南京事件資料@wiki
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このページは南京虐殺事件についてまとめたサイトです。
やたらめったらと資料を載せております。
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核心さん、核心さん関係の資料は転載できないとの旨、了解しました。
肯定派の資料にも目を通しております。
南京事件資料集積所の名無しさん、KーKさん、
是非使わせてもらいます、ありがとうございました。
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中央(参謀本部・大本営等)
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*作戦命令・中央関係(参謀本部・大本営等)
2009-04-09T19:10:58+09:00
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メニュー
https://w.atwiki.jp/hirasan/pages/2.html
-[[メニュー]]
管理人:&bold(){平社員}
&bold(){編成表・職員表(日本軍)}
-[[編成表について]]
-[[編成表-中支那方面軍]]
-[[編成表-上海派遣軍]]
-[[編成表-第十軍]]
-[[職員表について]]
-[[職員表-中支那方面軍司令部]]
-[[職員表-上海派遣軍司令部]]
-[[職員表-第十軍司令部]]
&bold(){日記・手記・供述書(日本軍)}
-[[金丸吉生軍曹手記]]
-[[佐々木倒一少将私記]]
&bold(){作戦命令(日本軍)}
-[[中央(参謀本部・大本営等)]]
&bold(){南京安全区国際委員会関係}
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-[[誤字脱字その他の報告はこちらへお願いします]]
-[[要望その他はこちらへお願いします]]
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-[[]]
2009-04-09T19:10:13+09:00
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佐々木倒一少将私記
https://w.atwiki.jp/hirasan/pages/24.html
*佐々木倒一少将私記(歩兵第三十旅団長・陸軍少将18期)
※この私記は南京戦史資料集Ⅰ(P.265~276)により、スペース一個は改行、二個は段落を変えることを示す。
&bold(){三、敵前九十度旋回 }
&bold(){十二月九日}
>三、敵前九十度旋回 ○十二月九日(昭和十二年) 未明行動を開始したが態勢を整へた時は結局夜が明けてゐた。 敵の死体が田圃に幾つでも転がつてゐる中を乾田中の徒小径を三縦隊となつて前進する。砲兵の進路が一度揚子江江岸近くまで進出した後九十度左折しなければ通過できない一本道路であつたのと、兎も角敵を一度江岸まで追撃しなくては目指す南京北側地区への進出が出来ないので、昨八日夜戦場追撃は少くも敵に脅威を与ふる程度に前方まで進出しなくてはならなかつたのである。併し僅かに二日間の力闘ではあつたが兵の体力はかなり枯渇してゐたのでこの夜間追撃は実際活溌を欠いた、そしてその夜の内に鎮江方面よりする敵の退却がおこなはれたらしく列車の運行する火光や轟〃の音が聞えたのであつた。 旋回の角頂にある東陽鎮附近にこの朝大なる火の手があがつてゐた。敵は退却する縦隊の側翼を放火に依つて我軍から阻止しやうと試みたらしい。 鎮江から退却する敵に対し無二無算に懸つて行かなかつたことの可否は別に議論の余地があるかも知れないと思ふが、我支隊の任務は速に邪魔する敵を蹴散らして南京城の背後を遮断しなくてはならないのである、従つて道草を食ふやうな行動は予としては断じて避けることに決心してゐたのである。 併しこの行動は実に無暴に近い危険性を帯びてゐた、「閣下大丈夫ですか」「何大丈夫さ、逃げて行く敵には振り返つてくる丈けの勇気はない。