虚妄の迷宮 八

黙劇「杳体なるもの」 四



――ふっふっふっ。「私」のゐない「私」もまた極楽と地獄の間を揺れ動くのさ。

――ちぇっ、《存在》はやはり確率零と一の間を揺れ動く。つまり、無と無限の間か……。詰まる所、あらゆる《存在》は無と無限の間を揺れ動かざるを得ない! 而して、それは何故か? 

――へっ、《存在》しちまってゐるからに決まってをらうが! 

――ちぇっ、この煮ても焼いても喰へない《存在》に先づ《吾》が《重なり合ひ》、そして《杳体》が《重なり合ふ》。またまた愚問だが、そもそも《杳体》とは何を淵源としてゐるのかね? 

――パスカルの深淵にもんどりうって飛び込んだ時の《自由落下》する《意識》の有様にその淵源を持つと言へば少しは解かるかな? 

――《自由落下》する《意識》の有様? 

――パスカルの深淵とは特異点の別称さ。

――さうお前は言ひ切れるのかね、特異点の別称だと? 

――ああ。ここでさう言ひ切る外あるまい。パスカルの深淵が特異点の別称だと。

――つまり、その《特異点》にもんどりうって飛び込んだ《存在》の《自意識》が《自由落下》する様が《杳体》の尻尾を捕まへる鍵といふ訳かね? 

――へっへっ。この《意識》の《自故落下》が曲者なんだ。

――ふむ。《意識》が《自由落下》するとは《自意識》が《吾》からずり落ちることを指してゐるのかね? 

――さう解釈しても別に構はぬが、《吾》が「私」より先に《自由落下》してゐるとしたならば、へっ、「私」は永劫に追ひ付けない《吾》をそれでも尚追ふ構図もあり得るぜ。

――ふむ。《吾》が「私」より先に既に《自由落下》してゐるか……。ふっふっふっ。哀しき哉、《存在》は! しかしだ、未だ解からぬぞ、そのお前が唱へる《杳体》が! 

――《杳体》は杳として知れぬ何かだと最初に言った筈だがね。

――それさ。杳として知れぬ《もの》が《存在》の態を為し得るのか? 

――へっ、面白くなってきたぜ。お前は今《杳体》を《もの》と形容したのに気付かなかったのかね? ふっふっ、堂々巡りの始まりか――。だから、《杳体》が《存在》の態を為すか為さぬかは《主体》次第だとこれまた最初に言った筈だがね。

――それではその《主体》とは何を指しての《主体》とお前は言ふのか? 

――ふっふっふっ。これも最初に言った筈だが、《主体》とは此の世の森羅万象が自身が《存在》する為には如何あっても持ち堪へなければならぬ《もの》さ。

――すると《存在》は全てそれが何であらうと《自意識》を持つと? 

――ああ、さうさ。《存在》する《もの》はそれが何であれ、哀しき哉、《自意識》を持ってしまふ。

――これも愚問だが、《杳体》にとって神とは何なのだ? 

――藪から棒に何だね? 神と来たか……。さて、何としたものかね、神は――。

――神は《杳体》ではないのか? 

――神は《杳体》でも構はないし《杳体》でなくても構はない、それが神さ。

――神もまた蜃気楼の亜種かね? 

――蜃気楼といふよりもVision(ヴィジョン)、つまり、《幻影》の類に相違ない。

――《幻影》? 

――《幻影》といっても幻の影だぜ。何の事だか察しがつく筈だが……。

――幻に影があるといふことはその幻は《実体》といふことか――? 

――さう。幻といふ《実体》、それが神さ。

――それでは幻といふけれど、それは実際のところ、何の幻のことかね? 

――ぷふぃ。《私自身》の幻に決まってをらうが。外に何が考へられるといふんだね? 

――ぶはっ。《私自身》の幻が神? 馬鹿らしい。神とはそもそも自然の別称ではないのかね? 

――自然もまたそれが《存在》する以上、《自意識》を持つのは自明の理と考へられる……。つまり、何もかもが《私自身》に帰すのさ。更に言へば神とは彼の世にゐる《私自身》といふ《実体》の幻さ。

――彼の世にゐる《私自身》の《実体》? 彼の世への《私自身》の《表象》の投影ではなく、《私自身》の《実体》の幻と? 

