虚妄の迷宮 七

幽閉、若しくは彷徨 廿五



――ところで、《吾》以外全て《吾》といふ状況でも、さて、《吾》は己を《吾》と言ひ切る覚悟はあると思ふかい? 


――つまり、《吾》は無限を持ち切れると思ふといふことか? ……ふむ……解からないな……《吾》が《特異点》において《吾》であると言ひ切れるかどうかは……そもそも……《特異点》では《吾》といふ概念を忘失してゐるんじゃないかね? 


――するとだ、《特異点》では《吾》なることのみを渇望する、所謂、主客転倒した《桃源郷》が実現してゐるといふことか? 


――我執の呪縛からは少なくとも遁れられる……か? 


――…………。


――《吾》なれざる《吾》、つまり、《他=吾》が《吾》を渇望することは我執ではないのか? 


――へっ、我執もへったくれもない! 《吾》が《吾》でないと解かった途端、その《吾》、即ち《他=吾》は狼狽(うろた)へる。所詮、《吾》、即ち《他=吾》とはそんな《もの》さ。


――確かに《特異点》では《他=吾》の《吾》は『何が「私」だ!』と右往左往するに違ひない。しかし、それも《吾》が《他=吾》へと壊滅するまでのほんの一瞬に過ぎぬ。《吾》が《他=吾》へと壊滅すると『全てが「吾」なり!』といふ境地へ《吾》は一気に相転移を遂げ、そして《他=吾》は《特異点》の森羅万象に溶解する。


――ふっ、つまり、「《吾》は無限なり」と呟く《もの》だらけの《全体》――この言ひ方は気色悪い――が《特異点》には辛うじて《存在》する。へっ、《特異点》で「吾」と呟く《もの》は既に恥辱でしかないのさ! 


――それはあらゆる《もの》が《全体》で《重なり合ふ》といふことかね? 


――ちぇっ、逆に尋ねるが、その《全体》とはそもそも何だと思ふかね? 


――《特異点》のことではないのか? 


――《特異点》はその字義の通り《点》でしかないのだぜ。


――しかし、無限を呑み込んでゐる《点》だ。


――だから如何したといふのかね? 所詮、《特異点》は単なる《点》に過ぎぬ。しかし、それでも《特異点》は《全体》なのだ。ちぇっ。


――…………。


――その《点》を求めて有限なる《もの》全ては《夢想》する。「さて、《吾》とは何ぞや?」とね。


――《存在》の塵箱とどちらが言ひ出したかは忘れてしまったが、しかし、どちらが言ったにせよそんなことは構ひやしない。つまり、だから《特異点》は《存在》の塵箱なのさ。


――ふむ。有限界では《特異点》はパンドラの箱の如く《点》に封じ込めておかなければ《存在》が一時も《存在》足り得ぬ禁忌な《もの》か……。


――ふっ、しかし、無限の相においては《特異点》は《点》ではなく《全体》へと変化する……か……ちぇっ、それは俺の単なる願望でしかない! 


――ふっ、確かにさうに違ひないが、しかし、この悪意に満ちた宇宙をちらっとでも震へ上がらせるには《存在》は無と無限を掌中にする《夢想》を抱かずして如何する?  


――ふっ、それが《他=吾》の正体かね? 


――ふん、嗤ひたければ嗤ふがいいさ。それでも《他=吾》の相が必ず此の世に出現する筈だ。否、出現させねばならぬのだ! 


――ふむ。それ程この宇宙は悪意に満ちてゐるかね? 


――へっ、また堂々巡りだぜ。先にも言った通りこの宇宙の悪意はそれはそれは酷いものだぜ。


――つまり、それは《他》の《死》なくして《吾》の《存在》はあり得ぬといふことを指してのことだらうが、しかし、その死の大海にぽつねんと浮かぶ小島の如き《存在》共は、裏を返せばその《死》をも代表した何かに違ひない。さうは思はぬか? 


――つまり、《生》と《死》の相は地続きだと? 


