虚妄の迷宮 十

幽閉、若しくは彷徨 三十五



――つまり、多神教の神々は或る時には地上に舞ひ降り《主体》たる《もの》達と戯れ遊ぶが、一神教の神は天上に坐(おは)したまま決して地上になんぞ舞ひ降りぬ、換言すると《主体》たる《もの》達とは超越した《存在》として此の世に坐すといふことか? 

―― 一言で言へば、多神教の世界像には数多の宇宙が《存在》してゐることを何となく前提にしてゐると思はれるが、つまり、この宇宙には涯があって《他》の神々が坐す《他》の宇宙の《存在》を暗示するが、一神教の世界像においてこの宇宙は涯無き《もの》として何処までもこの宇宙のみが茫洋と拡がるばかりの《吾》しかゐない、へっ、《主体》の化け物が出現してしまふおっかない世界像なのさ。

――一神教の世界像がおっかない? 《主体》の化け物? 

――多神教の世界像は《他》の《存在》無くしてはあり得ぬが、一神教の世界像には《他》の《存在》が究極のところでは否定される運命にあるおっかない世界像なのさ。

――否、一神教の世界像にも《他》は《存在》可能だぜ。

――しかし、その《他》は詰まる所、《吾》の鏡像でしかない。《主体》における《他》は即ち神へと一気に飛躍しちまふ怖さが一神教にはそもそも《存在》するといふことが、お前にも解かるだらう? 

――つまり、一神教においてのみ狂信者は出現すると? 

――多神教でも神々が序列化されて、その位が固定化すれば狂信者は出現するぜ。

――さう言へば多神教においての階級社会は酷いものだな。

――それは《主体》が何時でも化け物と化す怖さを知ってゐた所為さ。

――すると、《主体》は如何あっても神によって馴致されなければ化け物に化すとんでもない代物といふことか? 

――ああ。人類を例に出せば、人類は《主体》の悍(おぞ)ましさを既に嫌といふ程に知ってゐる筈さ。

――それはドストエフスキイか? 

――それにヒトラーさ。スターリンさ。この国の天皇を一神で絶対の現人神(あらひとがみ)と崇めて絶対化する天皇絶対主義者さ。へっ、《主体》の化け物の類例には枚挙に暇がないぜ。

――しかし、ちぇっ、神に圧制される方が良いのか、化け物と化した《主体》に圧制されるのが良いのか――。

――それもこれも全て一神教での話さ。

――それは何故かね。

――多神教の世界では、神々のみで既に世界は完結してゐると先に言ったが、つまり、多神教の世界には《主体》の《存在》は元々無いのさ。其処に此の世に如何した訳か生まれ落ちてしまった《主体》は神々が創り維持する世界にお邪魔する。

――はっはっはっ。世界にお邪魔するだと? 

――別に可笑しかないぜ。元来《主体》とは世界にお邪魔するといふ作法において此の世に《存在》することを許される《もの》さ。

――へっ、神に許される――か――。

――否、神々が坐す世界自体にさ。

――つまり、《主体》が世界に《存在》するには、それなりの《存在》の作法があると? 

――諸行無常たることを已められぬ、つまり、絶えず己に不満を抱いて《他》若しくは《異》へと変容するこの世界=内に《存在》する以上、《主体》たる《もの》は、絶えず自同律を突き付けられる以外に此の世界に《存在》することは許されぬのさ。

――既にドストエフスキイが、その煩悶とする《吾》を描いてゐるか――。

――否、世界はその開闢の時に既に自同律の問題に直面し呻吟した筈さ。さうでなければ、時が移らふ諸行無常なる世界なんぞ創生などされる筈はない! 

――へっへっへっ、世界じゃなく神自体が自同律の問題に今も懊悩してゐるんじゃないかね? 

――ふっ、さうさ。これは愚問だが、お前にとって神とはそもそも何かね? 

――重力と時間さ。

――重力と時間? 