――彼の世に《私自身》の《表象》を投影したところで、ちぇっ、それは虚しいだけさ。

(四 終はり)





幽閉、若しくは彷徨 廿七



――お前は《他=吾》も《反=生》も《反=死》も《実体》も《反体》も何もかも全てが《存在》といふ泡沫の夢に過ぎぬと、まるで達観でもしたかの如く考へて鳧(けり)をつけたいのだらうが、さうは問屋が卸さないぜ。《存在》が泡沫の夢の如き《もの》と辛うじて呟けるのは今正に死に行く寸前の《存在》共のみだぜ。未だ生き永らへる《存在》は《存在》といふ《特異点》をその内部に隠し持ってゐる故の《深淵》をまるで極楽の如き棲処にしちゃ、この悪意に満ちた宇宙、俺はそれを《神》と名付けるが、その宇宙たる《神》の思ふ壺だぜ。

――へっ、所詮このちっぽけな《存在》がこの宇宙といふ《神》に反旗を翻したところで高が知れてるぜ。

――だから《神》の摂理に従へと? 

――《存在》もまた《自然》ではないのかね? 

――《自然》は《特異点》と同様、《存在》の塵箱じゃないぜ。

――それじゃあ、あくまでも《存在》は未だ生き永らへる限り《反=自然》であり続けろと? 

――《存在》はこの宇宙からも《自然》からも将又《神》からも自存することを自棄のやんばちに、そして遮二無二願ひ、またさうであることで漸く「《吾》は《吾》なり」とぼそっと呟ける宿命を背負ってゐるのさ。

――何に背負はされてゐるといふのか? 

――へっへっへっ、決まってをらうが、《自然》さ。

――《自然》もまた《自然》であることに我慢がならぬと、つまり、《自然》もまた自同律から遁れられないと? 

――当然だらう。《自然》が此の世で最も自身を憎悪してゐる筈だぜ。

――ぶはっはっはっ。

――うふっふっふっ。

――《自然》自らして無秩序を望んでゐるというか――。

――渾沌の中からしか《新体》は現はれやしないぜ。

――《特異点》といふ《深淵》で《実体》と《反体》は対消滅を遂げてSoliton(ソリトン)の如き未知の孤立波を敢へて《新体》と呼ぶならば、自同律と因果律が壊れた《特異点》を内部に隠し持たざるを得ぬ《存在》のその矛盾した有様に端的に表はれるこの宇宙たる《神》の悪意を弾劾せずにはゐられぬ《主体》が、そんな風に《存在》するのは至極当然のことで、また、《実体》と《反体》が絶えず対消滅する渾沌とした《特異点》を先験的に授けられてしまった《存在》が、己の《存在様式》を憎悪するのは尚更《自然》なことであって、而も《存在》は必ず自身を憎悪せずにはゐられぬやうに仕組まれてしまってゐるのさ。そして、あらゆる《存在》は捩ぢれに捩ぢれ、最早捩ぢ切れるまでの矛盾した自同律に懊悩するのは《存在》の宿命だ。

――《自然》もまた《他=吾》を渇仰してゐるといふのか? 

――《自然》こそ《未存在》であり而も《他=吾》であることを切望してゐる。

――つまり、それは渾沌といふことだね? 

――へっ、《自然》が自らに我慢がならずそれ故この《自然》を最初から創り直したいと望んでゐるとしたならば、へっ、《存在》は自ら置かれたそんな状況を最早嗤ふしかないだらう? 

―― 《自然》はやはり己に我慢がならず最初からこの《自然》を創り直したいと? さうすると、やれ《主体》だ、やれ《客体》だ、やれ《対自》だ、やれ《脱自》だ、やれ《差異》だ、やれ《地下茎》だとほざくこと自体が元来馬鹿馬鹿しいことに違ひない! だが、その馬鹿馬鹿しいことに懊悩せざるを得ぬのが此の世に《存在》する《もの》全ての宿命なのか――。

――《存在》とは元来馬鹿馬鹿しい《もの》と相場が決まってゐるのさ。

――つまり、《存在》は何か別の《もの》へと変容することを先験的に課されてゐると? 

――先験的にかどうかは解からぬが、少なくとも現実においては《存在》する《もの》全て別の何かへと変容する《夢想》を等しく抱いてゐるのは間違ひない。

――それは《死》ではないのかね? 

――いや、決して《死》なんかじゃない! 

――それは《自然》自らがこの《自然》を最初から創り直したいと切望してゐることにその淵源があると? 

