虚妄の迷宮 十一


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ざわめき 六



――実際、己が己に抱く妄想は止めやうがなく、己が己に対する妄想は自然と自己増殖せずにはゐられぬものさ。深海生物のその奇怪な姿形こそが己が己に対して抱く妄想の自己増殖が行き着いた一つの厳然とした事実とは思はぬかね? 

――ふっふっ、深海生物ね……。まあ、よい。それよりも一つ付かぬことを聞くが、お前はこの宇宙以外に《他》の宇宙が《存在》すると考へるかね? 

――つまり、《他》の宇宙が《存在》すればこの宇宙の膨脹はあり得ぬと? 

――へっ、《他》の宇宙が仮に《存在》してもこの宇宙の《餌》でしかなかったならば? 

――宇宙の《餌》? それは一体全体何のことだね? 

――字義通り只管(ひたすら)この宇宙の《餌》になるべくして誕生した宇宙の事さ。

―― 生き物を例にして生きて《存在》する《もの》は大概口から肛門まで管上の《他》たる穴凹が内部に存在すると看做せば、その問題の《他》の宇宙をこの宇宙が喰らふといふことは、即ち、この宇宙内に《他》の宇宙の穴凹がその口をばっくりと開けてゐるといふことじゃないかね? 

――ふっふっ、それはまた如何して? 

――つまり、喰らふといふ行為そのものに《他》を呑み込み、《他》をその内部に《存在》することを許容する外部と通じた《他》の穴凹が、この《存在》にその口を開けてゐなければならぬのが道理だからさ。

――だから、お前はこの宇宙以外の《他》の宇宙が《存在》する可能性があると考へるのかね? 

――当然だらう。

――当然? 

――《他》の宇宙、ちぇっ、それはこの宇宙の《餌》かもしれぬが、《他》の宇宙無くしてはこの宇宙が《吾》といふことを認識する屈辱を味はひはしないじゃないか! 

――やはり、《吾》が《吾》を認識することは屈辱かね? 

――ああ。屈辱でなくして如何する? 

――ふっふっ、やはり屈辱なのか、この不快な感覚は――。まあ、それはともかく、お前はこの宇宙以外の《他》の宇宙が《存在》する可能性は認める訳だね? 

――多分だか、必ず《他》の宇宙は《存在》する筈さ。

――それはまた如何してさう言ひ切れるのかね? 

――それは、この宇宙に《吾》であるといふことを屈辱を持って噛み締めながらも如何しても《存在》しちまふ《もの》共が厳然と《存在》するからさ。

――《吾》が《存在》するには必ず《他》が《存在》すると? 

――ああ。《他》無くして《吾》無しだ。

――すると、この宇宙が生きてゐるならばこの宇宙には必ず《他》に開かれた穴凹が《存在》する筈だが? 

――へっ、この《吾》といふ《存在》自体がこの宇宙に開いた穴凹じゃないかね? 

――それは《特異点》の問題だらう? 

――さうさ。《存在》は必ず《特異点》を隠し持たなければ、此の世に《存在》するといふ《存在》そのものにある不合理を、論理的に説明するのは不可能なのさ。

――さうすると、《他》の宇宙は反物質で出来た反=宇宙なんかではちっともなく、《吾》と同様に厳然と実在する《他》といふことだね? 

――例へば、巨大Black hole(ブラックホール)は何なのかね? 

――ふっ、Black holeが《他》と繋がった此の世に開いた、若しくはこの宇宙に開いた穴凹であると? 

――でなくて如何する? 

――さうすると、銀河の中心には必ず《他》が《存在》すると? 

――ああ、さう考へた方が自然だらう? 

――自然? 

――何故なら颱風の目の如くその中心に《他》が厳然と《存在》することで颱風の如く渦は渦を巻けると看做せるならば、例へば銀河も大概渦を巻いてゐるのだからその中心に《他》が《存在》するのは自然だらう? 

――ふっ、つまり、渦の中心には《他》に開かれた穴凹が《存在》しなければ不自然だと? 