――《存在》してしまった《もの》は如何足掻いても《剿滅》を先験的に内包してゐる、有限故にな。つまり、《存在》とは《死》といふものをその《存在》が誕生する以前に既に約束されてしまってゐる哀れな何かといふことだ、ちぇっ。


(廿五の篇終はり)



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ざわめき 四



 有機物の死骸たるヘドロが分厚く堆積した溝川(どぶがは)の彼方此方で、鬱勃と湧く腐敗Gas(ガス)のその嘔吐を誘ふ何とも遣り切れないその臭ひにじっと我慢する《存在》にも似たこの時空間を埋め尽くす《ざわめき》の中に、《存在》することを余儀なくせざるを得ない彼にとって、しかしながら、それはまた堪へ難き苦痛を彼に齎すのみの地獄の責苦にしか思へぬのであったが、それは詰まる所、《存在》の因業により発せられる《断末魔》が《ざわめき》となって彼を全的に襲ひ続けると彼には思はれるのであった。


…………


…………


――《存在》は自らの剿滅を進んで自ら望んでゐるのだらうか? 


――《存在》の最高の《愉悦》が破滅だとしたならばお前は何とする? 


――ふむ……多分……徹底的に破滅に抗ふに違ひない。


――仮令それが《他》の出現を阻んでゐるとしてもかい? 


――ああ。ひと度《存在》してしまったならば仕方がないんじゃないか。


――仕方がないだと? お前はさうやって《存在》に服従するつもりなのかい? 


――《存在》が自ら《存在》することを受け入れる事が《存在》の服従だとしても、俺は進んでそれを受け入れるぜ。仮令それが地獄の責苦であってもな。


――それは、つまり、《死》が怖いからかね? 


――へっ、《死》を《存在》自らが決めちゃならないぜ、《死》が怖からうが待ち遠しいからうがな。《存在》は徹底的に《存在》することの宿業を味はひ尽くさなければならない義務がある。《存在》が《存在》に呻吟せずに滅んで生れ出た《他》の《存在》などお前は認証出来るかい? 何せこの宇宙が自ら《存在》に呻吟して《他》の宇宙の出現を渇望してゐるのだからな。


――つまり、《存在》が呻吟し尽くさずして何ら新たな《存在》は出現しないと? 


――ふっ、違ふかね? 


――くぃぃぃぃぃぃんんんんんんん~。


 また何処かで《吾》が《吾》を呑み込む際に発せられる《げっぷ》か《溜息》か、将又(はたまた)《嗚咽》かがhowling(ハウリング)を起こして彼の耳を劈くのであった。それは《存在》が尚も存続しなければならぬ哀しみに違ひなかった。《他》の《死肉》を喰らふばかりか、この《吾》すらも呑み込まざるを得ぬ《吾》といふ《存在》の悲哀に森羅万象が共鳴し、一瞬Howling(ハウリング)を起こすことで、それはこの宇宙の宇宙自身に我慢がならぬ憤怒をも表はしてゐるのかもしれなかったのである。その《ざわめき》は死んだ《もの》達と未だ出現ならざる《もの》達と何とか呼応しようと懇願する、出現してしまった《もの》達の虚しい遠吠えに彼には思へて仕方がなかったのであった。


 実際、彼自身、昼夜を問はず《吾》を追ひ続け、やっとのことで捕まへた《吾》をごくりとひと呑みすることで《吾》は《吾》であることを辛うじて受け入れる、そんな何とも遣り切れぬ虚しい日々を送ってゐたのであった。


…………


…………


――《存在》は全て《吾》であることに懊悩してゐるのであらうか? 


――全てかどうかは解からぬが、少なくとも《吾》が《吾》であることに懊悩する《存在》は《存在》する。


――ふっ、そいつ等も吾等と同様に《吾》といふ《存在内部》に潜んでゐる《特異点》といふ名の《深淵》へもんどりうって次々と飛び込んでゐるのだらう……。さうすることで辛うじて《吾》は《吾》であることを堪へられる。ちぇっ、「不合理故に吾信ず」か――。


――付かぬ事を聞くが、お前は、今、自由か? 


――何を藪から棒に。


――つまり、お前は《特異点》に飛び込んだ事で、不思議な事ではあるが《自在なる吾》、言ひ換へると内的自由の中にゐる自身を感じないのかい? 


――それは天地左右からの解放といふことかね? 


――へっ、つまり、重力からの仮初の解放だよ。


――重力からの仮初の解放? へっ、ところがだ、《吾》は《特異点》に飛び込まうが重力からは決して解放されない! 


――お前は、今、自身が落下してゐると明瞭に認識してゐるのかね? 


――…………。


――何とも名状し難い浮遊感に包まれてゐるのじゃないかね? 


