虚妄の迷宮 二

幽閉、若しくは彷徨 十


――うむ。《反体》か……。反物質はこの宇宙の何処かに必ず存在してゐるに違ひないが、しかしながら物理学の世界ではCP対称性の破れによって僅少しか存在しないと言はれてゐるけれども、しかし、《反体》は《実体》と何にも変はらないんじゃないか? 


――だから何度も言ふやうだけれども俺は唯存在若しくはこの宇宙を一寸でもあっと言はせて転覆させたいだけなのさ。先づは物質と反物質との反転! 此処から始めないと話にならん。


――そんなことじゃ、宇宙は、お前の言ふ悪意に満ちた宇宙はせせら笑ってゐるんじゃないか? とてもそんなことじゃ宇宙を震へ上がらせることなど土台無理さ。


――それはどうかな? 


――だって反物質も此の世に《存在》する存在物の一つに過ぎないじゃないか! 


――存在じゃないさ。《反=存在》だよ。


――ん? 《反=存在》? 


――非在じゃないぜ。《反=存在》だぜ。


――しかしだ、《実体》と《反体》が出会ふと……。


――さうさ、対消滅さ。だが……吾は巨大な巨大な巨大なγ(ガンマ)線を放出し、大量の、それこそ無限と言ってもよいかもしれないが、大量の大量の大量のEnergie(エネルギー)体たる光となってこの宇宙を嘲笑ふことがもしかすると可能かもしれないぜ。まあ、それはそれとして、先づは《反=存在》だ。お前は《反=存在》をどう思ふ? 


――意識、ちぇっ、つまり、《反=意識》によるんじゃないかな、《反=存在》は。


――愚門なのだが、《反体》においても「吾思ふ、故に吾あり」は成立するんだらうか? 


――ぷふぃ。何を言ってゐるんだい? 《反体》を持ち出したのは其方じゃなかったっけ? 


――それはさうなのだが、本当のところ、俺にもまだ《反体》なるものが良く把握できていないんだ。まあ、それはそれとして、なあ、《反体》においても「吾思ふ、故に吾あり」は思念出来るとお前は直感的に思へるかい? 


――ふむ……。当然、考へられるんじゃないか、《反体》においても。


――その前に、なあ、先づは《反体》においても《吾》なる思惟は生成されるのであらうか? 


――当然、存在、ちぇっ、《反=存在》するだらう。


――すると自意識による蟻地獄ならぬ《吾地獄》といふ我執の陥穽に《反体》もまた落ちてゐるのであらうか? 


――逆だぜ。落ちてゐるんじゃなくて、多分、吾は《吾地獄》へ昇天してゐるに違ひない。


――ん? 昇天? それはまたどうして? 


――《反体》故にさ。


――つまりそれは則天無私といふことかね? 


――正解でもあるが不正解でもある! 


――どういふことだ? 


――先づは《反体》をでっち上げでもいいから想像してみるんだな。お前はそもそも《反体》をどう思ひ描いてゐるんだ? 


――多分だが、《反体》は此の世の特異点に《反=存在》するに違ひない。否、《反体》は特異点にのみ《反=存在》する……。


――それって、つまりはBlack hole(ブラックホール)の内部といふことかね? 


――へっ、Black holeの内部も一つの候補だが、少し飛躍的な物言ひだがもう一つこの宇宙そのものも《反体》が《反=存在》する特異点に違ひない。


――へっ、《反体》が《反=存在》する《反=世界》にも神はゐるのかな。


――《反=神》が《反=存在》するかもね。


――へっ、其処では《天国》と《地獄》は《婚姻》してゐるのかな? 


――ブレイクか……。


――へっ、《反=世界》は吾等が浄土と呼んでゐるところかもしれないぜ。


――うむ。浄土は《物質》と《反物質》、或ひは《実体》と《反体》が出会った時に現はれ、巨大な巨大な巨大なEnergie(エネルギー)を放って対消滅するその事象のことなのかもしれぬ……。


(十の篇終はり)



水際(みぎは) 一



……寄せては返す波の如く吾が《個時空》の際もまた吾が心の臓と同等に伸縮を繰り返してゐるに違ひない……。


…………


…………


――《個時空》とはそもそも何だね? 


――《主体》といふ存在が独楽の如く渦巻くその時空のカルマン渦のことさ。


――カルマン渦? 


――さう。《主体》は此の世に出現した時空の回転儀に違ひない。


――回転儀とは?  


――Gyroscope(ジャイロスコープ)のことさ。つまりは地球独楽さ。


――Gyroscopeと《主体》とにそれでは何の関係があるのかね? 