(廿七の篇終はり)





水際 四



………… 寄せては返す波打ち際の如く、《過去》若しくは《未来》たる此の世の中にぶち込まれ、己自身は伸縮を繰り返しながら、それが真だとはこれっぽっちも信じてゐないにも拘らず、しかし、さうだから尚更それが己の自在感かもしれぬと敢へて錯覚しつつも、此の世の中で唯一《現在》たる《皮袋》に蔽はれし《吾》は、さうして独り《孤独》を失念する為に《過去》若しくは《未来》としてしか現前に現はれない《現実》たる此の世から遁走することを余儀なくされ、そして、そんな宿命と対峙するのを絶えず回避し続けては、挙句の果てに此の世の《宇宙》の涯たる《他》の存在に怯える醜態を未来永劫に亙って噛み締めなければならぬ《個時空》たる《吾》は、その《個時空》といふ存在の水際に蹲る屈辱を結局は味はひ尽くさねばならぬ宿命を背負はざるを得ぬのかもしれぬ…………。

…………

…………

―― さてね? これは異なことを言ふ。《個時空》たる《主体》が《パスカルの深淵》に飛び込み、その《深淵》の中を自由落下し続ければ、やがては質量零でなければ決して至れない光速度をひょんなことに手にしてしまったその瞬間、《個時空》たる《主体》は「吾、然り」と快哉を上げて《吾》ならざる《吾》といふ《無私》の《主体》へ相転移を成し遂げるのではないかね? 

――へっ、何を寝ぼけたことをぬかしをるか! 或る臨界を超えてしまった《主体》は最早後戻りの出来ない地獄へ踏み込む外ないんだぜ。

――地獄ね。光速を獲得した《個時空》たる《主体》は、さて、如何なる地獄へ迷ひ込むか……。

――《吾》が絶えず《吾》から逃げる摩訶不思議な現象に懊悩する無間地獄さ。

――はて、《吾》が絶えず《吾》から逃げることは、《無私》が成し遂げられた正に極楽ではないかね? 

――お前は、《吾》であることを断念できるかね? 

――ふむ。断念か……。それは難問だぜ。

――さう、難問だ。しかし、今現在かうして質量がある《吾》が質量零の光へ《発散》する刹那、《吾》は未来永劫《吾》を見失ふ悲哀を味はひ尽くさねばならぬのだ。

――それは《吾》が此の世全体に偏在することではないのかね? 

――偏在? 

――さう、《個時空》たる《主体》が此の世に偏在する。

―― へっ、それは幻想に過ぎないぜ。《主体》は《吾》がこの《皮袋》に過ぎぬ故に《吾》を《吾》と辛うじて認識してゐるに過ぎぬのさ。その《皮袋》に過ぎぬ《吾》が質量零の光となって此の世に偏在するといふ、其処には質量の有無の壁を超えなければならぬ矛盾が《存在》するがその矛盾を、さて、この《吾》は超越出来ると思ふかい? 

――矛盾の上に徹底的に論理的な縄梯子を、へっ、立てろと? 

―― さうさ。非連続が日常茶飯事といふのが此の世の常としてもだ、その非連続を徹底した論理でもって踏み越えなければならぬ矛盾を先験的に内包しながらも、見掛け上で構はぬが、そんな一見矛盾でない論理でもって此の世を捩じ伏せぬ限り、《パスカルの深淵》に自由落下し続ける《個時空》たる《主体》に、光となりて此の世に偏在する《無私》の境地など訪れる筈がない! 

――つまり、質量のある《皮袋》に過ぎぬ《個時空》たる《主体》が、何時までもその《吾》にしがみ付いてゐると、それは《他》を呑み込み何食はぬ顔で破滅へと導く巨大Black hole(ブラックホール)となって醜悪極まりない《吾》のみが拡大に拡大を続け、そして何処までも重い質量を持ってしまふ《「孤」時空》たる《主体》が独りぽつねんと存在する何とも気色悪い孤独な世界が出現すると? 

―― それが詰まる所、《吾》のみが肥大化するといふ諸悪の根源の一つだ。《個時空》たる《主体》が《吾》を断念するといふ不可能事に或る可能性を見つけずして《パスカルの深淵》に飛び込む愚劣をし続ける《吾》が、へっ、光となりて此の世を偏在するだと? 馬鹿も休み休み言へ! 

――それでも《パスカルの深淵》を自由落下する《個時空》たる《主体》は、つまり、或る臨界を超えてしまった刹那、無理矢理にでも光へと相転移してしまふのではないのかね? 

――それが愚劣だと言ふのだ。《吾》はそれを解脱だと称してゐやがる。無理矢理非連続なる存在を《吾》のまま飛び越えてしまふ、つまり、此の世といふ宇宙の涯を軽々しく飛び越えてしまってせせら笑ふのだ、ちぇっ、虫唾が走るぜ。

――《吾》が《吾》を断念出来ぬ事がそれ程醜悪かね? 

