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ほトトギす 第十話 - (2019/02/03 (日) 16:53:16) のソース

597 :ほトトギす ◆UHh3YBA8aM [sage] :2009/02/06(金) 16:52:06 ID:TeLSZvAo 
――受動。 
ひたすらに、受動的。 
それが、日ノ本創の性質である。 
生まれついてのものか。或は生きて往く上で確立された能力なのか。 
自分では知ることが出来ないし、あまり興味もなかった事柄だ。 
だけど、僕は生まれて初めて。 
そんな自分を忌み嫌っている。 
僕の受動は、多分そのままの『弱さ』なのだと思う。 
強弱とは相対的なもので、また流動的な現象でもある。 
けれど、総じて。 
或はトータルで、『僕』と云う人間は、虚弱なのだ。 
強く出られると逆らえない。 
痛みには抗えない。 
恐怖には耐えられない。 
心が酷く痛がりだ。 
臆病だから、傷ついて。 
臆病だから、傷つける。 
大切に思っていたはずの従妹と『あんな事に』なったのは、僕の弱さが原因だろう。 
慕っていた先輩と『あんな仲』になったのは、僕の弱さが招いた結果だ。 
僕はこの『弱さ』をどうするべきだろうか。 
人は急には変われない。 
簡単に強くなどなれるはずもない。 
だから、弱さとの決別など出来るはずがない。 
ならば、一体何が出来るだろうか。 

一ツ橋朝歌は、結局何も聞かなかった。 
僕に何があったか、どうしてふらついていたのか。 
何も問わず、何も尋ねず。 
朝食と熱いお茶を勧めただけで。 
「好きなだけここにいて下さい」 
そう云って、何事もないように振る舞う。 
けれどいつまで経ってもも登校しようとしないのだから、僕に気を遣っているのは、明白だった。 
澱んだ瞳と擦れた声で僕は尋ねる。 
学校へは往かないのかと。 
傍らで本を読む痩せた少女は、興味なさそうに呟いた。 
必要があればそうします、と。 
膝を抱えて俯く兄貴分に、彼女は何も語らない。 
ちいさく寄り添うように、傍にいるだけ。 
それは、幽かであっても、確かに貴重な温もりであった。 
太陽が頂点に昇り。 
この家に来て二回目の食事を終えても。 
僕は。そして一ツ橋は外へは出なかった。 
陽の射すソファでぼんやりしているだけの僕と、その膝の上に座って本を読むだけの一ツ橋。 
交わすべき言葉は何もなく。 
語るべき言葉も何もない。 
唯、時間だけが過ぎていく。 
或はこれは僕の思い込みかも知れないが、一ツ橋はこうやって、僕が癒えるのを待っているのではない 
だろうか。 
だとすれば、随分と気を遣わせたものだ。 
高校一年生と呼ぶには、あまりにも細い腰に腕を廻した。 
一ツ橋は一瞬だけピクリと身体を跳ねさせたが、後は微動だにしない。何事もないように読書を続けて 
いる。 
僕は無抵抗の後輩を弄びながら、瞳を閉じて考える。 
これまでとこれから。 
そして、理想と現実。 
僕の願望はシンプルだ・・・と思う。 
以前に戻りたい。それだけだ。 
けれど、それが無理な事は、莫迦な僕でも判っている。 
シンプル―― 


