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Chapter.1「Who am I ?」

宮崎のどかは大雨の中、後悔していた。
ルームメイトの早乙女ハルナに頼まれごとをされていたのだ。
普段、ハルナの趣味を手伝っているのどかだが、今回ばかりはレベルが違っていた。
ハルナの趣味である「マンガ」の締め切りに付き合わされた。
ここまではいい、いつものことだ。
だが、今回は並外れての「修羅場」だった。
いつ終わるかわからない無間地獄のようだった。
意識の混濁、睡魔、ありとあらゆる誘惑から負けないようにがんばっていた。
二人の親友である、綾瀬夕映と共にがんばった。
そして、数十分前に、とうとう完成した。
今日完成し、すぐに入稿するために郵便局に行こうとした。
だが、ここで問題が発生した。
以下、問題点を列挙する。

1、ハルナ、夕映、両名の活動停止(緊張状態を解いた事による急激な睡眠)
2、問題点1により、郵便局へ持ち込む人間がのどか一人になったという事。
3、完成時、すでに深夜を回っており、寮から出るのは校則違反に相当する。
4、深夜まで開いている郵便局はひとつしかない。
5、しかもその郵便局は、明日は開かない。
6、今日速達で送らないと、確実に原稿を「落とす」ことになるという事。

この問題点を、のどかはひとりで解決しなくてはいけなかった。
今日、一生懸命頑張って作った原稿を落とすなど、親友に顔向け出来ない。
寮を抜け出し、校則違反になるかもしれないが、そんな事は気にしていられない。
他の人に助けてもらうわけにもいかない。
自分達の都合で助けてもらうなど、筋違いだ。
のどかは意を決して、外に出た。
どのくらいの時間が掛かったかはわからないが、無事郵便局に原稿を持っていくことが出来た。
速達で印刷所に送り全ての仕事は終わった。
凝った身体を少しでも休めるため、郵便局に備え付けの椅子に座った。
……それが仇となった。
郵便局員に起こされ、自分が一時間程居眠りしていた事を知った。
あわてて外に飛び出るが、外はいつのまにか大雨が降っていた。
寮を出るとき、降りそうだなとは思っていたが、すぐに戻るつもりで傘を持って来ていなかった。
のどかは泣きながら、寮へ向かって走っていった。

(……こんな事になるなんて……)

傘を持ってこなかったのが悔やまれた。

麻帆良学園都市は日本の都市の中では、治安がいい方だと常々のどかは思っていた。
だが、それでも100%ではない。
犯罪の発生は、人口の数に比例して数が増える。
人が多ければ、それだけ問題も起きる。
のどかは、そんな簡単な問題でさえも、この大雨で忘れていた。
そのために、身近に迫る危機に対応できなかった。

「っ!?」

目の前に立ちふさがる、薄汚いパーカーを着た男。
のどかは思わず、後ずさりし、後ろを振り向く。
すると、二人のジャージを着た男が同じように迫っていた。
明らかに柄の悪い男だった。
三人とも、肩で風切るようにふてぶてしく近づき、のどかを注視している。
獲物を取り囲み、間合いを詰めていく獣のようだった。
のどかはまさに、獲物の羊そのものだった。

「よう!こんな時間に夜遊び?」

「あ……あぁ……」

のどかは声が出なかった。
恐怖で完全に萎縮していた。
次々に男達が声をかけてくる。
それはナンパなどという生易しい物ではない。
相手の都合など考えずに自分達の物にしようとする、獣の行動だった。
のどかには、男達の声がまるで獣のうなり声のように聞こえた。
教師であり、想い人であるネギ・スプリングフィールドと出会って、少しは男に対する考えが改まってはいたが、こんなことをされれば評価を変えずにはいられない。
少なくとも、ネギ以外の男性については評価を著しく下げることになるだろう。
それ以前に、目の前の男達によって、大事に守ってきた純潔を散らす事、それによって影響されるその後の人生が怖い。
なにより、想い人のために大事にしてきた想いを散らされるのが辛い。

(ね、ネギ先生……ネギ先生……!)