――どちらも計測は出来るが、ちぇっ、その計測の仕方が人間の、否、《主体》の思考法を鋳型に嵌め込んだだけに過ぎぬが、へっ、つまり、どちらも計測は出来るがその因は未だに不明だからさ。

(三十五の篇終はり)





蟻地獄 五(完)



 さて、四人称の《吾》とはそもそも一体何であらうか。答へは単純明快である。此の世を五次元多様体と想定すれば、四人称の《吾》が登場せずにはゐられないである。更に言へば、頭蓋内の闇を五次元の五蘊場と想定すれば、四人称の《異形の吾》はこの五次元の《吾》に巣食ひ、頭蓋内を六次元の五蘊場と想定すれば五人称の《異形の吾》がこの六次元の《吾》に巣食はざるを得ないである。そして、その四人称の、そして、五人称の《異形の吾》こそ擂鉢状の蟻地獄の形状をした穴凹としてのみ《吾》には絶えず形象されてしまふのである。今現在《主体》が四次元時空間に事実《存在》してゐるとすれば、その《主体》は例へばBlack hole(ブラックホール)を形象するのにやはり擂鉢状をした底無しの穴凹を形象せずにはゐられぬこととそれは同一のからくりに違ひないのである。つまり、吾等の思考法は、詰まる所、世界内の《主体》のそれでしかなく《主体》以外の思考法が想像だに出来ない《主体》の思考の限界若しくは宿命と呼ぶべき、《主体》のど壺にすっぽりと嵌まって其処から永劫に脱することなき《主体》といふ《単一》な思考法のことなのである。それ故《主体》即ち《吾》にとって《他》は絶えず宇宙の涯をも想像させる超越者としてしか出現しないのである。否、《他》は超越者としか出現の仕様が無いのである。そして、《他》は依然として謎のまま《主体》の面前に姿を現はすが、《主体》たる《吾》は、実のところ、《吾》の反映としか理解出来ない《他》に特異点を見出してしまふ筈である。否、《主体》たる《吾》は《他》に特異点を見出さなければならぬのである。それは詰まる所、《他》を鏡とする外ない《主体》たる《吾》にとってその《吾》は如何あっても無限を憧れざるを得ない故にその内部に特異点を隠し持ち、その《吾》にある特異点こそ何を隠さう蟻地獄状の穴凹としてぽっかりと大口を開けた《もの》として絶えず《主体》は形象することになるのである。パスカルはそれを「深淵」(英訳Abyss)と言挙げしたが、《主体》が《存在》するには絶えずその深淵と対峙することが課されてゐるのである。そしてそれは口を開いた穴凹として形象せざるを得ず、万が一にもその穴凹の口を塞いでしまふと、《主体》は《実存》といふ《閉ぢた存在》でしかない《存在》の罠にまんまと引っ掛かってしまふのである。

 《主体》は宇宙史の全史を通して穴凹が塞がりこの宇宙から自存した《存在》として出現した例は今のところ無い筈である。眼窩にある目ん玉の瞳孔を通して外界を見、鼻孔を通して呼吸をし、口を通して食物を喰らひ、肛門を通して排便をし、生殖器を通して性行為をする等々、《主体》は必ず外界に開かれた《もの》として此の世に現はれるのである。つまり、《主体》はこれまで一度も穴凹が塞がれた《単独者》であったことはなく、《主体》自らが穴凹だらけといふばかりでなく、外界たる世界もまた《客体》即ち《他》といふ特異点の穴凹だらけの《もの》として《主体》には現はれてゐる筈なのである。そして《主体》にとっては内外を問はず深淵たるその穴凹に自由落下する方が《楽(らく)》なのもまた確かなのであるが……。

…………

…………

 さて、翌日、小学校から帰った私は一目散に例の神社へと向かったのであった。其処で幼少の私は先づ何故蟻地獄が高床の神社のその床下の乾いた土の、それも丁度雨が降り掛かるか掛からぬかの境界に密集してゐるのかを確かめた筈である。そして、私は、蟻地獄が密集してゐるその方向の数メートル先に桜の古木が立ってゐるのを認めたのであった。幼少の私は多分、何の迷ひもなくその桜の古木に歩み寄り、そして蟻の巣を探した筈である。案の定、その桜の古木の根元には黒蟻の巣の出入り口があり、絶えず何匹もの黒蟻がその出入り口を出たり入ったりしてゐるのを見つけたのであった。