――而もその《他》の穴凹は、《吾》に《垂直》に《存在》する。

―― さうすると、銀河の中心では絶えず《吾》に《垂直》に《存在》する《他》の宇宙に呑み込まれるべく《吾》たる宇宙が《存在》し、さうして初めてこの宇宙が己に対する止めどない妄想を自己増殖させつつ膨脹することが可能だとお前は考へてゐるのかね? 否、その逆かな。つまり、この宇宙が絶えず己に対する《吾》といふ観念を自己増殖させて膨脹するから、その中心に例へば巨大Black holeを内在させてゐる……。さうだとするとこの耳を劈くこの宇宙の《ざわめき》は己が己を呑み込む《げっぷ》ではなく、《他》が《吾》を呑み込む、若しくは《吾》が《他》を呑み込む《げっぷ》じゃないのかね? 

―― ふっふっふっ、ご名答と言ひたいところだが、未だ《他》の宇宙が確実に此の世に《存在》する観測結果が何一つない以上、この不愉快極まりない《ざわめき》は己が無理矢理にでも己を呑み込まなければならぬその己たる《吾》=宇宙が放つ《げっぷ》と看做した方が今のところは無難だらう? 

――無難? へっ、己に嘘を吐くのは已めた方がいいぜ。

――嘘? 如何して嘘だと? 

――へっ、お前は、実際のところ、この宇宙の《存在形式》以外の《存在形式》が必ずなくてはならぬと端から考へてゐるからさ。

――へっへっへっ、図星だね。

(六 終はり)





幽閉、若しくは彷徨 三十七



――やはり秩序無くして《主体》は此の世を受け入れられぬか? 

――人体を見ればそれは火を見るよりも明らかさ。

――ふっふっふっ。人体ね。

――さう含み笑ひをするところを見ると人体は無秩序だと? 

――いや、何、人体の秩序とは、所詮、細胞が如何に《死》するかの問題に行き着いてしまふのじゃないかと思ってね。

――受精卵といふたった一つの細胞が細胞分裂を繰り返し、様々な機能の臓器へと分化する《発生》の問題でなく、細胞の《死》が問題だと? 

――ああ。臓器がその機能を保持出来るのは細胞が、つまり、癌化する《傷付いた》細胞が自死、即ちApoptosis(アポトーシス)する故に人体といふ秩序は何とか保たれてゐるに過ぎず、更に言へばこの人体の姿形は、細胞がApoptosisと細胞分裂との鬩(せめ)ぎ合ひの結果球体とは全く異なる姿形になったのじゃないかね? さうすると如何しても秩序には《死》がくっ付いて離れないのじゃないかと思ってね? 

――つまり、《死》無くして秩序はあり得ぬと? 

――ああ、さうさ。《死》あればこそ秩序は保たれる……。付かぬことを尋ねるが、《死》は秩序かね、それとも渾沌かね? 

――ふっふっふっ。《死》は秩序でも渾沌でもないのじゃないかね? 

――すると《死》は何かね? 

――《生》を《生》たらしめるその礎さ。

――《死》が《生》の礎だとすると《死》は間違ひなく秩序の領分だぜ。

――へっ、どっちでも構はないじゃないかね? 所詮、秩序と渾沌は紙一重の違ひしかないのさ。

――つまり、秩序は渾沌を、渾沌は秩序を、換言すれば、《生》は《死》を、《死》は《生》を内包してゐなければ、そもそも《存在》は《存在》し得ぬといふことかね? 

――へっ、《存在》は詰まる所、《虚しいもの》ではないのかね? 

――それは、ちぇっ、約(つづ)めて言へば二元論的な考へはそもそもあり得ず、もしも二元論的なる《もの》があれば、それは捨て去れと? 

―― ああ。秩序は渾沌を、渾沌は秩序を、《生》は《死》を、《死》は《生》を、そして、《存在》は《虚無》若しくは《無》を、《虚無》若しくは《無》は《存在》を「先験的」に内包してゐる。つまり、《吾》は《他》を、《他》は《吾》を元来内包せずには此の世に出現すらしてゐない筈さ。

――それは、詰まる所、陰陽五行説の太極に至るといふことかね? 

――ああ、さうさ。陰陽魚太極図こそ、此の世といふ《もの》の正体を象徴的に表はした《もの》の一つだ。

――へっ、弁証法ではやはり駄目かね? 

――弁証法では此の世を論理的には絶対に語れない。つまり、正の中に反が、反の中に正が内在してゐる前提で物事を語らなければ、何事も始まらないのさ。

――へっ、つまり、正反合は嘘っ八だと? 

――ああ。正反合こそ物事の正体を捕まへ損ねる諸悪の根源さ。

――つまり、此の世の事は二律背反からでしか語り始められぬと? 

