異性愛者へ12の質問
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PACS制度っていうのは「ひとりの一方的な決断だけで、契約解消ができること、双方が自動的な遺産相続者とはならないという点が結婚との大きな違いだけれども、健康保険や税金面では、婚姻関係とほぼ同じ優遇措置を受けることができる」制度でしたよね。
その意味で婚姻ほどの「所有」は少なくて済みそう。(まったくないかは、詳しくないので分かりませんが)
ただし、私は同性愛者の「婚姻」(むろん両性愛者による「同性婚」もあるし、異性愛者同士の「同性婚」もあるでしょう)を認めるのには消極的です。
確かに同性愛/異性愛という二項対立間の非対称性が解消されるのはいいことかもしれないですが、それこそ婚姻における貞操義務だとか、モノガミー主義が受け継がれるのは、ちょっと問題だと思うからですね。
というか、現実問題、婚姻制度を認めさせることで解消できる不利益もあるので、絶対反対という訳ではないけれど、・・・それにしても、です。どうせ「同性愛」者(?)に婚姻が認められても、それは一対一の関係を指向する同性愛者のための制度に他ならず、結局また3人以上の複数でパートナーを持つ人は割を食うはずだし、そうやって家族単位の社会が継続されることで「個人単位社会の必要性」が置き去りにされるのは、おそらく問題だから。(詳しくないですが・・・)
そもそも税面で優遇措置は必要なのか、とか、結婚と言うライフスタイルの選択如何で生き易さが変わる社会とは何なのだ、という批判は今までもあったと思うんですよ。
それをきれいさっぱり忘れて、限られた同性愛者のための婚姻制度成立にばかり注力するのは、きっとどこかで危険性を孕む・・・気がします。(自信ないなオイ
その意味で婚姻ほどの「所有」は少なくて済みそう。(まったくないかは、詳しくないので分かりませんが)
ただし、私は同性愛者の「婚姻」(むろん両性愛者による「同性婚」もあるし、異性愛者同士の「同性婚」もあるでしょう)を認めるのには消極的です。
確かに同性愛/異性愛という二項対立間の非対称性が解消されるのはいいことかもしれないですが、それこそ婚姻における貞操義務だとか、モノガミー主義が受け継がれるのは、ちょっと問題だと思うからですね。
というか、現実問題、婚姻制度を認めさせることで解消できる不利益もあるので、絶対反対という訳ではないけれど、・・・それにしても、です。どうせ「同性愛」者(?)に婚姻が認められても、それは一対一の関係を指向する同性愛者のための制度に他ならず、結局また3人以上の複数でパートナーを持つ人は割を食うはずだし、そうやって家族単位の社会が継続されることで「個人単位社会の必要性」が置き去りにされるのは、おそらく問題だから。(詳しくないですが・・・)
そもそも税面で優遇措置は必要なのか、とか、結婚と言うライフスタイルの選択如何で生き易さが変わる社会とは何なのだ、という批判は今までもあったと思うんですよ。
それをきれいさっぱり忘れて、限られた同性愛者のための婚姻制度成立にばかり注力するのは、きっとどこかで危険性を孕む・・・気がします。(自信ないなオイ
異性愛者へ12の質問
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いや、あのさ。
>ちゃんと答えた人に今度は「そういう個別性はさておいて~」と言うのは身勝手といわれて当然に思います。
とあなたがいったとき、それは正しく社会的政治的個人の話をしてる最中だったのですね。それを今回の答え方の手法を問題にすることと同義に扱って批判してきたから「そういう話じゃない」といったのですね。あなたじしんは手法の話に焦点化させていたつもりだろうけど、実質話の流れとして個人が差別構造と無縁でないことの話と混同していたから迷惑だし、それは違うといったまでの話。