――やはり、さうか。

 蟻地獄が雨が降り掛かるか掛からぬかの境界辺りに密集してゐたのは自然の摂理――これは一面では残酷極まりない――としての生存競争故の結果に過ぎなかったのであった。そして、幼少の私は其処で黒蟻を一匹捕まへて蟻地獄が密集してゐる処に戻ったのである。次にざっと蟻地獄の群集を見渡し、その中で一番穴凹が小さな蟻地獄に捕まへて来た黒蟻を抛り込んだのである。

――そら、お食べ。

 擂鉢状の穴凹の底からちらりと姿を現はした蟻地獄は、果たせる哉、昨日目にした蟻地獄とは比べものにならぬ程、小さな小さな小さな姿を現はしたのである。その小さな蟻地獄は高床下の最奥に位置してゐたに違ひなく、私は、その小さな蟻地獄が黒蟻を挟み捕まへて地中に引き摺り込む様をじっと凝視してゐた筈である。

――そら、お食べ。

 後年、梶井基次郎の「桜の樹の下には」に薄羽蜉蝣(うすばかげろふ)の死骸が水溜りの上に石油を流したやうに何万匹もその屍体を浮かべてゐるといふやうな記述に出会ってからといふもの、桜を思へば蟻地獄も必ず思ふといふ思考の癖が私に付いてしまったのは言ふ迄もないことであった……。

(完)



幽閉、若しくは彷徨 三十四



――仮令、論理的飛躍に錯覚や幻視が必要だとしても、其処ではきちんとした手順を踏んでゐないと滅茶苦茶な論理ばかりが跋扈するとんでもない事態が到来するぜ。

――其処さ。《主体》は傍から見ればそれが滅茶苦茶な論理であってもそれを滅茶苦茶な論理とは決して看做せないから、結局のところ滅茶苦茶な論理ばかりが世に蔓延るのではないかね? 

――ふっ、例えば狂信者の類か? 

――さう。狂信者は傍から見れば矛盾だらけの滅茶苦茶な論理を全き真理として盲信する。それは何故かね? 

―― その問ひに答へる前に一つ尋ねるが、お前は傍から見ればと言って済ませてゐるが、狂信者の信ずる《もの》が滅茶苦茶な論理であるとさう判断するそのお前の判断根拠は、つまり、一体全体お前は何処に依拠して滅茶苦茶な論理であると判断を下せるのか? それは言ふなれば、或る種の《主体》が《主体》といふ《存在》を伝家の宝刀の如く振り翳(かざ)す傲慢といふ行為ではないのか? 

――つまり、お前は、その判断根拠は、《主体》たる《もの》は大概相対的な処にゐる故に《主体》の判断根拠は相対的な《もの》に過ぎぬと言ひたいのだらう? 

――へっ、罠を張ったな。

――罠? 

――相対的といふ名の罠だ。

――《主体》の《存在根拠》を相対化することが罠か? 

――ああ。軽々に相対的といふ言葉は遣はない方がいいぜ。

――それはまた何故に? 

―― 《主体》の《存在根拠》を相対化することは、即ち《主体》をどん詰まりの《単独者》へと追ひ込む罠に過ぎぬからさ。相対的といふ言葉は《主体》の耳には心地良く響くが、その実、相対的とは、《主体》の尻は《主体》自身で拭へといふ自閉した《自己責任》といふ呪縛に閉ぢ込めたただけのどん詰まりの《単独者》といふ《主体》を大量生産する《存在》の《鋳型》に過ぎぬのさ。

――しかし、《他》が《存在》する以上、《主体》は相対化せざるを得ぬ運命にあるのではないかね? 

――それじゃあ、また一つ尋ねるが、人間は人間以外の生き方を相対的に選択できるのかね? 

――うむ……。ちぇっ、人間はそれが喩へどんな生き方にせよそれが人間ならば人間以外の生き方を相対的に選択する余地など全くない! しかし……。

――しかし、何かね? へっ、相対化することの馬鹿らしさの一端が解かるだらう? 

――それじゃあ、その裏返しとして、絶対の真理があるといふのか? 

――いいや、絶対の真理なんぞありゃしない! 此処でまた一つ尋ねるが、お前は《他》が《存在》して初めてお前自身の《存在》を認めるのかね? 