(四の篇終はり)





幽閉、若しくは彷徨 廿六



―― それは詰まる所《生者》の論理でしかないしじゃないか……これは……自同律とも深く関はってゐる筈だが……《死》は《死》において自ら《剿滅》を《生》と同様に約束されてゐるのかい? 何故って《死》も厳然として此の世に《存在》する《もの》の一つの様相だからさ。《死》が自らの《剿滅》を渇望、若しくは葛藤してゐるとお前は考へてゐるのかい? 

――ふっ、当然《死》は自らの《死》についてあれやこれやと自ら思ひ巡らしてゐる筈さ。さっき言った通り、《死》もまた《夢》を見る……。

――ふっふっふっ、それは……どんな《夢》だい? 

――《死》自ら《死滅》するといふ《夢》の筈だ。

――ぶはっはっはっはっ。《死》が《死滅》するとは何といふ言い種だね? はて、《死》の《死滅》とは何を意味するのかい? 

――それは《生》と言ひたいところだが、それを敢へて言葉で言へば《反=死》といふことさ。

――《反=死》? 《反体》、《新体》、《他=吾》と来て今度は《反=死》だと? 《死》が《夢想》するその《反=死》とは一体何かね? 

――《生》と《死》の間(あはひ)に大口を開けた《深淵》を棲処とした《未存在》のことさ。

――《未存在》? それは《実体》若しくは《反体》が《存在》することと如何違ふのかね? 

――字義通り、未だ《存在》に至らぬ《もの》のことさ。

――へっ、《もの》と言ふのだから《未存在》も結局は《存在》の亜種に過ぎないのじゃないかね? 

――《死》の《夢想》だぜ! 《死》が《もの》を《夢想》してもちっとも不思議じゃない。むしろ《死》が《存在》を《夢想》すると考へるのが《自然》だが、しかし、《死》は最早再び《死》に至るしかない《存在》を《夢想》することはない。

――それで《未存在》だと? 

――ふっ、《未存在》は《生》と《死》を自在に行き交ふ永劫の相をした何かさ。

――《未存在》が永劫? それは《未存在》なる《もの》が未来永劫に亙って《存在》するといふことかね? 

――《存在》はしない。唯、《未存在》であり続けるのみさ。つまり、それが《反=死》だ。

――《反=死》は《生》ではないのか? 

――否! 《生》と《死》を自在に行き交ふ何かさ。

――それが未来永劫に亙ってあり続ける? あり続けるといふからにはそれは結局のところ《存在》の派生物ではないのか? 

――ふっ、また堂々巡りだ、へっ。先にも言った通り内部に《特異点》を隠し持ってゐる《存在》は《死》を必ず内包してゐる。ふっふっ。再び死すべき運命にある《存在》を《死》が《夢想》すると思ふかい? そんな筈はなからう。

――つまり、《存在》は必ず《死滅》若しくは《剿滅》する《もの》だから、未来永劫に亙ってあり続ける《反=死》たる《未存在》なるこれまた摩訶不思議な《もの》をでっち上げた訳か――。ちぇっ、《反=死》は《反=生》ではないのかい? 

――正確を期すると《未存在》は《生》と《死》と《反=死》と《反=生》の間(あはひ)にぽっかりと空いた《深淵》を棲処とする何かさ。

――何を戯(たは)けたことを言ってをるか! 《反=生》も《反=死》も《実体》も《反体》も《生》も《死》も全て《存在》を形象する《もの》でないか? 

――それで? 

――それでだと――。ちぇっ、忌々しい! 

――へっへっ。

――つまり、何事も《深淵》に帰すことで自分が可愛くと仕様がないといふのがお前の考へ方だぜ。それじゃあ、この悪意に満ちた宇宙にしょん便も引っ掛けられやしないぜ。

――天に唾を吐いてゐるに過ぎぬと言ひたいのだらうが、それでも《反=死》も《反=生》も《生》も《死》も《実体》も《反体》も全ては此の世に《特異点》を隠し持ちながらあり続ける《深淵》に違ひない筈だ。

――それじゃあ、《他=吾》たる《吾》の出現なんぞ望めっこないぜ。

――別に《他=吾》なぞ出現せずとも構はないじゃないか。

(廿六の篇終はり)





睨まれし 四




――逃げ道など探さずに敢然と《存在》が《存在》する《現実》に対峙してみたら如何かね? 


