帝政ロシア外交


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 帝政ロシアについては、ピョートル大帝が新首都サンクトペテルブルクを築き、そこに近代的行政官庁を整備してから、公文書の蓄積・整理が体系的に始まった。ここでは、それ以降、1917年の革命までを扱う。なお、ピョートルについても、古文書アーカイブ(RGADA)などに残る文書がある。
 当時の国際言語(特に18世紀)はフランス語で、皇帝もロシア語とフランス語を使い分けた。ヨーロッパ外交においてはフランス語が基本で、内政やアジア外交はロシア語で記録された(外相ネッセルロードはロシア語ができなかった)。
 秘書が記録した筆跡は形式が厳格で読みやすい(それでも旧字の複数の書き方を習得必要)が、高官本人が書いた書簡やコメントは難易度が上がる。のちにはタイプライターによるものもある。

ロシア国内

ロシア帝国外交文書館(AVPRI):きつい。
GARF:アレクサンドル2世と弟のコンスタンチン大公との書簡集や日記が残る(活字で刊行済)。帝室の体系的文書としてはここにないが、個人フォンドの形でこのように残るものがある。保安機関である皇帝官房第3局の文書もある。
陸軍(RGVIA)
ペテルブルクの(RGIA

英国

国立文書館(National Archives):ロシアとはヨーロッパ、中央アジア、東アジアで向きあっていたので、それぞれの外交関係文書に記録が残る。英国は比較的英語を多く使っており(あたりまえではない)、フランス語文書にもたいていは英語訳がついている。

中国

清朝中国の文書は、東北地方、北京、台北で捜索の余地がある。台北にはかつて坂野正高が研究に出向いて利用した「四書とうあん?」があるが、これも現在は刊行された。