想い人の名を頭の中で呼び続ける。
そうすれば、助けにきてくれるんじゃないか?そんな淡い期待を込めていた。
だが、三人の獣は弄ぶようにジリジリと近づいて来る。
雨に濡れた服が身体に張り付いて気持悪い。
緊張で流れた冷や汗も含まれているのだろう、汗臭さも感じる。
身体が強張る。

「た、助けて……下さい……」

苦し紛れに呟いたのどかの言葉を、男達は囃し立てた。

「オイオーイ!別に殺すわけじゃないぜ?ちょっと俺たちと遊ぶだけじゃねぇか?」

男達はゲラゲラ笑い、煽るように威嚇する。
殺すつもりはない、と男達は言ったが、男達がのどかにする行為は、のどかにとっては死に相当する。
それを、まるで男達は週末にメロリンコックな気分でマリファナを吸うような感覚で行おうとしている。
しかし、それを理解しろと言ったところで、理解してくれるかどうかは怪しい。
パーカーを着た男が、右手に銀色に光る物を弄んでいた。
くるくる何度も回転すると、鋭い刃が飛び出ていた。
あれは……バタフライ・ナイフだ。
あれで脅かしたり……服を切り裂いたりするのだ。
奥歯がガチガチと馬鹿みたいに震える。
脚の力もやっと立っていられるぐらい、力が無い。
バタフライ・ナイフを弄ぶ男は、それで煽るのが楽しいように、くるくると何度も往復させ弄んでいる。
そして……ナイフの刃を垂直に向けると、眼光が鋭く光った。
のどかは踵を返すと、そのまま走った。
踵を返した視線の先には、両脇に別の男達二人が居たが、その脇を潜らせるかのように、道を開けた。
のどかには、思慮する余裕はなかったが、男達は敢えて逃がしたのだ。
獣とこの男達が違うのは、欲求と切実さの問題だ。
獣は、獲物を仕留めなければ生きていけない。
食欲と明日への活力という現実。
だが、この男達は違う。
別にのどかを逃がしても明日のわが身を憂うことはない。
あの気の弱い少女のことだ。
名前もわからないチーマーを警察に訴え出る事も出来るわけがない。
あの少女は、この手の事件に合うと泣き寝入りする典型的なタイプだ。
わが身に危険が及ばないのなら、これは完全に「遊び」だ。
……なら、とことんまで弄んで、嬲(なぶ)って、屠るべきだ。
のどかが逃げ出したのを、ニヤリと笑って、男達は後を追いかけた。
未成熟な少女であるのどかと、いい年をした大人の男である三人。
体力が勝っているのはどちらか、論ずるより明らかだった。
男達は余裕でのどかに追いつくが、捕まえず、わざと泳がし弄んでいた。
たまに前に回りこむと、捕まえる振りをして、脇で逃がす。
のどかは、自分の機転で逃げられたと思っているかもしれないが、それは大間違いだった。
すべては、弄び、嬲り、獲物の血肉を貪り食う獣のように、屠るための遊びだ。
獲物であるのどかは、そんな事を露とも知らず、懸命に逃げ惑っていた。
前から降り注ぐ雨が、何度も顔を叩く。
目に雨水が入り、酷く滲みる。
そのせいか、涙が溢れ出ていた。
いや、雨のせいにするのはよそう。
……己が心を駆り立てる恐怖心故だ。
人間の姿を借りた悪魔が3人、囃し立てるように恐怖を与える。
のどかはそれから逃げるしかなかった。
地面に膝をついて、手をついて。
鼻を啜り、言葉にならない声を漏らし、必死に恐怖から逃げる。
でも、恐怖は先回りし、待ち受ける。
この恐怖に駆り立てられる時間は、いつになったら終わるのか。
ふと、のどかの中で、恐ろしいぐらい冷静な自分がいるのに気付いた。
そうだ。
恐怖の時間は、いつか終わる。
子供のときに受けた予防接種の注射。
あれだって、そうではないか。
痛い思いは数えるほどしかない。
その後に訪れる平穏を考えれば、我慢してやり過ごすの待てばいいのだ。
人生は有限だが、長いのだ。
痛みを我慢すれば、いずれ平穏が訪れる。
やり過ごせばいい、やり過ごせば……。
そう思いながらのどかは、組し抱く男達の下で、恐怖がやり過ごされるのを待っていた。