で、私は実際プライバシーに深く関わる内容には触れないと言ってるけれど、それは既に今行ってる問い直し作業から判断してもらいたいのです。
他の点はもう既に説明したとおりです。
>ちゃんと答えた人に今度は「そういう個別性はさておいて~」と言うのは身勝手といわれて当然に思います。
とあなたがいったとき、それは正しく社会的政治的個人の話をしてる最中だったのですね。それを今回の答え方の手法を問題にすることと同義に扱って批判してきたから「そういう話じゃない」といったのですね。あなたじしんは手法の話に焦点化させていたつもりだろうけど、実質話の流れとして個人が差別構造と無縁でないことの話と混同していたから迷惑だし、それは違うといったまでの話。
で、私は実際プライバシーに深く関わる内容には触れないと言ってるけれど、それは既に今行ってる問い直し作業から判断してもらいたいのです。
他の点はもう既に説明したとおりです。
異性愛者へ12の質問
怒られそうなことを敢えて言うけど、もしもひとが何かの象徴を好きだと言ったり称揚したりしていくことが(ひとがひとの欲望するものを欲望することによって)各価値の上下関係を形成していく力の一因となるのであれば、マイノリティとしてはまさしく自分の欲望するものをもっと積極的に好きだと言ったり称揚したりしていくことこそ、固定化された各価値の上下関係を変動させうるんじゃないかな。あまりにも楽観的な見方だけど、もしそうだったら、とにかく自分はこれが好きだあれが好きだと言ってけばいいってことだから、きっと楽しいよ? でもちょっとバブリーすぎるかな。もちろん、好きだ言うたら、ものによっちゃ「えーそんなん好きなん?」て言われたりとか、「キモい」とか言われることもあるから、みんなのまえでは言いにくいってのはわかるし、そもそも抑圧されてる状態ってのは、好きなものを好きだと言えない状態なんだけど。
異性愛者へ12の質問
残念だけど、なんだか通じてない気がします・・・。というか、今ちょっと意見が理解できていません。
この質問自体、主に同性愛者に向けられがちなもののパロディであるゆえに恋愛要素に触れるのは当然なんだけど、それが同時に恋愛主義に陥ってるという批判なら、あるいは異性愛者の中にいる恋愛主義被害者(及び婚姻制度の不備)の隠蔽という批判なら、当てはまるはず。
ただ、それにイラつくのは当り前として、ならば質問を一面的にではなく多角的に、批判的に用いる必要が出てくる。そういう実践をいま、いくつかの人がしているわけですよね。
それと、差別というのは、マジョリティによる暴力が差別的行為になる、というのは、それ自体が構造との蜜月関係の証明であります。
では、誰が「マジョリティ」かというと、それは場所・時などの関係性によってころころ変化します。
同性愛者コミュニティでは異性愛者は一種のマイノリティになり(しかし相手が持たない特権は持っているはず)、ときには入店拒否とかで「排除」されるでしょう。それをあえて「マジョリティによる暴力」と名づけてもそれほど問題はないけれど、しかしその場合すーーーーーーーーーーーーごく注意しなければならないのは、そもそもそうした排除は異性愛者ばかりが優先される大きな社会があるために起きた、という背景。まあ、簡単に言えば、たたでさえ自分たちの場がないのに、自ら作った場まで踏み込まれるのはたまったもんじゃない。という背景ね。これはそもそも職場とか学校とか公共の場とか医療の場を異性愛者が独占していることが起因しているためで、このことを忘れてはならない。
他にも、アクティビズムに関わる中で、社会的に見て「被差別者」である人たちを支援する「加害者」側に立たされている多数派が加わる場合。それがクィア関連のとき、異性愛者はあくまで異性愛者としての自覚を迫られる。そのとき、異性愛者(と一口で言ってもトランスのヘテロだったり、あまりに多様だけど)は何かしらの疎外感を味わうかもしれない。しかし、その疎外感はむしろ謙虚に引き受けなければならないケース「も」あるんですね。その人がたとえば既婚者という特権性を持った異性愛者だとする。そこで集団内で「結婚できる異性愛者って・・・」という言葉が飛び交う中、疎外感を感じるかもしれないけれど、そもそも日本の婚姻制度は多くを否定した上で成り立った果実なので、そういうものを享受したひとが、制度から排除されてる集団内でいたたまれなく感じるのは当然。