――へっ、その通りだ。


――それは重力に仮初にも身を、否、意識を任せた結果の内的な浮遊感だらう? 


――ちぇっ、それは、つまり、《地上の楽園》を断念し《奈落の地獄》を受け入れたことによる《至福》といふことかね? 


――へっ、何を馬鹿な事を言ふ。それは《存在》が《存在》してしまふことの皮肉以外の何ものでもないさ。


(四 終はり)



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幽閉、若しくは彷徨 廿四




――一つ尋ねるが、夢を見てゐるのが己自身だといふ証左は何処にあるかね? 


――ふむ……無いか……。


――さうさ。夢において夢を見てゐるのが自分自身だといふ根拠は何処にも無い。


――しかし、それは裏を返せば私自身が何処にも偏在出来るといふことと同じじゃないかね? 


――ぶはっはっはっはっ。成程、夢においては《吾》は何処にも出現可能、否、夢自体が《吾》になって仕舞ってゐるか――。ぶはっはっはっはっ。つまり、お前は夢において自同律の不快を克服出来る鍵があると考へてゐるのか。しかし、もうそれは現代では通用しないぜ。確かに夢は自同律の縺れを解く鍵かもしれぬが、所詮、夢は夢だ。《吾》が《特異点》に飛び込むのを止められやしない。現に俺もお前もかうして《特異点》に飛び込んでゐるじゃないかね? 


――はて、俺が何時《特異点》に飛び込んだかとんと合点がいかぬが、それでも、ちぇっ、まあ、構ひやしない! 其処でだ、夢見と《特異点》への投身の違ひは何かね? 


――夢見は悦楽に成り得るが《特異点》への投身は地獄の責苦以外の何ものでもない。


――どうして地獄の責苦と言ひ切れるのかね? 


――自同律と因果律が壊れてゐるからさ。


――さうすると、其処では、つまり、《特異点》では《吾》は《吾》足り得るのか? 


――多分、《特異点》ではそもそも《吾》が《存在》しない筈さ。


――《吾》が《存在》しない? へっ、《特異点》では何ものも《存在》出来ないのじゃないかね? 


――ふむ。多分、《存在》は無と無限と同等の何かに変質してゐるのかもしれぬが、しかし、《特異点》にも、例へば分数を持ち出して語ればだ、零分の一を考へれば解かるやうに数式で零分の一と書ける以上、《一》を初めとして数多の数字が形式的には《存在》し得る。つまり、《特異点》にあっても《存在》は《存在》し得るのさ。


――其処でだ、零の零乗は果たして《一》に《収束》するかね? 


――或ひは《一》に《収束》するかもしれぬが、実際の処は、正直言って不明さ。へっ、零乗を持ち出して《死》を問ひたいのだらうが、それは《特異点》の場合無意味だぜ。


――∞の零乗は《一》に《収束》するのだらうか? 


――それも不明だ。


――さうすると《特異点》で《存在》するその《もの》とは一体何を暗示するのかね? 


――多分、其処では《吾》が《吾》と念じた途端、《吾》なる《もの》は無際限の《面》を見せる無限の《異形の吾》が《吾》に連座するといふ、摩訶不思議な無限相をした《吾》が出現してゐる筈さ。


――つまり、それは《一》即ち無、若しくは無限といふことなのか? 


――ふっふっふっ。如何あっても《特異点》に《吾》を《存在》させたいやうだが、自同律と因果律が壊れてゐる《特異点》で《吾》を問ふのは余り意味がないのじゃないかな。つまり、《特異点》では「吾思ふ、故に吾と他が無限にありき」さ。


――へっへっへっ、つまり、《特異点》では《吾》といふ穴凹が無数に開いてゐて、《吾》は即ち《吾》を解脱せし《吾》は、《外側》からその《吾》の穴凹をまじまじと眺めてゐるが、へっへっ、《吾》はそれが《吾》だとは一向に気付けない《他=吾》に変質してゐる。


――《他=吾》? 


