虚妄の迷宮 四

幽閉、若しくは彷徨 十五


――時間を無限の相へと還元し解放すると、これまでの世界の認識の仕方と全く違ふ世界認識の仕方を身に着けないと《主体》は《世界》の中で息継ぎも出来ずに《世界》に《溺れる》、つまり《溺死》しないかい? 


――ああ、さうさ。《主体》は今のままでは《世界》の中で《溺死》する……。しかし、一度《世界》の中で《溺死》しなければ《主体》は《世界》がこれまでに認識してきたものと全く違った様相を呈することに気が付きゃしない! 


――だが、これまでの《主体》の世界認識の仕方は《世界》がさう強ひた結果の産物じゃないのかね? 


――さうさ。《世界》が《主体》に強ひたものだ。それ故に《主体》は強ひられしその世界認識から解放されなければならない。


――お前はそれが可能だと? 


――さうしなければ、既に暴走を始めた《主体》は鎮められぬ。諸悪の根源は時間が一次元に押し込められてゐることさ。それを打破する為にも《反体》といふ概念は必要なのさ。


――《反体》が時間を一次元から解放すると? 


――お前は既に其処に因果律が成立しない《特異点》を見出してゐるじゃないか? 


――其処に《反体》は存在すると? 


――ふっ。少なくともお前はさう考へてゐる! 何故なら《反体》をでっち上げなければ存在について一言も語れぬやうにお前の思考は追ひ詰められてしまってゐる……。確か存在は《特異点》を隠し持ってゐると言った筈だが、つまり、何が言ひたいかといふと、《実体》は存在する以上《反体》を隠し持ってゐるといふことさ。


――へっへっ、遂に本音が出たね。《単独者》としての《実存主義》はそろそろ幕を下ろさないといけない。《実存主義》が言ふやうな《実体》は《単独者》なんかではちっともなく《反体》を既に隠し持ってゐる《対存在》であるに違ひない。


――それでその証左が、つまり、《影》だらう? 


――さう……幻影にも似た影鏡存在……。


――頭蓋内が闇であることが既に《反体》を棲まはせるに十分な、更に言へば、瞼が存在する生き物は既に《反体》を認識してゐる筈さ。


――ふっ、闇といふ《内部》を持つ以上、《反体》はでっち上げられるべくしてでっち上げられたといふことか! 


――闇ありてまた《反体》もあり! 


――そして《実体》も存在せり――か。しかしだ、さうすると、存在の《内部》では絶えず《実体》と《反体》の対消滅が起こってゐる筈だぜ? これを何とする? 


――ふっ、それがつまり《意識》とか《想念》とか《思考》とか呼ばれてゐる《脳》の、或ひは《五蘊場》の現象だとは思はないかい? 


――ふっふっ、お前は本当のところ《内部》で起きてゐる《実体》と《反体》の対消滅を《魂》と名指ししたいのと違ふかい? 


――ふっふっふっ、さうさ。その通り《魂》さ。だがかうも言へるぜ、それは《神》、それも八百万の《神》と。


――すると《魂》と《神》との位相は類似的だと? 


――さあ、それはどうだか解からぬが、しかし、少なくとも《魂》の類は《実体》が存在する以上、存在すると看做した方が自然な気がする。


――自然な気がするだと? 


――ああ、自然さ。反対に《魂》も《神》も《意識》も《思考》も《想念》も何もかも存在しない、つまり、《霊魂》の存在を否定する方が不自然な気がする。


――不自然な気がするだと? 何もかも《気》がするに帰してしまって、つまり、《気分》の問題にしちまっていいのかい? 


――へっへっへっ、《気分》は侮り難しだ。逆にこれまで《霊魂》や《神》の存在を理詰めで徹底的に否定出来た試しがあるかね? 


――しかし、少なくともニーチェは「神は死んだ」と声を上げたぜ。


――ふっ、それは暴走を始めた《主体》に押し潰されまいとして苦し紛れにやっと発せられた譫言(うはごと)に過ぎない。


――ニーチェの言葉が譫言だと? 


(十五の篇終はり)



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水際 二



――《個時空》たる《主体》が絶えず夢想する《他》への憧れは、《他》たる《個時空》、即ち《他者》を此の世に見出す故に、この宇宙の涯を見てゐると?


――さうさ。《個時空》たる《主体》は此の世で《他》を見出すことでばっくりと口を開けた《パスカルの深淵》を閉ぢることが可能なのさ。


――《パスカルの深淵》が閉ぢる? 


