異性愛者へ12の質問
今回の設問とそれをめぐる議論を受けて、nodadaさん宛てに公開書簡を書きました。
http://h.hatena.ne.jp/Siesta/9234280098626569864
http://h.hatena.ne.jp/Siesta/9234068992435932793
http://h.hatena.ne.jp/Siesta/9234280098626569864
http://h.hatena.ne.jp/Siesta/9234068992435932793
異性愛者へ12の質問
冷静(なつもり、または斜に構えた態度)で答えっぱなし、が一番よくないよな、と自戒を込めて。と言いつつ、もうそういうスカシた(というかすましくさった)答えしか書けそうにないので、ちょっと迷い中。
のだださんがご指摘のとおり、結婚と恋愛が密接に関連付けられ出した(建前としてでも、原則として恋愛は結婚の前提としてするもの、結婚は恋愛の結果としてするもの、かつ結婚したら子供を持つもの、と考えられているように)あたりに、なぜ異性愛が「正しい」ことになるか、という理由がありそうですね。
のだださんがご指摘のとおり、結婚と恋愛が密接に関連付けられ出した(建前としてでも、原則として恋愛は結婚の前提としてするもの、結婚は恋愛の結果としてするもの、かつ結婚したら子供を持つもの、と考えられているように)あたりに、なぜ異性愛が「正しい」ことになるか、という理由がありそうですね。
異性愛者へ12の質問
異性愛者へ12の質問
異性愛者へ12の質問
(モノセクシュアルで成人愛で性器主義的でetc、など多くの要素を条件とした)「正しい異性愛」を作り出すダシとして、同性愛概念は生まれた・語られたのではないか。
などと思ってます。
などと思ってます。
異性愛者へ12の質問
それにしても、異性愛と言ったって、本当人それぞれですよね。そういうものを改めて発見させてもらいました。・・・いや、確かにそういう異性愛の多様性を引き出すべく作られた質問があればいいのですが。12質でやるのも限界はあると思います。うーむ。
つーか、選択して異性愛って人もいるでしょうね、そりゃ。そゆ人はきっと自分に何かしらの「原因」を見てるんでしょうね。
しかし、異性愛と名乗った時点で「異性愛は生物としてデフォ」と考える多くの異性愛者の中に埋もれて見えなくなる・・・。
そんなことを今思いました。
つーか、選択して異性愛って人もいるでしょうね、そりゃ。そゆ人はきっと自分に何かしらの「原因」を見てるんでしょうね。
しかし、異性愛と名乗った時点で「異性愛は生物としてデフォ」と考える多くの異性愛者の中に埋もれて見えなくなる・・・。
そんなことを今思いました。
異性愛者へ12の質問
異性愛者へ12の質問
異性愛者へ12の質問
異性愛者へ12の質問
そもそも、異性愛の原因を問うことは、非異性愛やその他のクィアであることの原因を問うことと、それほど違わないはずですし。違う、とされる異性愛を、今回多くの方が問われ、答えてくれました。(たとえ異性愛はデフォと繰り返されたとしても)そのこと自体が、とても有意義だったと思います。
しかし、結局この質問に向き合っても、異性愛の「自然」化は起こったでしょう。それについて、今後も考えていきたいです。
その異性愛は、どんなもので、それがどうして自然だったのか。
しかし、結局この質問に向き合っても、異性愛の「自然」化は起こったでしょう。それについて、今後も考えていきたいです。
その異性愛は、どんなもので、それがどうして自然だったのか。
異性愛者へ12の質問
では、今の結婚を目標として掲げた(少なくとも社会制度的には明らかに奨励されている)異性愛と、それ以前の「異性愛」と呼ばれうるものは、全く同じものだったでしょうか?そうは思えません。
「異性愛」と呼ばれうる性・関係は、確かに時代性と文化社会性を帯びている。ある人は、同性愛に比べ異性愛は生物的に昔から当然あるもの、変わりないものとして語りますが、その認識自体が恣意的(わざとらしく取捨選択されたもの)ではないか、と思います。
その考えの下では、単純に異性愛だけでなく、まるで結婚することまでもが「自然」化されているようです。
異性愛の原因は問われず、問われないために、いつの間にか現在の異性愛者の“生き方”までもが自然化される。こうして多くを排除した制度と文化は、『異性愛』の権威を帯びる。
皆様はどう思いでしょうか?