――つまり、《吾》以外全てが《吾》といふ意味さ。


――《吾》以外の全てが《吾》? ふむ。《吾》=《吾》が成り立たない、つまり、《吾》≠《吾》であることを強ひられる処といふことか……。


(廿四終はり)



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嗤(わら)ふ吾 二




 さて、闇の《吾》とは一体何であるのか改めて考へてみると、それは誠に奇妙な《吾》としか形容できない全くの無様な《吾》なのである。例へば私が私の事を《吾》と名指してゐる以上、それは何かしらの表象上の《面(おもて)》を持った何かに違ひないのであるが、しかし、私の意識の深層のところ、つまり、無意識のところでは《吾》は《面》のない闇でしかないといふことなのかもしれなかったのである。問題はそのことをこの私が持ち堪へられるかといふことなのかもしれなかったが、《闇の吾》の夢を見て嗤ってゐる処を見ると、《吾》が闇でしかないことを私は一応納得し、而も《闇の吾》を楽しんでゐるのは間違ひのないことであった。


 其処で一つの疑念が湧いて来るのである。


――夢の中での《吾》とは一体何であるのか? 


 更に言へばそもそも夢は私の頭蓋内の闇で自己完結してゐるものなのであらうか、それとも夢見の私は外界にも開かれた、つまり、この宇宙の一部として《他》と繋がった《吾》として夢といふ世界を表象してゐるのであらうか。仮に夢が私を容れる世界といふ器として表象されてゐるのであるならば夢もまた世界である以上、《他》たる外部と繋がった何かに違ひないと考へるのが妥当である。換言すると、夢見中の私は無意識裡に《他者》、若しくは《他》と感応し、若しくは共鳴し、更に言へば《他者》の見てゐる夢の世界を共有し、若しくは《他者》の見てゐる夢に私が出現し、もしかすると《他者》の夢を私も見てゐるのではないかといふ疑念が湧いて来るのである。つまり、夢を見てゐるのが私である保証は何処にも無いのである。


――これは異なことを言ふ! 


といふ反論が私の胸奥に即座に湧き出るのであるが、しかし、よくよく考へてみると、夢が私のものである保証は何処にも無い、つまり、夢といふ《他》との共有の場に私が夢見自訪ねると考へられなくもないのである。


 ここで知ったかぶりをしてユングの集合的無意識や元型など持ち出さないが、しかし、それにしても私が夢の事を思ふ時必ず私は「夢を《他》から間借りしてゐる」といふ感覚に捉はれるのは如何したことであらうか。この感覚は既に幼少時に感じてゐたものであるが、私が夢を見るときに何時も朧に感じてゐるのは《他》の夢に御邪魔してゐるといふ感覚なのである。この感覚は如何ともし難く、私に夢への全的な没入を何時も躊躇はせる原因なのだが、私は夢を見てゐる私を必ず朧に認識してゐて、「あ、これは夢だな」と知りつつ或る意味第三者的に私は夢を見てゐるのであった。


――ちぇっ、また夢だぜ。


 かう呟く私が夢見時に必ず存在するのである。これは夢を見るものにとっては興醒め以外の何ものでもなく、現実では因果律に縛られて一次元の紐の如く束縛され捩じり巻かれてゐた時間がその紐の捩じりを解かれ、あらゆる事象が同位相に置かれたかのやうに同時多発的に出来事が発生する、或る種時間が一次元から解放された奇妙奇天烈な世界が展開する夢において、所謂《対自》の《吾》が私の頭蓋内に存在することは、最早夢が夢であることを自ら断念することを意味し、其処では深々と呼吸をしながら深々と夢に耽溺する深い眠りの中で無意識なる《吾》が出現する筈の夢世界は、夢ならではの変幻自在さを喪失してをり、その当然の帰結として、私の眠りは総じて浅いのが常であった。つまり、私の夢は因果律からちっとも解放されずに、それは多分に覚醒時の表象作用に似たものに違ひないのである。


 さて、其処で《闇の夢》である。私は《闇の夢》を見てゐる時、稀ではあるが深い深い眠りに陥る時がある。それはこんな風なのである。何時もの様に私は夢を見てゐる私を朧に認識しながら、私は一息深々と息を吸い込むと徐に闇の中へと投身するのである。それ以降は《対自》の《吾》は抹消され、私は意識を失ったかの如く《闇の夢》の中に埋没するのであった。最早さうなると何かを表象してゐる夢ならではの正に夢を見てゐるかどうかは不明瞭となり、《闇の夢》の中では無意識なる《吾》が夢世界に巻き込まれながら、因果律の束縛から解かれた、所謂《特異点》の世界の《亜種》を疑似体験してゐる筈なのである。