――つまり、《他》といふ宇宙の涯を見出したことで《個時空》たる《主体》は《パスカルの深淵》を跨ぎ果せることが可能なのさ。


――えっ、さっきは飛び込まざるを得ぬと言ひながらその口が乾かぬうちに《パスカルの深淵》を跨ぎ果せるだと? 矛盾してないかね? 


――へっへっへっ。矛盾は大いに結構だね。といふよりも矛盾してゐない論理的な言説は嘘っぱちに違ひないぜ。


――つまり、矛盾は《パスカルの深淵》と同類だと? 


――へっへっへっ。《他》の存在がそもそも《個時空》たる《主体》にとって大いなる矛盾の出現じゃないかね? 


――ふむ。すると、《パスカルの深淵》を覗き込み、そして其処へもんどりうって飛び込むと、その深淵の底に《他》の相貌が出現すると? 


――さう思ひたければさう思ふがいいさ。しかし、《パスカルの深淵》の底には《他》の相貌は現はれないぜ。


――何故現はれないと? 


――《パスカルの深淵》は底無しだからさ。


――へっ、つまり、虚無主義といふことかね? 


――虚無主義ね――。へっ、虚無主義は「此の世で一番大好きなのは何を隠さう《自分自身》に外ならない!」と宣言してゐるやうなものだからな。へっ、虚無主義を気取ったところで結局のところそれはNarcist(ナルシスト)でしかない! 


――ふっふっ、成程、さういふことか! つまり《パスカルの深淵》は鏡面界といふことか! 鏡の間にぽつねんと置かれた《個時空》たる《主体》は只管(ひたすら)吾を凝視する悦楽の中で溺死するといふことか? 


――へっ、何時まで経っても見えるのは吾のみなり! それじゃ吾が吾を不快に思ひ吾を嫌悪するのも無理からぬ話じゃないか。


――つまり、自同律の不快とは自同律の悦楽に飽き飽きして倦み疲れた吾が鏡に映る吾を嫌悪するに至る自己愛の成れの果てといふことか。そしてそれが《パスカルの深淵》の正体といふことか――。


――否! 《パスカルの深淵》はそんな甘っちょろいものじゃないぜ。今《パスカルの深淵》は底無しと言ったばかりだらうが! 


――自己嫌悪の先がまだあると? 


――勿論! 次には自他無境の様相に吾は至る。


――自他無境? それは正覚乃至は大悟の別称か? 


――否! 自他無境とは自他共振といふ様相を呈するものさ。パスカルの底無しの深淵に自由落下し続ける吾といふ或る意識体は、底無しの《パスカルの深淵》に無数に浮かび上がる《他》の相貌、へっ、それは異形の吾でしかないんだがな、その《他》の相貌の面を被るが如くに自家薬籠中のものとしてその無数の《他》の相貌と共振を起こす――。


――それは、つまり、自同律の悦楽ではないのかね? 


――いや、悦楽の相とは違ふものだ。その時吾は戸惑ってゐる筈さ。《他》といふ異形の吾共と共振してゐる吾の不思議に吾ながら驚くに違ひない。しかし、それは寸時の事で、その後吾は己がパスカルの底無しの深淵に自由落下してゐることを失念してゐて、只管吾と向き合ひながら吾とは《他》なりと合点して、自他無境の位相にゐる吾が独り「ひっひっひっ」と笑っている姿を見出す筈さ。


――それは正覚ではないのか? 


――否。自他無境の位相では未だ吾の全肯定には至らない。否、至るわけがない! 唯、自他無境の位相を夢中遊行するのみさ。


――夢中遊行? 


(二の篇終はり)


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幽閉、若しくは彷徨 十四


――さて、此の世の諸相が全て主体次第だとすると、主体は暴走するんじゃないかね? 


――へっ、既に暴走してゐるじゃないか! 


――やはりお前も既にと思ふか……。


――でなければ主体は物体を奴隷として扱ひはしないんじゃなにいかね、ん? 


――物を単なる消費財として扱ってゐる一方で、主体は物体を愛でるぜ。


――ふっふっ、消費財だと? だから主体は客体に押し潰されるのさ。


――客体に押し潰される? 


――へっ、既に主体は客体たる製品を使ひこなせずに製品に使はれてゐるじゃないか! 


――その主体とは《人間》のことか? 


――否、此の世の《存在》全てだ! 


――此の世の《全存在物》が「吾は!」と自己主張し我を張り始めてゐるとでも考へてゐるのかい? 