やつて来れば来た時の話さ」副官は予に絶対の信頼を持つてゐるから此問答も実は御座なりに過ぎなかつた、併し之が図上戦術ならば甲論乙駁はあると思ふ。慎重な戦術家は少くも三乃至四分の一の兵力は残置したであらう。 前衛、右前衛、後衛を設けなければ危険を感ずる行軍部署である、従つて例の如く支隊本隊は僅かに一個大隊に足りないのであつた。 午前十一時新態勢に於て行動開始、幸にして敵は我を追尾して来なかつた。 七日から左翼大狐山に膠著してゐる歩九の一部隊に対して、我支隊に連繋して前進することを要望してあつたが、遂に前進ず、午後に至つて行動を起し我隊の後方に進出して来たのである、元来我支隊の進路は大狐山正面の敵の背後に当るのであるから此方面の敵は夙に退却してゐたことと思はれるのであるが・・・・・・ 兎も角吾等は他人を恃む必要は亳も無かつたのである。 午後二時半我前衛は東流鎮附近の敵より射撃を受けて停止、敵の警戒陣地らしい、依つて直ちに砲兵に陣地進入を命じ、前衛歩兵の攻撃前進を援助せしめた。此頃右前の高知にも点〃敵の散兵壕らしきもの及若干の敵影を認め一部を以て此敵をも砲撃せしめた。 砲弾が盛に命中する中を天空に投影する頂界線を腰を曲げて登つて行く敵を認めた、此方面に一部の我歩兵をも向けたが敵の逃げ足の方が早かつた。夕刻迄に敵の警戒陣地を奪取し、若干前進した後停止。 東流鎮に宿営。 これまで書くことを忘れてゐたが飲料水は毎日水の停滞したクリークまたは溜池の水を使用した。冬季のこととて幸に下痢患者が多発しなかつたので大いに助かつてゐる。 予は南京附近のの地勢を熟知してゐるので、我師団の作戦地域内に当る中山門(東面)太平門(東北角で北面)の攻略は多大の犠牲を払ふに非ざれば成功しないものと確信してゐた、即ち前者は跋渉不可能なる幅百米以上の水濠を湛へ、高射は深約二十米の外壕を有し壕底より城壁の頂上まで少くも五十米は有ると見られる嶮要の地である、城壁の破壊なぞ容易ではない、夫よりも寧ろ我支隊の行動方面たる紫金山以北の地域に主力を用ゐ、一路下関を望んで敵の唯一の退路に殺到するを兵要地誌的の正当なる判断なりとして其旨意見を具申したが師団長の決心は既に主力を中山門に向けるべく決して居ると云ふことで、予はその以後再び云ふことを控へてゐた。各師団がすべて南京城を目懸けて殺到してゐる時機であつたからマラソン競争的意識も或は有つたかと思はれる。 併し軍司令官朝香宮殿下も師団の主力は紫金山以北に使用するが適当なりとの意向を師団長に漏らされた由であるが既に命令起案後の故を以て御意図には従はなかつた由である。以上は師団参謀よりの内報であつて、師団命令と共に殿下の御意図として下関は敵の唯一の退路であるから有力なる一部隊を出すやうにとの旨を附け加へて此夜予に伝達されたのである。予の意見が容れられると否とは問ふ処ではない。予は三方より迫る敵に対し玉砕を期して任務に驀進すればいいのであつた。右の師団命令に依れば予の攻撃すべき目標は太平門である、これは前述する如く直ぐ前に素敵に大きな外壕を備へ而かも玄武湖と紫金山西麓の錯雑地を前地に控へてゐる、それで敵の城外支隊を蹴散らしてこれに主力を向け得るや否やは予がしれる地形上の判断では不可能事に近い。 ふと思ひ出したことには一条の間道があつた筈である、止むなければこれに小部隊を向けて所命を果たそうと思ふ。だが以前の駐在から十年の歳月が流れ、その間に要塞設備が完成したのであるから実際に於て左様な間道は現存してゐなかつたのである。 <揚子江畔の苦闘 前に右に後ろに沸ひて みちくさ進む 野分の如く※>
※日記の最後に短歌?が印刷されてある。かすれているので間違っている可能性あり。
&bold(){四、敵城外支隊との戦闘}
&bold(){十二月十日}
2009-04-09T19:03:52+09:00
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金丸吉生軍曹手記
https://w.atwiki.jp/hirasan/pages/21.html
*金丸吉生軍曹手記(第十六師団経理部)
※この手記は南京戦史資料集Ⅰ(P.255~261)により、スペース一個は改行、二個は段落を変えることを示す。
