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Chapter 3 「助けて!」

あの恐怖の時間からどれくらいの時間が流れたのだろう。
わたくしは心身ともに疲れ果ててしまった。
ジムも同じようで、フロントガラスの亀裂を何度も見ていた。
いまだにあの男——ジョン・ライダーの恐怖が脳裏を支配している。
早く忘れよう、忘れてしまおう。
そう思う事に専念した。
ジムは車をハイウェイの横の砂漠地帯に車を止めた。
ハンドブレーキを引くと、エンジンを切ってこう言った。

「もう遅いですから、今日はここで眠りましょう」

ジムの顔にも心労の様子が見て取れた。
わたくしも、さすがに車で寝たくないなどとわがままは言えない。

「そうですわね。……今日は本当にいろんな事がございましたから……。ゆっくり休みましょう」

「はい。」

ジムはそう言って、運転席のシートを少し倒して、目を閉じてもたれ掛かった。
わたくしは、ガソリンスタンドで買っていたミネラル・ウォーターをハンドバッグから取り出した。
本当に疲れた……。
わたくしは、ドアと座席のくぼみにもたれ掛かった。
ボトルのキャップを開け、ミネラル・ウォーターを口に流し込む。
早く忘れよう、そう言い聞かせながら飲んだ。
だが……

バリン!

っというガラスの割れる音が、突然車内に響き、ガラスの破片が飛び散った。
そして、男の手がわたくしの首を絞めるかのように伸び、わたくしの首に絡めた。

「……ここに居たのか……お嬢ちゃん……!」

「……!!!いやぁああああっ!!」

叫び声を開けずにはいられなかった。
突然あの男……ジョン・ライダーが現れたのだ。
ジムは目を覚まさない。
唯一助けになる人がいない……!

「こいつを忘れてたからな……?」

わたくしの首を右腕でしっかりと締め上げると、左手のポケットから、あの血のこびり付いたナイフを取り出した。
そして、逆手に持つと、わたくしの心臓めがけて、ナイフを振り下ろした———。

「いやあああああああっ!」

「お嬢様!?どうなさいました!?」

ジムの声で、ようやく私の身の回りの状況を把握できた。
わたくしは後部座席で横になっており、車の窓から陽の光が注いでいた。
蒸し暑さに包まれた車内で、ジムがわたくしを心配そうに見つめている。
……そうか、夢だったのか……。
あの男が突然現れ、襲ってくる夢を見てしまったのだ。

「だ、大丈夫ですわ……」

強がりを言ったが、わたくしは寝汗で身体中がびっしょりと濡れていた。
ワンピースなんて着なければよかった……。

「ご気分が優れないようなら、外に出て気分転換でもいかがですか?」

「そうですわね……そういたしましょう」

車を降りると、まばゆいばかりの朝日が、カリフォルニアの砂漠を照らしていた。
その美しい光景を見ている私の傍に、ジムがやってきた。

「……もう、帰りたいですわ……」

「……大丈夫ですよ、お嬢様。旅のいい笑い話になります、最後には。」

「……自慢したいだけなのでしょう?私を守った、って」

「ち、違いますよぉ!」

「ん?本当ですの…?」

わたくしはジムをからかった。
ジムは顔を赤くしながら、観念したように、あのはにかみ笑顔で言った。

「……そうです。お嬢様を守れたんですから、誇らしい気持ちになりますよ」

「ふふ……正直でよろしい事ですわ♪」

そう、旅のいい笑い話になる。
あんな危ない男の話なんて、別荘に着けば、笑い話になる。
……そう自分に言い聞かせた。

「そろそろ行きましょう」

「えぇ、そうですわね」

早く別荘に行きたい。
たったのそれだけが願いだった。
わたくし達は車に乗ると、再びハイウェイを走り出した。
何の変哲もない、眩しいばかりの砂漠が続くハイウェイ。
その光景を見つめながら、わたくしはあの男の事を忘れようとした。
車はラジオのカントリー・ミュージックを哀愁たっぷりに奏でている。
荒野の光景と、ラジオの曲がとても調和のとれた美しい絵になっていた。
しばらく車を走らせていると、後ろから古いミニバンの車がやってきて、私達を追い越した。
仲のよさそうな夫婦と小さな子供達が乗っていた。
追い越す際に、夫婦はわたくし達に笑みを浮かべながら手を振って挨拶をした。
わたくし達もならって挨拶をした。
後部座席では、見えるだけで子供が2人いて、可愛い笑顔でわたくし達に手を振っていた。
そして、おそらく3人目なのだろう、大きなテディベアのぬいぐるみに隠れて、テディベアの手を動かして、手を振っていた。
無邪気で可愛い。

