虚妄の迷宮 九


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睨まれし 五



――その自己否定こそ己の《存在》に対する免罪符になるかもしれぬといふ《愚劣》極まりない打算が働いてゐるのじゃないかね? くっくっくっくっ。

――何に対する免罪符といふのかね! 

――《死》に決まってるじゃないか、くっくっくっくっ。

――《死》に対する免罪符? これまた異なことを言ふ。《死》も此の世に《存在》する以上、自己否定からは遁れられやしないぜ。

――《死》が《死》を自己否定したところで、それは結局《死》でしかないんじゃないのかね? 

――否! 《死》が自己否定すれば《生》に行き着かなければならぬのさ。

――それはまた如何して? 

――さうでなければ《生》たる《存在》が浮かばれないからさ。

――別に《生》が浮かばれる必要なんぞ全くないんじゃないかね、くっくっくっくっ。

《そいつ》の言ふ通り、《生》が此の世で浮かばれる必要など、これっぽっちも無いことなど端から解かり切ってゐることなのに、私は《そいつ》のいやらしい嗤ひ顔を見てると如何しても反論せずにはゐられやしなかったのであった。

――否! 《生》は何としても此の世で浮かばれなければならぬ。それは《死》がさう望んでゐるに違ひないからさ。

――それは《生者》だけの論理だらう? 

――《生者》が《生者》の論理を語らなければ何が《生者》の論理を語るといふのか? 

――《死》がちゃんと語ってくれるさ、くっくっくっくっ。

――《死》は《生》あっての《死》だらう? 

――だから如何したといふのか? 

――ああ、成程! そうか! 《生》が《死》を、《死》が《生》を語る矛盾を抱へ込まなければ、《存在》の罠の思ふ壺といふことか――。

――はて、《存在》の罠とは何のことかね? 

――自同律さ。

――自同律? 

――例へば《吾》=《吾》が即ち《存在》の罠さ。

――くっくっくっくっ。漸く矛盾を孕んでゐない論理は論理の端くれにも置けぬといふことが解かって来たやうだな。

――しかし、《吾》は《吾》=《吾》でありたい。これは如何ともし難いのさ。

――それは当然さ。《存在》しちまった以上、《吾》は《吾》でありたいのは当然のことさ。しかし、それが大きな罠であるのもまた事実だ。

――事実? 

――ああ、事実だ。

――論より証拠だ。何処が如何事実なのか答へ給へ。

――数学が《存在》する以上、《吾》が《吾》たり得たい衝動は如何ともし難い。

――数学ね。

――数学では条件次第で自同律なんぞは如何解決しようが自由だ。

――しかし、大概の《もの》は《一》=《一》の世界が現実だと看做してゐるぜ。

――其処さ。《存在》の罠が潜んでゐるのは。

――一つ確かめておくが、お前は数学を承認するかね? 

――ふむ。数学の承認か……。実のところは迷はず「承認する」と言ひ切りたいのだが、さて、如何したものだらうか――。ふむ。一先づかう言っておかう。「世界の一位相として数学を承認する」と。

――世界の一位相? 

――ああ。世界認識の方法として数学もあり得るといふことさ。

――しかし、数学が全てではないと? 

――当然だらう。数学が支配する世界なんぞ悍(おぞ)ましくて一時もゐられやしないぜ、ふっ。

――しかし、自同律を語るには数学は便利だぜ。

――といふと? 

――例へば《一》=【《一》のx乗(xは0,1,2,3……)】が成り立つ。

――だから? 

――《一》の零乗は《一》に帰するといふ、一見すると奇妙に見える自同律が成り立つのさ。

――さて、それが如何したといふのか? 

――《一》の零乗だぜ。《死》の匂ひがすると思はないかい? 

(五の篇終はり)





幽閉、若しくは彷徨 三十一



――それは詰まる所、此の世に未だ《自存》した《存在》が出現してゐない《存在》の未熟さ、若しくは未完成さを指し示すのみの一つの徴表に過ぎぬ。

――つまり、世界から完全に独立した《存在》は未だ出現してゐないと? 

――その言葉を何回聞くのやら……。まあ、良い。多分、《存在》に開いた穴凹は此の世の位相を直に反映してゐる筈さ。

――つまり、《存在》は此の世を映す鏡だと? 

――違ふかね? 

――それは、断言すると、世界と《存在》は持ちつ持たれつの関係でしか此の世に出現出来ぬといふことかね? 

――ああ、さうさ。

――それじゃ、《新体》は泡沫の夢に過ぎぬといふ訳かね? 

――否、《他》が此の世に出現した以上、《新体》が出現する、つまり、この宇宙から完全に《自存》した《他》の宇宙が《新体》として必ず《外》に《存在》する筈さ。

――《外》? 