雷が、三人の男を映し出す。
形容しがたい程、のどかには男達が醜く映っていた。
醜悪さというのは、外見変えてしまうのか、と思った程だ。
そんな三人の形容などどうでもいいのに、のどかは思い至った。
これから自分に行われる残虐な行い。
男にとってはただ性欲を満たすためだけの行為だが、女にとっては死そのものに値する行為、それが行われるのだ。
のどかは恐怖で、心の中の怖いと思う感覚が麻痺したのか、とても冷静な感情で自分に行われる行為を予想した。
それでも、その行為によって自分がどうなってしまうのか、それは想像するだけでも苦痛だった。
人間は、苦痛を伴う想像は、想像すら出来ない。
この時は、その心理現象を心から感謝した。
そして、すくなくとも、自分の人生を省みた。
自分を生んでくれた両親に、申し訳ないと思った。
健やかに育ってくれる事を願っていたに違いない両親に、申し訳ないと思った。
次に、親友達に、申し訳ないと思った。
明るく楽しい生活を、乱すことになって、申し訳ないと思った。
そして最後に、ネギ・スプリングフィールドに、申し訳ないと思った。
こんな自分に、心痛める、優しい先生に、申し訳ないと思った。
のどかの目には、涙が溢れ、零れた。
男達の囃し立てるゲラゲラと笑う声は、まるで遠くで聞こえているようだった。
のどかの目には、まるで霧の掛かった光景だった。
耳鳴りなのか、キーンと張るような音が耳を覆う。
まるで、爆発に巻き込まれ、耳が遠くなり、意識が混濁しているかのようだった。
自分と外界に大きな半透明の壁があるように思えた。
宮崎のどかという自分の意思が、宮崎のどかという身体に閉じ込められているような感覚。
いや、これからされる行為を思えば、今自分は、宮崎のどかという肉人形なんだ。
それでも、宮崎のどかは、世界に伝えるように、自分の、意識が保っていられる内に、伝えたかった。
愛すべき、すべての人に。

「ご……」

僅かに開いた唇の中に、雨の水滴が入り込む。
だが、それでも、言葉を紡いだ。
それが、宮崎のどかとしての最後の言葉だと思って。

「……ご…………ごめん……なさい……」

世界の全てに、ごめんなさい。

そう呟くような言葉を紡ぐと、宮崎のどかの意識は途切れた。

のどかは閉じた目を開いた。
その見開いた光景は、並木林と街灯、そして黒い空だった。
空から降り注ぐ雨が目を打つ。
……おかしい。
のどかは異変を感じていた。
まず、視界に、あの醜悪な男達が映っていない。
もうこの場にいないのか?
それなら、既に行為が及んだ後なのだろうか?
ならば、なぜ自分は正気を保っていられたのだろうか?
案外、正気を保てるほど、大した行為ではなかったのだろうか?
いや、まず行為の恐怖性に関しては、ありえない。
あれが「大した行為ではない」はずがない。
経験の有無はこれから確認しなくてはいけないが、「大した行為ではある」のだ。
なら、なぜ自分は正気を保っているのだ?
少なくとも、現状認識をしようという意欲はある。
ふと気が付く。
身体に何の違和感もないのだ。
恐怖の行為をされれば、少なからず肉体の損傷はあるはずだ。
それがまったくない。
厳密にいえば、少々身体が凝っているぐらいか。
では、行為は及んではいない?
……なぜ?
のどかはその時、身体を起こし、ようやく現状を認識していた。
……自分の両脇に、あの醜悪な男の二人が倒れていた。
二人とも両目を剥いて、倒れている。
死んでいるのか、それとも気絶しているだけかはわからないが、不自然に身体を捻じ曲げている。
……そして最も不可思議な事に気付いた。
第4の男がいたのだ。
それものどかを遮る……いや、立ち塞がり、守るように仁王立ちして。
男は、さっきの下品で醜悪な男とは違い、上品で尊大で、そして威圧するような貫禄があった。
しかもそれは、のどかに大してではなく、男の影になっている、あの醜悪な最後の男に対してであった。
醜悪な男は、のどかの目の前にいる男に、バタフライ・ナイフをチラつかせて、虚勢のような威嚇をしている。
のどかの前にいる男は、のどかの足元のすぐ近くにおり、何があってものどかを守ろうという強い意志を感じられた。
のどかを守る騎士は、暗くて識別し難いが、長身で肉付きがいいのが服の上からもわかった。
黒のスーツを着ているが、どう見ても堅気のサラリーマンには見えない。
むしろ……「ヤクザ」、そう形容するのが似合う気がする。
しかし、のどかには目の前にいる騎士をそう形容するのは相応しくないと思った。
なんというか……失礼な気がする。
この場を推測するに……彼は本当に騎士なのだ。
どういうわけか、意識を失い、襲われる前に、目の前に現れ、瞬く間に悪者二人を叩きのめし、自分を守るように立ち塞がってくれたのだ。
こんなこと、滅多にあるわけがない。
だが、本当に訪れた幸運なのだ。
自分の運命を呪い、人生に別れを告げ、親しい人に謝罪したのに……。
その運命を、あっという間に変えてくれたのだ。
雷鳴が轟き、後姿を向けている騎士の姿がくっきりと浮かび上がった。
特徴的だったのは、彼の頭部だった。
頭髪は無く、後頭部に刺青のような刻印が刻まれているだけだった。
その刺青は……バーコードだった。
獣の男は、そのバーコードの騎士に、必死に威嚇している。
仲間二人が倒され、動揺しているのが、のどかでもわかった。