――さうさ。カントはそれに薄々気付いてゐた筈さ。此の世を語るには二律背反から始めるしかないとね。

――しかし、人類に二律背反を語り果せる語彙若しくはその言語を基にした思考があるかね? 二律背反は何処まで行っても二律背反のままだぜ。

――無いならば新しく創出すればいいのさ。

――創出すればいいとお前は簡単に言ふが、新たな言語若しくはその言語を基にした思考法を創出するのは困難極まりない難事だぜ。

―― しかし、《吾》は、へっ、《存在》の縁に既に追ひ詰められてしまってゐる《吾》は、最早、その難事を成し遂げなければ生き残れないのさ。人類は元々言語が音声といふ《波》と文字の字画といふ《量子》から成り立つやうになったことからも思考は必然的にさうなるに決まってゐた一つの例証として、科学の分野での量子「色」力学若しくは場の量子論へと漸く行き着いたじゃないか。更に更に人類は超弦理論や過剰次元といふ理論へと飛躍を遂げて、へっ、さうなれば《吾》が生き残るための新たな言語若しくはその言語を基にした論理的なる思考法を創出するのは簡単至極なことさ。

――えっ、生き残る為の言語若しくはその言語を基にした思考法? ……別に《主体》が生き残る必然性は……何処にも無いのじゃないかね……? 

――ちぇっ、俺は《主体》とは一言も言ってないぜ。へっ、むしろ《主体》なんぞはさっさと死んでしまへばいいのさ。しかし、此の世の森羅万象に《存在》する《吾》といふ代物は、此の世の衰滅を見届ける義務がある。

――これは愚問だが、《主体》は《吾》ではないのかね? 

――《主体》は《客体》を排他するから《吾》ではないよ。

――つまり、《吾》とは「先験的」に《他》を内包してゐる《もの》だと? 

――ああ。《吾》こそ《他》を内包してゐる、例へば陰陽魚太極図のあの目玉模様そのものさ。

――そして、秩序の中には渾沌を、渾沌の中には秩序をだらう? しかし……それは《破滅》を意味するのではないのかい? 

(三十七の篇終はり)





嗤ふ吾 四



 そもそも《吾》を嗤ふ《吾》は、さうとは知らずにそれは無意識のことだとは思ひたいのであるが、結局のところ、《吾》に対しての根深き侮蔑がその根底には厳然と《存在》してゐるのは確かなやうである。つまり、《吾》は倦むことを知らずに只管(ひたすら)《吾》を嗤ひ侮蔑するやうに生まれながらに創られてしまった《存在》に過ぎぬのかもしれぬのである。更に言へば、多分に《吾》たる《もの》は絶えず《吾》を侮蔑してゐないと不安な《存在》に違ひないのである。では何故《吾》は絶えず《吾》を侮蔑してゐなければ不安な《存在》として此の世に在るのであらうか。多分、それは《主体》に対して慈悲深き神にも、将又(はたまた)邪悪な邪鬼にも変幻するこの宇宙若しくは世界若しくは《自然》と呼ばれるその変幻自在なる百面相を相手に《存在》することを余儀なくされてゐる故にであらうと思はれる。しかし、頭蓋内の闇は宇宙全体をも更には無限をも容れる器と化すことも可能な《五蘊場》なのである。するとこんな問ひが自身の胸奥で発せられるのである。

――宇宙における想像だに出来ぬ諸現象は果たして《吾》の頭蓋内の闇たる《五蘊場》に浮かぶ形象を遥かに超えた《もの》なのか? つまり、この宇宙は本当に《吾》の頭蓋内の闇たる《五蘊場》に明滅する形象若しくは表象を超え出ることが可能なのであらうか? 

 すると、

――へっ、宇宙の諸現象と《皮袋》たる《一》者として《存在》する《吾》の頭蓋内の闇たる《五蘊場》に明滅する《もの》を比べること自体無意味だぜ。

といふ自嘲が私の胸奥で発せられるのであるが、しかし、どちらも《吾》を超えるべく足掻くやうに創られてしまったことは紛れもない事実であって、更に言へば、遁れやうもないその事実は、此の世に《存在》するあらゆる《もの》たる《主体》に刃の切っ先が首に突き付けられてゐるやうに突き付けられてゐるのは間違ひないのである。そして、それは私の場合は《闇の夢》として象徴的に表はれてゐるのかもしれないのである。