――此の世にGyroscopeの如く渦巻き存在する《個時空》たる《主体》は、独り《現在》に《取り残された》存在形式しか持ち得ない。つまり、《距離》が存在する限り《其処》は既に《過去》でしかない此の《世界》の在り方に対して独り《主体》のみが《主体》から《距離》零故に《現在》、正確を期すと《主体》のそれも《皮袋》の《表面》のみが《現在》の在り処なのさ。そして《主体》内部は《主体》の《皮袋》の《表面》、つまり《皮膚の表面》から距離が負故に《未来》、しかも《主体》は有限の物体故に《主体》内部には《死》が先験的に内包されてゐる。


――つまり《主体》は《個時空》の《現在》に幽閉されてゐるといふことかな? 


――さう。


――しかしそれは《主体》といふ存在にとって不愉快極まりない! 


――へっ、自同律の不快か――。だが、物体として存在する《主体》には内界での自由は保証されてゐる。


――内的自由か。しかし、それだからこそ尚更《主体》にとって自同律は不愉快極まりないのじゃないかね? 


――《他》を夢想してしまふからか? 


――《主体》は吾ならざる吾を夢想する……。


――時に《個時空》たる《主体》にとって別の《個時空》として出現する《他》は何なのかね? 


――自同律を解く《解》の一つに違ひない。


――《解》? 


――《個時空》において《過去》とは《未来》でもある。


――それは《過去》の世界に一度《目的地》が定まるとその《目的地》は《過去》にありながら瞬時に《未来》へと変化するといふことだよね? 


――内的自由の中で自在に思考が行き交ふ《個時空》たる《主体》の頭蓋内の闇にとって、其処で夢想する吾ならざる吾といふ存在形式における数多の《解》の中の、《客体》は《主体》が夢想するものの一つの《解》として有無を言はさずに厳然と眼前に実在する。


――しかし、無限に誘惑されてゐる《主体》にとってその《解》は仮初の暫定的な一つの《解》に過ぎない。


――それでも《個時空》たる《主体》はこの《過去》の世界に《客体》といふ自同律の錯綜を解く《解》を見出す。


――それは《主体》の自己を映す鏡としてかね? 


――へっへっへっ。《個時空》たる《主体》は《客体》に宇宙の涯を見出すのさ。


――えっ? 宇宙の涯? 


――へっへっへっ。《主体》と《客体》の間にはパスカルの深淵がその大口を開けて存在する。そして吾ならざる吾を夢想する《主体》は《個時空》の水際たる《他》とのその間合ひを互ひにやり取りしつつも《主体》はパスカルの深淵へ飛び込む衝動に絶えず駆られてゐる。


――つまり無限にだらう? 


――無限の先にある《他》にさ。つまり、パスカルの深淵に飛び込んだ先に控へてゐる別の宇宙たる《他》といふ《個時空》――。


――ちょっと、パスカルの深淵に飛び込んじゃ駄目だらう? 


――へっへっ。《主体》はどうあっても結局はパスカルの深淵に飛び込まざるを得ないのさ。何せ《他》たる《客体》は自同律の錯綜を紐解く一つの実在する《解》だからね。


――そして宇宙の涯? 


――さう。


(一の篇終はり)

※自著「夢幻空花なる思索の螺旋階段」(文芸社刊)も宜しくお願いします。


幽閉、若しくは彷徨 九


――……断罪せよ……吾を……汝を……存在を……断罪せよ……。


――へっへっへっ。ぐうの音も出ないかね? 


――ふっふっふっ。可笑しくて仕様がない。


――……断罪せよ……吾を……汝を……存在を……断罪せよ……。


――ぶはっはっはっ。狸の化かし合ひは已めようぜ。


――狸の化かし合ひ? 


――さう。断罪せよとは存在者側の言ひ分だろうが。本当はかう言はなければならぬ。「……吾を……汝を……存在を……殺せ!」と。さあ、正体を現はせ! 


――何だ? 吾とは、汝とは、存在とは、何なのだ? 何だったのだ? 


――泡沫の夢と言へば恰好はいいが、多分、生老病死……諸行無常……生々流転……等、何とでも言へる筈さ。


――何とでも言へる筈だと? 


――さうさ。むしろ何とでも言へなければならぬのだ! 


――へっへっへっ、すると吾とは、汝とは、存在とは、迷妄の一種なのか? 


――迷妄の一種か……ふっ。さうかもしれぬ……が、しかし、吾とは、汝とは、存在とは、自同律といふ不愉快極まりない難問を抱へ込まざるを得ない何かさ。


――不愉快極まりない? 


――それはお前がよく知ってゐる筈さ。


――へっへっへっ。確かにな。でもこの不愉快は何処からやって来るのだらうか? 


――多分、存在自体からさ。


――存在自体? 


――ぷふぃ。


――へっへっへっ。存在自体だと! 


