプリシラに、セインは小さく首を横に振る。
「俺達は正義の味方じゃ無いし、万人の為の正義なんて俺は知らない。人を殺す事に正義も何も無いんだ。どんな美辞麗句を重ねたって
ね」
「では、私達は只の人殺しなんですか?」
「人殺し。そうですね」
きっぱりと言い切るセインの言葉に、プリシラは苦しい思いを胸に広げていた。
「俺は俺だけの正義しか持ってません。人を殺す為の正義なんてありはしない」
「セインさん自身の正義…?」
「えぇ。俺は俺の正義を守る為に槍を振るう。その意味を忘れなければ、何の為に槍を振るうのか忘れなければ俺は俺でいられる。だから、
あなたが魔法を使う意味を、何故魔法を使おうと決めたのか忘れなければ、あなたはあなたでいられる」
その言葉にプリシラは愕然とした思いを味わった。
攻撃魔法を使おうと決めた理由。人を傷つける事と引き換えにするだけの理由が自分にはあった筈だ。
守られるだけの存在では嫌だから。対等に、何時も側に立ちたいから。
それは一体、誰の為だったの?誰が決意した事だったの?
若草色の瞳を微かに見開き、プリシラはセインを見た。
「人を殺す事に正義なんてものを求めては駄目だ。人を殺したその事実をそんなモノで包み込んで忘れようとするなんて、そんな事は死ん
だ人間に対して失礼だし、殺した張本人が事実を忘れる事ほど恥知らずな事は無い」
「私は…私は人を殺しました!」
まるでセインの物言いは、自分が人を殺した事実を認めず、都合の良いように隠そうとしていると言っているようで、プリシラはそれが我慢出
来なかった。
あの光景はプリシラの耳に、鼻に、目に、網膜に、脳裏に、記憶に、心に焼きついていて離れない。逃げたくても逃げられない自分の犯した
罪なのだから。
「その事実を…あの光景を!あの惨劇を忘れる事なんて絶対に出来ない!」
喉の痛みを忘れるほどの叫びと同時に、プリシラから偽りの理解が弾け飛ぶ。それは事実を隅から覗くのではなく、真正面から向き合う覚
悟を決めた叫びのようでもあり、それを見たセインの黄銅の瞳の奥の光が強く輝いた。
「だから、俺を頼ればいい」
頭を強く振り、零れる涙を振り叫ぶプリシラの両頬を両の掌で包み込み、セインは若草色の瞳を覗き込みながらそれだけを短く、だが力強く
言った。
人の人生も受け入れていく覚悟と誠意。
それは何も、死んだ人間に対してだけ行われる行為ではない。
「君の傷を、俺は自分のものにしていく覚悟がある」
セインはプリシラの人生を受け入れていく覚悟と誠意を口にした。
本当は無理な事なのだけれど。
自分はキアランの忠実な騎士で、プリシラはエトルリアの伯爵令嬢なのだから。人生を共に歩む事はできない事は十分、分かっている。
それでも伝えなければならない思いがある。
それを聞いたプリシラは、弾かれたように顔をあげた。セインの言葉はプリシラの心の中に、真実の響きを強く感じさせた。
そうだ。
自分は何の為に攻撃魔法を使おうと決めたのか、それは誰が決めたのか。
「セインさんは…優しくありません」
それだけを唇に乗せると下を向き肩を振るわせるプリシラにセインは何も言わず、ただぽんっと彼女の紅髪に手を置いた。
そして、両手を握り締め、顔を伏せ肩を震わせるプリシラをセインはそっと抱きしめた。
貴族の令嬢として生まれた彼女が始めて自分で決意した事。それはあまりに苛烈で過酷な決断。
きっと本人が思う以上の辛さと苦しさを味わう事になるとセインには分かっていた。
戦争に身を置き、戦いの場に赴くとはそういう事だから。
でも、彼女が自分で決めたのなら口出しは一切しないと決めた。それにより、傷付いたとしても、慰める言葉を口にするつもりはセインには
無かった。
手助けを必要としても、彼女は自分自身の強さで立ち上がると信じたから。痛みから逃げず、消えない傷を受け入れられるとセインは信じた
。それは死んでいった者へ、手にかけた者が唯一できる事。
そして、プリシラはそれに向き合う覚悟を今、持ったのだ。
そのプリシラの決断と勇気に対して、セインは敬意を示すように彼女を抱きしめた。

これから困難な事態に陥るかもしれない、もっと酷い傷を負うかもしれない。
その時に少しでも自分が支えになれればと、その助けに自分が少しでもなれればいいと、セインは命の重さに押しつぶされないよう耐えるプ
リシラを抱きしめながらそれだけを真剣に願うのだった。




















































最終更新:2010年01月28日 10:32