―― 《存在》に穴凹が開いてゐることから類推すると、《内》の中に《外》がある、つまり、陰陽魚太極図の目玉模様の、陰中の陽、陽中の陰、といふ《存在》の在り方が、《存在》の姿勢として折り目正しき在り方なのかもしれぬ。しかし、仮初にも《存在》は《内》と《外》といふやうに《存在》の在り方を単純化して物事を考へる癖が付いて仕舞ってゐるので、《外》と言ったまでさ。

――はっはっ。つまり、結局は自同律の問題じゃないか――。はっきり言ひ切ってしまへばいいじゃないか、「自同律は嘘っぱちだ」と! 

――……《吾》=《吾》は《吾》が《吾》と名指した《もの》の幻想に過ぎぬのは、この人間の身体一つとっても口から肛門まで《外》が《内》にあることからも自明極まりない筈だが、しかし、《吾》は如何しても《吾》=《吾》でありたい。それは何故か? 

――《吾》=《吾》でありたいだと? むしろ逆じゃないかね。《吾》は《吾》≠《吾》でありたいと? 

――さう看做したいならば、さう看做せばいいのさ。《吾》が《異形の吾》を抱へ込んだ《他=吾》である以上、《吾》が《吾》=《吾》だらうが、《吾》≠《吾》だらうが、結局は同じ事に過ぎないのだから。

――《吾》=《吾》と《吾》≠《吾》が同じだと? 

――ああ。《存在》は論理的に《吾》=《吾》であって而も《吾》≠《吾》であるといふ、ちぇっ、単純化するとその両面を持った《存在》の二重性を合理であるとしなければならぬ宿命にあるのさ。

――それは《一》=《一》であって《一》≠《一》である、論理的に「美しい」公理を打ち立てられない内は、如何あっても《吾》は自同律の底無しの穴に落下し続けるといふことかね? 

――さう、さういふことだ。漸くにして人類は量子論にまで至れたのだから、《一》=《一》であって《一》≠《一》である世界認識の仕方への飛躍は後一寸の処じゃないかね? 

――へっ、人類は既に大昔に陰陽魚太極図の考へに至っているのだから、《一》=《一》であって《一》≠《一》である思考法はお手の物の筈なのだが……。

――へっ、それ以前に人間は音声といふ波と画数を持った量子的なる文字で出来た言の葉を使ってゐるのだから、人間が言葉で物事を考へるのであれば《自然》に《一》=《一》且《一》≠《一》の思考法で世界を認識してゐるに違ひないのだ。

――しかし、実際はさうなってゐない。それは何故かね? 

――《一》=《一》に見蕩れてしまって其処から抜け出せなくなってしまった……。

――だから、それは何故かね? 

――ぷふぃ。詰まる所、時間を止めたいからさ。

――はて、それは如何いふ意味かね? 

――つまり、《一》=《一》、換言すれば《吾》=《吾》が永劫に成り立つ時が止まった架空の世界に戯れたかったからさ。

――だから、それは何故かね? 

――《存在》は本質的に《現実》を嫌悪する《もの》だからさ。

――《現実》を嫌悪する? それはまた如何して? 

――ちぇっ、《吾》が《吾》でなくなってしまふからに決まってをらうが! 

――《吾》が《吾》でなくなる? つまり、《吾》≠《吾》が《現実》の実相といふことだらう? 

――さうさ。時が移らふ《現実》において、《吾》は絶えず《吾》でない《吾》へと移らふことを強要される。

――それは《吾》=《他=吾》故にだらう? 

――さうさ。《現実》において《吾》は絶えず《現実》に置いて行かれる、つまり、《現在》に乗り遅れる。それでゐて《吾》は絶えず《現在》であることを強要される。哀しき事だがね……。

(三十一の篇終はり)





ざわめき 五



――皮肉ね。そもそも《存在》とは皮肉な《もの》じゃないのかね? 

――さうさ。《存在》はその出自からして皮肉そのものだ。何せ、自ら進んで《特異点》といふ名の因果律が木っ端微塵に壊れた《奈落》へ飛び込むのだからな。

――やはり《意識》が《過去》も《未来》も自在に行き交へてしまふのは、《存在》がその内部に、へっ、その漆黒の闇を閉ぢ込めた《存在》の内部に因果律が壊れた《特異点》を隠し持ってゐるからなのか? 

――そしてその《特異点》といふ名の《奈落》は《存在》を蠱惑して已まない。

――へっ、だから《特異点》に飛び込んだ《意識》は《至福》だと? 

――だって《特異点》といふ《奈落》へ飛び込めば、《意識》は《吾》を追ふことに熱中出来るんだぜ。

――さうして捕らへた《吾》をごくりと呑み込み《げっぷ》をするか――。へっ、詰まる所、《吾》はその呑み込んだ《吾》に食当たりを起こす。《吾》は《吾》を《吾》として認めやしない。つまり、《吾》を呑み込んだ《吾》は《免疫》が働き《吾》に拒絶反応を起こす。

――それは如何してか? 

――元々《吾》とは迷妄に過ぎないのさ、ちぇっ。

――それでも《吾》は《吾》として《存在》するぜ。

――本当に《吾》は《吾》として《存在》してゐるとお前は看做してゐるのかね? 