たとえば結婚すべきという圧力が、正しい異性愛を作り、正しい異性愛を生きる人が、その制度を強化していると考えるのは、ある程度妥当な気がします。
そういう流れから、あらかじめ結婚から排除された関係や性は、異端とされていくのではないでしょうか?そのくせ、一方に対して原因論を持ち出しておきながら!
異性愛の原因を問い詰めていくと、今の社会がどれほど文化・制度的に「正しい異性愛」の特権化を行っているか、見えてくるように思います。同時に、異性愛概念そのものが、無徴となっていることが分かります。
それゆえ、異性愛の原因を問うこと問われる事は重要だと考えます。いや、最終的には原因論を問い直す事が必要になってくるでしょう。
「異性愛」と呼ばれうる性・関係は、確かに時代性と文化社会性を帯びている。ある人は、同性愛に比べ異性愛は生物的に昔から当然あるもの、変わりないものとして語りますが、その認識自体が恣意的(わざとらしく取捨選択されたもの)ではないか、と思います。
その考えの下では、単純に異性愛だけでなく、まるで結婚することまでもが「自然」化されているようです。
異性愛の原因は問われず、問われないために、いつの間にか現在の異性愛者の“生き方”までもが自然化される。こうして多くを排除した制度と文化は、『異性愛』の権威を帯びる。
皆様はどう思いでしょうか?
たとえば結婚すべきという圧力が、正しい異性愛を作り、正しい異性愛を生きる人が、その制度を強化していると考えるのは、ある程度妥当な気がします。
そういう流れから、あらかじめ結婚から排除された関係や性は、異端とされていくのではないでしょうか?そのくせ、一方に対して原因論を持ち出しておきながら!
異性愛の原因を問い詰めていくと、今の社会がどれほど文化・制度的に「正しい異性愛」の特権化を行っているか、見えてくるように思います。同時に、異性愛概念そのものが、無徴となっていることが分かります。
それゆえ、異性愛の原因を問うこと問われる事は重要だと考えます。いや、最終的には原因論を問い直す事が必要になってくるでしょう。
異性愛者へ12の質問
他にも、野生動物の交尾を取り上げて「結婚」などと称すものも、異性愛における結婚制度を「自然」化させるパフォーマンスでしょう。
そこでも、異性愛の原因は見えづらくされます。中には、異性愛に何かしらの原因を感じている当事者もいるのに、です。
そこでも、異性愛の原因は見えづらくされます。中には、異性愛に何かしらの原因を感じている当事者もいるのに、です。
異性愛者へ12の質問
でも私は、原因を問われること、自問する事を放棄すべきとは思えません。(同時に「問うべきだ!」とも言いづらいのですが・・・)
ソレと言うのも、私たちのいかなる性愛も、文化や社会制度の影響を受けざるを得ないからです。一種の鏡写しというか、投影です。
という訳で、私たち自身の性愛のあり方を問うことは、今の社会文化を問うことでもあります。
たとえば床の間のテレビ番組等では、幼稚園児がそろって「将来誰々ちゃんと結婚するんだ」という声を拾い集め、「ませてる」だとか微笑ましく受け止めます。(不快な人も勿論います。私含め。しかしそれは覇権的な感覚ではありません)
そこでは、結婚に至る異性愛をフォーカスしているだけに留まりません。「ませている」、と言う限りは、いずれそうなるべき・はずという前提があります。
ここから、幼稚園児という社会性を学び取る段階の児童でさえ、自己の性と結婚制度を結びつけて考える規範が見えてきます。
ソレと言うのも、私たちのいかなる性愛も、文化や社会制度の影響を受けざるを得ないからです。一種の鏡写しというか、投影です。
という訳で、私たち自身の性愛のあり方を問うことは、今の社会文化を問うことでもあります。
たとえば床の間のテレビ番組等では、幼稚園児がそろって「将来誰々ちゃんと結婚するんだ」という声を拾い集め、「ませてる」だとか微笑ましく受け止めます。(不快な人も勿論います。私含め。しかしそれは覇権的な感覚ではありません)
そこでは、結婚に至る異性愛をフォーカスしているだけに留まりません。「ませている」、と言う限りは、いずれそうなるべき・はずという前提があります。
ここから、幼稚園児という社会性を学び取る段階の児童でさえ、自己の性と結婚制度を結びつけて考える規範が見えてきます。
▼はてなハイクの今月のスポンサー