あの日、空港から出た時は、なんてことのない、いつもどおりの日常だと……そう思っていた。
勝手にそう思っていただけだった。
でも、そうじゃなかった。
日常はある時、何の前触れも無く、不条理に、一方的に壊されていく物だと悟らされてしまった。
アスファルトのハイウェイが荒野を一本の線のように伸びて、奥へと連なっていっている。
西部開拓時代、人は馬に乗って荒野を駆けていた。
だが、今は違う。
荒野はアスファルトを敷かれ、馬の代わりに車で駆けていく。
永遠に続くようなそんな気持ちにさせてくれる、長くて無常なハイウェイ。
夏の蒸し暑さが今更になって、肌で感じている。
汗はさっきから出ていた。
でも、夢中だった。
さっきまで起きていた、非現実的な出来事が嵐のように感じられていて。
今は、過ぎ去った嵐の後の空虚な廃墟のような気分だ。
SUV型の警察車両は、さっきの「嵐」のせいで、エンストして動かない。
わたくしは「嵐」の痕を視界から背けるように、視線をかえた。
夕陽がアメリカの荒野に沈んでいく……。
そして、アメリカに来てから今までの事を思い出した。
ジム……ごめんなさい。
……ごめんなさい。
……ごめんなさい。
…………ごめんなさい…………。




—————『ヒッチャー』——————




Chapter 1 「二人だけのドライブ」

日本からアメリカに向かって何時間経ったのだろう。
眩しいばかりの晴天のアメリカ大陸にジェット機が着陸した時は、日本との時差に困惑してしまう。
何度も来たことはあるし、子供の頃我慢したけど涙がこぼれ出て仕方が無かった耳鳴りの痛みも慣れたし、大体いつも通りのバカンスの筈。
別荘がある州やその近隣には幼い頃から何度も着ている。
……なのに、何故だろう。
この嫌な胸騒ぎは。
出発前に何か変な物でも食べたのだろうか?
お世辞にも美味しいとは言えない機内食を食べたせいだろうか?
英語のアナウンスで、客員は降りろという放送が流れ、客室乗務員に挨拶しながら、乗客は次々と空港へと降りて行った。
わたくしも行かなければ……。
理由もなくわたくしを襲った胸騒ぎは、今や胸焼けへと変化し、さらには頭痛まで加わる始末。
わたくしは今更ながら、たった一人でアメリカに向かってしまった事に後悔し始めていた。
本当なら、わたくしが懇意にしている恩師……といってもわたしより4つも下なのですけれど……、その恩師と一緒にこのアメリカの地を踏みたかった……。
わたくしは自分の短気と余計な思いっきりの良さに、嫌気が差してしまう……。
乗客が次々と降りていくが、わたくしは気分が落ち着くまで席に座っていた。
そして、勢いでお供も連れず、一人で来てしまった成り行きを思い出していた。
そう、あれは出発の前夜、学校の寮で、わたくしの腐れ縁とも呼ぶべき幼馴染と口論していた夜だった……。

その日、わたくしはルンルン気分で寮の廊下を歩いていた。
スキップはレディとしてはしたないので、ダンスのステップでも踊りかねないぐらい上機嫌だった。
わたくしはこの日をどれだけ心待ちにしていた事か……。
あの小猿娘はわかっていないのですわ!
今思い出しただけでもイライラする……。
とにかく、わたくしはある部屋の前まで、ステップを踊りかねない程上機嫌で向かっていたのだった。
その部屋の中には、わたくしの腐れ縁とも呼ぶべき幼馴染と、そのルームメイトで学園長先生のお孫さん。
そして……わたくしがお慕い申し上げている……ね、ネギ先生……。
あぁ、思い出しただけでも、おでこは湯気を上げる程熱くなり、身体も火照ってしまう……。
部屋の扉の前で、どれほどの間、悶絶したことか……。
わたくしは押さえ切れない心の昂ぶりをぶつけるように、扉を開けた。