――いいや、決して。《他》の出現以前に、それは多分母親の母胎の中の自在なる羊水の中にゆらゆらとたゆたふ時に既に《吾》は《吾》の《存在》を言葉未然に感覚的に知って仕舞ってゐる筈さ。つまり、《吾》は「先験的」に《存在》しちまってゐるのさ――。

――だからといって《吾》を《他》に対して絶対化する根拠は尚薄弱だぜ。否、相対化かな? 

――しかし、《吾》とは《吾》の《存在》をそもそも絶対化若しくは相対化したくて仕様がない生き物ではないのか? 

――へっ、絶対化にせよ相対化にせよどちらにせよ、それは、詰まる所、《吾》が《吾》である責任を免れたいだけに過ぎぬことだらう? 

―― お前は単刀直入に、自同律から逃げることで《吾》といふ《存在》が自身の《存在》の責任を神に委ねて回避してゐるに過ぎぬと言ひたいのだらうが、如何足掻いたところで《一》は《一》を、つまり、《吾》は《吾》であることを強要される。また、《吾》が《吾》であることを強要されることで辛うじて世界は秩序を保ってゐるのさ。

――へっ、《吾》がどん詰まりの《単独者》として《他》に対して絶対化若しくは相対化されたところで、それは一神教の世界像の中でのことでしかないぜ。

――ん? それは如何いふ意味かね? 

――一神教の世界像では《一》は何処まで行っても一神たる偉大な神と一対一で対峙する《一》でしかない。でなければ一神の下では《平等》はあり得ぬからさ。

――多神教の世界像でも《一》は何処まで行っても《一》でしかないのではないのかね? 

――へっ、多神教の世界像では《一》は変幻自在だ。

――変幻自在? その根拠は? 

――多神教の世界像では究極のところでは、《主体》が《存在》してゐようがゐまいが、神々さへ《存在》してゐれば世界は既に自存してゐるからさ。

――つまり、多神教の世界像において《一》たる《主体》は無にも無限にもなり得ると? 

――へっ、違ふかね? 

――だから零といふ概念は印度で発見されたと? 

――へっ、違ふかね? 

――しかし、それでも尚、多神教の世界像において《一》たる《主体》が変幻自在たる根拠は薄弱だぜ。

――端的に言へば多神教の世界像において《一》たる《主体》は神々と伍することが可能なのさ。そして、一神教では《一》たる《主体》は神と対峙はするが伍することはあり得ぬのだ。

(三十四の篇終はり)





黙劇「杳体なるもの」 五



――つまり、死後の《私自身》の幻が神の幻影といふことか? 

――否! 死後の《私自身》ではない! 朧に頭蓋内の闇に浮かぶ彼の世にゐる《私自身》といふ幻影さ。

――へっ、彼の世の《私自身》といふ幻影と死後の《私自身》の幻影と如何違ふ? 

――へっへっへっ、正直に言ふと何となくそんな気がするだけさ。しかし、彼の世は彼岸を超えた或る表象以上には具体化出来ぬが、死後は《私自身》がゐないだけの世界が相変はらず日常として続く《他》のみが《存在》する具体的な世界像さ。

――それでも詰まる所は唯何となくそんな気がするだけか? 金輪際までその直感を詰めると何となくで済む問題か? 

――へっへっへっ、済むんじゃなくて済ませちまうのさ。

――随分、強引だね。

――論理的飛躍をするには強引に済ませちゃうところは強引に済ませちまへばいいのさ。

――しかし、論理的飛躍なんぞそもそも誰も望んでゐないのじゃないかね? 

――だからこそ、その論理的飛躍の最初の一歩をお前が踏み出すのさ。それ! 《杳体》と《重なり合って》みろ! 

――これまた愚問だが、そもそも《杳体》と《重なり合ふ》とは如何いふことかね? 

――へっへっへっ、何度も言ふやうだが、《杳体》と《主体》が《重なり合ふ》とは無と無限の間を揺れ動くことさ。

――それも振り子の如くね……。しかし、《主体》が《杳体》と《重なり合ふ》必然性があるとは如何しても思へぬのだが……。

――何を馬鹿なことをぬかしをるか! 必然性もへったくれもない処まで《主体》は追ひ詰められてゐるんだぜ。

――何に追ひ詰められてゐるといふんだね? 