――ちぇっ、何でもお見通しなんだな。さうさ。お前の見立て通りさ。この《吾》は一時も《吾》であった試しがない。

――それでも《吾》は《吾》として《存在》させられる。

――くきぃぃぃぃぃぃぃぃんんんんんんんん~~。

 一時も休むことなくぴんと張り詰めた彼の周りの時空間で再び彼の耳を劈くその時空間の断末魔の如き《ざわめき》が起きたのであった。それは羊水の中から追ひ出され、臍の緒を切られて此の世で最初に肺呼吸することを余儀なくさせられた赤子の泣き声にも似て、何処かの時空間が此の世に《存在》させられ、此の世といふその時空間にとっては未知に違ひない世界で、膨脹することを宿命付けられた時空間の呻き声に彼には聞こえてしまふのであった。「時空間が膨脹するのはさぞかし苦痛に違いない」と、彼は自ら嘲笑しながら思ふのであった。

――なあ、時空間が膨脹するのは何故だらうか? 

――時空間といふ《吾》と名付けられた己に己が重なり損なってゐるからだらう? 

――己が己に重なり損なふといふことは、この時空間もやはり自同律の呪縛からは遁れられないといふことに外ならないといふことだらうが、では何故に時空間は膨脹する道を選んだのだらうか? 

――自己増殖したい為だらう? 

――自己増殖? 何故時空間は自己増殖しなければならないといふのか? 

――ふっ、つまり、時空間は此の世を時空間で占有したいのだらう。

――此の世を占有する? 何故、時空間は此の世を占有しなければならないのか? 

――「《吾》此処にあるらむ!」と叫びたいのさ。

――あるらむ? 

――へっ、さうさ、あるらむだ。

――つまり、時空間もやはり己が己である確信は持てないと? 

――ああ、さうさ。此の世自体が此の世である確信が持てぬ故に《特異点》が《存在》し得るのさ。逆に言へば《特異点》が《存在》する可能性が少しでもあるその世界は、世界自体が己を己として確信が持てぬといふことだ。

――己が己である確信が持てぬ故にこの時空間は己を求めて何処までも自己増殖しながら膨脹すると? 

――時空間が自己増殖するその切羽詰まった理由は何だと思ふ? 

――妄想が持ち切れぬのだらう。己が己に対して抱くその妄想が。

――妄想の自己増殖と来たか――。

(五 終はり)





幽閉、若しくは彷徨 三十



――しかし、それは深い深い慈悲から生じたとは考へられないかね? 

――つまり、この宇宙、即ち《神》すらも《死》からは遁れられぬと? 

――ああ。当然この宇宙が《存在》してゐるのが《事実》ならば、そしてそれをまた《神》と名付けるならば、《神》が此の世に《存在》してしまった以上、《神》にも当然《死》が待ってゐる。

――《死》すべく宿命付けて《神》は己も宇宙も誕生させた――。はっ。

――さうせずには何にも創生させることが出来なかったのじゃないかね? 

――何故? 

――《神》もまた己に怯えてゐるからさ。そして暗中模索の思考錯誤の末の自棄のやんばちで《神》はBig bang(ビッグバン)をおっ始めてしまった。

――その時、《神》もまた自同律の陥穽から遁れられなかったと? 

――ああ。《神》こそ自同律を最も不快に感じてゐるに違ひない。それ故、Big bangをやらかした。

――如何してさう言ひ切れるのかね? 

――へっ、《吾》と名付けられた《存在体》が此の世に《存在》するからさ。

――ぷふぃ。《吾》だと? それは苦し紛れの詭弁でしかないのじゃないかね? つまり、《吾》は誰が《吾》だと自覚するのかね? 

――当然《吾》自身さ。

――其処さ、《吾》が《吾》であると自覚する過程の中に、《吾》の外に《存在》する《他》を《他》と認識する素地はあるのかね? 

――《吾》が既に《他=吾》を抱へてゐるじゃないか――。

―― つまり、《吾》は既に《吾》であることで其処に《他=吾》といふ矛盾を抱へ込んでゐるが、しかし、それでも此の世の摂理として自同律は何としても成立させなければ《存在》は一時も《存在》たり得ぬ宿命にある。そして、《他》が此の世に出現することで此の世の涯に朧にも思ひを馳せて、宇宙にも、また《神》にも、《他》の宇宙が、《他》の《神》が、《存在》することを如何あっても自覚せねばならぬ。つまり、此の世には必ず《他》といふ《吾》の涯が《存在》すると。それ故に自己が自己であることを自覚することで、ちぇっ、其処には大いなる矛盾が潜んでゐるのだが……、自同律といふ此の世の摂理の土台を為す不愉快極まりないその摂理といふ奴を無理矢理にでも抱へ込んで此の世に《存在》しなければ、最早この宇宙が創生しちまった以上収拾がつかぬとんでもない事態に《吾》は直面してゐるに違ひないのだ。