――何を今更うろたへる? お前も薄々気付いてゐた筈だらう。存在する以上、自同律から遁れられないと。


――存在自体からか……。へっ、自同律なんぞ糞喰らへだ。


――この不愉快が存在自体から発してゐるとすると、存在とは何と厄介な代物だらう。


――何を今更。


――でもこの不愉快極まりない自同律は存在の宿命なのか? 


――宿命といふよりも呪縛だぜ、自同律は。


――うむ。呪縛か……。やはり呪はれてゐるんだな、存在せざるもの達に……。へっ、この宇宙は存在せざるもの達の怨嗟や悪意に満ちてゐるのだらうか。


――ふっふっ。それはお前の心の反映に過ぎないのじゃないかね。


――だとしてもだ、存在するものは存在せざるもの達に呪はれてゐることは間違ひない。


――何故? 


――何故……。何故って、ちぇっ、さうとしか思へないからさ。


――それって存在するもの達の思ひ上がりでしかないのじゃないかね? つまりは存在するもの達の下らない自己満足でしかない! お前の考への根底には存在することの《優越感》があるに過ぎない。へっ、それはそれは下らない《優越感》さ。


――《優越感》か……。成程さうに違ひない。しかし、存在すること自体呪はれる対象ならば、一寸でも《優越感》がなくてどうする? 


――それは唯の迷妄に過ぎない。


――ぷふい。迷妄? へつ。お前は存在自体が迷妄と言ひたいのかね? 


――ふっ、さうさ。存在自体迷妄に過ぎない。迷妄に過ぎないから自同律が気味悪いのさ。


――つまり、存在するものはその存在を持ち切れないといふことか……。ちぇっ、不気味に嘲笑ふ自同律の罠よ! 


――へっ、お前にも自同律の奈落が解かるらしいな。


――気が付くとその奈落が吾の棲処だった……。どう足掻いても吾は吾から一歩たりとも逸脱出来ぬ、へっ、存在するものだったのさ。ちぇっ、吾は吾に呪縛され幽閉されてゐる……。


――だからどうした? お前が言ふ吾そのものが迷妄じゃないのかな? 


――しかし、吾は吾であることを強ひられる! 


――当然だろ。お前は存在してしまってゐるんだから! 


――ちぇっ、存在することはそんなに後生大事なことなのかね、ふっふっふっ。


――へっ、何ね、吾は唯存在をあっと驚かして存在を顛覆させてこの宇宙を、この悪意に満ちた宇宙を震へ上がらせたいだけさ。


――それで何か目算でもあるのかい? 例へば埴谷雄高の《虚体》のやうなものが? 


――ふっ、今のところは何もないさ。唯、旗幟(きし)の如きものとして反物質による二重螺旋で出来た例へば《反存在体》略して《反体》と呼ぶべきものをでっち上げてみては空論を何度か試みてはゐるけれどどうも納得がゆかないんだ、今のところは。


(九の篇終はり)


睨まれし 一



 闇の中であればある程その鋭い眼光を光らせ、ぎろりと此方にその眼球を向けてゐる《そいつ》と初めて目が合ったのは、私が何気なしに鏡を見たその刹那のことであった。鏡面に映し出された私の顔貌の瞳の中に見知らぬ《そいつ》の顔が映ってゐるのに気付いてしまったのがそもそもの事の始まりであった。


 《そいつ》と目が合った刹那、《そいつ》はにやりと笑ったやうな気がしたのである。それは私の思ひ過ごしかもしれぬが、《そいつ》は確かににやりと笑ったのである……。多分、《そいつ》は私が見つけるのを今の今までじっと黙したまま待ち続けてゐたに違ひないのだ。


――やっと気付いたな。


 その時《そいつ》はそんな風に私に対して呟いたのかもしれない。一方、私はといふと、馬鹿なことに《物自体》ならぬ《私自体》なるものを《そいつ》に見出してしまったのであった。


――俺だ! 


 私の胸奥の奥の奥で大声で叫んでゐる私が其処にはゐたのであった。


 と、その刹那の事であった。私は不覚にも卒倒したのであった。その時の薄れゆく意識の中で私は


――Eureka! 


と快哉を上げてゐたのかもしれなかったが、本当のところは今もって不明である。


 爾来、私は《そいつ》の鋭き眼光に絶えず曝され睨まれ続けることになったのであった。吾ながら


――自意識過剰! 


と、思はなくもなかったが、私の意識が《そいつ》の存在を認識してしまった以上、私が《そいつ》から遁れることなど最早不可能なのであった。


 とにかく《そいつ》は神出鬼没であった。不意に私が見やった私の影に《そいつ》のにたりと笑った相貌が現はれたかと思ふと直ぐにその面を消し、そして私の胸奥で叫ぶのであった。


――待ってたぜ。お前が俺を見つけるのを! 