 そもそも「闇」を夢で見て、それを《吾》と名指して嗤ってゐる《吾》とは一体全体何なのであらうか。

――《吾》だと、ぶはっはっはっはっ。

 此の時、《吾》は《吾》をすっかり忘失してしまってゐるのかもしれない。否、《吾》は、あり得べき《吾》と余りに違ふ《闇の吾》を見出してしまったが故に ――一方で其処には多分に《吾》が予期してゐた筈の《闇の吾》がゐるのであるが――己の内から湧いて来て仕様がない寂漠とした感情の尽きたところでは最早嗤ふしかないどん詰まりの《吾》を見出してしまったが故に、《吾》は《闇の吾》を嗤ってゐる筈である。

 さて、其処でだが、《闇の吾》以上に的確に《吾》といふ《もの》を表象する《もの》が他にあるのであらうか。

――分け入っても 分け入っても 深い闇

 種田山頭火の有名な「分け入っても 分け入っても 青い山」といふ一句を捩(もぢ)るまでもなく、《吾》とは何処まで行っても深い闇であるに違ひない。その《吾》の当然の姿である《闇の吾》が《吾》として《吾》の前に現はれたのである。当然ながら《吾》は腹を抱へて嗤った筈である。否、最早どん詰まりの《吾》は其処では嗤ふしかったのである。

 尤も其処には《吾》に絶望してゐる《吾》といふ《存在》を見出すことも可能であるが、既に夢で《闇の吾》を夢見てしまふ《吾》は、《吾》にたいして何《もの》でもないと断念してゐる一方で、また、何《もの》でもあり得るといふ自在なる《吾》を、《吾》は、《闇の吾》を《吾》と名指すことで保留して置きたい欲望を其処で剥き出しにしてゐるのである。闇程《吾》を明瞭に映す鏡はないのである。つまり、私が《闇の夢》を見ながら

――《吾》だと、ぶはっはっはっはっ。

と嗤ってゐるのは、何《もの》にも変化出来る《吾》を其処に見出して悦に入ってゐるのかもしれぬ、いやらしい《吾》を嘲笑してゐるに違ひないのである。そもそも《吾》とは何処まで行っても《吾》であるいやらしい《存在》なのである。

――しかし、《吾》は《吾》以外の何《もの》になり得るといふのか? 

といふ反論じみた嘲笑が再び私の胸奥で発せられるのであるが、《吾》のことを自発的にそれは《吾》であると嘯くしかない《吾》は、尤も一度も自発的に《吾》=《吾》を受け入れたことはなく、何時も受動的に《吾》なる《もの》を《吾》として受け入れるのである。それは諸行無常の世界=内に《存在》する《もの》の当然の有様で、世界=内に《存在》する以上、つまり、絶えず《吾》を裏切り続ける形で《吾》の現前に現はれる《現実》を前にして、《吾》はあり得た筈の《吾》を絶えず断念しながら《吾》を尚も保持しつつ、此の《吾》を容赦なく裏切り続けて已まない諸行無常の世界の中で世界に順応する外ないのである。そして、その《現実》での憤懣が《闇の吾》となって私の夢に現はれるに違ひないのである。

――《吾》だと、ぶはっはっはっはっ。

(四の篇終はり)





幽閉、若しくは彷徨 三十六



――へっ、神は計測できるといふのかね? 

――例として解かり易く重力と時間を出しただけで、《神=重力と時間》ではないぜ。だが、神もまた計測可能で論理的に理解可能な何かなのは間違ひない。

――それはお前が一人合点してゐるだけじゃないのかね? 

――へっ、そもそも神を語るといふことは一人合点することじゃないのかね? 

―― つまり、神もまた悪魔の如く万物に変幻可能な、そして「ファウスト」のメフィストーフェレスの言葉を持ち出せば《常に悪を欲して、しかも善をなす、あの力の一部です》といふことから神を類推すれば《常に善を欲して、しかも悪を為す、あの力の一部です》といふ言説が出てくる訳だ。違ふかね?  

――ふっ、勿論だとも。そして神は《存在》に坐し、《非在》に坐し、《未存在》に坐すのさ。

――神もまた《主体》次第といふことか――。

――へっ、神が《存在》すると思へば神は《存在》し、神が《存在》せずと思へば神は一切《存在》せずさ。

――しかし、全てを《主体》に帰すのは危険極まりないことじゃないのかい? 