「ジムは…子供が欲しいなどと、思った事ござませんこと?」

「僕はまだまだ先の話だと思ってます。……でも、えぇ、欲しいですね」

ジムははにかみながらそう言った。
やはり、子供はいいですわ……。
幼い子供を見ると、思わず脳裏に浮かんでしまうのは……生まれるはずだった、わたくしの弟……。

「お嬢様……」

「……大丈夫ですわ」

わたくしは溢れる笑みで、3人目の子に手を振った。
すると、テディベアに隠れていた子が姿を現した。
……が、その姿を見て、わたくし、そしておそらくジムも戦慄した。
昨日何度も見たあの嫌らしい笑みを浮かべた……ジョン・ライダーだったのだ……。
わたくし達の笑顔は一瞬にして消え去り、凍りついた。
どういうわけなのかはわからないが、わたくし達と同じように、ヒッチハイクをして乗り、ここまで来たのだ。

「まずい……!」

「止めて、知らせなくては……!」

ジムは車の速度を上げると、対向車線に車線変更をし、家族連れのミニバンの横に並んだ。
助手席に座っていたわたくしは窓ガラスを開け、力のかぎり叫んだ。
ジムはクラクションを何度も鳴らして、ミニバンの家族にわたくし達を注目させようとした。

「止まって!止まって下さいまし!」

運転席と助手席に座っている夫婦は、何事かと、苦笑いしていた。
わたくし達が馬鹿な事をしている変な連中だと思っているのだろうか。
しかし、わたくし達がどう思われようとも、今すぐ彼らに伝え、あの男が危険だと知らせなくてはいけない。

「後ろに乗っている男は危険ですわ!」

車の駆動音で掻き消されそうだったが、わたくしは何度も力の限り叫んだ。
車内から身を乗り出して、何度も何度も叫んだ。

「わたくし達をナイフで脅しましたわ!早く後ろの男を降ろしてくださいまし!危険な男ですわ!」

わたくしがそう叫んだ途端、腕を引っ張られ、車内に無理やり戻された。

「お嬢様!危ない!」

そしてわたくしが目にしたのは……対向車線から真正面に、私達の車に今にもぶつかりそうな、トラックが目の前に迫っていた。
ジムは急いで、左にハンドルを切り、クラクションを鳴らすトラックを避けた。
だが、避けた先は、ハイウェイを外れた、荒れた砂漠の谷間だった。
次の瞬間には、車は弧を描くように空を飛んだ。
胃がひっくり返るような気分が一瞬したが、それよりもその直後の着地の衝撃が激しかった。
ボンネットは衝撃でひしゃげ、外れてしまい、フロントガラスを太い木の枝が貫いた。
木の枝はフロントガラスの真ん中あたりを貫いたので、幸いにもわたくし達の顔面や身体を貫くような事はなかった。
着地の瞬間に、砂漠の砂埃が舞い、車内に充満した。
わたくしたちは、恐怖と埃で、何度も咳き込んだ。

「ケホッ…ケホッ……お嬢様、大丈夫ですか?」

咳き込みながら、ジムはそう言った。
だが、私はなにも言えず、咳き込むだけだった。
ジムはドアを開けようとするが……着地の衝撃でひしゃげたのだろう、ドアが開かなかったようだ。
ジムはそのまま開けた窓から身体を出し、砂漠の砂地に倒れ落ちた。
わたくしも、開けた窓から身体を出したが、バランスを崩して尻餅をついた。
ジムはわたくしを気遣うより先に、あの家族が乗ったミニバンを確認しに行った。
ミニバンは何もなかったかのように、ハイウェイの奥へと走り去っていった。
ジムは悔しそうに頭を抱えた。
そして、ほとんど廃車と化した車に拳を叩きつけた。