「ネぇギ先生ぇ〜〜♪♪♪」

「ふ、ふぇ!?い、いいんちょさん!?」

あぁ、わたくしの視界に飛び込んでくる愛らしい姿……。
倫理観など吹き飛んでしまいかねない程愛くるしさに、わたくしの顔はメロメロ状態になってしまった。
わたくしの突然の訪問に驚いてるその姿も愛くるしい……。
わたくしのテンションは高まる一方。
メロメロ顔をキリッ!っと爽快なガムを噛んだような爽やかな顔で、レディらしく振舞った。

「ネギ先生、夏休みのご予定は?」

「え?え〜と、実は「一緒にわたくしの別荘に行きましょう〜〜〜♪」

「え、別荘?そこってどこなん?」

ネギ先生の横で訛りのある言葉を話す黒髪の少女は、近衛木乃香。
学園長先生のお孫さん。

「アメリカ・ネバダ州……砂漠の真ん中に突如生まれた黄金の宮殿……ラス・ベガスでございますわぁ〜〜♪♪♪」

「あ、アンタの家って、もうなんでもアリね……」

「そこ、チャチャを入れないでくださいまし」

チャチャを入れたのは、見た目はおサルさん、頭脳もおサルさんの、腐れ縁の幼馴染、神楽坂明日菜。
余計なチャチャを入れたおサルさんを一蹴すると、視線も思考もネギ先生の方へと戻した。

「わたくし……雪広家はラス・ベガスにホテルを所有しておりますの。ぜひネギ先生へ、日々の重労働から解放し、憩いの地で安らぎを提供したいと思いまして……」

「あ、あの…実は「ネギ先生!先生はラス・ベガスには行った事ございませんものね!?さぁ、いざ黄金の舞う享楽の地へ共に行きましょう……♪」

わたくしは燃え盛る情熱のあまり、勝手にダンスのステップを踏み、ネギ先生に猛アピールしてしまっていた…。
しかしその燃え盛る情熱を吹き消したのは、小憎らしいおサルさんの一言だった。

「ムリよ、それ」

「…………は?」

「だから、無理だって言ってんの!M・U・R・I!ム・リ!」

「何故アスナさんが勝手にネギ先生のスケジュールを決めているんですの!?保護者か何かのつもりですの!?」

「理由はコレよ!」

燃える情熱を吹き消したと思えば、次におサルさんはわたくしの前に、プリント用紙を突き出していた。
そこにはこう書かれていた。

『夏休み補習授業日程表』

ま、まさか……。

「そういう事。ネギは夏休みの補習授業をしなくちゃならないから、アンタとのバカンスはムーリ」

「補習授業に出るメンバーは……いつもと同じ、バカレンジャー5人組やで♪」

「言わなくていいわよぉ!」

驚愕の事実を突きつけられ、怒りがこみ上げて来た。
彼女二人はネギ先生をよそに、私に追い討ちの言葉を浴びせる。

「補習授業はちゃんと出席しないと意味ないからね〜、一日も外せないのよ」

「ネギ君の教員審査も兼ねとるし……ネギ君も頑張っとるんよ。10歳の教員なんて、PTAとか教育委員会とか、何かと厳しい目ぇで見よるし…。ここは補習授業で心証良くせんとあかんのよ」

「そういう事。私もネギも夏休みは一日も外せないってワケ」

「そういう訳なんです……。すみません、いいんちょさん……せっかく誘って下さったのに……」

「残念ねぇ〜♪い・い・ん・ちょ♪おっほっほ〜♪」

『残念ねぇ〜』『残念ねぇ〜』『残念ねぇ〜』……。
その言葉が、何度も頭の中でこだました。
そして……その言葉を切っ掛けに、わたくしの中の何かが、音を立ててプッツン!と切れた。

スパコーン!