――《主体》自体にさ。

――《主体》が《主体》を何処に追ひ詰めるといふんだね? 

――《存在》の縁さ。

――《存在》の縁? 

――さう。既に《主体》は《主体》自らによって《存在》の縁に見事に追ひ詰められた。後は《存在》の行き止まり、つまり、《存在》の断崖へと飛び込む外ない。

――《存在》の断崖だと? 

――ふっふっふっ、例へば、今現在《主体》はその居場所にちゃんとゐると思ふかい? 

――いいや、ゐるとは思へぬ。

――するとだ、《主体》は《主体》の居場所から追ひ出されてしまったといふことだ。つまり、《存在》の断崖の縁ぎりぎりの処へと追ひ詰められてしまったのさ。

――《主体》自らかが? 

――さうさ。《主体》自らが《主体》を《存在》の断崖へと追ひ詰めたのさ。後は《主体》の眼下に雲海の如く《杳体》が杳として知れずに拡がってゐるだけさ。そら、その眼下に拡がる《杳体》へ飛び込め! 

――馬鹿も休み休み言へ。飛び込める筈がないじゃないか! 

――哀しき哉、我執の《吾》の醜さよ。

――ちぇっ、《吾》が我執を捨てちまったならば《吾》は《吾》である訳がない! 

――何故さう思ふ? 我執無き《吾》もまた《吾》なり。有無を言はずにさっさと飛び込んじまふがいいのさ。

――簡単に飛び込めとお前は言ふが、杳として知れぬ中へともんどりうって飛び込む程《主体》は頑丈には出来てゐないんだぜ。

(此処で別の異形の《吾》が登場)

――ぶはっはっはっ。下らない! 実に下らない! 

――お前は誰だ! 

――お前に決まってをらうが!

――ちぇっ、また「異形の《吾》」か……。さて、そのお前が《吾》等に何用だね? 

―― お前らの対話はまどろっこしくていけない。其処のお前はお前で《杳体》の何ぞやを頭で考へる前に、己を一体の実験体として《存在》の前に差し出して、《存在》の断崖に拡がってゐる雲海の如き《杳体》に飛び込んじまへばいいんだよ。そして、もっ一方のお前は、もっとはっきりと《杳体》を名指し出来ないのか? 

――ふっ、馬鹿が――。《杳体》は杳として知れぬから《杳体》なのであって、それを明確に名指し出来れば此方も《杳体》なんぞと命名してゐなかったに違ひないんだ。

――何一人合点してゐるんだい? かう言へねえのかい? 「《存在》は既に杳として知れぬ不気味な《もの》へと変容しちまった」と。

(五 終はり)





幽閉、若しくは彷徨 三十三



――一つ尋ねるが、《死体》はお前の言ふ処の《一》かね? 

――ふむ、《死体》か……。ふっふっふっ、多分、《一》の成れの果てだらう。

――《一》の成れの果て? 

――つまり、《一》の成れの果てとは《一》の零乗のことに外ならないに違ひない筈さ。

――《死体》が《一》の零乗とは初耳だが、それではその根拠は如何? 例へば《死体》が《一》の二乗ではいけないのかね? 

――正直に言ふと、数字の上では《一》の零乗と二乗の差なんかありはしない。しかし、何となく零乗に《死》の匂ひが漂ってゐるとしか俺には解釈できなかっただけの事に過ぎぬ。つまり、それは単なる直感に過ぎぬのだ。しかし、この直感といふものは侮り難い代物だ。

――それでお前は《一》の零乗に何となく《死》の匂ひを感じたと? それはまた何故に? 

――零乗だぜ。単純化して言ふと、正数の零乗は全て《一》に帰すんだぜ。これが《死》でなくて何とする? 

――つまり、《死》は《存在》に平等に与へられてゐる、ふっふっふっ、裏を返せばそれは《慈悲》といふことかね? 