「て、てめぇ!何者だ!邪魔すんじゃねぇ!」

バーコードの男は、男の罵声をその身体で受け止め、受け流していた。
それは、まるで蛮族の野人と、日本の武士が対峙するようだった。
まるで意に介さずといった感じで、バーコードの男は厳しい目を男に向けた。
男は、言葉にせずとも、「ひっ!?」という悲鳴を上げていた。

「……今、俺の事を何者だ、と聞いたな。俺もそれが知りたい。……俺は何者だ?」

初めて、バーコードが付けられた騎士の言葉を聞いた。
しかし……。

(……何を言っているのだろう、この人は?)

のどかがそう思ったのと同時に、野蛮な男もそう思ったに違いない。

「わけのわかんねぇこと言ってんじゃねぇーっ!」

と、緊張の糸が、バーコードの男の言葉で切れたのか、バタフライ・ナイフを突き立て、襲い掛かった。
男の繰り出すナイフは直情的で、素人を脅し、仕留めるぐらいなら十分だろう。
ただし、そこまでだ。
騎士に通じるかどうかは、まったくの別問題だった。
バーコードの騎士は繰り出した男のナイフを持つ手の手首を掴み上げると、いっきに反対方向に捻り上げた。
男は電撃を浴びたかのように、悲鳴を上げ、無力にその場に座り込んだ。
バーコードの騎士は、男の持つバタフライ・ナイフを取り上げる。
その間にも、男の手首を捻り上げ、無力にしている。
バーコードの騎士はナイフの刃を突き立て、男を注視した。

「……答えてくれ。俺は何者だ?」

男は呻き声をあげながら、それでも挑発のつもりか、口の減らない言葉を並べ立てた。

「知るかよ!てめぇ見たいなキチガイ野郎!知ったこっちゃねぇ!それより、俺たちに手を出した事を後悔するんだな!俺の仲間が黙っちゃいねぇぞ!?」

だが、バーコードの男は、男の並び立てる脅し文句などまるで興味がないようだった。

「興味がない。……それに、お前は仲間に助けを求めることは出来ない。なぜなら、お前は、『彼女』に謝罪をしなかった」

『彼女』……それがのどかを指す事に、のどか自身気付いた。
バーコードの騎士は男に構わず続ける。

「つまり……俺にとって、お前を生かす理由が無くなったわけだ」

「っ!?」

バーコードの騎士は、ナイフを振り上げた。
のどかはすぐに察知した。
ナイフの振り下ろされる先は……男の頭部だ。
深く突き刺すつもりなのだ。
人間の頭蓋骨を一撃で突き刺した時、どの程度まで突き刺さるかは分からない。
だが、どちらにしろ、それは死を意味していた。

……バーコードの騎士は、目の前の男を殺す事に、何の躊躇もなかった。

「だ、だめですぅっ!!」

のどかは叫んでいた。
叫ばずにはいられなかった。

騎士の持つナイフの切っ先が、男の髪の位置で止まっていた。
驚く程正確に、勢いの付いていたナイフはピッタリと止まっていた。
そのナイフを、恐怖に彩られた醜悪な男は、目を離す事が出来なかった。

「あっ……あ……あぁ……」

男は恐怖で言葉にならない声を上げていた。
ふと、バーコードの騎士がのどかの方へ振り向いた。
暗くて分からなかった顔が、稲妻の閃光でライトアップされた。
掘りの深い顔で、黒い眉毛の男だった。
国籍は不明だが、20代後半から30代後半辺りの顔立ちだった。
決して爽やかな顔ではなく、笑顔が想像できないぐらい厳格な表情をしていた。
バーコードの男はのどかを一瞥すると、バタフライ・ナイフを翻し、ナイフの刃を柄に収め、その柄で男の顔を殴った。
男は血を噴出し、白目を剥いて気絶した。
バーコードの男はそれを確認すると、バタフライ・ナイフをスーツの胸ポケットに、まるでペンを収めるように仕舞った。
あまりにも呆気ない救出劇だった。