・・・厳しいようだけど、社会・それも国家的権力のリソースを占有してる側が自身の加害性を知らされたからといって、それを「(一見マイノリティでしか思われないけれど、ある側面で強者な)被差別者集団内における多数派の差別」と同一視することは、それこそ異性愛支援者による特権の正当化に結びつくはずだ。もっといえば、本当に支援するつもりなら「加害者として」支援しなければならないはず。時には、自分が結婚していることにさえ疑問を抱かなければならない(捨てるかどうかはともかくね)。
ゆえに、一般的に言う、「異性愛社会」という(一部コミュニティとはレベルの違いすぎる)圧倒的社会で存在する「差別」と、少数派内部のハラスメントや暴力・・・・抑圧を同列に置くことには、非情に慎重にならざるを得ない。
その上で言えば、同性愛者コミュニティでも異性愛社会で繰り返された規範や、多数派による抑圧を劣化コピーしちゃってる側面も多くあるはず。まあ、当り前と言えば当り前なんだけど。
異性愛者向け(と称されつつ、一対一の排他的関係である)恋愛主義とか、テレビ的な恋愛形式の奨励とか、そういうのはいくらでもある。
そういうこととの軋轢があって、昔から「マイノリティの中のマイノリティ」「ストレートの同化に過ぎない」という問題が語られていて、しかもいまだに答えがないことなんですね。
・・・しょうじき、ここら辺の話は誤解を与えず説明するのが困難なので避けてきたけれど、「少数派」が「多数派」を差別することは叶わないけれど、「差別」とは別の暴力抑圧は発揮出来るってのは間違ってない。
・・・まあ、「差別」というものをどういうものと捉えるかによるけど、「犬好きの人は宿泊させない」ことは「差別」ではなくても「同性カップルを宿泊させない」ことは「差別」になる、という単純な背景をまずは重視してほしいな。
この質問自体、主に同性愛者に向けられがちなもののパロディであるゆえに恋愛要素に触れるのは当然なんだけど、それが同時に恋愛主義に陥ってるという批判なら、あるいは異性愛者の中にいる恋愛主義被害者(及び婚姻制度の不備)の隠蔽という批判なら、当てはまるはず。
ただ、それにイラつくのは当り前として、ならば質問を一面的にではなく多角的に、批判的に用いる必要が出てくる。そういう実践をいま、いくつかの人がしているわけですよね。
それと、差別というのは、マジョリティによる暴力が差別的行為になる、というのは、それ自体が構造との蜜月関係の証明であります。
では、誰が「マジョリティ」かというと、それは場所・時などの関係性によってころころ変化します。
同性愛者コミュニティでは異性愛者は一種のマイノリティになり(しかし相手が持たない特権は持っているはず)、ときには入店拒否とかで「排除」されるでしょう。それをあえて「マジョリティによる暴力」と名づけてもそれほど問題はないけれど、しかしその場合すーーーーーーーーーーーーごく注意しなければならないのは、そもそもそうした排除は異性愛者ばかりが優先される大きな社会があるために起きた、という背景。まあ、簡単に言えば、たたでさえ自分たちの場がないのに、自ら作った場まで踏み込まれるのはたまったもんじゃない。という背景ね。これはそもそも職場とか学校とか公共の場とか医療の場を異性愛者が独占していることが起因しているためで、このことを忘れてはならない。
