金丸吉生軍曹手記

金丸吉生軍曹手記(第十六師団経理部)

※この手記は南京戦史資料集Ⅰ(P.255~261)により、スペース一個は改行、二個は段落を変えることを示す。

 私は昭和十二年八月二十五日第五動員で召集され京都の第十六師団司令部の経理部主計軍曹として入隊し衣糧科の一員となり数日後には北支派遣軍として北支へ向かい、北支の塘沽へ上陸して子牙河遡江作戦に参加し泥寧の中を進撃してやっと局部的に一時安定した十一月初めに、北支寧晋をあとにして石家荘より乗車し北京、山海関を経て大連から輸送船に乗り上海向にけて出航しました。乗船後に南京攻略に参加すると聞かされ驚くとともに気の引き締まる感を覚えました。数日後に船は揚子江を遡江して白茆口沖で停船し第一線部隊の敵前上陸に続いて上陸し、それより常熟-無錫-丹陽-常州と進撃して湯水鎮へ着いたのが十二月初めであったと記憶しています。 当時のことを回想すると次から次と在りし日の体験が思い出され、今後少し余暇が出来たら詳細に回想録を綴りたいと考慮中です。  とにかく敵の首都攻略は一番乗りは我が部隊だとの意気で南京攻撃参加各部隊の熾烈な競争はすさまじく、第十六師団長中島今朝吾中将でさえ京都野戦砲兵聯隊の砲撃にじりじりしたのか「俺が指揮する」とばかり自ら丘陵に立って号令をかけているのを目撃しました。ところが敵の迫撃砲弾にあたって負傷せられましたが屈せず、なお元気を出して前進の指揮をとられたこともありました。 南京攻略はあまりにも進撃が早いので我々経理部の仕事は殆どなく、当時南京街道は兵と車輛と軍馬が一杯で兵站の車はとても前進できず、前線への食料の至急も紫金山へが、やっとだったと思います。 さて南京一番乗り競争は十二月九日の脇坂部隊の光華門が一番乗りでしたが、これはあとで光華門の一角の占領と知りました。我が十六師団は紫金山攻略に手間取っている歩三三(野田部隊)の情勢に一喜一憂しましたが、漸く十二月十一日頃敗走する敵とこれを追撃する我軍とが入り乱れて南京郊外を下関に向けて交戦しているとの情報を耳にしました。私は湯水鎮を経て麒麟門付近に居た時、中山門占領の暁は歩二〇(大野部隊)の一部隊と共に城内に入り敵の財産の徴発をせよとの命令を受けて、十三日の午後になって初めて中山門より入城しました。 たまたま「偕行」五十年五月号を拝見していましたら、私の行動と犬飼総一郎氏の行動とよく似ているのに驚きました。私はその時約一コ小隊の兵隊と共に中山門より中山東車路を経て中央ロータリーへ行き、それから北へ向かって中山北路を通って挹江門の方向まで行く予定が、行けば行くほど銃声が盛んで各所に火災もあり暗くなったので、引き返して国民政府の建物近くにあった「南京飯店」という大きいホテルで宿営しました。その時、昼間見た敵の中央病院にあった毛布を借りるつもりでそこへ行ったら、不思議な事に大勢寝ていた中国軍の傷病兵の姿も毛布も何もなくなっていました。引き返してホテルの真っ暗闇の中の廊下で飯盒で飯を炊きローウソクの光で寝についたことを覚えています。 南京中央ロータリーまでは火災もなく人影もなく比較的静かでしたが、ただ家屋の中はあきれるほど乱れて道具類はおろか商品らしきものは何一つなく、棚にあった物まで全部粉々に破壊され足の踏み場もなく、殆どが木の破片ばかりで所々に便衣らしき服を着た者や正規兵等の死体が転がっていました。私は敵の官庁らしい所にはみな標識をしました。しかし、中央ロータリーを通り過ぎると火災があり路上には兵器や軍服を初め軍隊の使用したいろいろなものが散乱し、その中に死体が累々として倒れているのを見ました。挹江門近くは戦闘中のためまた付近が火災で近寄れず、死体をまたいで引き返しました。途中、路の両側には官庁の建物が沢山あったことを記憶しています。  さて、その翌日か翌々日の十五日になって、私は師団司令部の置かれた元国民政府の建物中に設営された経理部で命令をうけました。その要旨は「下関郊外にある製粉工場を接収して内部の物品の調査保管と、それを隷下部隊へ支給せよ」との事で、直ちに一コ分隊の衛兵と通訳一名と共に下関に向かいました。同時に同じ経理部の福地主計少尉は、下関に在る電気会社の修理をして一日も早く南京市内へ電灯がつくようにと命令されました。