 夢は因果律の成立しない世界が存在する、つまり、《特異点》の世界が存在することを何となく示唆するもので、私の場合それは《闇の夢》なのであった。例へば、《存在》は絶えず変容することを世界に強要され、世界もまた変容することを《物自体》に強要されてゐると仮定すると、《存在》は夢を見るように《物自体》に仕組まれてゐると看做せなくもないのである。つまり、《存在》する《もの》全ては夢を見、換言すれば《存在》はその内部に因果律が成立しない《特異点》を隠し持ってゐると仮定できなくもない、更に言へば、《存在》は《特異点》を必ず持ってゐると看做すことが自然なことに思へなくもないのである。


(二の篇終はり)



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幽閉、若しくは彷徨 廿三


――ふっふっ、《主体内部》では相変はらず《実体》と《反体》が対消滅を繰り返し、絶えず《魂》たるSolitonの如き未知の孤立波を発し続けるか――。


――つまり、《特異点》は湮滅出来ぬのさ。


――しかし、剥き出しの《特異点》に果たして《主体》が対峙出来るかね? 


――別に対峙する必要なんかこれっぽっちもない。《特異点》の《深淵》にもんどりうって飛び込んじまふがいいのさ。


――ちぇっ、また堂々巡りだ! 


 彼の闇の視界に浮き上がった内発する淡き淡き淡き光の帳は、その刹那、二つに分裂し、淡き淡き淡き光の塊となって彼の視界の中をゆっくりと反時計回りに旋回し始めたのであった。


――一つ尋ねるが、《吾》を断罪する《吾》とは何なのかね? 


――へっ、さう来たか――。《吾》を断罪する《吾》とは《私未然》の《吾》になれざる死屍累々の《吾》共だ。


――つまり、《吾》が《存在》してしまったが為にその《存在》することを許されぬ未出現の《もの》達か――。


――《存在》することがそもそも殺生の上にしか成り立たない。《生》と《死》が表裏一体の如く《存在》もまた《殺戮》と表裏一体なのさ。ならば《存在》は自ら己を断罪せずしてぬくぬくと《存在》することが可能だと思ふかい? 俺には如何してもさうは思へぬのだ。《存在》は自らを自らの手を汚して断罪してこそその生きる活路がやっと見出せる筈だ。また《存在》はそれが何であれさうするやうに元来仕組まれて《存在》たることを許されてゐるのさ。


――辛うじてだらう? 辛うじて《存在》は《存在》たることを許されてゐる……。


――へっ、何に許されてゐると思ふ? 


――神か? 


――神でなければ? 


――無と無限を呑み込んだ虚無か? 


――端的に言っちまへよ。


――《死》さ。つまり、《存在》は《存在》たることを断罪することで辛うじて《死》から許される――。


――ふっ、《死》もまた《夢》を見ると思ふかい? 


――何の為に? 


――《死》が《死》ならざる何かへ変容する為にさ。


――《死》もまた《存在》の一位相に過ぎぬと? 


――《死》は厳然と此の世に《存在》する! 《生》は《他》の《死》を喰らって《生》たることを維持してゐる故に《生》は必ず《死》を内包してゐる。


――へっ、《死》もまた《特異点》だと? 


――違ふかね? 


――ふっふっふっ。多分《死》もまた《特異点》なのだらう。ところで《特異点》は《存在》の塵箱(ごみばこ)なのかい? 


――或ひはさうかもしれぬが、ひと度自同律と因果律に疑念を抱いてしまった《吾》なる《存在》は、その《存在》の塵箱たる《特異点》に飛び込まざるを得ない。


――其処で《死》をも喰らふ? 


――喰らはずにゐられると思ふかい? その証左が自分の《死》を《夢》ではみたことがあるだらう? 


――ああ。それが《夢》だと夢見でありながらも確実に認識してゐるのだが、自分の《死》を《夢》で見るのは余り気持のいいものじゃない。


――へっへっ、それさ。《存在》が《夢》を見るといふことが《存在内部》に《特異点》が隠されてゐる一つの歴然とした証左だ。


――成程、《夢》では大概因果律が壊れてゐるな。しかし、《夢》を見てゐるのは何があらうとも自分である、つまり、《夢》においてこそ自同律は快楽の境地に達してゐる、違ふかね? 