――ちぇっ、既に《主体》は《主体》といふ言葉が誕生した刹那に全てを担はなければならぬ運命にあったのさ。だから、《主体》は神をも担ふそれこそ《神業》若しくは《インチキ》を何としても成し遂げねばならぬのさ、へっ。

――へっへっ、つまり、《主体》自体が《インチキ》だと? 

――ああ、勿論。《主体》こそ此の世の中での《インチキ》の中の最たる《もの》さ。

――しかし、《主体》自体は、その《インチキ》な《主体》に振り回され、神に振り回される。それを全て《インチキ》に帰して済ますのは問題があるのじゃないかね? 

――へっ、済む訳がなからうが! しかし、《主体》は《主体》といふ言葉が誕生した刹那に、それが《インチキ》の汚名を受ける覚悟をし、腹を括った筈さ。さうせずには此の不合理極まりない世界に《存在》など出来やしなかった筈だからね。

――へっ、つまり、此の世そのものが《インチキ》だと? 

――それは解からない……。

――解からない? 此の世の森羅万象が《インチキ》だと言ひ切ってしまへばいいだらうが――。

――へっ、さう言ひ切ったところで何も変はらないし、ましてや《主体》は此の世から遁れられやしないぜ。此の世の森羅万象が《インチキ》だと言ひ切って全てを神の気紛れに過ぎぬと看做したところで、この宇宙も《存在》も痛くも痒くもないぜ。

――しかし、《インチキ》ならば手品の種の如くその《インチキ》のからくりは解かるだらう? 

――つまり、此の世の森羅万象が論理的に理解可能だと? 

――ああ。

―― しかし、さうやって此の世の《インチキ》のからくりが論理的に理解出来たところで、《主体》は生きた《主体》としてこの世界のからくりに組み込まれやしないぜ。つまり、《主体》は論理的かつ存在論的な《死》を宣告されて初めて《インチキ》な此の世に登場可能な《存在》に変化出来るに過ぎぬ。そもそも《主体》が、ちぇっ、《インチキ》な《主体》が、「此の世の森羅万象は《インチキ》だ」と言いひ切ることは存在論的に無責任だらう? 

――存在論的な無責任? 

――つまり、全てを邯鄲の夢の類に看做したい《主体》は、それでも厳然と此の世に《存在》しちまってゐるのさ。

――つまり、「然り」から始めよと? 

――へっへっ、土台、此の世が《インチキ》で済む訳がない! 

――詰まる所、《主体》は事実がそもそも嫌ひなのか――。

――例へば、科学的に論理的にどんなに精密に此の世のからくりを説明されても、《主体》は内心では「へっへっへっへっ」と嗤って、その科学的な論理をせせら笑って端からそんな《もの》で《存在》に肉薄など出来っこないと高を括ってゐる。

――それは何故かね? 

――つまり、《一》=《一》がそもそも《インチキ》だからさ。その《インチキ》の上に築かれた《もの》が《インチキ》でなくて如何する? 

――へっ、《吾》=《吾》の自同律も《インチキ》だらう? しかし、《主体》はその《インチキ》に縋り付くしかない――。

――それは何故かね? 

―― つまり、此の世は渾沌に違ひないが、それでもその渾沌を宥めすかして小さな小さな小さな糸口かもしれぬが、秩序を此の世に与へたいのさ。それは、何処まで行っても虚無でしかないことを知りつつも如何あってもその《インチキ》のからくりは解明して、而も何処まで行っても深い闇に包まれたままの《吾》を白日の下に曝したいのさ。しかしながら現時点では、自身には秩序あると考へてゐる《主体》には此の世を渾沌のままでは担へぬ矛盾に《主体》は直面してゐるといふのっぴきならぬ処へと追ひ詰められてゐる。

(三十六の篇終はり)





蘗(ひこばえ) 一



 既に薪を使ふ日常を已めてしまった現代において雑木林は、その落ち葉を田畑の肥料に使ふ以外にその存在意義を失った感があるが、それを映すやうに大概の雑木林は荒れてゐるのが当たり前の風景となって仕舞った時代に生まれ落ちてしまった彼にとって、しかし、雑木林の中を逍遥するのは、日々新たな発見に出くはすので、彼にとっては荒れてゐるとはいへ、雑木林を逍遥するのは止められないものの一つであった。

 さうした或る日、彼は大きな虚(うろ)が根元近くにある一本の櫟(くぬぎ)に出くはしたのであった。

――あっ、零だ! 