他にも、アクティビズムに関わる中で、社会的に見て「被差別者」である人たちを支援する「加害者」側に立たされている多数派が加わる場合。それがクィア関連のとき、異性愛者はあくまで異性愛者としての自覚を迫られる。そのとき、異性愛者(と一口で言ってもトランスのヘテロだったり、あまりに多様だけど)は何かしらの疎外感を味わうかもしれない。しかし、その疎外感はむしろ謙虚に引き受けなければならないケース「も」あるんですね。その人がたとえば既婚者という特権性を持った異性愛者だとする。そこで集団内で「結婚できる異性愛者って・・・」という言葉が飛び交う中、疎外感を感じるかもしれないけれど、そもそも日本の婚姻制度は多くを否定した上で成り立った果実なので、そういうものを享受したひとが、制度から排除されてる集団内でいたたまれなく感じるのは当然。
・・・厳しいようだけど、社会・それも国家的権力のリソースを占有してる側が自身の加害性を知らされたからといって、それを「(一見マイノリティでしか思われないけれど、ある側面で強者な)被差別者集団内における多数派の差別」と同一視することは、それこそ異性愛支援者による特権の正当化に結びつくはずだ。もっといえば、本当に支援するつもりなら「加害者として」支援しなければならないはず。時には、自分が結婚していることにさえ疑問を抱かなければならない(捨てるかどうかはともかくね)。
ゆえに、一般的に言う、「異性愛社会」という(一部コミュニティとはレベルの違いすぎる)圧倒的社会で存在する「差別」と、少数派内部のハラスメントや暴力・・・・抑圧を同列に置くことには、非情に慎重にならざるを得ない。
その上で言えば、同性愛者コミュニティでも異性愛社会で繰り返された規範や、多数派による抑圧を劣化コピーしちゃってる側面も多くあるはず。まあ、当り前と言えば当り前なんだけど。
異性愛者向け(と称されつつ、一対一の排他的関係である)恋愛主義とか、テレビ的な恋愛形式の奨励とか、そういうのはいくらでもある。
そういうこととの軋轢があって、昔から「マイノリティの中のマイノリティ」「ストレートの同化に過ぎない」という問題が語られていて、しかもいまだに答えがないことなんですね。
・・・しょうじき、ここら辺の話は誤解を与えず説明するのが困難なので避けてきたけれど、「少数派」が「多数派」を差別することは叶わないけれど、「差別」とは別の暴力抑圧は発揮出来るってのは間違ってない。
・・・まあ、「差別」というものをどういうものと捉えるかによるけど、「犬好きの人は宿泊させない」ことは「差別」ではなくても「同性カップルを宿泊させない」ことは「差別」になる、という単純な背景をまずは重視してほしいな。
異性愛者へ12の質問
異性愛者へ12の質問
>何か大きな勘違いをなさっているようですが、「個人」というのは「マジョリティでもマイノリティでもない無色透明なわたし」というものではありません。ゆえにそこにいるだけでわたしとあなたは無関係でいられない。
私の主張
>>あの質問状を既に使って回答させた以上、その関係はパーソナルな関係にならざるをえないはず。<<
から、どうしてそういう社会の中の実存の意味みたいな話になるんでしょうか。無色透明な個人など居ない、はあたりまえでしょう。私は社会の中で暮らしている以上は誰しも政治的存在だと思っています。でもそれこそ「そんな話じゃありません」w
質問を投げ、応答を受けたその時点であなたと回答者の関係はそれまでと質が違ってくるはずだ、ということ。
あなたは「それは確かにそうかもしれないが、そこが問題ではない」と言い、回答者は「そここそを問題にしてくれ」と言う。
どこを焦点化するかで議論はまるで変わってしまう。だから譲れない。だったらもう「なかったことにしてくれ」と頼めば手っ取り早いと思うけど。
私はあの質問状にカウンターとしての意義は認めています。ただ、nodadaさんも認めているように使い方を間違ってしまった。
これは既に起こってしまった事実でしょう?そこは逃げないで応答するか、「応答する気はなかったのです。すみませんが忘れてください」