「何で!何で止まってくれないんだ!!!」

わたくしは目に入る煙に目が染みて涙があふれ出た。
何度も何度も咳をしてむせると、悔しさを表面に出しているジムをなだめた。

「ジム……。ジムの責任ではありませんわ……」

「お嬢様……」

ジムはわたくしを見ると、顔を歪ませ悔しそうに震えていた。
ジムは何度か深呼吸をして、廃車になった車のトランクからわたくし達の荷物を取り出した。
車は、レッカー車を呼ばなければ回収は不可能だろう。
どっちみち、保険を掛けているのだから構わない。
だが、この荒野の砂漠……一筋のハイウェイしかない砂漠を徒歩で歩くには過酷すぎる。
しかし、文句を言っても変わらない。
どっちが先だったかわからないが、わたくし達は歩みを進めた。
荒野に降り注ぐ暑い日ざしが、ハイウェイの上をゆらゆらと陽炎を作っていた。
何分……何十分歩いたかわからない。
水分補給をお互いしながら歩いたが……お互い、口を開かなかった。
耐え切れず、わたくしのほうから口を開いた。

「……あの家族……大丈夫かしら……?」

「大丈夫ですよ……きっと……」

何が大丈夫なのだろう。
ジムは何の根拠も示さず、そう言って口を閉ざした。
恐らく、ジムも根拠など無く、そう言ったに違いない。
わたくしの不安や疑問を払拭するためについた嘘なのだろう。
それを知ってしまったら、わたくしはそれ以上掛ける言葉などなかった。
途中、一台の赤いSUVがハイウェイの奥の対向車線から向かって走って向かってきた。
わたくし達と反対側だが、乗せてもらいたかった。

「おーいっ!乗せてくれーっ!」

ジムは必死で叫ぶ。
だが、SUVは無常にもわたくし達の傍を通り過ぎてしまった。

「誰も……ヒッチハイカーなど、乗せないのですわね……」

「お嬢様……」

いったい、なぜこんな事になってしまったのだろう?
砂漠を歩きながら、何度も自問した。
あの男を乗せてしまったから?
それともヤケでアメリカに来てしまったから?
不条理だ……。
わたくしは何も悪い事などしておりませんのに……。

「……!お嬢様……あれを……」

突如、ジムが動揺した声色でわたくしに声をかけてきた。
ジムのほうを見ると、右手の人差し指でハイウェイの奥を指していた。
その先には……あの家族のミニバンが路肩の砂漠に止まっていた。
ジムはわたくしが声を掛ける前に、駆け出した。

「ジム!お待ちになって!」

わたくしも急いでジムの後を追いかける。
ジムはミニバンの近くにくると、歩みを緩め、恐る恐るゆっくりと近づいていった。
ジムに追いついたわたくしが近づくと、ジムは手でわたくしを制止した。

「お嬢様……ここでお待ちになってください」

ジムはそういうと視線をミニバンに戻し……中の様子を伺った。
わたくしは遠巻きに見ていたが……それでも、ミニバンの中が異様な事になっている事はわかった。
人の気配などまったく感じない、それどころか……窓ガラスに赤い斑点が付着していた。
わたくしは想像し……震えが止まらなかった。
あの家族の行く末を、何度も頭から振り払おうとした。
ジムは恐る恐る近づき、車の中の様子を伺っていた。
そのジムの表情が、曇り、歪んでいった事から、どんな事態になっているか想像出来てしまった。

「お嬢様……お願いですから……車には近づかないで下さい……」

それはわたくしに言い聞かせているつもりなのか……それとも、ジム自身に降りかかろうとしている恐怖を紛らわせる為に言った言葉なのか。
そんな言葉を、わたくしは耐え切れずにこう返してしまった。