 また或る時は不意に私の背後でその気配を現はし、にょいっと首を伸ばして私の視界にそのいやらしい相貌を現はすのであった。虚を衝かれた形の私はといふと吾ながら不思議なことにそれに全く動ずることもなく唯にたりと笑ふのみで、恰も《そいつ》が私の背後にゐることが当然と言った感じがするのみであった。これは今にして思ふと奇怪なことではあったが、そもそもは私自身が《そいつ》の出現を待ち焦がれてゐたと今になっては合点が行くのであった。


――ふっふっ、到頭俺も気が狂(ふ)れたか? 


などと自嘲してみるのであったが、《そいつ》から遁れる術は事此処に至っては全くなかったのである。


 それは唯私が私に対して無防備だったに過ぎぬのかもしれぬが、しかし、私は私で《そいつ》と対峙することを嫌っていたかと言へば、実のところその反対であったのである。今にして思へば私は《そいつ》と四六時中対面してゐたかったのが実際のところであったのだ。しかし、暫く《そいつ》は私の不意を衝かない限り現はれることはなかったのである。もしかすると《そいつ》は私を吃驚させて独り面白がりたかったのかもしれぬが、私は不意に《そいつ》が現はれても一向に驚かなかったのであった。つまり、それは私が《そいつ》に恋ひ焦がれてゐた証左でしかないのである。


 私がてんで驚かないので《そいつ》が私の周りをうろちょろすることは或る時期を境にぴたりと已んだが、しかし、始末が悪いことに何と《そいつ》は私の瞼裡に棲みついてしまったのであった。つまり、裏を返せば私は瞼を閉ぢさへすれば《そいつ》のにたりと笑ったいやらしい顔と対面出来るやうになったのである。


――また笑ってゐやがる! 


――へっ、お前が笑ってゐるからさ。このNarcist(ナルシスト)めが! 


――ふっふっふっ。それはお前だろ、俺の瞼裡の闇に棲みつきやがってさ。


――だって「私」を映す鏡は闇以外あり得ないだらう。


――そもそも「私とは何ぞや?」


――それは「私」以外のものに片足を突っ込んだ「私」でない何かさ。


――「私」でない何かが「私」? 


――さう。その事を一気に飛躍させて汎用化すれば《存在》は《存在》以外のものに片足を突っ込んだ《存在》でない何かだ。


――ぷふぃ。《存在》でない何かが《存在》? 矛盾してゐるぜ! 


――へっへっへっ。論理は矛盾を内包出来ぬ限りその論理は不合理だといふ事は経験上自明のことだね? 


――自明のこと? 


――さう。矛盾は論理にとって宝の山さ。


――ふっ。矛盾がなければお前が俺の瞼裡に棲みつく必然性はないか……。ふっふっ。


(一の篇終はり)


幽閉、若しくは彷徨 八


――渾沌……。


――陰陽が渦巻き始めるある種の秩序が胎動する瞬間……。


――渾沌が存在を胎動させる契機となる瞬間、無数の未出現の存在ならざるものが蠢く母胎となる。其処で無数の生滅が繰り返され、有為転変の末、存在が存在たらしめられる。そしてその存在には聖霊の如き此の世に出現ならざる宿命を負はされた未出現のものたちの怨念なるものを無数に負はされる。存在の背後には背後霊の如き未出現のものたちの「何故吾は此の世に出現ならざるのか?」といふ呻吟の渦巻く怨念が匂ひ立つのだ。その証拠に存在といふ名の異形の吾は吾の中で無数に生息してゐる。それが出現ならざるものたちの一瞬の明滅だ。


――異形の吾か……。ふっ、内部に潜むGrotesque(グロテスク)な異形の吾どもめが、ふっ。ほら、あっちにもこっちにも異形の吾どもがその面を現はしてゐるぜ、けっ。奴等もまた「吾とは何ぞや」とのたうち回ってゐるに違ひない。のたうち回ってものたうち回っても誰もその答へは黙して語らず。だから異形の吾は手を変へ品を変へ異形の異形の異形の吾を現はす。ちぇっ、奴、つまり、異形の吾が笑ってやがる。


――へっへっへっ、どれがお前かな? 


――けっ、全てだ! 


――さう。全てのGrotesqueな異形のものがお前だ。


――だからそれがどうしたといふのか? 


――お前には渾沌の中で生滅する異形の吾どもが発する呻き声が聞こえないのか? 


――「早く吾になりたい」……か? 


――否! 


――「吾ならざる吾へ」……か? 


――さうさ。この呻きこそ一時も吾であることをやめられぬ吾といふ存在物が存続出来る起動力さ。


――うむ。起動力……か。


――さう、起動力だ。吾ならざる吾へ。無数のGrotesqueな異形の吾どもが明滅し、奴等の呻き声が渦巻くことで吾はやっと吾たることに我慢出来る。


――この吾が吾であることの大憤怒は、嗚呼、異形の吾がGrotesqueで無数に明滅し、呻き声を発することで辛ふじて抑へ付けられてゐられるのか! 無数だ! 異形の吾が無数に明滅することこそ吾が吾たることを存続させる鍵だ! どうあっても異形の吾は無数に明滅しなければならぬ。無数であらねばならぬのだ!