――はて、それは如何いふ意味かね? もっと解かり易く話してくれや。

―― つまり、《吾》は《吾》である以前に《他=吾》を抱へ込んでゐる。それ故に《吾》は数多の《異形の吾》に分裂しつつも《吾》といふ統一体であらねばならぬ。つまり、自同律が成立する以上、《吾》は《吾》自身でその不愉快極まりない此の世の摂理を身を持って味はひ尽くさねばならぬ訳だ。《吾》は《吾》である、と。さうしなければ《吾》は《他》の《存在》を一時も認める事が出来ぬのさ、哀しい哉。何故って《吾》=《吾》が成立しなければ、つまり、《一》=《一》が「美しく」成立する論理的な秩序があって初めて《吾》は《他》を《他》と認められるのさ。其処には《吾》=《吾》といふ堅牢なる礎があればこそ《吾》が《他》の《存在》を漸くにして認められるといふ道理が潜んでゐると、お前は思はないかい? 

――さうして《他》の《存在》に此の世の涯を見る――か――。

―― さうさ。《他》の《存在》を《吾》が認める、つまり、《他》の死肉を喰らふこともひっくるめて自同律を受け入れるには、《個》は《個》として閉ぢる、つまり、有限であることが必要十分条件なのさ。《吾》が有限であることを、自同律を受け入れることで認めざるを得ぬ《吾》は、《吾》が閉ぢた《存在》であることを《他》の出現で否応なく認めざるを得ない。そしてこの宇宙も《自意識》を持ってゐるならば、其処には厳然と自同律が成立してゐて、この宇宙は《吾》が有限で閉ぢてゐることを自覚せざるを得ず、へっ、それは詰まる所、《吾》とは別の《他》の宇宙が《存在》することを暗示しちまってゐるのさ。

――しかし、眼窩、鼻孔、耳孔、口、肛門、生殖器等々《存在》は《他》に開かれるべく穴凹だらけだぜ。

(三十の篇終はり)





嗤ふ吾 三



 ところが、私が《闇の夢》を見るのは誠に誠に稀なことなのであるが、一方で、その稀な《闇の夢》を見ながら夢で私が闇を表象してゐることを睡眠中も朧ながら自己認識してゐる私は、秘かに心中では

――ぬぬ! 《闇の夢》だ! 

と、快哉の声を上げてゐるのもまた一つの厳然たる事実なのであった。これは大いなる自己矛盾を自ら進んで抱へ込むことに違ひなく、これは私自身本音のところでは困った事と思ひながらも、その大いなる自己矛盾に秘かにではあるが快哉の声を上げる私は、その大いなる自己矛盾を抱へてゐることに夢見の真っ只中では全く気付ず、ちらりとも秘かに快哉の声を上げてゐる自身が大いなる自己矛盾の真っ只中にゐることを何ら不思議に思はないのであった。ところで、その大いなる自己矛盾とは何かと言へばその答へは簡単明瞭である。それは無限を誘ふであらう闇に対して、私はその闇を《吾》と名指して無限へと通じてゐるに違ひない闇を、恰も《吾》といふ有限なる《もの》として無意識に扱ってゐるのである。ところがである。此処でf(x)=一/xはx=0のとき発散すると定義される《特異点》を持ち出すと、有限なる《一》が恰も無限大なる《∞》を抱へ込むことが可能な、或る種の倒錯した無限と言へば良いのか、その無限を如何しても誘ふ《発散》した状態の《一》たる《吾》といふ摩訶不思議としか形容の仕様がないそんな《吾》が此の世に《存在》可能であることを、私が《闇の夢》を見ることは示唆してもゐるのである。つまり、《一》なる《吾》が《特異点》をその内部に隠し持てば、私が無限を誘ふ闇に対して《一》なる《吾》と名指ししても《発散》可能な《吾》ならば、換言すれば《∞》を抱へ込むことすら可能な《吾》ならば、或る意味無限を誘ふ闇を有限なる《吾》と名指すことは至極《自然》な成り行きなのである。

 多分、無意識裡にはそのことを確実に感じ取ってゐたに違ひない私は、その日、《闇の夢》を見ながら

――《吾》だと、わっはっはっはっ。

と嗤へたに違ひないのである。また、さうでなくては闇がずっと闇のままであったその夢を見て

――《吾》だと、わっはっはっはっ。

などと嗤へる道理がないのである。

 しかし、闇を《吾》と名指すことには、大いなる思考の飛躍が必要なのもまた事実である。其処には恰も有限なる《吾》が無限を跨ぎ課(おほ)したかの如き《インチキ》が隠されてゐるのである。また、その《インチキ》が無ければ、私は闇を《吾》と名指すことは不可能で、更に言へば、闇を見てそれを《吾》と名指す覚悟すら持てる筈がないのである。

 この《インチキ》は、しかしながら、此の世が此の世である為には必須条件なのでもある。つまり、《特異点》といふ有限世界では矛盾である《もの》の《存在》無くして、此の世は一歩も立ち行かないのである。有限な世界に安住したい有限なる《存在》は、一見してそれが矛盾である《特異点》をでっち上げて、その《特異点》の《存在》を或る時は腫れ物に触るが如く《近似》若しくは《漸近》といふこれまた《インチキ》を用ゐてその《災難》を何となく回避し、また或る時は、《特異点》が此の世に《存在》しないが如く有限なる《もの》が振舞ふことを《自由》などと名付けてみるのであるが、それでも中にはこの《自由》が《特異点》の一位相に過ぎぬ事に気付く《もの》がゐて、運悪く此の世の《インチキ》に気付いてしまったその《もの》は《絶望》といふ《死に至る病》に罹っては、

――《自由》とは、《吾》とは何だ! 