―― 《慈悲》ね……。多分、さうに違ひない……。此の世に《存在》しちまった《もの》には全て平等に《死》といふ《慈悲》が与へられてゐる――か! へっ、如何あってもこの《死》といふ平等が、全ての《存在》を指し示す正数といふ《存在》の零乗が《一》に帰すことと同義語だと看做せるだらう? そして、《一》といふ《単独者》といふ幻影に苛まれながら、自同律といふ不愉快極まりない《存在》の在り方を強要された《もの》達は、己が《一》=《一》といふ呪縛から最早遁れなくされて仕舞ふ。そして、一生といふ生を一回転した時に己は《死》を迎へる。俺にはこの生の一回転が即ち零乗に見えてしまったのさ。

――しかし、それは非論理的だぜ。

――へっ、《死》がそもそも非論理的ではないのかね? 

――うむ。

―― 更に言へば、《存在》そのものが非論理的で不合理極まりない《もの》ではないのかね? ふっふっふっ、論理的といふのは、その論理の対象となった《もの》が既に《死体》といふ非論理的な《もの》と成り果ててゐて、つまり、論理的なるといふことは、先験的に非論理的な《死》を包含した《死に体》としてしか論理として扱へぬといふ、論理的なるものの限界を論理的に露呈してゐるに過ぎぬとは思はないかい? 

――はっはっはっ。論理的なことが既に論理的なることの限界を露呈してゐるとは――。しかし、《存在》は何としても世界を論理的に認識したくて仕様がない。

――《存在》はそもそもからして矛盾してゐる《もの》さ。さうでなければ《存在》は一時も《存在》たり得ない。

――つまり、それを単純化すると矛盾を孕んでいない論理は、論理としては既に失格してゐて、それを唾棄したところで何ら《存在》に影響を及ぼさないといふことかね? 

――ああ、さうさ。端的に而も独断的に言へば此の世に数多ある論理的なる《もの》の殆どは役立たずさ。

――それでは、例へば、量子論に出くはしたことで人間は論理的なることが《死に体》しか扱ってゐないことに漸くだが、ちらりと気付き始めた……かもしれぬと考へられはしないかい?  

――否! 今もって人間は論理的な世界の構築に躍起になってゐる。

――しかし、それは《死に体》の世界に過ぎぬと? 

――ああ。論理的な世界の認識法の中に《主体》はこれまで一度も生きた《主体》として登場したことはなかった……。つまり、《主体》は解剖された《死体》としてしか論理の中には登場出来なかったのだ……。

――ふっ、それは当然だな。だって《主体》は絶えず生きてゐる《もの》だもの。生きてゐるとは即ち非論理的なことだぜ、へっ。

――其処で愚問をまた繰り返さざるを得ぬが、その《主体》とは一体全体何のことかね? 

――ふっ、己のことを《吾》と名指してしまふしかない哀しい《存在》全てのことさ。

――へっへっへっ、かうなるとまた、堂々巡りの始まりだな。

――へっ、論理的とはそもそも堂々巡りを何度も何度も繰り返さないことには、論理的飛躍が出来ぬやうに出来てゐるのさ。

――また、やれ《反体》だ、やれ《反=吾》だ、やれ《新体》だ、等々の繰り返しかね? 

――ああ、さうさ。

――しかし、それでは出口無しだぜ。

――否! お前には今この堂々巡りの自問自答の《回転》する論議の中にその《回転》の方向に垂直に屹立する、つまり、この回転する自問自答の回転軸方向に論理的なる《縄梯子》が仮初にも屹立してゐるのが見えぬのか? 

――《論理的縄梯子》? それは蜃気楼若しくは幻影と似た《もの》かね? 

――蜃気楼若しくは幻影と言へばそれはさうに違ひないが、へっ、論理的な飛躍といふのは、元来錯覚若しくは幻視無くしてはあり得ぬと思はぬか? 

(三十三の篇終はり)





水際 五



――ああ、醜悪極まりない! 《吾》が質量零でしか決して成し遂げなれぬ光速度までに加速し続けながら《パスカルの深淵》を自由落下した挙句の果てに、《吾》が《吾》に尚もしがみ付くことに、はて、何の意味がある? 

――しかし、《吾》とはそれでも《吾》であり続けたい《存在》ではないのかね? 

――《吾》が地獄の別称でしかないとしてもかね? 

――ああ。《吾》たる《もの》は飽くまで《吾》にしがみ付く筈さ。

――さて、その根拠は? 