「なぜですの……?一体、何がどうなっているんですの……?」

わたくしの問いかけに、ジムは、

「お願いですから…近づかないで下さい。……お願いですから……近づかないで下さい」

そう何度も何度も繰り返し呟いた。
ジムが口を押さえ、恐怖なのか悲しみなのか、両方とも受け取れるような表情で中の様子を伺っていると、ジムが運転席を覗き込んだ途端、血まみれの手が窓ガラスにビタッ!と張り付いて現れた。
その時は、思わず、わたくしも、そして恐らくジムも驚いたに違いない。
ジムは慌てた様子で運転席を開けた。
わたくしは思わず、ジムの言葉を無視して、車に近づいていった。
そして、その時初めてジムが制止させた意味を理解した。
車の中の様子は……凄惨……残虐……そんな言葉が当てはまる程、悲惨な光景だった。
血まみれのシートに、血で汚されたぬいぐるみ、そして生気のない顔をした幼い子供達。
腹部は血まみれで、衣服に数箇所穴の開いた形跡がある。
どのようにして幼い命が失われたのか、想像したくない。
けれども、想像せずにはいられない。
特に……幼い子供が命を落としてしまう……そんな状況を知ってしまったら、わたくしは正気ではいられなくなりそうだった。
わたくしが幼い頃……生まれる前に命を失ってしまった弟……。
一生消えないわたくしの心の傷を、再びナイフで切り開かれたかのような心の痛みを感じた。
心臓の鼓動が聞こえるぐらい大きく早く鼓動し、呼吸が困難になってしまった。
砂漠の土に手をついて倒れこむと、涙が溢れ出て止まらなかった。
なんてひどい……。
涙で歪む景色の中、ジムは必死に運転席から人間の身体を砂漠の床へ降ろしていた。

「……ハァ……ハァ……助けて……助けてくれ……」

「大丈夫ですか!?しっかりして下さい!」

溢れる涙を何度も手で拭い、現状を見据えた。
生きている人がいる……!
わたくしも急いで、ジムと生き残っている人の傍へ寄った。
中年男性で、手と胸が血まみれになっており……胸にナイフが刺さっていた。
ナイフの刃はすべて男性の肉体へ刺さっており、柄だけが胸に垂直に伸びていた。
だが、なによりも恐ろしいのは……そのナイフの柄が、あの男……ジョン・ライダーの持っていたナイフの柄と同じだという事だった。
もう何もかもが明白だ。
あの男が……ジョン・ライダーが、この家族を皆殺しにしてしまったのだ。
何の罪も無い、親切で乗せてくれたこの家族を……。
……けれど、まだこの男性は生きている。

「……こ、このナイフは抜かないでおきましょう。抜いたら、出血が酷くなります……」

わたくしは何も言わず、その意見に賛成した。
何かで聞いた話だったが、刺さったナイフは、そのナイフ自身が蓋となり、出血を抑える効果になるとか。
けれども、刺さったままだという事も恐ろしい事だ。
わたくしとジムは何も言わないまま、家族の乗っていたミニバンの後部座席の荷物を地面に捨て、空いた所に男性を寝かせた。
男性は震えながら、こう呟いた。

「家族は……家内や子供達は……?」

わたくしは助手席に、奥さんらしき女性を発見した。
シートに眠るようにもたれかかっていた。
喉を横にかき斬られていなければ、本当に寝ていると勘違いする程に……。
わたくしの様子を察したのか、ジムは目を閉じて悔しそうに震えていた。
わたくしだって、泣きたい……。
怖くて……怖くて……これが夢ならどれだけマシか……。
でもこれは現実なのだ……。
人間の死という……変えられない現実なのだ……。
床に捨てた子供達の、血まみれの絵本が目に飛び込んだ。
題名にこう書いてあった。

『WILL I GO TO HEAVEN ?(天国へ行けますか?)』

えぇ……行けますわ……。

「お嬢様、この男性を診ていてください……。僕が運転して、早く警察か病院へ……」

ジムはそう言って血まみれの運転席に座った。
横に、血まみれになって生気を失って死んでいる女性の死体を見ると、悔しそうな悲痛な表情をした。
そして意を決するように、エンジンを始動させた。
ミニバンは路肩からハイウェイへと戻り、そのまま発進していった。
わたくしは、男性の胸に刺さっているナイフから溢れ出る血を手で押さえた。
手は、男性の血でどんどん真っ赤に染まっていく。
こぼれた血が、わたくしのワンピースに赤い染みとなって付着していく。
だが、もうそんな事など気にする余裕はなかった。
せめて……せめてこの男性だけでも助けなければ……。