と、世界に対して言挙げをし、己に対して毒づくのである。さうして《死に至る病》に罹った《もの》は更に此の世にぽっかりと大口を開けた陥穽を《特異点》と名付けて封印することを全的に拒否するが故に、更なる《絶望》の縁へと自ら追ひ込むしかないのである。しかしながら、さうすることが唯一此の世に《存在》した《もの》の折り目正しき姿勢に外かならないのもまた確かな筈である。つまり、《存在》する《もの》は、絶えず此の世の陥穽たる《特異点》と対峙して己自身を嘲笑するのが娑婆を生きる《もの》の唯一筋が通った《存在》の姿勢に違ひないのである。

 ところが、一方で、此の世に《存在》する《もの》は絶えず此の世にぽっかりと大口を開けた《特異点》を私事として《吾》の内部に抱へ込む離れ業を何ともあっけなくやり遂げてしまふ《もの》なのでもある。また、さうしなければ、《存在》は一時も《存在》たり得ぬのである。

 頭蓋内一つとっても其処は闇である。私の内部は《皮袋》といふ《存在》の在り方をするが故に全て闇である。そして、その闇に《特異点》が隠されてゐても何ら不思議ではなく、否、むしろ《皮袋》内部に《特異点》を隠し持ってゐると考へた方が《合理的》で至極《自然》なことなのである。さうして、更に更に更に更に《吾》が《吾》なる《もの》を突き詰めて行くと、内部は必然的に超えてはならぬ臨界をあっさりと超えてしまふものであるが、その臨界を超えると《外部》と相通じてしまふ底無しの穴凹を《吾》は見出し、《内界》=《外界》といふ摩訶不思議な境地に至る筈である。そして、それが娑婆の道理に違ひないのである。仮にさうでないとしたならば、私が外界たる世界を表象することは矛盾以外の何ものでもなく、また、夢を見ることで其処に外界たる世界を表象する不思議は全く説明できないのである。

(三の篇終はり)





幽閉、若しくは彷徨 廿九



――へっ、また堂々巡りだね。先にも言った通り《時間》を一次元的に押し込めることに元々無理があることに《存在》は薄々気付き始めてゐるが、しかし、その《時間》が無限の相を持つことを極度に嫌ってゐる。それは何故かね? 

――《時間》が無限の相を持つとは即ち渾沌に外ならないから……か……? 

――さう。無秩序が怖いのさ。《主体》内部の《意識》では《過去》と《未来》を自在に転倒させてゐるのに、その《意識》で起きてゐることが《存在》の外部で起こることを極度に嫌って、怯えてさへゐる。へっ、それは、つまり、己が怖いからだと思はないかい? 

―― 例へば、《主体》が思念するとそれが立ちどころに具現化してしまふ魔法をその《主体》たる《存在》が手にしたならば、其処に現はれるのは多分に収拾がつかぬ渾沌であり、またそれは、己を崩壊へと追ひ込む《実体》が《発散》するといふ《主体》が最早《存在》であり得ぬ死相のやうな相で満ちた不気味極まりない世界といふことか? 

――勿論。《主体》が魔法を手にすれば《主体》が何であれ必ず《主体》自体を滅ぼす外に《主体》には魔法の使ひ方が一向に解からぬ筈だ。

――それは……己が怖くて仕方がなく……その上怖い《もの》はそれが何であれ全て己の敵であって……「敵は殺せ!」といふ……或る種普遍化した論理の呪縛から《主体》たる《もの》……如何足掻いても……遁れられぬ《主体》の性(さが)故にか? 

―― へっへっ、漸く《もの》の本質が解かって来たじゃないか。《存在》するとはそもそも《他》の《死》なくしてはあり得ぬのさ。つまり、「敵は殺せ!」の淵源に「食ひ物は殺せ!」といふ《存在》が存続するには如何あってもさうせずにはゐられぬ《殺生》が《存在》には必ず付いて回る。その上《生命》の誕生もまた何億匹の精虫の《死》と卵子の《死》の上でしか起こり得ない。これが悪意でなくて何とする! 

――付かぬ事を聞くが、《殺生》は悪意かね? ならば無機物を喰らって有機物を生成する《生き物》のことは如何考へる? 

――ちぇっ、《死》して元に還る、そして、此の世は《循環》してゐると言ひたいのかね? 

――一つ尋ねるが、《死》は悪意かね、それとも慈悲かね? 