のどちらかしかないように思います。そこを曖昧にしたままずっと綱引きしていたいなら別ですが。
私の主張
>>あの質問状を既に使って回答させた以上、その関係はパーソナルな関係にならざるをえないはず。<<
から、どうしてそういう社会の中の実存の意味みたいな話になるんでしょうか。無色透明な個人など居ない、はあたりまえでしょう。私は社会の中で暮らしている以上は誰しも政治的存在だと思っています。でもそれこそ「そんな話じゃありません」w
質問を投げ、応答を受けたその時点であなたと回答者の関係はそれまでと質が違ってくるはずだ、ということ。
あなたは「それは確かにそうかもしれないが、そこが問題ではない」と言い、回答者は「そここそを問題にしてくれ」と言う。
どこを焦点化するかで議論はまるで変わってしまう。だから譲れない。だったらもう「なかったことにしてくれ」と頼めば手っ取り早いと思うけど。
私はあの質問状にカウンターとしての意義は認めています。ただ、nodadaさんも認めているように使い方を間違ってしまった。
これは既に起こってしまった事実でしょう?そこは逃げないで応答するか、「応答する気はなかったのです。すみませんが忘れてください」
のどちらかしかないように思います。そこを曖昧にしたままずっと綱引きしていたいなら別ですが。
異性愛者へ12の質問
追記:なるほど書いてみてあらためて考えがまとまった……ぼくは婚姻を象徴“所有”とは決して見なしたくないロマンチストなのでこう考えるのは気が引けてしょうがないんだけど、もしも婚姻にそういう力が見られるのなら、同性愛者にもそれを認めることが、異性愛者と同性愛者の間のパワーバランスを是正することにつながるとはいえるのかも知れない。(ぼくは以前から同性愛者間にも婚姻を認めるべきだと考えていたけれど、あらためてちょっとその根拠を見出したかんじがする。)id:nodadaさんは、たとえばフランスのPACS制度についてはどう考えておられるんでしょう?
異性愛者へ12の質問
そうかな? 厳密にいえば差別行為が不可能なのはことばを持たないひとたちだけだと思いますよ。もうすこし正確にいうとあらゆる音楽や美術といった自己表現すらできない、象徴化する能力を持たないひとたちだけじゃないかな。もちろん相対的な力関係はあるけれども。
というのも、しばしばひとはひとが欲しがるものを欲しがるということがあって、それはどういうふうにできているかというと、まずある象徴があって、多くのひとがそれに対してぬかづくかたちで上下関係が形成されるでしょう。たとえば中世プロヴァンスの宮廷詩人(トルバドゥール)たちは、自分には決して望むこともできない愛の対象として、自分よりも位が高い貴婦人に対して、恋愛詩を書き、永遠の忠誠を誓っていました(いわゆる騎士道精神)。こういう恋愛詩を王は奨励していたんだけど、それはそうすることでいちばん得するのが王だったからだ、という学説があるそうです。なぜなら、決して他の誰の手にも入れられない最高の貴婦人=妃を王そのひとは“所有”しているのであって、実は宮廷詩人が欲望していたのは貴婦人そのひと以上に最高の貴婦人を“所有”するために「王」になることだったから。ここに尊敬と嫉妬が生まれることで、逆に「下方」というものが相対的にできあがってくるわけです。これはいまでいうと、(あまりにもざっくり言ってしまうと、)たとえば異性愛者のセレブ女性の象徴に対するひとびとの尊敬のまなざしが、そのひとと婚姻関係を結ぶことのできるような異性愛者男性の象徴への羨望につながって、さらにはその男性の職業なり経済力なりがまさに欲望されることになるわけなんですけど(これを男女入れ替えても成り立つ)、すると「下方」というものが設定されることになって、このスケールのなかで非モテや同性愛者が差別されるということでしょう。