私は下関へ到着してすぐ左折して、クリーク添いの道路を行くこと千メートルくらいの所にクリークの支流があり、そこに工兵が架設した仮橋を渡ると、すぐそこに大きな製粉会社の倉庫が幾つも並んでいるのが見え、そして倉庫前には大きな広場があることが判りました。 そこで早速倉庫内を調査したところ、小麦粉や麩、大豆等が到底勘定ができないくらい多量にあり、勘定は後回しすることにして工場の周囲へ衛兵を配置し、私は工場の事務所らしき所を宿舎と決めて休んでいたら突然衛兵が飛び込んできたので「何だ」と聞きますと、「ただいま工場内を調べたところ一番端の倉庫に敗残兵が大勢いますが、皆抵抗する気配は見えません」との報告を受けましたので現場へとんで行くと、正規や便衣の中国軍兵士が約三百名余り坐って両手をおとなしく頭にのせていました。 早速、身体検査をしてから安全を保障し食料を支給するから倉庫の整理に従えと命じたら、喜んで承知しましたので働かせることにしました。その場にあった多数の兵器や弾薬はすべて別の倉庫へ移し施錠しました。これがモトで数日後突然巡視に来られた中島今朝吾中将に発見されて大目玉を喰らい、司令部中に知れ渡る事件になりました。 その翌日(十七日頃でしょうか)、報告のため下関の埠頭まで行きますと、敵の乗り捨てたフォードのT型乗用車があり、配線をやり直したら幸いにエンジンが動いたので早速、これを利用することにして、それ以来それが随分役立ちました。 そこで経理部との毎日の連絡や野戦倉庫に行く時に(中山門近くにあった)これを使用すると共に南京城はもちろんその周辺をあちらこちらと走り回って見ることができました。したがって歩三三(野田部隊)の追撃戦の後はもちろん、下関の付近、揚子江岸道路も見ました。江岸道路には死体の山が所々にあり、それは百名程度のもので真っ黒焦げになっていました。それらはみんな厳冬のことでもあり全部硬直していました。また、対岸の浦口と連絡する鉄道路線には焼けただれた貸車があり、その中にも死体が一杯あり、これらは全部正規兵と見受けられました。  その頃のある日の夕刻揚子江岸道路を軍歌でも歌っているような大合唱が耳に入ったので何事かと止まって待っていると、四列縦隊の中国兵が約一コ大隊ほど大声を発しながら(これは大声で泣いている声でした)、そしてその両側を十メートル置きぐらいに剣付きの三八式歩兵銃を持った日本兵が監視をしながら更新して来たので「何処へ行くのか」と聞いたところ「処分をしに行きます」との返事でした。 私は「そうか」と言ったものの何となく寒気を感じました。この捕虜は漢西門ちかくの濠(クリーク)と城壁の間にある斜面になった土地へ連れていき機関銃で処分し、石油をかけて焼却したことを後に知りました。 それを聞いてやっと判ったことは、私たちの居った製粉会社の倉庫の裏は揚子江でしたが、その反対側には高い堤防がありそれは道路ですがその向こうが水濠(クリーク)で水面幅が約三十メートルくらいあり、その向こうに二、三十メートルのゆるい斜面の土地があってその向こうに城壁がありました。そこで数日間毎日夕方から夜になると盛んに銃声が聞こえ、その後で火が燃え上がり毎夜おそくまで青白い焔が燃え続けているのを見ました。だから正確な数は判りませんが一夜に五、六百名として三千名から四千名くらいの処分があったものと想像されます。これが私の見た中国兵処分の実態です。 市内での死体はそんなに多量のものでなく、南京西北部から下関にかけて散乱しており、また歩三三の兵隊の話では汽車の貸車に中国兵を一杯積み込んで線路を押して揚子江へ突き落としたのが十輛足らずあったと聞きました。また中国敗残兵の略奪や放火の甚だしかった事はすごいものでした。なお塹壕の死体はたくさん見ましたが、これは白兵戦の時の死体と思います。  さて、私の果たした任務の事を少し述べたいと思います。私が受けた命令は製粉工場倉庫にある小麦粉を各部隊の人員に応じて支給することですが、何万袋もある小麦粉ですから相当多く支給しても十二分の量があり、また麩は馬匹を使用している騎兵隊や輜重隊ほか野戦砲隊に対するものでしたが、これも十分にあったのです。南京市内に行くたびに難民区の近くを通りますので、ある日思いついて近くの外資系(米)石油会社のマネジャー(支配人・中国人)にトラックを借りる契約をして、それに小麦粉を積めるだけ積んで漢西門を経て金陵大学校内にあった難民区へ届けに行きました。 