と、いう小気味のいい音が部屋中に響いた。

「い、痛ッ!?な、なにすんのよ!!」

わたくしは思わず、履いていたヒールを手にして、アスナさんという名の憎たらしい日光のおサルさんの頭を叩(はた)いた。

「あ、あなたのせいで……。あなたがおバカさんなせいでネギ先生は補習授業なんかにぃ〜〜〜〜!!」

「わ、私だけのせいじゃないわよ!!」

「い、いいんちょさん落ち着いて!ぼ、暴力は駄目です、暴力は!!」

「せめて、踵の尖った部分では殴らんといて!?多分シャレにならん程痛いと思うわ」

「こ、このか!?そっちの心配!?いいんちょを止めてよ!!」

怒り狂い暴走したわたくしは、金髪の長髪が逆立つ程だった。
後で聞いた話によると、ネギ先生は私を抱きしめて必死で止めようと健気に奮闘していらしたとか。
今思えば、非常に申し訳ない事……。
とにかく、その時はネギ先生の奮闘に気づかず、怒りに身を任せていた。

「このおバカさんのおサルさんのせいでネギ先生は…ネギ先生はァ〜〜!!せめて、ネギ先生の心労が減るように、補習用員を今ここで減らしますわ!!!」

「ちょっ!?バカ!!!やめてーっ!!!」

「みんな!こっち来て!いいんちょが大変やーっ!」

後で聞いた話によると、ネギ先生のお部屋は忠臣蔵の松の廊下状態だったらしい。

「いいんちょ!殿中でござる!殿中でござるぅ〜〜!!」

「な、ならぬ!武士の…武士の情けじゃぁ〜〜!!」

……思わずそう口走っていたらしい。

「いいんちょ、落ち着いて。どうどう、どうどう」

「馬じゃありませんわ!」

怒りが頂点に達しても、突っ込みは忘れられなかったようだった…。
とにかく、松の廊下と化したネギ先生の部屋は、クラスメートが総出で集まって、なんとか場を…というかわたくしを沈めたようだった。
わたくしを止めに入らなかったクラスメートは、ただの野次馬のようだ。
荒い息を必死で抑えると、持っていたヒールを床へ落とし、履きなおすと、

「もういいですわ……。別荘へは一人で参ります……。悪しからず!!」

と、啖呵を切って、ヒールの高い音を立てて足早にその場を去っていった。

やり場を無くした怒りはヤケとなり、私は荷物を纏めて、アメリカへと向かった。
勢いに任せて、家の者には誰一人にも言わず、実家に帰る妻のように足早に日本を去っていったのだった。

(そうでしたわ……。なんて愚かな事を……)

ふと気が付くと胸焼けや頭痛は無くなり、一気に現実に引き戻された。

「お客様、ご気分がすぐれないのですか?」

客室乗務員がわたくしに声をかけてきた。
もちろん、英語。
日常会話はもちろん、幼い頃から欧米各国を廻って来た私は、すんなりと当たり前のように返事をした。

「い、いいえ……心配など無用ですわ」

後悔はいくらでも出来る。
だが、現実は変わらない。
怒りという名の勢いで来てしまった為、ネバダ州への便などなく、隣のカリフォルニア州の空港の便しかチケットは無かった。
カリフォルニアからネバダのラス・ベガスの実家まで、国内便で行くしかない。
わたくしは荷物を棚から降ろし、さっさとジェット機から降りて行った。

さっそく入国手続きを済ますと、ネバダ州のマッカラン国際空港かリノ・タホ国際空港行きの便を探した。
だが……わたくしの行く手を阻む事態が既に起きていた。
……国内便が……無い。

(そ、そんな筈は!?)

だが、何度見ても同じだった。
アメリカン航空もユナイテッド航空もパンアメリカン航空も……。
それどころか、いつのまにか国際便まで無くなっていた。
わたくしはわけがわからず、受付まで急いで向かった。

「どういう事ですの!?国内便が一つも無いなんて!それどころか…国際便まで無くなるなんてどういう事ですの!?」

わたしの捲くし立てる英語に、受付の女性は「やれやれ、まただわ」といったような顔をした。

「あちらをご覧下さい。すべてがお分かりになりますよ」

受付の女性が指差した方向に、テレビの画面があった。
ニュースが流れており、リポーターがリポートをしていた。

『○○空港の職員達が大勢でストライキを行っています。上は操縦士から、下は掃除のオバチャンまで、待遇の改善と向上を求めてストライキを起こしています!もう、職員全員が死ぬ程エキサイトしまくってます!下手に刺激をすると暴動なんて起こりそうな感じですよ、マジホント!』