でも、同性愛者コミュニティのなかにもそれと類似した構造は少なからずあるはずなんじゃないのかな、とぼくは思ってるんですけれど、というのも、同性愛者間の欲望によって上下関係が生まれないということはありえないんじゃないのかな。そしてそのスケールは同時に、同性愛者から異性愛者を見たときにも関わってくるはずですし。
あるいは、同性愛者のなかにはそういった差別がほとんどないというのが事実だとすれば、それはそれでたいへんな可能性を同性愛者コミュニティは秘めていることになりますけれどもね。たとえば共産主義者のなかには、もしも完全な共産主義を実現させることができれば性差別さえ撤廃できると信じていたひとも多いから(現実の共産主義社会では一度もそうはならなかったわけですけれど)、そういう状態が現実的にあるのだとすれば共産主義者の理想の実現の手がかりになるのかも知れない。でも、現段階で、同性愛者コミュニティをそのような状態と見なすのは、ちょっと夢を見すぎているような気もする。
というのも、しばしばひとはひとが欲しがるものを欲しがるということがあって、それはどういうふうにできているかというと、まずある象徴があって、多くのひとがそれに対してぬかづくかたちで上下関係が形成されるでしょう。たとえば中世プロヴァンスの宮廷詩人(トルバドゥール)たちは、自分には決して望むこともできない愛の対象として、自分よりも位が高い貴婦人に対して、恋愛詩を書き、永遠の忠誠を誓っていました(いわゆる騎士道精神)。こういう恋愛詩を王は奨励していたんだけど、それはそうすることでいちばん得するのが王だったからだ、という学説があるそうです。なぜなら、決して他の誰の手にも入れられない最高の貴婦人=妃を王そのひとは“所有”しているのであって、実は宮廷詩人が欲望していたのは貴婦人そのひと以上に最高の貴婦人を“所有”するために「王」になることだったから。ここに尊敬と嫉妬が生まれることで、逆に「下方」というものが相対的にできあがってくるわけです。これはいまでいうと、(あまりにもざっくり言ってしまうと、)たとえば異性愛者のセレブ女性の象徴に対するひとびとの尊敬のまなざしが、そのひとと婚姻関係を結ぶことのできるような異性愛者男性の象徴への羨望につながって、さらにはその男性の職業なり経済力なりがまさに欲望されることになるわけなんですけど(これを男女入れ替えても成り立つ)、すると「下方」というものが設定されることになって、このスケールのなかで非モテや同性愛者が差別されるということでしょう。
でも、同性愛者コミュニティのなかにもそれと類似した構造は少なからずあるはずなんじゃないのかな、とぼくは思ってるんですけれど、というのも、同性愛者間の欲望によって上下関係が生まれないということはありえないんじゃないのかな。そしてそのスケールは同時に、同性愛者から異性愛者を見たときにも関わってくるはずですし。
あるいは、同性愛者のなかにはそういった差別がほとんどないというのが事実だとすれば、それはそれでたいへんな可能性を同性愛者コミュニティは秘めていることになりますけれどもね。たとえば共産主義者のなかには、もしも完全な共産主義を実現させることができれば性差別さえ撤廃できると信じていたひとも多いから(現実の共産主義社会では一度もそうはならなかったわけですけれど)、そういう状態が現実的にあるのだとすれば共産主義者の理想の実現の手がかりになるのかも知れない。でも、現段階で、同性愛者コミュニティをそのような状態と見なすのは、ちょっと夢を見すぎているような気もする。
異性愛者へ12の質問
この「同性愛者によく向けられる質問のパロディ」が「パロディ」という一見斜にかまえたエクスキューズしながら他者にヒエラルヒーを振りかざす根本原因=大欠点を、下の方で「「差別」の片務性の現れ 」と書きました。