――さうさ。既に《主体》は《客体》などお構ひなしに暴走を始めてゐる。その一例として《人間》があるに過ぎない。


――何時の頃から《主体》は「吾は! 吾は! 吾は!」と我を張り始めたと思ふ? 


――さてね。しかし、お前が《反体》をでっち上げなければならない程、《主体》は《主体》によって、つまり《主体》たる《客体》に押し潰されてゐるのは間違ひない。


――《主体》たる《客体》? 


――さう。《主体》たる《客体》だ。


――つまり、《主体》は何時でも《客体》にその様相を変へるといふことか? 


――ふっ。《自分》以外は全て《客体》だからな。しかし。それだけじゃないぜ。吾が《自己》と考へてゐるもの自体がそもそも客観的に吾の思考に浮かび上がって来る不思議をお前は何と説明する? 


――頭蓋内の闇には既に《反体》の兆しがあると? 


――さうさ! 兆しどころか《反体》か棲んでゐるじゃないか。


――お前は既に頭蓋内の闇には《実体》と《反体》の共存が成立してゐると? 


――へっ、弁証法とはそもそも何だね? もっと簡単に言ふと《心の葛藤》とはそもそも何だね? 《主体》がそもそも綻んでゐる証左じゃないかね? 


――ふっ、お前は《主体》はそもそもからして綻んでゐると? 


――さうさ。《完璧》な《主体》は、さて、宇宙史上此の世に現はれたことはあるのかい? 


――《完璧》な《主体》とは、つまり、《神》のことかい? 


――別に神でなくとも結構さ。何でも構はないから宇宙史上《完璧》な《主体》が存在した可能性は、さて、確率にすると幾つかね? 


――……零さ――。《主体》が《完璧》であってはならない! 


――へっへっへっ、それは何故だい? 


――時間が移ろふからさ。


――それじゃあ、時間が止まれば《完璧》な《主体》は此の世に出現するのかね? 


――時が止まった世界で《完璧》を問ふことに何か意味があると思ふのかい? 


――へっへっへっ。無意味だね。時間が止まれば《完璧》もへったくれもありゃしない! それ程までに《存在》にとって決定的な存在たる時間が一次元である筈がないと思はないか? 


――ああ、実際Analog(アナログ)時計では長針と短針は回転、つまり、渦を巻いてゐるね。


――今になって時間を一次元に押し込めた弊害が目立って、綻んで来た《時代》はないね――。


――やはり綻んでゐるかね? 


――ああ。《実体》と《反体》が共存するには時間の位相も諸相あっていい筈さ。


――つまり時間もまた無限の相を持つと? 


――つまり三輪與志ならぬ皆善しといふことさ。


――何を地口で遊んでゐる! 


――それそれ、その生真面目さが時間を一次元へと押し込めた張本人だぜ、へっ。


(十四の篇終はり)


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睨まれし 二


――さて、ところで、人間が矛盾と言ってゐるものが矛盾であることを人間はどうやって証明するのだらう? 


――矛盾であることを証明するだと? 


――さう……。矛盾はそれが矛盾であることが証明できない限りその矛盾は矛盾ではない。


――つまり、それは人間が無知であると言ひたいのか? 


――いや、無知とまでは言はないが、矛盾が矛盾であることが証明できない以上、それはもしかすると真実かもしれない不確実性を含み持ったものだといふことさ。


――へっ、にたりと笑ひやがって! 


 《そいつ》は私の瞼裡でいやらしくにたりと笑ひ、しかし、その眼光は尚更鋭き輝きを放ちながら私を睥睨するのであった。


 それにしても《そいつ》の相貌は何と醜いのであらうか。つまり、「私」は何と醜いのであらうか――。


――つまり推定無罪と言ふ事だ――。


――推定無罪? 


――さう。矛盾が矛盾であることが証明出来ぬ以上、それは推定《真実》と言ふ事さ。


――ふむ。それで「矛盾が論理にとって宝の山」と言った訳か……。――そして論理は其処に矛盾を内包してゐなければ、その論理は不合理であると? 


――さうさ。矛盾を内包してゐない論理は論理にはなり得ぬ論理的がらくたに等しい代物さ。


――論理的《がらくた》か……。しかし、論理は矛盾を内包出来る程寛容なのであらうか? 


――へっへっへっ、寛容でなければその論理は下らない代物だと即断しちまった方がいい! 


――つまり、論理的に正しいことが即ち不合理であると言ふ事か? 