> 私は昭和十二年八月二十五日第五動員で召集され京都の第十六師団司令部の経理部主計軍曹として入隊し衣糧科の一員となり数日後には北支派遣軍として北支へ向かい、北支の塘沽へ上陸して子牙河遡江作戦に参加し泥寧の中を進撃してやっと局部的に一時安定した十一月初めに、北支寧晋をあとにして石家荘より乗車し北京、山海関を経て大連から輸送船に乗り上海向にけて出航しました。乗船後に南京攻略に参加すると聞かされ驚くとともに気の引き締まる感を覚えました。数日後に船は揚子江を遡江して白茆口沖で停船し第一線部隊の敵前上陸に続いて上陸し、それより常熟-無錫-丹陽-常州と進撃して湯水鎮へ着いたのが十二月初めであったと記憶しています。 当時のことを回想すると次から次と在りし日の体験が思い出され、今後少し余暇が出来たら詳細に回想録を綴りたいと考慮中です。 とにかく敵の首都攻略は一番乗りは我が部隊だとの意気で南京攻撃参加各部隊の熾烈な競争はすさまじく、第十六師団長中島今朝吾中将でさえ京都野戦砲兵聯隊の砲撃にじりじりしたのか「俺が指揮する」とばかり自ら丘陵に立って号令をかけているのを目撃しました。ところが敵の迫撃砲弾にあたって負傷せられましたが屈せず、なお元気を出して前進の指揮をとられたこともありました。 南京攻略はあまりにも進撃が早いので我々経理部の仕事は殆どなく、当時南京街道は兵と車輛と軍馬が一杯で兵站の車はとても前進できず、前線への食料の至急も紫金山へが、やっとだったと思います。 さて南京一番乗り競争は十二月九日の脇坂部隊の光華門が一番乗りでしたが、これはあとで光華門の一角の占領と知りました。我が十六師団は紫金山攻略に手間取っている歩三三(野田部隊)の情勢に一喜一憂しましたが、漸く十二月十一日頃敗走する敵とこれを追撃する我軍とが入り乱れて南京郊外を下関に向けて交戦しているとの情報を耳にしました。私は湯水鎮を経て麒麟門付近に居た時、中山門占領の暁は歩二〇(大野部隊)の一部隊と共に城内に入り敵の財産の徴発をせよとの命令を受けて、十三日の午後になって初めて中山門より入城しました。 たまたま「偕行」五十年五月号を拝見していましたら、私の行動と犬飼総一郎氏の行動とよく似ているのに驚きました。私はその時約一コ小隊の兵隊と共に中山門より中山東車路を経て中央ロータリーへ行き、それから北へ向かって中山北路を通って挹江門の方向まで行く予定が、行けば行くほど銃声が盛んで各所に火災もあり暗くなったので、引き返して国民政府の建物近くにあった「南京飯店」という大きいホテルで宿営しました。その時、昼間見た敵の中央病院にあった毛布を借りるつもりでそこへ行ったら、不思議な事に大勢寝ていた中国軍の傷病兵の姿も毛布も何もなくなっていました。引き返してホテルの真っ暗闇の中の廊下で飯盒で飯を炊きローウソクの光で寝についたことを覚えています。 南京中央ロータリーまでは火災もなく人影もなく比較的静かでしたが、ただ家屋の中はあきれるほど乱れて道具類はおろか商品らしきものは何一つなく、棚にあった物まで全部粉々に破壊され足の踏み場もなく、殆どが木の破片ばかりで所々に便衣らしき服を着た者や正規兵等の死体が転がっていました。私は敵の官庁らしい所にはみな標識をしました。しかし、中央ロータリーを通り過ぎると火災があり路上には兵器や軍服を初め軍隊の使用したいろいろなものが散乱し、その中に死体が累々として倒れているのを見ました。挹江門近くは戦闘中のためまた付近が火災で近寄れず、死体をまたいで引き返しました。途中、路の両側には官庁の建物が沢山あったことを記憶しています。 さて、その翌日か翌々日の十五日になって、私は師団司令部の置かれた元国民政府の建物中に設営された経理部で命令をうけました。その要旨は「下関郊外にある製粉工場を接収して内部の物品の調査保管と、それを隷下部隊へ支給せよ」との事で、直ちに一コ分隊の衛兵と通訳一名と共に下関に向かいました。同時に同じ経理部の福地主計少尉は、下関に在る電気会社の修理をして一日も早く南京市内へ電灯がつくようにと命令されました。私は下関へ到着してすぐ左折して、クリーク添いの道路を行くこと千メートルくらいの所にクリークの支流があり、そこに工兵が架設した仮橋を渡ると、すぐそこに大きな製粉会社の倉庫が幾つも並んでいるのが見え、そして倉庫前には大きな広場があることが判りました。 