そもそも恋愛とは、特定個人と特別な関係を取り結ぶこと、有る意味、その特定者とその他を個人的理由・嗜好で差別することに他なりません。そのようないわばベットの中での個々人【恋愛事情】と、「異性/同性」というような1【恋愛形態】に対する社会偏見を混ぜ、個々への「質問」=個人的【恋愛事情】経験のあぶりだし=カミングアウトという負を負担させた上で、この場で成り立たせようとしている異性愛以外【恋愛形態】優位構造(解答では異性愛事情しか表面化しない)しか見えてきていない形態片務性(=平場へのディスオリエンテーション)は続いてますから、苛立つスレとなるのでしょう。
異性愛者へ12の質問
まあ、差別の定義論になるなら、それこそ専門的な話になってくるし、ここではある程度一般的な意味で議論しても問題はないはず。
なにがどう「差別」か、というのは重大なテーマだけど、そもそもヘテロセクシズムやジェンダリズムが差別であり、(異性愛含む)クィアが今差別を受けてる事実はココの誰もが認めるところだ。・・・そのはず。
なので、正直そんなに見解の違いはないと思う。
ただ、私はここで注目すべきだと思ってるのは、既に指摘されたように、ヘテロセクシズム自体が被差別者だけの不利益ではない、ということ。
それはマジョリティの中のマイノリティの問題という意味だけではなく(というか、けっきょく「マジョリティの中のマイノリティ」というのは、たとえば障害者の異性愛者とか、ジェンダークィアの異性愛者、女性異性愛者ということで、それぞれ個別の差別を受けているケースと言えるから、「ヘテロセクシズムのみによる不利益」というのは複雑な背景を見失いかねない・・・。そもそも異性愛に基づく社会自体が純粋に「異性愛」規範・主義だけで構成されるのではなく、健常者主義や男性主義などとクロスして「正しい異性愛」社会を構成してるのは言うまでもない。そうしたマイノリティは、多数派の中で多種多様で個別な抑圧を受ける。誰もがマイノリティとマジョリティの側面を持つ、とはそういうことでしょう)、体制により利益を享受してる人すらも「加害者として」生きなけれならず、公平な社会と自身の人間性を損なわされているから。これは大きな不利益でしょ?
そういうところから脱出するために、ただ自分の差別行為をやめるだけでなく、自分の足場である構造を疑ったり、反差別運動の足を引っ張らないなどが重要になってくる。
そういうのを前提として、今の私はこの質問は扱っていきたい。
なにがどう「差別」か、というのは重大なテーマだけど、そもそもヘテロセクシズムやジェンダリズムが差別であり、(異性愛含む)クィアが今差別を受けてる事実はココの誰もが認めるところだ。・・・そのはず。
なので、正直そんなに見解の違いはないと思う。
ただ、私はここで注目すべきだと思ってるのは、既に指摘されたように、ヘテロセクシズム自体が被差別者だけの不利益ではない、ということ。
それはマジョリティの中のマイノリティの問題という意味だけではなく(というか、けっきょく「マジョリティの中のマイノリティ」というのは、たとえば障害者の異性愛者とか、ジェンダークィアの異性愛者、女性異性愛者ということで、それぞれ個別の差別を受けているケースと言えるから、「ヘテロセクシズムのみによる不利益」というのは複雑な背景を見失いかねない・・・。そもそも異性愛に基づく社会自体が純粋に「異性愛」規範・主義だけで構成されるのではなく、健常者主義や男性主義などとクロスして「正しい異性愛」社会を構成してるのは言うまでもない。そうしたマイノリティは、多数派の中で多種多様で個別な抑圧を受ける。誰もがマイノリティとマジョリティの側面を持つ、とはそういうことでしょう)、体制により利益を享受してる人すらも「加害者として」生きなけれならず、公平な社会と自身の人間性を損なわされているから。これは大きな不利益でしょ?
そういうところから脱出するために、ただ自分の差別行為をやめるだけでなく、自分の足場である構造を疑ったり、反差別運動の足を引っ張らないなどが重要になってくる。
そういうのを前提として、今の私はこの質問は扱っていきたい。
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