――論理が矛盾を孕んでゐると、つまり、それは今のところは論理的には破綻を来した《論理的底無し沼》にしか見えないが、しかしだ、論理に《論理的底無し沼》といふ《深淵》がなければ、人間の知は《平面的》な知に終始する外ないぜ。


――《平面的》知? 


――簡単に言へば、矛盾無き論理は《平面》の紙上に書かれた言の葉に過ぎず、その言の葉に《昇華》はない。論理は論理を言霊に《昇華》出来なければそんな論理は論理の端くれにも置けぬ! 


――しかしだ、それだと原理主義の台頭を認めることにならないか? 


――原理主義が唱へる論理に《矛盾》は内包されてゐるのかい? 


――傍から見れば原理主義は矛盾だらけなのに、原理主義者の頭蓋内にはこれっぽっちも《矛盾》は存在しないか――。つまり、《矛盾》は狂信の安全弁になり得ると言ふ事か。……しかし、《矛盾》は《渾沌》を呼ばないのかい?


――《渾沌》! 大いに結構じゃないか! 


――ちぇっ、またいやらしい顔でにたりと笑ひやがって! 


 《そいつ》がにたりと笑ふ顔は何時見てもおぞましいものであった。即ち、「私」自体がおぞましい存在でしかなかったのである。


――「不合理故に吾信ず」といふ箴言は知ってゐるな? 


――ああ、勿論。


――論理とは元来不合理な、或るひは理不尽なものさ。否、論理は不合理でなければ、若しくは理不尽でなければ、それは論理として認められはしない。


――その言ひ種はさっきと《矛盾》してゐるぜ。ふっふっふっ。


――ふっ、だから論理は《矛盾》を内包してゐなければそれは論理として認められぬと言ってゐるではないか、へっへっへっ。


――その論理の正否を判断する基準は何なのだらうか? 


――ちぇっ、《自然》に決まっておらうが! 


――《自然》? 


 《そいつ》の鋭き眼光は更に更に更にその鋭さを益して私を睨みつけるのであった。


――《自然》以外に人間、否、《主体》の判断基準が何処にある? 


――信仰は? 


――ちぇっ、神の問題か……。


(二の篇終はり)


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幽閉、若しくは彷徨 十三


――ふむ。それは《反体》を認識するかしないかの違ひに過ぎないのだらうよ。しかし、それは存在に対する存在の姿勢が試される、何とも唯識に近しい世界認識の仕方の一つに過ぎない筈だ。ところが、存在は《存在》に我慢がならぬときてるから始末が悪い。ふっ、影鏡存在もまた影鏡存在に我慢がならぬ……か――。


――ふっ、それを言ふなら《反体》もまた《反体》に我慢がならぬだらう……。


――さて、そこで《反体》は《実体》を渇望してゐるのだらうか? 


――さてね。へっへっ。《反体》に聞いてみるんだな。


――ぶは、《反体》に聞けだと? 《反体》に聞く前に《実体》は《反体》と対消滅するのにかね? 


――答へは《光》のみぞ知る……だ。


――《光》か……。《光》は謎だ! 


――へっ、光陰矢の如しならぬ光陰渦の如しがこの時空間を表はすのにぴったりの言葉さ。


――光と影は渦の如しか……。


と、その時彼の脳裡にはゴッホの「星月夜」がひょいと思ひ浮かんだのであった。そして彼はゆっくりと瞼を開けて前方に無限へと誘ひながら拡がる闇を凝視するのであった。


――渦巻く時空……。


――全ての、つまり森羅万象はカルマン渦の如く此の世に存在する。


――カルマン渦? 


――さう。移ろふ時空の流れの上にぽつねんと出現する時空のカルマン渦……。陰陽が渦巻く処、其処に存在足り得る何かが出現する。


――光といふEnergie(エネルギー)に還元出来る質量を持った物体が影を作るのは陰陽が渦巻いて出現した為か……。


――影ね……。時空のカルマン渦たる《主体》が影を作ることからも《実体》が影鏡存在たることは自明のことさ。


――自己といふ《もの》を闇にしか映せない影鏡存在か……。


――ふっふっふっ。……闇は何もかも映し……そして何にも映さない……此の世の傑作の一つさ。


――闇なくしては光もまた輝かぬからな。


――へっへっ、お前は闇の中で一つの灯りを見つけたならば、その灯り目指して光の下へ馳せ参じるか? 


――ふっふっ。多分、俺は光に背を向け、闇に向かって進む筈さ。


――はっはっはっ。それはいい! じゃなきゃ《反体》なんぞ自棄のやんばちででっち上げる筈もないか、ちぇっ。


――なあ、本当のところ、此の世の《特異点》には《実体》も《反体》も共に存在してゐるのだらうか? 


