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競馬に興味が有った小林が脱サラして一念発起、北海道に小林牧場を設けて10年。
生産馬が鳴かず飛ばずで牧場の存続すら危うい現状を打開するべく一頭の繁殖牝馬の購入を決めた。
母は名牝トッシングキイであり自身もG1ホースでありながら、スピードが足りないと評価され繁殖牝馬としての価値も下がっていたダンスパートシーだった。
血統と競争実績の割には価格が安かったため中小牧場でも購入が可能だったこと、理由はそれ以外なかった。
晴れてダンスパートシーは小林牧場で繁用されることとなった。
牧場を開設した当初から、勝負の種付けにはある種牡馬を付けることを決めていた。
かつて個性派として人気を博し、数々のG1を制したゴールトシップだ。
即決で、ダンスパートシーにはゴールトシップが付けられることとなった。
そうして生まれたのが後のサクラチトシオーであった。
とにかく体質が強く、生まれてまもなく牧場を走り回っていたが、どれだけ走ってもバテないタフさを持っていた。
この子馬がセールで買われ、活躍すれば牧場の評価も変えられると小林は考え、セレクトセールに子馬を出品した。
が、タフさ以外に光るものがなかった上、ゴールトシップとダンスパートシーという超スタミナ血統。
これでは日本の高速馬場では通用しないとみられた結果、380万スタートであったにも関わらず手を挙げるオーナーは現れなかった。
買い手が見つからないまま処分されることだけは避けたかった小林は、自身で子馬を買い戻し、自分がオーナーとして競走馬登録させることを決断。
その仔馬はサクラチトシオーと名付けられた。
タフだったサクラチトシオーは病気も怪我もなく、順調に成長し入厩の時を迎えた。
しかしオーナーとしては初の所有馬。馬主としての名声は小林にはなく、有力な調教師には預かってもらえるはずもなく
半ば強制的に、無能調教師であったポンコツ調教師を紹介され、とりあえず入厩させることとなった。
牧場時代は大人しかったサクラチトシオーだが、調教が始まると気分が乗らない時には暴れて抵抗するなど気性の荒さが徐々に見え始めていた。
調教師のポンコツは「あんな駄馬は競馬が出来ない」「ハズレの馬を預けられた」と散々な言い様だった。
一方で調教をつけていたノブンは、身体はまだ発展途上ではありながら優れた心肺機能を持っていることに気づき始めていた。
この馬の売りは体質の強さだけだと感じていたポンコツはとにかく数多く出走させる戦法を取るために6月の新馬戦からいきなりデビューをさせようとしたが、もう少し走り込ませてからのほうがいいとノブンに説得されデビューを遅らせることとなった。
しかし気性の悪さは日に日に増して行き、「調子はどうや?」と話しかけてきたポンコツの顔を蹴りあげたり、ポンコツ厩舎所属のもっさりを振り落とすなど問題児っぷりを発揮していた。
しかし、毎日のように調教に乗っているノブンが乗った時だけはおとなしく言う事を聞いた。
これに腹を立てたポンコツは「さっさと勝ち上がれないようなら引退させて肉になるしかない」「今まで預かった中で一番の駄馬」「ローテを考えるのもバカバカしい」と全く期待をしようとしなかった。
ポンコツは度々小林に電話をし「あの馬はもしかしたら1勝も出来ないかもしれない」「競走馬に向いてない」と話していたほどだった。
その頃、期待のマル外として華々しくデビューしていたのはトシマサルだ。
鞍上には競馬界のスーパースター式豊。海外牧場で繁用されている女傑トシアマゾンの子。当然のようにクラシック候補と騒がれた。
対するサクラチトシオーがようやくデビューを迎えたのは、トシマサルが朝日フューチュリティステークスを制して最優秀二歳牡馬に選出された頃だった。
[[サクラチトシオー2]]