のどかは差し伸べられる手に戸惑っていた。
見知らぬ、暖かい手。
だが、それは自分を穢そうとした男達を瞬く間に倒せる程、力強い。
だが、同時にそれは酷く残酷で、暴力的だ。
この差し出される手は、さっきののどかの制止の叫びが無ければ、人の命を奪っていた。
のどかは、差し出される手……黒革の手袋に包まれたその手から、差し出される男の顔を観た。
笑顔ひとつ無い。
厳格な顔を維持したままだ。
だが、それでも、……慈愛に満ちた顔をしている。
純粋にのどかを心配している顔だ。
……信じていいのだろうか?
だが、のどかはすぐにそんな思考に至った自分を恥じた。
残酷な陵辱から救ってくれた相手を警戒するなど、そんな事は失礼だ。
少なくとも、感謝の気持ちを抱くべきなのだ。
のどかは警戒心を解き、男の差し出された手を握り返した。
男は手を引いてのどかを立たせた。

「……大丈夫か?」

男の言葉に、のどかは改めて自身の身体を見つめた。
身体が凝っている気がするが、外傷はない。
精密検査をしなくてはわからないと思うが、純潔を散らしたわけではないと思う。

「だ、大丈夫です……」

のどかがそう口を開くと、途端に恐怖が襲い掛かった。
麻酔で鈍っていた感覚が取り戻したかのように。
地面が崩れ落ちるような感覚、そして、膝の力が抜ける感覚。
そして全身を襲う震え。
血の気が全身から引き、言い様のない寒気が襲った。

「……っ!?」

のどかは膝を崩し、身体が倒れた。
そののどかを、男はそっと手で抱きかかえた。

「無理をするな」

「……は、」

のどかは言いかけて、男を見上げた。
自分を陵辱し穢そうとした男と、その男を蹴散らした騎士のような男。
のどかは男に対して苦手意識を持っていたが、誠実な男を見るのは、想い人のネギ・スプリングフィールド以来だった。

「……はい、ありがとう……ございます」

のどかは恐怖に怯える心に差し込む暖かい光に感謝し、騎士に柔らかい笑顔を向けた。

男はのどかを抱きかかえ、のどかに教えてもらった寮への道を歩んだ。
男は、あの後、病院に行く事を勧めたが、のどかは深夜に寮を抜け出した事が気に掛かるようで、明日病院へ行くと言って断った。

「あの……、ありがとうございます……」

のどかは男の腕の中で呟くように小さな声で囁いた。
基本的に気の小さいのどかは、蚊の鳴くような声だ。
だが、多くの人は、そんなのどかが信念の強い、性根の座った少女だとは知らないし、彼女自身も自覚していない。
気の弱い少女の外見に、すっかり隠れてしまっている。
男は視線だけのどかに向けると、すぐに正面の道に目を向けてしまった。

「気にするな」

厳格という言い方をしたが、のどかにとっては「冷たい」という印象も抱いた。
頭髪は無く、毛は眉とまつ毛のみであるから、国籍を識別する事は出来ないが……少なくとも黄色人種ではなく、白人だと分かる。
だが、それ以外はセールスマンのように、感情を起伏させ表面に現さない厳格さがある。
言い換えれば、個性の無だ。
特徴という特徴がなく、主たる主がない。
無、そのものと言えた。
のどかは、名前が知りたかった。

「あの……よかったらで……いいんですけど……」

「…………」

「お名前……教えてくれませんか?」

「…………」

男は無言で、非難のような目をのどかに向けた。
のどかは、男が機嫌を悪くしたものと思い、おおいに狼狽した。

「い、いえ!い、嫌ならいいんです!ごめんなさい……」

のどかの悲痛なまでの狼狽ぶりに、男も困惑した。
いや、「困惑のような表情」をした。

「……別に嫌じゃない。……だが、教えることは出来ない」

のどかは、男が機嫌を悪くしたわけではない事が分かってホッとしたが、だが、気分を害してしまったから名前を教えてくれないんだと思った。
だが、そうではなかった。

「教えるにも……教えられん。俺も自分の名前がわからない」

「え……?」

「誰か、俺を知っているのなら、教えてくれ。……俺は誰だ?」