――ん? 今更如何した? ふっふっふっ。お前は端から《存在》すると看做してゐるじゃないか? 


――ああ、さうさ。俺は此の世の《特異点》には《実体》と《反体》が共存し、そして対消滅しては、再びその対消滅の閃光の中から《実体》と《反体》が出現し、再び対消滅を繰り返す、光眩い世界として《特異点》を思ひ描いてゐることは確かだが、しかし、それは地獄の閃光だ。


――何故地獄の閃光だと? 


――何故って、《実体》と《反体》とは対消滅時に一度《存在》を変質させるんだぜ。


――《存在》を変質させる? 


――つまり、《光》といふ《謎》の何かに《存在》は変質する。


――つまりは《光》は《存在》の未知なる様相だと? 


――だって、《実体》と《反体》とは対消滅するんだぜ。つまり、《光》となって《消滅》するんだぜ。それが《謎》でなくて如何する? 


――へっへっへっ、《謎》ね――。《光》を此岸と彼岸の間を行き交ふ《存在》と看做してゐるお前が、《謎》だと? ぶはっはっはっ。可笑しくて仕様がない! 《光》は此岸と彼岸を繋ぐ架け橋だと、否、接着剤だとはっきり言明すればいいではないか、ちぇっ。


――……なあ……それ以前に《意識》や《思念》や《想念》や《思考》とか呼ばれてゐるものは電磁波の一種、つまり、《光》の一種なのであらうか? お前は如何考へる? 


――……ふむ。……それは《主体》が如何思ふかによって決定するんじゃないか? つまり、《意識》や《思念》等は《主体》次第で何とでもその様相を変へる変幻自在な何かさ。


と、そこで彼は再びゆっくりと瞑目しては物思ひに耽るのであった。


(十三の篇終はり)

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蟻地獄 一


 それは近所の神社の境内で罐蹴りか、或ひはかくれんぼをしてゐた最中に不意に高床の社の床下に隠れやうとした刹那に見つけてしまった筈である。それが薄羽蜉蝣(うすばかげろふ)の幼虫である蟻地獄と名付けられたものの在処であったことは、家に帰って昆虫図鑑で調べるまでは解からなかった筈なのに、幼少の私はその擂鉢(すりばち)状をしたその形状を一瞥しただけで一辺に惚れ込んだ、つまり首ったけになったのは間違ひないことであった筈である。其処には、丁度雨が降りかかるか降りかからぬかの際どい境界の辺りに密集して、擂鉢状の小さな小さな小さな穴凹が天に向かって口を開けて並んでゐたのであった。さて、さうなったなら罐蹴りかかくれんぼかは判然としないが、どちらにせよ、そんなものはそっちのけで未知なる蟻地獄を調べることに夢中になったのは当然の成り行きであった筈である。それは、多分、こんな風に事が運んだ筈である。先づ、擂鉢状の蟻地獄をちょこっと壊してみるのである。さうして、そのままちょこっと壊れた蟻地獄をじっと凝視したままでゐながら己でははっきりとは解からぬが何かが現はれるのを仄かに期待してゐる自分に酔ふ如くにそのまま凝視してゐると、案の定、其処は未知なる生き物の棲み処で小さな小さな小さな擂鉢状の穴凹の底の乾いた土がもそっと動いたかと思ふと、直ぐ様餌が蟻地獄に落ちたと勘違ひしてか、蟻地獄の主たる薄羽蜉蝣の幼虫が頭部で土を跳ね上げる姿を幽かに見せて、暫くするとそのちょこっと壊れた蟻地獄を巧みにまた擂鉢状に修復する有様を目の当たりにした筈である。幼少の私は、思ひもよらずか、或ひは大いなる期待を抱いてかは如何でもよいことではあるが、しかし、その擂鉢状の乾いた土の中から未知なる生き物が出現したのであったから歓喜したのは言ふまでもない。さうなったからには修復されたばかりの擂鉢状をした蟻地獄をまたちょこっと壊さずにはゐられなかった筈である。今度はその小さな小さな小さな擂鉢状をした乾いた土の穴凹に棲む未知なる生き物たる蟻地獄を捕まへる為である。幼少の私は、特に昆虫に関しては毛虫やダニや蚤やゴキブリに至るまで素手で捕まへなくては気が済まない性質であったから、未知なる生き物を捕まへようとしたのは間違ひのないことであった。期待に反せず蟻地獄のその小さな小さな小さな乾いた土の穴凹の底がもそっと動いた刹那、私はがばっと土を掴み取り、その擂鉢状の穴凹に棲んでゐる主を乾いた土の中から掬ひ上げたのであった……。