(廿三の篇終はり)



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蟻地獄 三


 その日から私の闇に包まれた漆黒の頭蓋内にも、今もその陥穽たる罠に引っ掛かり落っこちる、さながら蟻と化した《異形の吾》をじっと待つ蟻地獄が巣食ってゐるのである。その蟻地獄はその姿を決して私の頭蓋内に現はすことはないのであったが、隙あらば《吾》自体を喰らふべく、その畏怖すべき気配ばかりを強烈に漂はせながら闇黒の私の頭蓋内に身を潜ませてゐたのであった。


 ところで、その日、すっかり蟻地獄の虜になってしまった幼少の私は、興奮が収まらぬまま布団に潜り込み、電燈が消された闇の子供部屋の中、じっと闇を見据ゑてその日の出来事の一部始終を反芻してゐた筈である。而して幼少の私の頭蓋内の闇には唯一つの疑問が蝋燭の炎の如く灯ってゐたに違ひないのである。


――何故蟻地獄は餓死を覚悟した上であんな小さな小さな小さな擂鉢状の罠に自身の生存の全てを委ねてしまったのであらうか? 


 幼少の私にとってその疑問は疑問として無理からぬのであったが、しかし、その答えは意外と簡単なのである。蟻地獄が蟻を追って蟻を捕獲する道を選んだとすると、それは蟻地獄にとっては最も確実至極な自殺行為に外ならないといふことなのである。蟻程恐ろしい昆虫は此の世に存在しないのである。蟻にかかれば此の世の森羅万象が蟻の餌になってしまふ程に蟻の団体としての力は凄まじいのである。


 蟻の巣の出入り口を一日眺めてみれば、蟻が生きとし生けるもの何でも餌にして、自身一匹では到底歯が立たぬ相手も数の力で圧倒し餌にしてしまふその凶暴振りに感嘆する筈である。その蟻を主食として選んだ業として蟻地獄はその身を地中に潜ませ、単体としての蟻を捕まへる外に蟻を餌とするのは不可能なのである。その餌を追ふことを《断念》し、此の世の《最強》の生き物たる蟻を餌にしてしまふその図太さの上に餓死をも厭はぬ餓鬼道をその存在の場にした蟻地獄のその徹底した《他力本願》ぶりは、私に一つの《正覚者》の具現した例証を齎すのであったが、しかし、その此の世の《最強》の《正覚者》が此の世に隠微にしか存在しないその有様は、何か《存在》そのものの在り方、若しくは《物自体》の有様を暗示してゐるやうに思へなくもなかったのである。爾来、私の頭蓋内の闇には前述したやうに私自体を喰らはうとその身を闇に潜めてゐる蟻地獄が巣食ふことになったのであった。


 それにしても蟻地獄が餓鬼道に生きるのは蟻を餌にしたことに対する因業にしか思へぬのは何故なのであらうか? そして、蟻の存在が蟻地獄を此の世に出現させた因に外ならないやうな気がしてならないのは何故なのであらうか? つまり、此の世の摂理とは、それを因果応報と呼ぶとすると、《存在》には必ず《存在》を餌にする蟻地獄の如き《地獄》がその陥穽の大口をばっくりと開けて秘かに《存在》が堕ちるのを待ち構へてゐるに違ひないのである。


 《存在》が一寸でもよろめいた瞬間、《存在》は蟻地獄の如き底無しのその奈落へ堕ちて、《神》に喰はれるか、或ひは《鬼》に喰はれるか、或ひは《魔王》に喰はれるか、将又(はたまた)永劫にその奈落に堕ち続けるかするに違ひないのである。それをパスカルは《深淵》と呼んだが、此の世に《存在》してしまったものは何であれ《吾》を強烈な自己愛の裏返しで憎悪し、《吾》以外の《何か》へ変容することを絶えず強要されながら、しかも、《存在》の周辺には底無しの《深淵》が犇めいてゐる《娑婆》を生きる外ないのである。其処で


――それでは何故《存在》が《存在》するのか? 