――それは何故かね? 


――未出現のもの達の泡沫の夢故にだ。


――未出現のもの達の泡沫の夢? 


――さう。この頭蓋内の闇に明滅する無数の異形の吾は未出現のもの達の泡沫の夢でなくてどうする? 


――すると、お前はこの頭蓋内の闇こそ未出現もの達の泡沫の夢が一瞬でも花開く《場》だと考へてゐるのか? 


――日々死滅して行く脳細胞が発するであらう断末魔の中にこそ未出現のもの達の泡沫の夢が一瞬花開く瞬間が必ずある。頭蓋内の闇はさういふ《場》だ。


――死滅して行く脳細胞が発する断末魔? 


――さう。日々死滅して行く脳細胞は必ず断末魔を発してゐる筈だ。脳細胞といへども死滅するまでは未出現のもの達の怨念を負ってゐるのだからな。此の世に存在するといふことはさういふことだ。頭蓋内の闇といふ《場》では時々刻々死といふ現象が起こってゐて、その死にこそ断末魔と未出現のもの達の怨念が一つの思念のやうなものになって《重ね合はせ》の状態となり、頭蓋内の闇の中で一瞬明滅する。その死の波紋が異形の吾となって無数に現はれてゐる筈だ。 


――変幻自在の異形の吾……。死の断末魔と未出現のもの達の泡沫の夢を乗せ、頭蓋内の闇に花開くその一瞬の閃きは変幻自在の異形の吾となって吾を断罪するのだ。それが無数だから尚更いけない。吾の敗北は最初から解かり切ってゐるのにそれでも吾は異形の吾と対峙しなければならぬ。吾を存続させるにはさうせずにはゐられぬのだ。無数の相貌を持った変幻自在の異形の吾。あっはっはっ。相手は死の断末魔と未出現のもの達の泡沫の夢だぜ。吾に勝ち目がある筈がない。


――それでも吾は生き延びる。


――さう。吾は何としても存続せねばならぬ宿命を負ってゐる。相手が死の断末魔だらうが、未出現のもの達の泡沫の夢だらうが、吾はそれにしっかと対峙し、存続せねばならぬ。


――しかし融通無碍にな。


――さう。七転八倒しながらも融通無碍に吾は存続せねばならぬのだ。ちぇっ、異形の吾が笑ってやがるぜ。


――へっへっへっ。耳を澄ませでご覧。死に行くもの達の断末魔と未出現のもの達の呻き声が聞こえてくるから。


(八の篇終はり)


ざわめき 一



――君にはあのざわめきが聞こえないのかい? 



――えっ、何のことだい? 



――時空間が絶えず呻吟しながら《他》の《何か》への変容を渇仰してゐるあのざわめきが、君には聞こえないのかい? 



――ふむ。聞こえなくはないが……その前に時空間が渇仰する《他》とはそもそも何の事だい? 



――へっ、《永劫》に決まってらあ! 



――えっ、《永劫》が時空間にとっての《他》? 



――さうさ。《永劫》の位相の下で時空間はやっと自らを弾劾し果(おほ)せられるのさ。さうすることで時空間はのっぴきならぬところ、つまり、《金輪際》に追ひやられて最終的には《他》に変化(へんげ)出来る。



――へっ、それって《特異点》のことじゃないのかね? 



――……すると……君は《永劫》は《特異点》の中の一つの位相に過ぎぬと看做してゐるのか……。しかしだ……。



――しかし、《特異点》は《存在》が隠し持ってゐる。つまり、時空間と雖も《存在》に左右される宿命を負ってゐる。即ち、時空間は《物体》への変化を求めてゐるに過ぎぬ! 違ふかね? 



――否! 《存在》は《物体》の専売特許じゃないぜ。時空間もまた「吾とは何ぞや」と自らが自らに重なる不愉快極まりない苦痛をじっと噛み締めながら自身に我慢してゐるに違ひない。



――では君にとって《特異点》はどんなものとして形象されてゐるんだい? 



――奈落さ。



――ふむ。それで? 



――此の世にある《物体》として《存在》してしまったものはそれが何であらうとも《地獄》の苦痛を味はひ尽くさねばならぬ。



――ふっ、それは時空間とて同じではないのかね? 



――さうさ……。時空間も《存在》する以上、《地獄の奈落》を味はひ尽くさねばならぬ。



――その奈落の底、つまり《金輪際》が君の描く《特異点》の形象か? 