――《吾》の外に《他》が《存在》するからさ。

―― 宇宙の涯を其処に見出さずにはゐられぬ《他》が《存在》するが故に、《吾》が《吾》にしがみ付くといふ愚行において、さて、《パスカルの深淵》を自由落下し続けた果てに光となりて此の世に遍在可能な《存在》へと変化してゐるに違ひない《吾》をその《吾》が解脱せずして、何が《存在》から解脱するといふのか? 

――へっへっへっ、《吾》さ。

――はて、《吾》は尚も《吾》にしがみ付くのじゃないかね? ふっふっふっ。

――《パスカルの深淵》を自由落下し続けて光速度を得た《吾》はその刹那、此の世から蒸発するが如く《発散》し、それでも尚《吾》は《吾》にしがみ付くのだが、しかし、《吾》は否が応でも《吾》から引き離される。

――つまり、《吾》といふ《状態》と《反=吾》といふ《状態》が《重ね合は》されると? 

―― さうさ。《吾》は、二重、三重、四重、五重等々、多様な、ちぇっ、それを無限と呼べば、その無限相を自在に《重ね合は》せては、その一方でまた自在に《吾》を《吾》から《分離》させる魔術を手にした《吾》は、《吾》にしがみ付きつつも此の世に遍在するといふ矛盾を可能にするその無限なる《もの》を、自家薬籠中の《もの》にする。

――へっ、無限ね? それを無限と呼ぶのはまだ早過ぎやしないかね? 

――では何と? 

――虚無さ。

――虚無? 

――端的に言ふと、《吾》が《吾》であって而も《吾》でない《吾》といふ《もの》を形象出来るかね? 

――ふむ。《吾》であって《吾》でない《吾》か……。ふっ、しかし、《吾》とは本来さういふ《もの》じゃないかね? 

――ふっふっふっ。その通りさ。《吾》とは本来さういふやうに《存在》することを強要される。まあ、それはそれとして、さて、その虚無の《状態》である《吾》の《個時空》が如何なる《もの》か想像出来るかい? 

――《個時空》は普遍的なる《時空》へと昇華してゐる筈さ。

――つまり、此の世全てが《吾》になると? その時《他》の居場所はあるのかね? 

――……《吾》と……《他》は……つまり……《重なり合ふ》のさ。

――それは逃げ口上ではないのかね? 

――へっ、つまり、《吾》と《他》は水と油の関係の如く《重なり合ふ》ことなんぞ夢のまた夢だと? 

――ああ、仮令、《吾》と《他》が《重なり合っ》たとしても、結局、《吾》は飽くまで《吾》のままであって《他》にはなり得ぬ。

――それで構はぬではないか? 

――構わぬ? 

――断念すればいいのさ。「《吾》は何処まで行っても《吾》でしかない」とね。

――それは断念かね? それは我執ではないのかね? 

――我執で構はぬではないか? お前は《吾》に何を求めてゐるのかね? 

――正覚さ。

――正覚者が《吾》であってはいけないのか? 

――いいや、別に《吾》であっても構はぬが、しかし、……。

――しかし、何だね? 

――《吾》が虚妄に過ぎぬと《吾》が《吾》に対して言挙げして欲しいのさ。

――別にそれは正覚者でなくとも可能ではないかね? 

――ああ、その通り、正覚者でなくとも簡単至極なことだ。しかし、《吾》なる《もの》を解脱した正覚者が、「《吾》は虚妄の産物に過ぎぬ」と《吾》に対しては勿論のこと、《吾》を生んだこの悪意に満ちた宇宙に対して言挙げして欲しいのさ。

――それは何故にか? 

――《吾》自体が虚妄であって欲しいからさ。

――《吾》自体の虚妄? 

――最早《吾》が虚妄でなければ、《吾》は一時も《吾》であることを受け入れられぬからさ。

――それは《吾》が《吾》に対して怯えてゐるといふことかね? 

(五の篇終はり)





幽閉、若しくは彷徨 三十二



――《吾》が《現在》に置いて行かれる事は哀しい事なのかな? 

――ふむ。といふと? 