そこで早速倉庫内を調査したところ、小麦粉や麩、大豆等が到底勘定ができないくらい多量にあり、勘定は後回しすることにして工場の周囲へ衛兵を配置し、私は工場の事務所らしき所を宿舎と決めて休んでいたら突然衛兵が飛び込んできたので「何だ」と聞きますと、「ただいま工場内を調べたところ一番端の倉庫に敗残兵が大勢いますが、皆抵抗する気配は見えません」との報告を受けましたので現場へとんで行くと、正規や便衣の中国軍兵士が約三百名余り坐って両手をおとなしく頭にのせていました。 早速、身体検査をしてから安全を保障し食料を支給するから倉庫の整理に従えと命じたら、喜んで承知しましたので働かせることにしました。その場にあった多数の兵器や弾薬はすべて別の倉庫へ移し施錠しました。これがモトで数日後突然巡視に来られた中島今朝吾中将に発見されて大目玉を喰らい、司令部中に知れ渡る事件になりました。 その翌日(十七日頃でしょうか)、報告のため下関の埠頭まで行きますと、敵の乗り捨てたフォードのT型乗用車があり、配線をやり直したら幸いにエンジンが動いたので早速、これを利用することにして、それ以来それが随分役立ちました。 そこで経理部との毎日の連絡や野戦倉庫に行く時に(中山門近くにあった)これを使用すると共に南京城はもちろんその周辺をあちらこちらと走り回って見ることができました。したがって歩三三(野田部隊)の追撃戦の後はもちろん、下関の付近、揚子江岸道路も見ました。江岸道路には死体の山が所々にあり、それは百名程度のもので真っ黒焦げになっていました。それらはみんな厳冬のことでもあり全部硬直していました。また、対岸の浦口と連絡する鉄道路線には焼けただれた貸車があり、その中にも死体が一杯あり、これらは全部正規兵と見受けられました。 その頃のある日の夕刻揚子江岸道路を軍歌でも歌っているような大合唱が耳に入ったので何事かと止まって待っていると、四列縦隊の中国兵が約一コ大隊ほど大声を発しながら(これは大声で泣いている声でした)、そしてその両側を十メートル置きぐらいに剣付きの三八式歩兵銃を持った日本兵が監視をしながら更新して来たので「何処へ行くのか」と聞いたところ「処分をしに行きます」との返事でした。 私は「そうか」と言ったものの何となく寒気を感じました。この捕虜は漢西門ちかくの濠(クリーク)と城壁の間にある斜面になった土地へ連れていき機関銃で処分し、石油をかけて焼却したことを後に知りました。 それを聞いてやっと判ったことは、私たちの居った製粉会社の倉庫の裏は揚子江でしたが、その反対側には高い堤防がありそれは道路ですがその向こうが水濠(クリーク)で水面幅が約三十メートルくらいあり、その向こうに二、三十メートルのゆるい斜面の土地があってその向こうに城壁がありました。そこで数日間毎日夕方から夜になると盛んに銃声が聞こえ、その後で火が燃え上がり毎夜おそくまで青白い焔が燃え続けているのを見ました。だから正確な数は判りませんが一夜に五、六百名として三千名から四千名くらいの処分があったものと想像されます。これが私の見た中国兵処分の実態です。 市内での死体はそんなに多量のものでなく、南京西北部から下関にかけて散乱しており、また歩三三の兵隊の話では汽車の貸車に中国兵を一杯積み込んで線路を押して揚子江へ突き落としたのが十輛足らずあったと聞きました。また中国敗残兵の略奪や放火の甚だしかった事はすごいものでした。なお塹壕の死体はたくさん見ましたが、これは白兵戦の時の死体と思います。 さて、私の果たした任務の事を少し述べたいと思います。私が受けた命令は製粉工場倉庫にある小麦粉を各部隊の人員に応じて支給することですが、何万袋もある小麦粉ですから相当多く支給しても十二分の量があり、また麩は馬匹を使用している騎兵隊や輜重隊ほか野戦砲隊に対するものでしたが、これも十分にあったのです。南京市内に行くたびに難民区の近くを通りますので、ある日思いついて近くの外資系(米)石油会社のマネジャー(支配人・中国人)にトラックを借りる契約をして、それに小麦粉を積めるだけ積んで漢西門を経て金陵大学校内にあった難民区へ届けに行きました。 そこの入り口は日本軍の憲兵と歩哨が立っていましたが訳を言ったら直ちに開門をしてくれたので車を校庭内へ入れ小麦粉を全部渡したところ、中国の責任者から声涙ともに下る謝辞をうけました。