 それは朽木に巣食ふ白蟻をちょっとばかり膨らませたやうな、或ひは鋏虫(はさみむし)の一種のやうな、或ひはダニの一種のやうな、或ひは蜻蛉(とんぼ)の幼虫であるやごに姿形が似てゐることから蜻蛉の一種の幼虫のやうな、将又(はたまた)私が知らない鍬形虫(くはがたむし)の新種のやうな、兎に角奇妙でゐて底知れぬ魅力に富んだ姿形をしたその生き物が乾いた土の中から蟻やダンゴ虫等の虫の死骸と共に現はれたのである。


――何だこれは? 


 未知の生き物との遭遇は何時も胸躍る瞬間である。唯、幼少の私はその毛虫の如き、或ひは、天道虫(てんとうむし)の幼虫のやうな、将又蜻蛉の幼虫たるやごにも似たその姿形を見た刹那、蛾の仲間か、或ひは蜻蛉か、或ひは天道虫や甲虫(かぶとむし)や鍬形虫と同じやうに、何かの昆虫の幼虫であることは直感的に見抜いた筈である。


――何だこれは? 


 掌中に残った土に姿を隠さうと本能的にもそもそと後じさりするその未知の虫の未知の幼虫をまじまじと凝視しながら何度も私は心の中で驚嘆の声を上げた筈である。


――何だこれは? 


と。次に私は、多分、恐る恐るその小さな未知の生物を触ったに違ひない。そしてそれは思ひの外ちょこっとばかり柔らかいので再び


――何だこれは? 


と驚嘆の声を心中で上げた筈である。さうして私はその未知の生き物を眺めに眺めた末に元の乾いた土の上にその未知なる生物を置き、将又まじまじとその未知なる生き物の所作を観察した筈である。その未知なる生き物はあれよと言ふ間に土の中に潜り、小一時間程そのまま眺め続けてゐるとその生き物が平面の平らな乾いた土を擂鉢状に鋏状になった頭部で跳ね上げながら巧みに作り上げる様を飽くことなく眺め続けた筈である。それにしても幼児とは残酷極まりない生き物である。知らぬといへ、蟻地獄の餌である蟻等の地を這ふ昆虫がその小さな小さな小さな擂鉢状の乾いた土の穴凹に落ちることは蟻地獄にとって正に僥倖に違ひなく、蟻地獄とは何時も餓死と隣り合はせに生きる生き物であったので、蟻地獄の巣が少しでも壊れると温存しておかなければならぬ体力を消耗してまで蟻地獄は土を跳ね上げて餌を穴凹の底に落としにかかる労役に違ひない体力を消耗することを敢へてするにも拘はらず、幼少の私は、やっと出来上がったばかりの擂鉢状のその小さな小さな小さな蟻地獄の巣を再びちょこっと壊しては、再度餌が蟻地獄に落ちたと勘違ひしてその乾いた土の穴凹の底で土を跳ね上げては虚しき労役をした挙句に再び擂鉢状に乾いた土を巧みに作り上げるといふ、幼少の私にはこれ程蠱惑的なものはないと言ったその蟻地獄の一挙手一投足の有様をみては、再びその蟻地獄をちょこっと壊すことを何度となく繰り返しながら、何とも名状し難い喜びを噛み締めてゐた筈である。


 最初に土を掬ひ上げた時の蟻等の昆虫の死骸が蟻地獄の餌であることはその日満足の態で家に帰って昆虫図鑑で調べるまでは解からなかったに違ひない幼少の私は、その時、その周辺に密集してゐた蟻地獄の巣を次から次へと壊しては蟻地獄にその擂鉢状の乾いた土で出来た巣を修復させるといふ《地獄の責め苦》を、知らぬといへ蟻地獄に使役させることに夢中になってゐたのであった……。幼少の私にとっては蟻地獄が土を跳ね上げる様が力強く恰好よかったに相違なく、私はその後も何度も何度も擂鉢状の蟻地獄の巣を壊しては蟻地獄が頭部で乾いた土を跳ね上げる様を見てはきゃっきゃっと心中で歓喜しながら蟻地獄に対して地獄の労役をさせ続けたのであった……。


(一の篇終はり)


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最終更新:2009年02月09日 05:19