――唯単に、世界の《個時空》、例へばこの地球の《個時空》と《吾》の《個時空》の帳尻が合はないだけに過ぎぬのじゃないかね、この《吾》が絶えず《現在》に置いて行かれるといふのは? 

――それも一理あるが、しかし、《吾》の《個時空》と《他》の《個時空》の反りが合はないのはむしろ当然至極の事であって何も今更言ふ事でもないだらう。

――其処さ。《存在》が罠に落ちる陥穽が潜んでゐる処は。

――《存在》が罠に落ちる? 

――つまり、《単独者》といふ名の罠さ。

――へっ、キルケゴールかね――。すると《実存》といふ《存在》の在り方といふのはまんまと《存在》の罠に嵌められたその《存在》自体の無惨な成れの果てといふことかね? 

――さうさ。

――さう? 

――《存在》が《単独者》と自らを規定した刹那、《吾》の《個時空》は空転を始める。そして空転する《個時空》といふ《存在》の在り方を始めた《吾》は、絶えず《現実》といふ仮初に過ぎぬ幻影に惑はされる。

――ふっ、《現実》は幻影かね? 

――《単独者》にとっては《現実》は幻影に過ぎぬ。

――何故さう言ひ切れる? 

――《単独者》自体が《吾》の描く幻影に過ぎぬからさ。

――ふっふっふっ、陰中の陽、陽中の陰が《単独者》といふ概念には見出せぬからかね? 

――《単独者》は自ら自閉することを、眼窩、耳孔、鼻孔、口腔、肛門、生殖器等々の《外》へ開いた《存在》の穴凹を幻で塞ぐことを《現実》に強要される。

――はて、《現実》もまた《吾》の幻影でなかったのではないかね? 

――さうさ。《単独者》は世界を己の幻影で埋め尽くす。

――へっ、《吾》とは元来さうせずにはゐられぬ《存在》ではないのか! 

――何故さう言ひ切れる? 

――何故って、《現実》が絶えず《吾》の在り方を裏切り続けるからさ。

――はて、《現実》が《吾》を裏切り続けるとは、一体全体何の事かね? 

――つまり、《現実》が《吾》を裏切り続けることで生じるそのずれが《個時空》を回転させ続ける起動力になるのさ。

――《個時空》を回転させる起動力? 

――さう。《現実》が絶えず《吾》を裏切り続けないとすると、《個時空》たる《吾》も回転を停めて倒れてしまふ。

――さうすると、《現実》とは絶えず《吾》を裏切る在り方でしか《吾》には現はれないと? 

――ああ。《吾》には裏切り続ける《現実》無くしては一時も回転が維持出来ぬ《個時空》に過ぎぬと、腹を括るしかない――。

――しかし、ちぇっ、《吾》は元来「裏切らない世界」を知ってしまってゐる。

――母胎か……。つまり、ゆらゆらと自在にたゆたふ羊水の中。

――さうさ。《吾》は、元来、それを敢へて「先験的」と呼べば、世界の裏切りを全く知らずに此の世に出現させられるやうに仕組まれてゐる。

―― 《存在》は出現以前、つまり、未出現の間は裏切らない世界にたゆたふ。それは例へば、一箇所に数多の《未存在》が《未存在》し続ける事が可能といふ、つまり、《未存在》を《存在》に換言すると、一箇所に数多の《存在》が《存在》可能といふこと、つまり、《個時空》は未だ出現しない世界、それを《無時空》と名付けるが、その《無時空》の世界に自在にたゆたふ。

――へっ、《無時空》と来たか――。《無時空》を暗示させる《もの》が、母といふ《個時空》の《存在》の子宮内の羊水の中でたゆたふ胎児といふことかね? 

――身重の女性こそ《一》=《一》が成り立たないことを身を持って体現してゐる《存在》だ。

――しかし、世界を認識するには《一》=《一》の方が単純で「美しい」。

――だが、詰まる所、人間は量子論的にしか《存在》が語れぬ事に漸く気付いた。

――しかし、量子論には観察者はゐても《主体》は蚊帳の外で《存在》しない。

――つまり、今現在の人間の世界認識の仕方は、世界を解剖可能な《死んだ》世界としか認識出来てゐないといふ不幸にある――といふことか? 

(三十二の篇終はり)





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最終更新:2009年06月29日 05:47