「家族全員を襲うなんて……」

むご過ぎる現実に、わたくしは心を押しつぶされそうな苦しみを味わった。
……すると、突然、大きな衝撃を車全体が襲った。
わたくしもジムも、何事かとあたりを見回した。
そして後部を見ると……わたくしは恐怖で固まってしまった。
……赤いSUV……さっきわたくしたちを無視して走り去ったあのSUVが……後ろから追いかけ、わたくしたちが乗っているミニバンに激突してきたのだ。
そして最も恐ろしい事に……そのSUVに乗っているのが……あの恐怖の男、ジョン・ライダーだった……。

「あの男ですわ……」

わたくしは震える身体を止められず、恐怖に狩り立てられた。
その恐怖はジムも同じようで、車を加速させていった。
だが、SUVはそれをものともせず、再びミニバンへ激突していった。
その瞬間、わたくしはジョン・ライダーの顔が……あの不気味な嫌らしい笑みに歪んでいるのを見てしまった。
そう思った瞬間再び、ミニバンへ激突してきた。

「車から放り出した仕返しですの……!?」

「なら、あのまま殺されればよかったんですか!?」

そんなのわからない……。
わたくしは恐怖で叫びたくなった。
叫んで……叫んで……狂ってしまいたかった。
この恐怖から逃れられるのなら、どんなことでもしたい……。

「いや……いや……!……死にたくありませんわ……!」

わたくしはジョン・ライダーの視線から逃れるように、血まみれの男性の傷口を押さえ、屈みこんだ。

(神様……助けて……助けて……!)

何度も祈った。
この時程、初めて真剣に神に祈った事はなかった。
……すると、来る筈のジョン・ライダーの激突が……来なくなった。
思わず、身体を起こすと、ジョン・ライダーの乗ったSUVがハイウェイから離れ、砂漠の向こうへと消えていくのが見えた。

「な、なんだったんだ!?今のは……!何がしたかったんだ!!!」

ジムは恐怖からか怒りからか、怒号を上げた。
その気持ちは、痛い程わかっていた。
わたくしも同じ気持ちだ。
恐怖を煽るだけ煽っておいて、わたくし達を殺そうとはしなかった。
……それでも、わたくしは恐怖だけで、死にそうだった。
明らかに精神的に追い詰められたのは確かだった。
そんな精神状態を落ち着かせられる事もなく、狂騒状態のまま、車は一軒のダイナーに近づいていった。
ここなら、電話があるはずだ。
ジムが車を止めると、わたくしはいてもたっても居られず、車から飛び出した。

「ジム!警察か病院へ電話しますわ!あなたはあの男性を診ていてくださいまし!」

「お嬢様!?」

ジムを制止を振り切り、ダイナーの扉を開けた。
落ち着いてなどいられなかった。
その前に警察か病院に連絡するのが先だ。
扉を開けると、ウエイターの女性がわたくしを驚いた目で見ていた。
わたくしは間髪入れずに叫んだ。

