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 1863年、ボン出身で、当時ロンドンのドイツ人病院で働いていたウエーバー(Herman David Weber, 1823-1918)が、中脳出血による眼筋麻痺と交代性片麻痺の52歳男性の1例を報告(Med Chir Trans)。
 1879年、ウイーン大のノトナーゲル(Carl Wilhelm Hermann Nothnagel, 1841-1905)が、四丘体腫瘍による平衡障害と眼球運動障害を著作に記載。

 1883年、パリノー(Henri Parinaud, 1844-1905)が、両眼の「共同運動」の概念を論じ、垂直注視麻痺の3例報告でいずれも輻輳障害を伴っていたと報告します(Arch Neurol, Paris)。
 (この人はシャルコーのサルペトリエールに招かれた眼科医です。)
 しかし1903年にロシアのvon Kornilowが垂直注視麻痺に輻輳障害を合併しやすいわけではない、と否定します(Deutsche Z Nervenheilk)。
 以後ドイツやアメリカの教科書では、パリノー症候群とは、垂直注視の障害だけでそう呼んだり、上方注視麻痺だけだったり、対光反射消失も含めたり、ぐちゃぐちゃになりました。
 現在では垂直注視の中枢は、1982年にチューリッヒ大のButtner-EnneverらがriMLFだとしています(Brain)。輻輳の中枢はまだ不明のようです。

 1888年、ウイーン大のベネディクト(Moritz Benedikt, 1835-1920)が、動眼神経麻痺と対側上下肢の振戦を伴う片麻痺を呈する3例を報告、中脳に病巣を発見(Wiener Med Wochenschr)。
 1893年にシャルコーが同様の症例をサルペトリエールに発見、これにベネディクトの名をつけてたたえました。
 この症候群の振戦は赤核振戦であると指摘したのは1904年のHolmes(Brain)とDenny-Brown(1961年の著書)です。

 1912年、サルペトリエールのクロード(Henri Charles Jules Claude, 1869-1945)、右動眼神経麻痺と左小脳性失調のペンキ屋の症例報告。
 剖検では右中脳の病巣で、上小脳脚交叉より上の病巣のために病巣の反対側の小脳性失調が見られたのでした(Rev Neurol)。