といふ愚問を発してみるのであるが、返って来るのは無言ばかりである。そしてこの無言なる《もの》が曲者なのである。ドストエフスキイは、この無言なる《もの》が全てを許してゐると仮定して《主体》なる《存在》のその悍(おぞ)ましさを巨大作群に結実させてゐるが、さて、その無言なる《もの》を例へば《神》と名指してみると、《存在》はその因果応報の円環から遁れる術をドストエフスキイ以上に人類に提示した人間がゐるかと問ふてみるのであるが、答へは未だに「否」としか答へられない憾みばかりが残るのである。それ故に先の愚問に対する答へは自身で発するしかないのであるが、私の場合、今もって何も答へられず、唯、私の頭蓋内の闇の中に《吾》を、つまり、《異形の吾》を喰らふ蟻地獄を潜ませるのがやっとなのである。


(三の篇終はり)



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幽閉、若しくは彷徨 廿二


――その為に《主体》は出来得る限りの手練手管を駆使して無と無限が《主体》内部で暴れ出すのを何としても防がなければならないといふ訳かね? 


――いや、無と無限が暴れ出しても別に構はないさ、無と無限に《存在》が呑み込まれなければね。


――ふっふっふっ、この皮肉屋めが――。それは《主体》が《主体》であり続けることが前提の話であって、その実、《主体》が《新体》に相転移するには如何あっても《主体》が無と無限に呑み込まれなければならぬのじゃないかね? 


――無と無限に呑み込まれて《主体》が《新体》に相転移するだと? ぶはっはっはっはっ。如何足掻いても《主体》が《新体》に相転移などせぬよ。無と無限に呑み込まれたぐらゐで《主体》が《新体》に変容出来るのであればとっくの昔に《主体》はさうしてゐる筈さ。しかし、実際はさうなってはゐない。それが何を意味してゐるかは解かるよね? 


――つまり、《主体》は《主体》であることを《断念》することしか《新体》への道は拓かれないと? 


――《主体》自らその極悪非道ぶりを自らの手で断罪した《主体》がこれまで存在したかね? 


――自殺したものは違ふかね? 


――へっ、自殺は《主体》が《私》として未来永劫地獄の中で存続する為の自己愛の一表現に、換言すれば、自殺は端から《主体》を断罪することを已めてしまった《主体》の哀れな自己愛の一表現に過ぎぬ。違ふかね? 


――《死》は裁きにはならぬと? 


――自殺は卑怯者が取る最も安易な、そして愚劣極まりない行為さ。へっ、これまで誰か自殺して《主体》が《新体》に変容した例があるかね? 


――それじゃあ、イエスや釈迦牟尼やその他の宗教の開祖達は違ふかね? 


――ふっふっふっ、或ひはさうかもしれぬが、しかし、彼等に《主体》全ての極悪非道を背負はせるのかね? 


――…………。


――それは無責任だらう。


――しかし、《主体》自ら《主体》を断罪したところでそれは茶番劇にしかならないのじゃないかね? 


――しかし、しないよりもした方が未だましだらう。何せ《存在》は《他》の殺生の上にしかあり得ぬのだからな。


――へっへっ、《主体》自ら《主体》を血祭りに上げたとして、それは《主体》にとって痛くも痒くもない筈さ。


――当然だらう。


――当然? 


――一《主体》を《主体》が断罪し葬り去ったとしても次なる《異形の吾》がそれに取って代はるだけさ。


――ならば何故《主体》は《主体》自らの手で《主体》自体を断罪せよと? 


――《主体》が《主体》自らの手で宇宙にとっては思いもかけぬ《自己弾劾》をこの宇宙の内部で《主体》が自ら進んですることで《存在》を《存在》させるこの悪意に満ちた宇宙をちらっとでも震撼させたいが為さ。


――それじゃ、《主体》の意趣返しでしかないではないか? 


――へっへっへっ、意趣返しで結構じゃないか、この宇宙が一瞬でも震へ上がるのであれば――。


――ちぇっ、詰まる所、お前は《主体》が宇宙に意趣返しをすることで、その実、この宇宙とは別の更に相転移した《新宇宙》の出現を促し、その結果として図らずも《主体》が《新体》に変態するといふ馬鹿げたことを目論んでゐるのかね? 


――《主体》が《新体》へと変態するかどうかは解からぬが、唯、《主体》が《主体》を弾劾し始めることでこの宇宙をちょっとは震へ上がらせ、その上《存在》をも揺すってみることは出来る筈さ。


――それで《主体》は満足か? 