――ちぇっ、それが至難の業だと知ってゐるくせに! 


――はて、何故《現実》に対峙することが至難の業なのかね? 


――絶えず《現実》といふ《自然》に《吾》が試されるからさ。


――ふっふっふっ。《吾》とはそんなにも繊細な《存在》なのかね? 


 その時《そいつ》は眼球をゆっくりと此方に向け、私の内界全てを一瞥の下に暴き出したかの如く《そいつ》はしたり顔で私を嗤ったのであった。


――それが不可能だと十二分に解かってゐるくせに《吾》は《吾》ならざる《吾》を絶えず渇望してゐなければ最早一時も《吾》たることに我慢がならぬ、それでゐて《吾》ならざる《吾》に対しては疑念に満ち満ちた、それは何とも厄介な代物なのさ、《吾》とは。


――《吾》は《吾》に対してそんなに厄介な《もの》かね? 


――ああ、《吾》は一筋縄ではゐかぬ厄介この上ない代物だ。就中(なかんづく)《吾》が《吾》に対して抱く猜疑心、こいつは何とも度し難い――。


 《そいつ》はその刹那、にたりと嗤ひ、かう呟いたのであった。


――《吾》とはその《存在》の因子として先験的に猜疑心を授けられてゐる《存在》なのかね? 


――《吾》が滅する定めである限りさうに違ひない。


――つまり、その何とも厄介な代物を《吾》と名付けたはいいが、その実《吾》であることに我慢がならず、しかし、さうでありながらも実のところは《吾》は絶えず《吾》の壊滅に怯えてゐるのじゃないかね? 


――だからといって《吾》は《吾》であることを止められない。


――くっくっくっくっ。《吾》とは随分身勝手な《存在》なのだね。くっくっくっくっ。《吾》が《吾》であることが我慢ならず、それでゐて《吾》の壊滅には絶えず怯えてゐる。ちぇっ、何とも《愚劣》極まりない! 


 《そいつ》は吐き捨てるやうに、しかしながらそれでゐて《そいつ》自身に向かって「《愚劣》極まりない!」と言ったかのやうであった。


――《存在》は詰まる所《愚劣》な《もの》じゃないかね? 


――くっくっくっくっ。その通りだ。《存在》はそもそも《愚劣》極まりない! 《愚劣》極まりないから論理は尚更矛盾を孕んでゐなければならぬのさ。


――つまり、《存在》そのものが矛盾であると? 


――へっ、何処も彼処も矛盾だらけじゃないか! 


――だからと言って《吾》であることを一時も止められやしないんだぜ。嗚呼、何たる不合理! 


――そもそもお前の言ふ合理とは何なのかね? つまり、一=一が成り立てば、それが合理なのかね? 


 私は其処で、私の頭蓋内の闇にぽつねんと呪文の如く『吾=吾』といふ等式を思ひ浮かべたが、それは束の間のことで、直ぐ様『吾=吾』といふ《愚劣》極まりない等式としてのその表象を唾棄したのであった。


――自同律が諸悪の根元だといふことはお前にも自明のことだね? 


 《そいつ》は私を嘲笑ふやうにさう呟いたのであった。


――しかし、此の世に《存在》する限りにおいては自同律は持ち切らないといけない。それがどんなに不快であってもだ。


――くっくっくっくっ。別に持ち切らなくても構はないのじゃないかね? 


――如何して? 


――如何足掻いたところで《吾》は《吾》でしかないからさ。


――《吾》が《吾》であることを全肯定せよと? 


――ああ。


――へっ。それは《吾》が《吾》であることを全否定せよと言ってゐるのと同じことじゃないかね? 


――くっくっくっくっ。その通りさ。土台《吾》が《吾》であることを全肯定するには先づ《吾》が《吾》を全否定し尽くさねばその糸口すら見つからない。くっくっくっくっ。《吾》そのものがこれ程矛盾に満ちてゐるにも拘はらず、《吾》に対して合理を求めるのは最も不合理この上ないことじゃないかね? 


――「不合理故に吾信ず」――。


――さう、《吾》は先づ《吾》を信じてみたら如何かね? 


――ふっ、《吾》を信ずる? これは異なことを言ふ。「不合理故に吾信ず」といふ箴言は、《存在》のどん詰まりに追い込まれたその《存在》の断末魔の如き呻き声でしかないのさ。つまり、《吾》とは《吾》に対して信が置けない《愚劣》極まりない、つまり、《吾》対しては猜疑心の塊でしかないのさ。


(四の篇終はり)





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最終更新:2009年05月09日 05:56