佐々木倒一少将私記


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佐々木倒一少将私記(歩兵第三十旅団長・陸軍少将18期)

※この私記は南京戦史資料集Ⅰ(P.265~276)により、スペース一個は改行、二個は段落を変えることを示す。
三、敵前九十度旋回
十二月九日
三、敵前九十度旋回 ○十二月九日(昭和十二年) 未明行動を開始したが態勢を整へた時は結局夜が明けてゐた。 敵の死体が田圃に幾つでも転がつてゐる中を乾田中の徒小径を三縦隊となつて前進する。砲兵の進路が一度揚子江江岸近くまで進出した後九十度左折しなければ通過できない一本道路であつたのと、兎も角敵を一度江岸まで追撃しなくては目指す南京北側地区への進出が出来ないので、昨八日夜戦場追撃は少くも敵に脅威を与ふる程度に前方まで進出しなくてはならなかつたのである。併し僅かに二日間の力闘ではあつたが兵の体力はかなり枯渇してゐたのでこの夜間追撃は実際活溌を欠いた、そしてその夜の内に鎮江方面よりする敵の退却がおこなはれたらしく列車の運行する火光や轟〃の音が聞えたのであつた。 旋回の角頂にある東陽鎮附近にこの朝大なる火の手があがつてゐた。敵は退却する縦隊の側翼を放火に依つて我軍から阻止しやうと試みたらしい。 鎮江から退却する敵に対し無二無算に懸つて行かなかつたことの可否は別に議論の余地があるかも知れないと思ふが、我支隊の任務は速に邪魔する敵を蹴散らして南京城の背後を遮断しなくてはならないのである、従つて道草を食ふやうな行動は予としては断じて避けることに決心してゐたのである。 併しこの行動は実に無暴に近い危険性を帯びてゐた、「閣下大丈夫ですか」「何大丈夫さ、逃げて行く敵には振り返つてくる丈けの勇気はない。やつて来れば来た時の話さ」副官は予に絶対の信頼を持つてゐるから此問答も実は御座なりに過ぎなかつた、併し之が図上戦術ならば甲論乙駁はあると思ふ。慎重な戦術家は少くも三乃至四分の一の兵力は残置したであらう。 前衛、右前衛、後衛を設けなければ危険を感ずる行軍部署である、従つて例の如く支隊本隊は僅かに一個大隊に足りないのであつた。 午前十一時新態勢に於て行動開始、幸にして敵は我を追尾して来なかつた。 七日から左翼大狐山に膠著してゐる歩九の一部隊に対して、我支隊に連繋して前進することを要望してあつたが、遂に前進ず、午後に至つて行動を起し我隊の後方に進出して来たのである、元来我支隊の進路は大狐山正面の敵の背後に当るのであるから此方面の敵は夙に退却してゐたことと思はれるのであるが・・・・・・ 兎も角吾等は他人を恃む必要は亳も無かつたのである。 午後二時半我前衛は東流鎮附近の敵より射撃を受けて停止、敵の警戒陣地らしい、依つて直ちに砲兵に陣地進入を命じ、前衛歩兵の攻撃前進を援助せしめた。此頃右前の高知にも点〃敵の散兵壕らしきもの及若干の敵影を認め一部を以て此敵をも砲撃せしめた。 砲弾が盛に命中する中を天空に投影する頂界線を腰を曲げて登つて行く敵を認めた、此方面に一部の我歩兵をも向けたが敵の逃げ足の方が早かつた。夕刻迄に敵の警戒陣地を奪取し、若干前進した後停止。 東流鎮に宿営。 これまで書くことを忘れてゐたが飲料水は毎日水の停滞したクリークまたは溜池の水を使用した。冬季のこととて幸に下痢患者が多発しなかつたので大いに助かつてゐる。 予は南京附近のの地勢を熟知してゐるので、我師団の作戦地域内に当る中山門(東面)太平門(東北角で北面)の攻略は多大の犠牲を払ふに非ざれば成功しないものと確信してゐた、即ち前者は跋渉不可能なる幅百米以上の水濠を湛へ、高射は深約二十米の外壕を有し壕底より城壁の頂上まで少くも五十米は有ると見られる嶮要の地である、城壁の破壊なぞ容易ではない、夫よりも寧ろ我支隊の行動方面たる紫金山以北の地域に主力を用ゐ、一路下関を望んで敵の唯一の退路に殺到するを兵要地誌的の正当なる判断なりとして其旨意見を具申したが師団長の決心は既に主力を中山門に向けるべく決して居ると云ふことで、予はその以後再び云ふことを控へてゐた。各師団がすべて南京城を目懸けて殺到してゐる時機であつたからマラソン競争的意識も或は有つたかと思はれる。 併し軍司令官朝香宮殿下も師団の主力は紫金山以北に使用するが適当なりとの意向を師団長に漏らされた由であるが既に命令起案後の故を以て御意図には従はなかつた由である。以上は師団参謀よりの内報であつて、師団命令と共に殿下の御意図として下関は敵の唯一の退路であるから有力なる一部隊を出すやうにとの旨を附け加へて此夜予に伝達されたのである。予の意見が容れられると否とは問ふ処ではない。予は三方より迫る敵に対し玉砕を期して任務に驀進すればいいのであつた。右の師団命令に依れば予の攻撃すべき目標は太平門である、これは前述する如く直ぐ前に素敵に大きな外壕を備へ而かも玄武湖と紫金山西麓の錯雑地を前地に控へてゐる、それで敵の城外支隊を蹴散らしてこれに主力を向け得るや否やは予がしれる地形上の判断では不可能事に近い。 ふと思ひ出したことには一条の間道があつた筈である、止むなければこれに小部隊を向けて所命を果たそうと思ふ。だが以前の駐在から十年の歳月が流れ、その間に要塞設備が完成したのであるから実際に於て左様な間道は現存してゐなかつたのである。 <揚子江畔の苦闘 前に右に後ろに沸ひて みちくさ進む 野分の如く※>

※日記の最後に短歌?が印刷されてある。かすれているので間違っている可能性あり。

四、敵城外支隊との戦闘
十二月十日
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