――いや。《主体》は《存在》が《存在》する限り満足することはあり得ぬ。


(廿二の篇終はり)



自著「夢幻空花なる思索の螺旋階段」(文芸社刊)も宜しくお願いします。詳細は下記URLを参照ください。
http://www.bungeisha.co.jp/bookinfo/detail/978-4-286-05367-7.jsp




黙劇「杳体なるもの」 三



――へっ、地獄の一丁目へ直行か! 吾は地獄と浄土の間を揺れ動く。さうじゃないかい? 


――ご名答! 


――それで死の世界にも特異点はあるのか? 


――穴凹だらけさ、多分ね。つまり、《存在》の数だけ死の世界には特異点の穴が開いてゐるに違ひない。さうじゃなかったならば《死滅》の存在理由がなくなってしまふじゃないか! 


――つまりは《存在》が《存在》するから死の世界も穴凹だらけなのだらう? 


――否、《杳体》さ。


――《存在》も《杳体》の一位相に過ぎないってことか……。


――森羅万象、諸行無常、有為転変、万物流転、生々滅々、輪廻転生など、それを何と表現しても構はないが、それらは全て《杳体》の一位相に過ぎない。ひと度《杳体》と《重なり合ふ》と、此岸と彼岸の全位相と対峙しなければならぬのだ。


――ふむ。しかし、《杳体》とはそもそも《闇》のことではないのかね? 


――へっ、さう来たか。《闇》もまた《杳体》の一位相に過ぎぬ。


――暗中模索だね……。《杳体》に《重なり合った》主体は光と闇の間をも振り子の如く揺れ動く、違ふかね? 


――簡単に言へば確率零と一の間を主体は《杳体》と《重なり合ふ》ことで揺れ動く。


――ぶはっ。確率零と一の間を揺れ動くだと? それじゃ、此の世に存在したものの分しか勘案してゐないじゃないか? 死んだもの達と未だ此の世に出現ならざるもの達は何処へ行った? 


――ちぇっ、簡単に言へばと断ったではないか! 続けて言へば《杳体》と《重なり合った》主体は確率零のときに死んだもの達や未だ出現ならざるもの達の呻きの中に没し、そして確率一のとき自同律の不気味さを心底味はひ尽くさねばならないのだぜ。もしかすると確率一のときこそ死んだもの達と未だ出現ならざるもの達の怨嗟が満ち満ちてゐるかもしれないがな。


――確率一の不気味さか……。


――確率零も不気味だぜ。


――零と一との間(あはひ)にたゆたふ吾か……。それはきっと主体にとって残酷極まりないものに違ひない。


――へっへっへっ、主体は《杳体》と《重なり合って》無間地獄を潜り抜けねばならぬのさ。


――その時初めて《吾》は「吾」と呟けるのであらうか? 


――それは如何かな。《吾》は無と無限の残酷さを味はひ尽くすまで「吾」とは多分呟かないだらう。


――無と無限の残酷さか……。


――違ふとでも? 


――いやな、パスカルの言葉を思ひ出しただけさ。


――日本語訳では「中間者」と訳されてゐるが、「虚無」と「無限」の間、英訳ではbetweenといふ《存在》の在り方か……。


――さう……《存在》の在り方さ。確率零と一との間(あはひ)を揺れ動くのは地獄よりも尚更酷いものだぜ。だって「私」を幾ら揺すったところで《異形の吾》以外の何が出て来るといふんだい? 


――《異形の吾》ね……。


――それでは物足りないんだらう? 


――ふっふっふっふっ、その通りさ。《異形の吾》では物足りぬ。其処でお前の言ふ《杳体》さ。《杳体》に《重なり合ふ》主体とは、さて、どんなものなのだらうか? 


――無と無限を跨ぎ果(おほ)す過酷な《存在》の在り方さ。


――無と無限を跨ぎ果すか……。「中間者」にとっては過酷だな。


――へっ、過酷で済めば未だ良い方だぜ。大抵は途中で逃げ帰るのが落ちさ。


――逃げ帰る? 何処へ? その時「私」は既に「私」でない何かになって仕舞ってゐるんじゃないのか? 


――へっ、廃人さ。それとも狂人か。しかし、それはそれで極楽に違ひない。


――「私」のゐない「私」が極楽か……。否、それは地獄に違ひない! 


(三 終はり)



自著「夢幻空花なる思索の螺旋階段」(文芸社刊)も宜しくお願いします。詳細は下記URLを参照ください。
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最終更新:2009年04月20日 05:08