――《底》、つまり《金輪際》とは限らないぜ。もしかすると、へっへっへっ、《天上界》が《特異点》の在処かもしれないぜ。



――ちぇっ、だからどうしたと言ふんだ? それはある種の詭弁に過ぎぬのじゃないかね? 



――……自由落下……。俺が《特異点》に対して思ひ描いてゐる形象の一つに、《落下》してゐながら《飛翔》してゐるとしか《認識》出来ない《自由落下》の、天地左右の無意味な状態を《特異点》の一つの形象と看做してゐる……。



――しかし……、《自由落下》では《主体》はあくまで《主体》のままで、《永劫》たる《他》などに変化することはないんじゃないかな? 



――ふっ、《意識》自体が《自由落下》してゐると考へるとどうかね? 



――へっ、それも《永劫》の《自由落下》かな? 



――ふっふっふっ、さうさ……。……《意識》自体の《永劫》の《自由落下》……。……どの道……《特異点》の位相の下では《意識》……若しくは《思念》以外……その存在根拠が全て怪しいからな。



と、こんな無意味で虚しい事をうつらうつらと瞑目しながら《異形の吾》と自問自答してしまふ彼は、辺りの灯りが消えて深夜の闇に全的に没し、何やら不気味な奇声にも似た音ならざる時空間の《呻く》感じを無闇矢鱈に感じてしまふ、それでゐてじっと黙したまま何も語らぬ時空間に結果として完全に包囲された状態でしかあり得ぬ己自身に対して、唯々自嘲するのみしか術がなかったのであった。この時空間のぴんと張り詰めたかの如き緊迫した感じは、彼の幼少時から続く不思議な感覚――それは彼にとってはどうしても言葉では言ひ表せないある名状し難い感覚――で、彼にとって時空間は絶えず音ならざる音を発する奇怪な《ざわめき》に満ちたある《存在》する《もの》若しくは《実体》かの如き《もの》として認識されるのであった。



(一の篇終はり)



幽閉、若しくは彷徨 七


――それにしても宇宙もまた思案してゐる。


――それは神が思案してゐることと同義語か? 


――さうかもしれないが、さうじゃないかもしれない……。


――この宇宙が存在してしまったが為に生れ出ることが叶わなかった所謂《亡霊宇宙》が、この宇宙の背後に死屍累々としてゐる……か……。


――誕生したのがこの宇宙でなければならなかった理由は何一つないぜ、ふっ。


――しかし、この宇宙は現に此の世に存在してしまってゐる。そして今も多分膨脹を続けてゐる筈さ。


――へっ、此の世の神の摂理、否、物理法則に則ってこの宇宙は膨張してゐるのか? 何故この宇宙は膨張する? 


――それは解からぬが、この宇宙もまた己が己であることに一時も我慢がならないのは確かみたいだな。


――現状に満足出来ぬか……、へっ。


――時間が流れる以上、宇宙はその膨脹を止められぬ。


――この宇宙の何処かにBig Bang(ビッグバン)の震源地が残ってゐる筈なのだが……人間の科学技術では今のところ見つけられない。


――ほら、天を見上げれば全て過去なりしか、はっ。


――いや、過去とばかりは言ってられないぜ。天の様相の中にはこの天の川銀河の未来の姿を見せてゐる天体が必ず潜んでゐる筈さ。


――過去は未来でもあったな、《個時空》といふ考へ方では。


――つまり、外界といふ過去の世界に将来到達すべき《目的地》が見出された途端、過去は未来へと反転する。不思議なもんだぜ。


――だから、天上の天体の中に天の川銀河の、ましてやこの地球の未来の姿が潜んでゐる。


――その中には、例へばこの宇宙が生まれ出てしまったが為に存在できなかった未出現の宇宙も隠されてゐると思ふかい? 


――へっ、当然だろ。それに多分、これまでに死滅した数多の宇宙も隠されてゐる筈さ。


――つまり、亡霊宇宙か……。


――やはりこの宇宙もまた未出現の宇宙に呪はれてゐるのだらうか? 


――ふっ、当然呪はれてゐるさ。


――それでは亡霊宇宙の怨念もまたこの宇宙に満ち満ちてゐる? 


――はっはっ、当然だろが! この現在存在してゐる宇宙もまた死滅すれば怨念を残し、次に生れ出て来ざるを得ないであらう次世代の宇宙にその怨念は受け継がれて行く。


――つまり、その怨念は「吾はそもそも何ぞや」だろ? 


――さう。この宇宙もまた死滅する直前まで、否、死滅した後も「吾とは何ぞや」と呻き続けるのさ。


――永劫に「吾とは何ぞや」と呻き続ける? 


――多分な。


――正覚はしない? 