――慈悲……か……。

――《死》して全ては無機物へと分解され、再び土に還る。

――だが、再び無機物は有機物へと変容する。

――ちぇっ、此処で、輪廻と言ひ切りたいところだがね……。 

――へっ、魂が永劫に彷徨するか――。

――ならば何故《もの》は何かへと変容することを運命付けられてゐるのか、お前には解かるかね? 

――つまり、それはこの宇宙の、換言すれば《神》の意思じゃないのかね。

――では何故この宇宙は新たな物質を創出するべく星を誕生させ、そして死滅させるのかね? 

――へっへっ、太陽系が誕生する遥か以前に星々が死滅しなかったならば吾等人間も生まれはしなかったか――へっ。

―― つまり、この宇宙、即ち《神》すらも暗中模索の中、手探り状態で新たな《もの》、即ち《新体》を誕生させてゐるとすると、未完成で生まれ落ちて死する吾等《存在》共が行ふ《殺生》において未完成品が未完成品を喰らふことで完璧なる《新体》が万に一つでも誕生する《可能性》があるとするならば、《殺生》もまた《神》が未完成品たる《存在》に与へた慈悲ではないのか? 

――つまり、《死》あればこそ《新体》が創出されると? 

――太古の昔から創造と破壊は双子の兄弟のやうに、例へばヒンドゥー教のシヴァ神の如く未完成の《存在》共には表象されて来た。

――だから如何したといふのか? それは《神》が此の世の開闢の時に此の世の仕組みをさうせざるを得なかったに過ぎぬのじゃないかね?

――では何故《神》は此の世をその様にしか創出出来なかったのだらうか? 

――《神》すらも此の世に何が生まれるか解からなかった――。

―― つまり、《神》すらも此の世を手探り状態でしか創出出来なかった。さうすると、新たなる存在体、即ち《新体》を誕生させてみては、その誕生してしまった《新体》がどうなるのかは《神》すらも解からず、それでも此の世に誕生してしまった《新体》はその《存在》を味はひ尽すべく全身全霊で己が《存在》の如何なるものかを体験し確認する以外にその《存在価値》がないやうに出来てゐて、未完成品に過ぎなかった《新体》が最早古びた《存在》でしかないのでそんな《存在》にはさっさと此の世から退場して貰(もら)ふべく如何しても《死》が必要だったのかもしれぬ。何故なら未だに完璧な《存在》は此の世に誕生していないからね。へっ、詰まる所、未完成品は《死》をもってその《存在》を全うするしか道は残されてゐないならば、へっ、それは或る意味《神》の無責任さでもあるが、しかし、《存在》のその《存在根拠》を《神》に全的に帰するのは今度は《存在》にとっての無責任極まりない愚行ならばだ、未完成品たる《存在》は未完成品として凛と此の世に屹立する以外、吾等未完成品の《存在》はこの宇宙に対して申し訳が立たぬとは思はぬか? 

――申し訳が立たぬ? これは異なことを言ふ。それじゃまるでこの宇宙は慈悲深き《もの》といふことじゃないか! 馬鹿が――。

――しかし、《殺生》も《死》も此の世に厳然と《存在》する。

―― しかしだ、《死滅》することが定められた結局は未完成品の《存在》しか創出出来ない《神》、即ちこの宇宙は、己自身にも思ひもよらぬ《新体》が出現するのを待ち望む故に死屍累々たる《死》を用意せざるを得なかったとしてもだ、《実体》も《反体》も《反=生》も《反=死》も結局は《存在》してしまふことでその《存在》は全く報はれないのじゃないかね? 而も、己の《存在》を維持するのに《他》の《死》が必須と来てりゃあ、全く何をか況やだ。

――それでも《存在》は《死》するまで《存在》を止められない。

――さう仕組んだのは《神》自身、即ちこの宇宙自体だらう? 

(廿九の篇終はり)





蟻地獄 四



 高気圧の縁を高気圧からの、若しくは自己以外の外部の風に流されるままにしか動く外ない颱風は、一方で颱風内部では猛烈な風雨が渦巻く颱風のその動きは、しかし、如何見ても颱風が自律的に動いてゐるとしか見られない私の心模様を映す形で《無言》の《神》に対峙する《吾》は、自己内部の猛烈な風雨に比べると羸弱(るいじゃく)でしかない外部のその風に流されてゐるに過ぎない颱風が恰も自律的に動いてゐるやうに見えてしまふ如く、《神》から《自由》を与へられてゐる錯覚の中に、換言すれば、《神》から吹く心地良き風には無知を装ひその風を風ではなく敢へて《自由》と名付けては嬉々として、その《自由》を満喫するべく更なる《自由》を求めることで返って颱風の如く外部から吹き寄せる微風に過ぎぬ《自由》に呪縛されてゐるにも拘はらず、さうとは全く気付かなかった《吾》自身が単なる外部の心地良き微風に過ぎぬ《自由》に流されてゐるだけといふ錯誤の中に憩ってゐる大馬鹿者に過ぎないことに不意に気付いてしまふと、《吾》といふ生き物は狼狽(うろた)へるのである。その狼狽へ方は数の力を借りると此の世で最強な《存在》にも拘はらず、しかし、蟻地獄に落ちると羸弱な《単独者》に為り果てて、正に一匹の羸弱な蟻に変化してしまふ如き《存在》なのであった。