「警察か病院に電話を掛けてくださいまし!あ、あとタオルはございませんこと!?」

「た、タオルならトイレのペーパータオルが……」

「感謝致しますわ!」

昨日の夜、ガソリンスタンドで購入したタオルは、既に男性の傷口を押さえる為に使ってしまった。
だが、それでもなお、男性の出血は止まらなかった。
わたくしは、店内を見回し、トイレを探した。
男女共同のトイレが個室であるだけだった。
わたくしは駆け込むようにトイレに入ると、洗面所のシンクの横にあるペーパータオルを、何枚も引っ張って取り出した。
トイレから出ようと振り返った……その時、わたくしの目に恐ろしい物がうつった。
……赤いSUV……あのジョン・ライダーのSUVが窓ガラス越しに、ダイナーの外に止まっていたのだ。
あの男が……ジョン・ライダーがここにいる……!
トイレの扉を見ると、扉の下から人間の足らしき影が伸びていた。
こっちに近づいてくる……!
わたくしは扉の古い鍵を掛けると、後ろの洗面所の壁まで後ずさりした。
口を手で押さえ、呼吸の音が聞こえないように、ぐっと抑えた。
影はちらちらと動き、そして……ガタガタと扉を開けようと動かした。
目を閉じて、恐怖から目を背けたかった。
だが、一旦閉じてしまったら、死んでしまうような気がした。
何が起ころうと、目を開けていなくてはならない。
こんな所で死にたくない……。
恐怖はどんどん増し、わたくしの心を犯していく……。
扉を激しく乱暴にガタガタと動かす音。
それはまるで、わたくしの心の領域を侵すかのようだった。
わたくしは、必死に耐えた。
恐怖と戦い、疲弊し気を失わないよう努めた。
どのくらい時間がたったのかわからない程、扉を開ける音との戦いは続いた。
そうしてやっと、諦めたかのように、扉を開けようとするのを止めた。
わたくしは恐る恐る、扉の隙間からダイナーの店内を覗いた。
……あの男の姿はなかった。
窓から外の様子を見たら、あの赤いSUV……ジョン・ライダーの車はなかった。
ようやく安心して、わたくしは扉の鍵を開けると、店内へ飛び出した。
ウエイターや客は、わたくしを怪訝な顔で見つめていた。
わたくしは改めて自分の姿を見た。
手やワンピースを血で染まった姿だった。
そんな姿を見て、変だと思わない人などいないだろう。
それでも、そんな事を気にする余裕などなかった。

「電話はかけてくださいました?」

「え、えぇ、かけたわ。」

ウエイターのその言葉だけ聞くと、わたくしはペーパータオルの束を持って店内を飛び出した。
急いで、ミニバンの後部座席に駆けつける。
後部座席には、ジムがタオルを男性の傷口に当て必死に抑えていた。
わたくしは声を掛ける間もなく、ペーパータオルをその上に重ねて、ジムと一緒に傷口を押さえた。
ジムもわたくしも、服を血まみれにしながら、男性の命が助かる事を願っていた。
男性は瞳孔の定まらない目をしながら、うわ言のように呟いていた。

「……主は我が牧者なり……たとえ死の影の谷を歩いても……私はどんな悪も恐れない……」

溢れ出る血、全身の痙攣、そして口から吹き出る血……。
わたくしは祈った。
わたくしは敬虔な神の従者ではないけれど、この時ばかりは神様がこの男性を救ってくれるように、祈った。
……けれども、男性は大きな吐血を、わたくし達が抑える手に浴びせるように噴出すと、そのまま痙攣がなくなり……目を開いたままピクリとも動かなくなってしまった……。
……死んでしまった……助けられなかった……。
絶望がわたくし達を包んだ。
後悔と自責の念……そして不条理な現実に、わたくしは涙が止まらなかった。
口を開いたら、声を上げて泣いてしまいそうだった。
……だから、わたくしは……必死に声を出さずに、泣いた。
どれほど泣き続けたのだろう、しばらくするとパトカーのサイレンの音が鳴り響きながら近づいてきた。

(今更……手遅れですわ……)

わたくしは泣きはらした顔を上げた。
すると、信じられない光景が広がっていた。
警官が二人、パトカーから降りていて……わたくし達に銃を向けている。

「動くな!……両手を挙げて見えるようにしろ!車から降りろ!」

わたくしは訳がわからなかった。
わたくしは、警官の言う通りに、手を挙げながら車から降りた。

「違いますわ!警察を呼んで欲しいと言ったのはわたくしですわ!」

「黙れ!連行する!」

警官はわたくしをミニバンから引き離すと、パトカーのボンネットにわたくしを押さえつけて、手を後ろに組まされて、手錠をはめられた。
それはジムも同じようで、ジムはミニバンのボンネットに押さえつけられて手錠をはめられた。

「君には黙秘権がある。発言は不利な証拠となり得る」

「わたくしではありませんわ!!」

わたくしは警官によってパトカーの後部座席に座らせられた。

「彼女は無実だ!信じてくれ!」

「弁護士を雇えない場合は、国選で弁護士がつけられる。……さぁ、来い!」

ジムはわたくしを見つめていた。
わたくしもジムを見つめる事しか出来なかった。
……どうしてこんな事に……。