――それは解からない。しかし、多分、この宇宙が正覚した暁には、この宇宙内の全存在が正覚する時だらう。


――それは壮観だらうね。


――それはどうかな。へっ、全ては自身に充足して自足してしまってゐる何とも薄気味悪い世界が到来してゐるんじゃないかな。


――薄気味悪い世界? 全てが正覚し太悟した世界がかい? 


――さうさ。そんな世界は気色が悪いに決まってゐる。


――どうしてさう思ふ? 


――考へてみろよ。流れるは唯時間ばかりでその外は何も移ろはない。つまり、其処には最早変容といふ言葉が、変容といふ概念が無いんだぜ。何ものも変容せず流れるは時間ばかりの謂はば《死》の世界がそんなに凄い世界だと思ふかい? 


――宇宙の正覚が《死》んだ世界? ふっ、確かに……さうかもしれないな……。それって欲望すらも渦巻かない喩へて言ってみれば年老ひた球状星団みたいな世界なのかもしれないな……。


――さうさ。正覚した宇宙に最早渦巻銀河は存在しない。渦巻そのものがそもそも存在しないのさ。何も胎動しなければ何の変化もない世界。存在してしまったもの全てが自足の中に閉ぢ籠りある種の私的な熱狂の中の愉悦に包まれ、それを平安と呼ぶならば平安なのだらうが、ひたすら死を待ち焦がれる存在があるだけだ。正覚なんぞは多分そんなものさ。


――何事も真丸の円といふ事か……。


――そんな世界は気色悪いだろ? 


 闇は何もかも飲み込む貪欲なものなのかもしれぬ。彼が見る闇にはしかしながら、幽かに淡く輝くAurora(オーロラ)の如きものが現はれそれがゆっくりと反時計回りに渦を巻き始めたのであった。彼はそんな瞼裡の闇を凝視しながら陰陽太極図を思ひ浮かべるのであった。


(七の篇終はり)




障子


 それは勿論晴れてゐることが前提であったが、彼は決まって満月の夜更けには室内の全ての灯りを消して、暫く障子越しに満月の月影をぼんやりと眺めてゐるのを常としてゐたのであった。彼にはその月影と闇とが織り成す仄かに明るい絶妙の闇に包まれる夜更けの時間が何とも言ひ難い時空間を演出し、それ故彼はその時空間が堪らなく好きなのであった。


――月影に溺れる……。


 その日も彼は何時ものやうに障子越しに満月の月影を眺めてゐた。そしてそれは、彼が深々と腹の底から深呼吸をした刹那のことであった。何かが障子の向かうで揺らめいたのである。それは風などの所為ではなく、何か自律的に動くものの気配が頻りに感じられるのであったのだ。しかし、それはたまゆらのことで何かの奇妙な気配は直ぐに月影の闇に消えたのであった。


――確かに何かが《ゐた》! 


 そこで彼は徐に立ち上がり障子をさっと開けてみると、果たせる哉、闇の奇妙な球体がゆらりと室内に入り込んで来たのであった。


――闇の球体? 何なのだ? 


 彼には驚愕するのにも今現在起こってゐる事態が呑み込めなかったので、唯眼前にゆらりと浮かぶ半径五十センチメートル程の闇の球体を眺める外に取る術がなかったのである。


――何だ、これは? 


と思った刹那、その闇の球体は彼目掛けて飛び掛かって来たのであった。


――ううっ。


と一瞬呼吸困難に陥ったとはいひ条、しかし、彼は闇に抱かれてゐるといふ何とも名状し難き悦楽の境地にあったのであった。その闇の球体は先づ彼の顔目掛けて襲ひ掛かったのであったが、その闇の球体が凶暴性を見せたのはそれっきりで、その後は闇の球体はゆっくりと拡がり彼の全身を包み込んだのであった。


――ちぇっ、また《無限》へ誘(いざな)ひやがる……。


とは思ひつつも彼はその時嬉しくて堪らなかったのであった。彼は闇に包まれてゐた所為で何も見えなかったが、しかし、彼はそこでゆっくりと障子を閉め、その場に胡坐をかいて座ったのであった。


――母胎の中の胎児はきっとこんな感じの闇を味はひ尽くさねばならぬに違ひない……。それは闇を媒介として存在が存在することを弾劾しなければならぬ、それでゐてこの上なく心地よい《楽園》にありながら、しかし、存在が弾劾された末に何時《落下》するのか解からぬ危険を孕んだ、例へば《浄土》と《地獄》が行き来出来てしまふのを障子のみで仕切っただけの危ふい月影の中の和室の如き《場》こそ、《無》と《無限》の往復が成し遂げられ、存在が存在に不意に疑念を抱く一瞬の《存在の揺らめき》が現出する《場》に違ひないのだ! 