こんなに喜んでくれるならとその後も三回ばかり持っていきましたが、これは私の責任で行ったものです。金陵大学の先生らしい人が私に「日本軍は恐ろしいものだと思っていたがこんな親切な行為は初めてだ」と両掌を合わせ「謝々謝々」と言われたものです。 次は前述の中島中将に大目玉をくらった事件ですが、大倉庫を占領したのをよほど自慢したかったのか石田経理部長が司令官にこの事を報告したため師団長が下関の実状の視察をかねて倉庫へ突然に来られたわけです。私は何も知らず平常通り部隊に糧秣を交付していたのですが、その日(たぶん十二月二十日頃です)は朝から相当寒さがきびしく氷も張り、少し雪が積もっていたので私は交付現場で木炭をたくさん、大きな火鉢に入れてその上に両足をのせて(いわゆる股火鉢です)真っ赤な毛糸の厚いジャケットを着て、うつむいて火に手をかざしていたのです。 ところが何かザワザワするのでふと頭を上げると、なんと師団長をはじめ参謀、副官、経理部長が目前に立っているではありませんか。驚いてそのまま直立不動で立ち上がりました。すると経理団長に「金丸軍曹、今から閣下をご案内せよ」と命ぜられたのであわててそのままの姿で先に歩くと、閣下が「ちょっと待て、お前のその姿は何だ、敗残兵の大勢いる中で身に寸鉄も帯びず無警戒も甚だしい。貴公は阿呆と言おうか大胆と言おうか、とんでもない奴だ。もし敵にやられても戦死扱いにはしないぞ」と大声でどなられました。付近にいた上官たちも驚いたような顔付でした。 私も止むを得ずジャケットを脱いで先頭に立って倉庫を順次案内しました。ここでまた、とんでもない事が起こりました。私が勝手に使っていた捕虜の姿が見えないのをすっかり忘れて、最後の倉庫の前まで行くと扉が閉まっていたので衛兵に「開けよ」と伝えましたら中には捕虜三百名が初日に取りあげた兵器の傍にしゃがんでいました。私も驚きましたが閣下も一驚した様子で、たちまち大声で「これは何だ。こんな者と兵器を一緒にして、もし反抗したらどうするんだ」ときつい叱責をうけました。 実は通訳が気をきかして捕虜を倉庫にかくしたのですが、そんな事とは知らず開扉させたのが悪かったので、何とか副官の取りなしで私はやっと解放され、閣下は帰られました。(なおこの通訳は、後に私と偵察に行った時敵襲を受けて惨殺されました。) ところが後日、経理部長はこんな事を知らせてくれました。 明けて昭和十三年正月、軍司令官主催の年賀の席でのことです。「中島師団長は「私の部隊の一主計曹長で無腰のままで三百名の捕虜を自由に使っている大胆不敵な奴がおりまして、大した働きをしております」と自慢しておられたぞ」と石田経理部長は嬉しそうに言ってくれました。(註・私は何時の間にか一階級昇進して、曹長になっていました。呵々)それ以来、私は中島中将に気に入られ朝夕目にとまると必ず言葉をかけていただき、除隊後も時々手紙をもらっておりました。今もなお、遺族の方と交際しています。 南京における私の働きが良かったのかどうか判りませんが第十六師団は北支へまたまた転戦することになり、私は昭和十三年一月十五日に最先発の命を受けて経理部の酒井大尉と召集された富田少尉を私の三名で即日上海へ出発し、上海から大連へ直行してから後から来る師団各部隊に防寒服その他を大連埠頭で支給することになり、私は約一ヶ月間大連に留まり、ずいぶん呑気な生活をしました。 それ以後は徐州戦朧海線沿いの追撃、尉氏での決漬氾濫した黄河の水との戦い、大別山越えの漢口攻略戦等々に加わって昭和十四年八月帰国しました。
・手記中の&bold(){麩}という文字は資料集ではフスマ(ばくにょうに皮)という漢字だったが、変換できなかったので代用した。
また、手記中に「敵の乗り捨てた・・・」とあるが、資料集では「&bold(){捨}」が「&bold(){拾}」になっており、文脈からして「捨」の方が適切と判断したため訂正した。
手記中にある中島師団長が下関の製粉工場を巡視したのは随行した木佐木参謀の日記によると十二月十三日午後の事。
2009-04-06T12:28:29+09:00
1238988509
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誤字脱字その他の報告はこちらへお願いします