『ねぇゲイブ。このストは、どのくらい続きそう?』

キャスターがリポーターに質問している場面に移った。

『当分無理ですね!時間は少なくとも3〜5時間はどの飛行機も飛びそうにありませんよ!…まったく、掃除のオバチャンはともかく、なんで操縦士までストライキを起こすんですかね?』

スト……スト……。
目の前に突きつけられた現実に、その後のリポーターとキャスターの話は耳に入らなかった。
リポーターが告げていた空港の名前は、よりにもよってこの空港だったのだ……。
勢いで来てしまった結果がこれだ。
わたくしは思わずその場に座り込んでしまった。
もう、バスで向かうしか……。
と、そう思った時、誰かがわたくしを呼ぶ声が聞こえた。

「……お嬢様!あやかお嬢様!」

若い金髪の男性が駆け寄ってきた。
執事の格好をしたその男性が誰なのか、最初は分からなかった。
だが、執事の格好をし、わたくしをお嬢様と呼ぶその男性は、確かに雪広家の従者……。
あ……。

「あやかお嬢様。ご無事で何よりです」

「ジム……。ジム・ハルシー……?」

「覚えていて下さったんですね。光栄です…!」

「覚えておりますとも……」

ジム・ハルシー。
彼は去年、ベガスの別荘に来たときに、新しく雪広家に入った新米執事だと紹介された。
そしてその年のバカンスは、彼が付きっ切りでわたくしの面倒を見てくれた。
あの時は初々しかったのに……。

「すっかり……立派になって……」

「い、いえ……そんな。まだまだ未熟者です……」

赤面してはにかんだしぐさは去年と変わり無いのに、たくましい顔つきになって……。

「本当に……立派になって……」

ジムが来てくれた。
そう安心出来た途端、わたくしは感極まって、人目もはばからず泣いてしまった。

「じ、ジムぅ〜……わ、わたくし……不安で…不安で…」

「お、おおおおお嬢様…。お、落ち着いて下さい…」

「ジムぅ〜〜〜……」

「あらやだ。あの男の人、彼女を泣かせてるわよ!酷いわねぇ〜!」

「別れ話でも切り出されたのかしら?あの男も罪よねぇ〜!」

「ち、違います!誤解です!この方は、私が仕える家のお嬢様で…!」



落ち着いて、泣き止むとジムはこう切り出した。

「日本のルームメイトの方から、あやかお嬢様が日本を飛び出してベガスの別荘に向かったと聞いたものですから…」

「グス……なぜ、この空港だと?」

「情報を聞いて、日本からアメリカへの国際便を全て調べました。ネバダ州への便はなく、カリフォルニアの便しかないのを見つけて、ここに来るのではないかと思ったんです」

「さすがですわ……ジム」

「い、いえ……大したことではありませんよ。さぁ、用意した車で別荘へ向かいましょう」

空港を出ると晴天だったはずの空が雲で茂っていた。

「この様子じゃあ、降りそうですね……。早く、車に乗りましょう」

ジムが駆けていく先に、ダークブルーのBMWがあった。
後部座席を開けると、先にわたくしを乗せ、荷物をトランクへ、そして運転席へとジムは座った。

「疲れているのでしたら、お眠り下さい。ハイウェイの旅はつまらないだけですよ」

「そんなことありませんわ。ジムがいるのですから」

「あはは……光栄です。さぁ、行きましょう」

BMWは空港からハイウェイへと向かって走り出した。
ハイウェイに向かう途中、雷らしき音が、ゴロゴロと鳴り出していた。
わたくしは日本からここまでの疲れを癒すように、シートにもたれかかってまぶたを閉じた。
雷はまだ鳴っている。

「……あ、降り出してきましたね」

わたくしに声をかけているのか、それとも独り言なのか、ジムはそう言った。
また雷が鳴った。
雨音と雷が支配する世界で、わたくしを乗せた車は走り続けた。
だけど、今思えば、前兆だったのかもしれない。
これから起きる、不吉な前兆の……。
最終更新:2009年07月07日 12:41