prologue

雨の打つ、激しい音。
男が車に乗り込む前から降り続いていた雨が、車全体を包み、支配している。
だが、車内を包むのは、外の雨の音だけには留まらなかった。
男の体内から響く鼓動が木霊していた。
やけに煩い。
脈打つ鼓動は雨の音よりも大きく木霊し、男にとっては耳鳴りがしそうだった。
男は胸を押さえていた。
身体から飛び出そうな鼓動をしている心臓を。
……原因はわかっている。

今回の仕事は最初からおかしかった。
何から何までお膳立てされているかのようだった。
明らかに自分以外の何者かの影響があった。
だが、それを確かめる時間もなかった。
結果的に、自分は尻尾を巻いて逃げるだけだった。

だが、結果など現時点ではどうでもいいし、真相の解明もどうでもいい。
今、男にとって大事なのは、男を襲っているこの危機だ。
数分……いや数十分だろうか?
男は命からがら逃げてきた。
毒を盛られたのだ。
霧状の毒物だった。
その毒の症状が何かはわからない。
仕事の前のブリーフィングで説明を受けた気がするが、思い出せない。
記憶力が著しく低下し、意識障害もおきている気がする。
心臓が大きく脈動し、身体中の血管が燃えるように熱い。
汗もどんどん吹き出ている。
男はなんとか思い出そうとしていた。
……この毒は、最終的にどんな作用を起こすのだろうか?
身体中が痙攣する。
寒くて震える。
ふと、鼻から口へ伝う物が流れた。
手にとってそれをみると……それは鼻血だった。
……男は思い出した。
この毒に侵された人間の末路を。

男は震える手で車の座席に置いてあるブリーフケースを取り出した。
特徴のある刻印のあるケースだった。
男は開くと、身につけている品を全部ブリーフケースに仕舞い込み始めた。
ありとあらゆる品が詰め込むと、最後の品を懐から取り出した。
……それは、二挺の拳銃だった。
シルバーのコルト・ガバメントだった。
標準より銃身は長く、また、グリップにブリーフケースと同じ刻印が施されていた。
ガバメントをケースに仕舞うと、男は自身が着ているスーツの上着を脱ぎ、ホルスターを脱いで同じようにケースに仕舞う。

……よし、これで身元を特定する品はないはずだ。
残りの物は、この車のキー、そして……。
男はブリーフケースの小物入れから、円筒状のスチール製の小物を取り出した。
キャップを外すと、鋭い針が剥き身になり、暗闇の中、月の光を浴びて光っていた。
ブリーフィングの時の説明に、この小物の説明を受けた。
毒の影響で意識混濁だが、覚えている限りでは、これは解毒剤の入った使いきりの注射器だ。
この鋭い針を心臓に垂直に刺せば、圧力で中の解毒剤が体内に注入されるという。
……今回の仕事で使うかもしれないと渡されたのだ。
一応念のため……のつもりだったが、まさか本当に使う事になろうとは思わなかった。
副作用の説明もされたような気はするが、今のこの状況で副作用を危険視し、解毒剤を使わないなどという選択はできない。
男は車のキーと解毒剤だけを持ち、車から降りた。
電子音が鳴り、車の施錠がされるのを確認すると、車から出来るだけ離れた。
自分と車、そしてその中の品を結びつける物を出来るだけ離したかった。

……足元がおぼつかない。
片足を引きずるように駆ける。
身体中の血管が破裂しそうだった。

(限界か……)

男は街路樹の一本に目をつけ、その根元を掘り始めた。
頭痛や眩暈を起こしている中、勢いだけで掘り進めると、その中に車のキーを埋めた。
そして、立ち上がり、また離れるように駆けた。
もう、自分がどこにいるのかもわからない。
木々が覆い茂る地帯にいるが、街から離れているのかもわからない。
ふと、ついに脚を引っ掛け、倒れこんだ。
全身を強い雨が打ちつける。
男は仕舞いこんでいた解毒剤を取り出し、天にかざした。
……身元を特定する物を隠匿する為に多くの時間を費やした。
毒が回ってからどのくらいの時間が経っているかはわからない。
もしかしたら、今更解毒剤を打っても助からないかもしれない。

(……なら、その時はその時だ)

仰向けになった男は、ワイシャツの上から注射器の針を心臓に突き刺した。
パシュッという空気の圧力で、解毒剤が心臓に注ぎ込まれた。
男は全身を痙攣させながら、意識が薄れていく気がした。
薄れる視界の中、最後に見たのは満月だった。
雲からのぞく満月が、男を惹き付けた。
そして、その記憶が、最後だった。
男は、雨の中、仰向けに倒れたまま目を閉じ、動かなくなった。





————— ヒットマン -Code MAHORA- ——————

最終更新:2010年03月19日 13:57