 また、何時ものやうにたまゆらの悦楽の時間が過ぎてしまった……。彼が闇の球体に包まれてゐると感じたのは彼が自ら演出した《幻影》に過ぎず、それは彼が一度ゆっくりと瞬きしただけに過ぎなかったのである。


 障子の向かうは相変はらず満月の月影の静寂に包まれた《世界》を障子に映してゐたのであった……。






俳句一句




満月の 光が誘ふ 天橋立




幽閉、若しくは彷徨 六



――お前が生まれた故に何億人の《お前未然》のお前になれなかったお前を殺害したか、お前には解かるか? 


――正直に言へば解からぬ。しかし、何億匹の精子と卵子の屍の上に俺が生まれ落ちたことは確かだ。


――偶然にか必然にかお前は存在してしまった。その背後にはお前になり得なかった《お前未然》の数多の屍が累々と横たはってゐる。


――そして、これは不運なのか解からぬが、そいつ等に呪はれてゐる……。


――さうだ。お前はその屍達を救ふ義務を生まれながらに負って生まれて来た筈だ。


――何としても生き残ることによってな。


――さう。自殺に自由もへったくれもない。自殺は禁忌でその戒律を破れば、ちぇっ、勿論、地獄が待ってゐるだけだ。お前は生き残る外ない。お前の背後に横たはってゐる《お前未然》のまま此の世に生を享けなかった無数の屍達を救ふ迄はな。


――しかしだ。どうやって救へばよいのか今もって解からぬままといふのが本当のところさ。ちぇっ、俺には解からぬのだ。


――へっへっ、そんなこと、ちぇっ、誰にも解かりっこないぜ。そんなことは解かり切った自明の理さ。しかし、何としても《お前未然》に代表される無数の屍達を救はねばならぬのだ。それが唯一この悪意に満ち満ちた宇宙へのしっぺ返しに外ならぬからな。


――宇宙へのしっぺ返し? 神へのしっぺ返しではなく、宇宙へのしっぺ返し? 


――さうさ。神は勿論のこと、この宇宙が承服できぬ以上、宇宙にしっぺ返ししなくてどうする! 


 彼は此処でかっと目を見開き、眼前の闇を睨みつけるのであった。


――この悪意に満ちた宇宙へのしっぺ返しか……。


 彼は再びゆっくりと瞼を閉ぢたのであった。彼は瞼裡の闇を見て


――この薄っぺらい闇め! 


と自身の内奥で独り自嘲するのであった。累々とした屍達が彷徨する闇。彼は何となくブレイクの幻視が解かるやうな気がするのであった。


――……存在の背後には……無数の存在ならざる非在の怨霊が……存在する。存在は存在するだけで既に呪はれてゐる。へっ、吾もまた呪はれた存在だ……。


――それにしてもだ、この宇宙もまた別の宇宙への変容を渇望してゐるのじゃないか? 


――へっへっ、それは当然だらう。この宇宙が懊悩しなくてどうする? 


――物質も星の内部での核融合で水素からHelium(ヘリウム)へと変容し、更に強大なるEnergie(エネルギー)で重い元素が生成され、遂には超新星爆発で更なる重い重金属の元素が生成される過程一つとってもこの宇宙は、更なる存在物を生成するべく己の変容を渇望してゐる。


――さうさ、物質の生成の背後には此の世に生まれ出られなかったもの達の呻きを伴った怨霊が累々と横たはってゐる……。


――嗚呼、何故吾は此の世に生を享けてしまったのであらうか……。


――へっ、それは禁句と言っただろ。


――それでも何故と問はずにはゐられないんだ! 


――ちぇっ、お前が此の世に存在したのはこの大宇宙に小さな小さな小さなしっぺ返しをする為さ。


――吾をして宇宙へのしっぺ返しか……。無意味なことだ。


――そもそも人の一生なんて元来無意味でなくてどうする? 


――ふっ、無意味ね……。


――さうさ。人生に意味付けすることがそもそも愚劣極まりない! 


――しかし、人間といふ生き物は何に対しても意味付けしないと気が済まない。


――それは……、つまり、不安だからさ。無意味といふ大海にぽつねんと独り抛り出されるることの不安にそもそも堪へられないのさ。


――しかし、そもそもその不安が人を生かす《原動力》じゃないのかね? 


――それはその通りだが……しかし……人間は何事にも意味を見出す習性に生れついてしまってゐる。これは如何ともし難い。


――意味付けすることは自慰行為に過ぎないのだらうか? 


――多分……。しかし、人間に意味付けされた《もの》にとってそれは人間以外には何の意味もなさないんだからな。《もの》は《もの》としてしか存在しない……。


――この議論は全く無意味極まりない! 斯様なことはもう已めだ! 


 またひとつ思考の小さな小さなカルマン渦が霧散したのであった。彼は余りに無意味なことを考へてしまったと自嘲する外なかったのである。


(六の篇終はり)










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最終更新:2008年12月29日 08:54