そこの入り口は日本軍の憲兵と歩哨が立っていましたが訳を言ったら直ちに開門をしてくれたので車を校庭内へ入れ小麦粉を全部渡したところ、中国の責任者から声涙ともに下る謝辞をうけました。こんなに喜んでくれるならとその後も三回ばかり持っていきましたが、これは私の責任で行ったものです。金陵大学の先生らしい人が私に「日本軍は恐ろしいものだと思っていたがこんな親切な行為は初めてだ」と両掌を合わせ「謝々謝々」と言われたものです。 次は前述の中島中将に大目玉をくらった事件ですが、大倉庫を占領したのをよほど自慢したかったのか石田経理部長が司令官にこの事を報告したため師団長が下関の実状の視察をかねて倉庫へ突然に来られたわけです。私は何も知らず平常通り部隊に糧秣を交付していたのですが、その日(たぶん十二月二十日頃です)は朝から相当寒さがきびしく氷も張り、少し雪が積もっていたので私は交付現場で木炭をたくさん、大きな火鉢に入れてその上に両足をのせて(いわゆる股火鉢です)真っ赤な毛糸の厚いジャケットを着て、うつむいて火に手をかざしていたのです。 ところが何かザワザワするのでふと頭を上げると、なんと師団長をはじめ参謀、副官、経理部長が目前に立っているではありませんか。驚いてそのまま直立不動で立ち上がりました。すると経理団長に「金丸軍曹、今から閣下をご案内せよ」と命ぜられたのであわててそのままの姿で先に歩くと、閣下が「ちょっと待て、お前のその姿は何だ、敗残兵の大勢いる中で身に寸鉄も帯びず無警戒も甚だしい。貴公は阿呆と言おうか大胆と言おうか、とんでもない奴だ。もし敵にやられても戦死扱いにはしないぞ」と大声でどなられました。付近にいた上官たちも驚いたような顔付でした。 私も止むを得ずジャケットを脱いで先頭に立って倉庫を順次案内しました。ここでまた、とんでもない事が起こりました。私が勝手に使っていた捕虜の姿が見えないのをすっかり忘れて、最後の倉庫の前まで行くと扉が閉まっていたので衛兵に「開けよ」と伝えましたら中には捕虜三百名が初日に取りあげた兵器の傍にしゃがんでいました。私も驚きましたが閣下も一驚した様子で、たちまち大声で「これは何だ。こんな者と兵器を一緒にして、もし反抗したらどうするんだ」ときつい叱責をうけました。 実は通訳が気をきかして捕虜を倉庫にかくしたのですが、そんな事とは知らず開扉させたのが悪かったので、何とか副官の取りなしで私はやっと解放され、閣下は帰られました。(なおこの通訳は、後に私と偵察に行った時敵襲を受けて惨殺されました。)  ところが後日、経理部長はこんな事を知らせてくれました。 明けて昭和十三年正月、軍司令官主催の年賀の席でのことです。「中島師団長は「私の部隊の一主計曹長で無腰のままで三百名の捕虜を自由に使っている大胆不敵な奴がおりまして、大した働きをしております」と自慢しておられたぞ」と石田経理部長は嬉しそうに言ってくれました。(註・私は何時の間にか一階級昇進して、曹長になっていました。呵々)それ以来、私は中島中将に気に入られ朝夕目にとまると必ず言葉をかけていただき、除隊後も時々手紙をもらっておりました。今もなお、遺族の方と交際しています。  南京における私の働きが良かったのかどうか判りませんが第十六師団は北支へまたまた転戦することになり、私は昭和十三年一月十五日に最先発の命を受けて経理部の酒井大尉と召集された富田少尉を私の三名で即日上海へ出発し、上海から大連へ直行してから後から来る師団各部隊に防寒服その他を大連埠頭で支給することになり、私は約一ヶ月間大連に留まり、ずいぶん呑気な生活をしました。 それ以後は徐州戦朧海線沿いの追撃、尉氏での決漬氾濫した黄河の水との戦い、大別山越えの漢口攻略戦等々に加わって昭和十四年八月帰国しました。

  • 手記中のという文字は資料集ではフスマ(ばくにょうに皮)という漢字だったが、変換できなかったので代用した。
また、手記中に「敵の乗り捨てた・・・」とあるが、資料集では「」が「」になっており、文脈からして「捨」の方が適切と判断したため訂正した。
手記中にある中島師団長が下関の製粉工場を巡視したのは随行した木佐木参謀の日記によると十二月十三日午後の事。

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最終更新:2009年04月06日 12:28
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