https://w.atwiki.jp/hirasan/pages/22.html
誤字や脱字、各種指摘はこちらにお願いします。
- 管理人です。書き込みはどうぞ気楽に。 -- 平社員 (2009-03-31 18:56:44)
#comment()
2009-04-03T15:06:30+09:00
1238738790
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要望その他はこちらへお願いします
https://w.atwiki.jp/hirasan/pages/23.html
読みづらい、追加して欲しいなどの要望はこちらにお願いします。
#comment()
2009-04-03T15:06:15+09:00
1238738775
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職員表-中支那方面軍司令部
https://w.atwiki.jp/hirasan/pages/18.html
*中支那方面軍職員表
※数字は期を表し、「兼」は兼任を表す。
司令官 大将 松井 石根 9 兼
参謀長 少将 塚田 攻 19 兼
参謀副長 歩大佐 武藤 章 25
参謀 騎大佐 西村 一策 25 兼
歩中佐 芳村 正義 28 兼
歩中佐 長 勇 28 兼
歩中佐 寺垣 忠雄 28 兼
砲中佐 公平 匡武 31
航中佐 光成 成省 31
騎少佐 本郷 忠夫 32
航少佐 中山 寧人 33
工少佐 二宮 義清 34
工少佐 河村 弁治 34
砲少佐 吉川 猛 35
国際法顧問 法博 斉藤 良衛
2009-03-27T20:48:39+09:00
1238154519
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職員表-上海派遣軍司令部
https://w.atwiki.jp/hirasan/pages/19.html
*上海派遣軍司令部職員表
※数字は期を表し、「兼」は兼任を表す。
司令官 中将 朝香宮鳩彦王 20
参謀長} 少将 飯沼 守 21
参謀副長} 歩大佐 植村 利通 22
{参謀部第一課長 騎大佐 西村 一策 25
参謀部第一課 歩中佐 芳村 正義 28
航中佐 北島 熊男 29
航中佐 川上 清志 30
砲中佐 大坪 一馬 30
歩少佐 二神 力 34
海大佐 松田 千秋
海少佐 青木 武
参謀部第二課長 歩中佐 長 勇 28
参謀部第二課 騎少佐 本郷 忠夫 32
歩少佐 御厨 正幸 33
歩大尉 大西 一 36
海少佐 根本 純一 兼
参謀部第三課長 歩中佐 寺垣 忠雄 28
参謀部第三課 歩少佐 櫛田 正夫 35
歩少佐 榊原 主計 35
歩少佐 北野 兵蔵 35
砲大尉 佐々木 克巳 38
海中佐 長岡 博吉 兼
管理部長 歩中佐 川勝 郁郎 24
兵器部長 少佐 福原 豊三 20
軍医部長 医少将 笹井 秀恕
経理部長 主少将 根岸 莞爾
獣医部長 獣少将 橋本 庄太郎
法務部長 高等三 塚本 浩次
憲兵隊長 憲少佐 横田 昌隆 32
2009-03-27T20:48:05+09:00
1238154485
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職員表-第十軍司令部
https://w.atwiki.jp/hirasan/pages/20.html
*第十軍司令部職員表
※数字は期を表し、「兼」は兼任を表す。
司令官 中将 柳川 平助 12
参謀長 少将 田辺 盛武 22
参謀副長 なし
軍司令部第一課長 航大佐 藤本 鉄熊 26
歩中佐 寺田 雅雄 29
砲少佐 吉永 朴 31
工少佐 池谷 半二郎33
歩少佐 山崎 正男 33
航少佐 大坂 順次 35
歩大尉 仙頭 俊三 36
軍司令部第二課長 歩大佐 井上 靖 26
軍司令部第二課 歩中佐 岡田 重一 34
歩少佐 堂脇 光雄 34
砲大尉 清水 武男 36
海少佐 根本 純一
軍司令部第三課長 工大佐 谷田 勇 27
軍司令部第三課 輜中佐 小畑 信良 30
歩大尉 金子 倫介 39
海少佐 長岡 博吉
法務部長 高等二 小川 関二郎
2009-03-27T20:46:58+09:00
1238154418