 経験則に照らすと《自由》を謳歌するには蟻地獄に落ちた《単独者》たる一匹の羸弱な蟻になる覚悟が《何か》によって強要される。それは台風の進路を予測するのに隣り合ふ高気圧のことを全く考慮せずに台風の進路を予測するといふ、換言すれば暗中の中を灯り無しに突っ走る《愚行》と同じことなのかもしれないのである。つまり、颱風が自律的に自身の意思で動いてゐると看做す《暗愚》とそれは同じで、しかし、さうとはいへ、それでも尚颱風が自己たる《吾》の意思に従ってあくまで自律的に動いてゐると看做して只管(ひたすら)自己弁護する哀れな《吾》を主張するはいいが、しかし、その実、後に残るのは只管自身内部で空転し猛烈な風雨が逆巻く己の有様だけに対峙する世界=内に閉ぢてしまった阿呆な《存在》の姿である。そしてそんな颱風の《自意識》は絶えずこんな愚問を己に発してゐる筈である。

――はて? この渦に呑み込まれる《吾》とは、一体何なのであらうか? 

と。例へば仮に颱風にも自身を客観視して已まない《異形の吾》若しくは《対自》といふ自我が芽生えてゐるならば、その《異形の吾》は、自身が最早自身が渦巻くその渦から決して出られない、恰も蟻地獄に落ちた蟻の如き自身を苦笑する外ないのである。此処で止揚などといふインチキを用ひるのは禁物である。未だ嘗て《吾》から出られた《吾》は此の世に《存在》することを許されてゐない筈だからである。さうならば、颱風もまた己からは死んでも遁れられない《異形の吾》といふ何とも悩ましい自我を抱へ込まざるを得ないのである。

――出口無し――。

 これが《異形の吾》が自身に発せられる唯一の言葉に違ひない。それは当然至極なことである。《吾》といふ《存在》は、それが何であれ、《吾》といふ《存在》から決して出られない故に、《吾》が《吾》である保証、若しくは存在根拠を辛うじて維持してゐられるのである。仮令《吾》が《他》に変化出来る魔法を《吾》が手にしたところで、結局のところ、《他》に変化せし《吾》は《吾》でしかないのである。

《吾》とは、《吾》が《吾》であることを自覚させられ、また、その出自の如何に拘はらず、《吾》は蟻地獄に落ちた一匹の蟻の如く《吾》といふ《場》から最早永劫に出られぬことを決定させられた《存在》なのかもしれない。そんな《吾》はその《存在》の、若しくは意識活動の大半を《異形の吾》の憤懣を宥(なだ)めすかすことに費やされることになるのである。その因の一部は「他人の庭はよく見える」といふ喩へ通り《他》と己を比較することからも生じるが、しかし、さうとはいへ、己といふ《存在》が自身の《存在》に満足することはあり得ず、仮に自身に満足してゐる《吾》が《存在》するとすれば、それは《吾》の怠慢でしかない。《吾》と名指された《存在》は絶えず内外から自身の《存在》を喪失するかもしれぬ恐怖に苛まれながらも《吾》を此の世に屹立させて、だがその《存在》の仕方は《吾》といふ《存在》の自棄のやんばちでしかないが、しかし、何としても自身の《存在》を崩壊の危機から救ふべく《吾》は此の世に対して、若しくは《神》に対して

――《吾》、此処に在り! 

と叫ばずにはゐられないのである。だが、一方で

――その《吾》に何の意味がある? 

と、更にぼそっと胸奥で呟く《吾》がまた《存在》するのである。スピノザ風に言へば、そのぼそっと呟いた《吾》がまた《吾》の胸奥の奥の奥に《存在》する、そして、《吾》にぼそっと呟く胸奥の奥の奥の奥の別の《吾》といふ関係が《無限》に続く、云々。それ故その《吾》とはabsurb、つまり、不合理である、と、其処で《無限》といふ《もの》へと思考の飛躍に駆られたくなる衝動もなくはないが、しかし、幾ら

――その《吾》に何の意味がある? 

と、胸奥でぼそっと呟く《吾》が《存在》しようとも、《吾》は《吾》からは逃げ出せないのである。そしてまた、

――だからそれが如何したといふのか? 