と、彼は思はず胸奥で叫んだのであった。彼は樹の虚を見ると何時も

――零だ! 

と感嘆の声を秘かに胸奥で上げては、

――樹もまた《吾》同様《零の穴》をその内部に持ってゐる……。

と、何とも名状し難い感慨を持ってじっと樹の虚を眺めることになるのであったが、つまり、彼にとって樹の虚は或る種の親近感を彼に覚えさせるものの一つであったのである。

 虚の出自は零の出自に或るひは似てゐるのかもしれない。その初め一本の細い幹でしかなかった櫟等の広葉樹は、十年から二十年かけてしっかりとした幹に生長を遂げると、薪か炭の材料としてその一本の幹は切り倒される運命にあるのが、雑木林に存在する広葉樹の常であった。

 そして、眼前のその虚を持つ櫟の樹もまたしっかりとした樹に生長を遂げると《一》たる幹は薪か炭の材料になるべく切り倒された筈である。しかし、櫟等の広葉樹は主幹を失ったとはいへ死することはなく、かつて存在した《一》たる主幹の切り株から蘗(ひこばえ)の小さな小さな小さな未来の幹たる芽を出すのであった。さうして再び立派な幹に生長を遂げた蘗の幹もまた薪か炭の材料として切り倒された筈である。しかし、当然櫟の樹は再びその切り株から小さな小さな小さな蘗の芽を出した筈である。けれども、時代はBiomass(バイオマス)の時代から石油の時代に移り行き、その櫟の樹は長くそのまま放置されてしまった筈である。さうして《一》たる幹の切り株の跡は虚となって、つまり、「零の穴」となってその櫟は生き続けることになったのであらうといふことは想像に難くない。虚とは、大概、《一》たる幹を人工的に切り倒され、その切り株がその失った《一》たる幹の存在を埋めるべくその切り株から蘗が芽を出したその証左でもある。

 また、《零の穴》とはいへ、虚は様々な生命の揺り籠でもある。虚は、或る時は鳥の巣となり、或る時は動物の寝床となり、そして昆虫の棲処となり、と、虚はその様態を変へ生命の揺り籠になるのである。

 さて、其処で此の世に存在する森羅万象は、それが何であれ、《吾》や《他》や《主体》や《客体》等の在り方を暗示して已まない《もの》であると看做してしまふと、蘗もまた《存在》の在り方を、つまり、《吾》や《他》等の在り方を暗示する《もの》に違ひないのである。

 《吾》は《吾》の内部に《零の穴》たる《虚》、それを《反=吾》と名指せば、《吾》の内部には《零の穴》若しくは《虚》たる《反=吾》がぽっかりと大口を開けて厳然と《存在》する《存在》の在り方も在り得る筈である。それは喩へると、主幹が折れてしまふと必ず枯死する或る種過酷極まりない《世界》に《存在》し、蘗の出現を許さない針葉樹的な《存在》として、一本の主幹のみを頼りにして此の世に屹立し生きる《存在》の在り方がある一方で、一度や二度の《吾》といふ主幹が折れようが、再びその折れた主幹の跡から蘗なる《吾》が芽を出すのを許容する何とも慈悲深い《世界》に屹立し生きる《存在》の在り方もある筈である。そして、《吾》とは、蘗の出現を許さない針葉樹的な《存在》しか存続出来ない過酷な《世界》にありながら、最早、不意に《吾》たる主幹を何かに折られた《存在》でしかなく、それでも《存在》することを必死に而も喜んで欣求する蘗たる《吾》を芽生えさせるといふ、或る種の《インチキ》を成し遂げてしまった《存在》しか此の世は最早受け入れなくなってしまったやうに彼には思へて仕方がなかったのであった。しかし、さうなると、《吾》には《零の穴》若しくは《虚》がぽっかりとその大口を開けて《存在》してゐる筈で、彼には如何してもその《吾》の内部の《零の穴》若しくは《虚》ではまた《吾》ならざる《反=吾》の《存在》を棲息させ育む《存在》の揺り籠として《吾》には厳然と《存在》してゐるとしか思へないもまた事実なのであった。

――《存在》の《零の穴》若しくは《虚》には何が棲むか……。

と、彼は己に問ひを発するのであったが

――へっ、《吾》ならざる《異形の吾》に決まってらあ――。

と、せせら笑ふ《異形の吾》が不意にその顔を出すのであった。

(一の篇終はり)







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