と、自身を嘲笑ふ《吾》もまた己には《存在》し、絶えず己を嘲笑してゐるのである。そな《吾》を嘲笑する《吾》自身を敢へて規定するならば、一人称でもあり、二人称でもあり、三人称でもあり得るし、更に言へば、《四人称》と名付けたくなる《脱自》すらをも何なく飛び越えてしまふ《存在様式》を持つ《吾》が《単独者》として《存在》してしまふ宿命にあるのかもしれない……。

 そして、その《四人称》の《吾》とは颱風の如く自身の内部では猛烈な風雨が逆巻く自身の渦に呑み込まれた何とも摩訶不思議な《存在》の仕方をする《吾》であり、此の世で最強の《もの》のなれの果てたる蟻地獄に落ちた一匹の羸弱な《単独者》たる蟻の如き《もの》として私には表象若しくは形象されるのであった。

(四の篇終はり)





幽閉、若しくは彷徨 廿八



――へっ、仮令この《自然》が、若しくはこの宇宙が、その開闢(かいびゃく)の時に戻ってその最初の最初から己自身を創り直したところで、自同律の陥穽からは遁れられない! 

――何? すると自同律は《存在》以前に既に《存在》するといふのか? 馬鹿が――。

――だから《未存在》と言ってゐるのさ。

――例へば《生》は《反=生》を《夢想》し、《死》は《反=死》を《夢想》すると看做せば、《生》と《死》が《存在》する此の世のその《生》と《死》の間(あはひ)にぽっかりと大口を開けた《パスカルの深淵》があるやうに、《反=生》と《反=死》を《夢想》せずにはゐられぬ《未存在》の世界にも此の世の《パスカルの深淵》の如き《深淵》がばっくりと大口を開けてゐると確かお前は言った筈だが、その《深淵》を棲処とする《未存在》はさうすると、既に《未存在》として《存在》、否、《未存在》してゐると? 

――下手なTautology(トートロジー)、つまり、類語反復みたいな無意味な論理立ては止めた方がいいぜ。先にも言ったが、此の世に《死》が《存在》する限り《未存在》は既にあると看做した方が《自然》だぜ。

――《死》が《死》自ら何かへの《夢想》をする故にか? ふっ、《死》こそ闇の中にじっと蹲って《未存在》を《夢想》する……か……。《存在》の何と哀れなことよ! 

―― 否、《存在》はこれっぽっちも哀れな《もの》である筈がない! 自分可愛さに《存在》する《もの》を憐れむことは《存在》にとって最も愚劣極まりないことで、而もそれは《存在》にとって屈辱以外の何ものでもない。その憐れみは《存在》に対しても《死》に対しても《未存在》に対しても失礼千万この上なしだぜ。ちぇっ、《存在》が《存在》を憐れむこと程気色悪いことはない! 

――だが、その気色悪いのが此の世の在り来たりの様相ではないか? 

――さうさ。だから、《存在》は《存在》に我慢がならず、《自然》は《自然》であることに我慢がならぬのだ。その象徴が《神》ではないかね? 

――《神》はその出自からして呪はれてゐると? 

――違ふかね? 

――さうするとだ、《神》もまた《存在》の塵箱だといふことか――。

――へん。《存在》の塵箱の何処が悪いのかね? 塵箱で結構ではないかね? 《存在》の塵箱とは詰まる所、闇と同義語じゃないかね? 

――闇ね……。しかし、その闇こそ闇であることに最も我慢がならぬのじゃないかね? 

――ふっふっ、その通りだ。闇は闇であることに我慢がならない。だが、さうだからこそ《存在》はやっと《存在》たることに我慢してゐるのじゃないのかね? 「闇にはなりたくない!」とね。

――へっ、己が《皮袋》内部に闇を持ってゐるくせに、「闇にはなりたくない!」とほざくこの《存在》の傲慢さは、果たして、何処にその淵源があるといふのか――? 

――その答えは簡単明瞭さ。《現在》が《存在》する故にさ。

――へっ、独り《存在》のみが周囲を《過去》若しくは《未来》に取り囲まれてぽつねんと《現在》に取り残されてゐると、《存在》は本能的に、或ひは無意識に感じてゐる、若しくはさう思ひ込まざるを得ないからか? 

――なあ、《過去》にも《未来》にもゐられず、絶えず《現在》にゐ続ける外ないこの《存在》の有様は、残酷極まりないと思はないかね? 

――それがこの宇宙の悪意の一つであると? 

――悪意でなくて何とする! 

――しかし、《現在》に取り残された《存在》は《現在》に取り残されてゐるが故に《過去》と《未来》を自在に交換してゐるぜ。《過去》に《未来》を見、《未来》に《過去》を見てゐる。

―― ふっふっふっ。其処さ。因果律は《現在》に取り残された《皮袋》といふ《存在》の在り方をする《主体》においては、つまり、《主体》が必然的に隠し持たざるを得ぬ内なる闇の《特異点》では既に因果律が壊れてゐる此の世の有様に目を瞑って、《存在》はその因果律が壊れてゐるにも拘らず尚も時間を一次元的に閉ぢ込めて得意然としては、此の世の何かが少しでも解明出来たと思ひ込みたくて仕様がないくせに、はっ、しかし、《存在》は此の世を一向に直視しようとしない。それは何故だと思ふ? 

――《時間》に怯えてゐるからか……? 

(廿八の篇終はり)








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