599 :ほトトギす ◆UHh3YBA8aM [sage] :2009/02/06(金) 16:54:37 ID:TeLSZvAo 
そう。 
誰であっても、願いくらいはシンプルなものだ。 
『彼女』や『彼女』の願いだって、きっとシンプルだ。 
僕とは違った意味で、良好な関係を築きたかっただけなのだろうから。 
もしも彼女等を愛せたら、或は愛する事が出来たのなら、もう少し結果は変わったろうか? 
否。 
そうは思えない。 
そうは思えないからこそ、問題がより複雑になる。 
感情の暴発による他者への排撃は、僕に御し得るものではない。 
御し得なかったからこそ、今の僕等の状況があるのだが。 
(感情と云えば――) 
この痩身の少女は、今現在をどう思っているのだろうか。 
深深と身体を沈めて来ている姿を覗き込んだ。 
一ツ橋朝歌はあまり表情が変わらない。 
それは『すぐ顔に出る人』の逆位置にあるだけであって、内面には僕等と同等の世界が広がっている、 
と思っているのだが、確証はないし、仮に合っていたとしても、彼女の心象風景を見つめる事は不可能 
だろう。 
せいぜい、迷惑になっていなければ良いなとは思うけれど、迷惑であるに決まっている。 
(そもそも、ここに居る事自体がもう迷惑なんだよな) 
今更ながら、思い至った。 
自分の事だけ見て。 
自分の事情だけで落ち込んで。 
誰に負担を掛けているかなんて、考えもしなかった。 
その点において、僕は織倉由良や楢柴綾緒と何等変わらない。 
覗き見る後輩の頬は赤く腫れている。 
云うまでもない、僕の為に暴力に晒されたが故である。 
織倉由良に殴打されたのは昨日の昼だ。腫れが引くはずもないのに。 
そんな事にも、気付かなかった。 
今の今まで。 
礼を云う事も。 
謝る事すらも。 
「頬は・・・痛くないのか」 
自分でも驚くくらい、情けない声だった。 
死に往く病人のような弱り切った声。 
そんな半死人に一ツ橋は瞳も向けず、 
「お兄ちゃんが気にする事ではありません」 
ちいさく一言だけ呟いた。 
僕の所為で殴られたのに、僕の所為では無いように振る舞う。 
怪我をさせて。 
遅刻をさせて。 
結局、僕は一ツ橋に迷惑しか掛けていない。 
今も。 
その前も。 
このままでは、これからも。 
僕に関わるだけで、この娘は被害に遭うのだろう。 
(居るべきではない。ここに) 
それが僕に出来る、せめてもの行動。 
せめてもの責任の取り方だ。 
「――帰る」 
呟くと、一ツ橋はこちらを向いた。 
「そうですか」 
と、いつもの言葉が返ってくると思っていた。 
だが、一ツ橋は膝の上で身体の向きを180度換え、 
「止めた方が良いです」 
珍しく首を動かした。 
「戻れば状況が悪化します」 
「そう思わないでもないけどな」 
だからと云って、居候じみた状態に甘んじるを良とは出来ない。 
それは更なる迷惑を掛ける事と同義だから。 


600 :ほトトギす ◆UHh3YBA8aM [sage] :2009/02/06(金) 16:57:36 ID:TeLSZvAo 
「駄目、です」 
身を起こしかけた僕を、一ツ橋は押さえつけた――のだと思う。 
彼女にしては珍しい、能動的な所作は。 
端から見ると、抱きしめられていると勘違いされるかもしれない。 
そういう体勢だった。 
「一ツ橋・・・」 
「朝歌です」 
表情のない瞳に、不可視の意識が見えた。 
本当に、どこまでも気を遣ってくれているのだと判る。 
だからこそ、これ以上巻き込む訳にはいかない。 
あの時。 
一ツ橋朝歌を殴りつけた織倉由良は、多分、本気だった。 
本気・本当の憎しみをもって、年下の矮躯を殴りつけたのだろう。 
憤怒と激情のみに支配された瞳には、気遣いや手加減の文字が見えなかった。 
あの鶯にしても、一度敵対者を定めてしまえば、呵責無く責め立てる事、疑いない。 
綾緒は織倉由良の名は口にした事があるが、一ツ橋朝歌の名を呼んだ事はない。 
つまり、今はまだ、あの鶯には敵視されてはいないと云う事。 
ならば、『そうなる』前に関わりを断つべきだろう。 
一ツ橋が僕を助ける限り、綾緒に誤解される可能性は付きまとうのだから。 
迷惑を掛けて、掛けて、掛け続けて、その果てに一生を左右する瑕疵を残すことになった時、僕はその 
現実を受け入れられるのだろうか。 
誰よりも弱い僕が。 
消えぬ傷。 
或は障害。 
無関係でいられた人間が自分の所為で癒えぬ疵痕を残すような事態に直面した時、僕は正気でいられる 
自信がない。 
そんな事態は避けねばならぬ。 
だから、この場からの辞去は一ツ橋への気遣いなんかじゃなく、唯の逃避。 
僕自身の弱さを、走らせるだけの行為。 
けれど、それでも起こりうる大きな災いを未然に防げるのならば、まだマシな逃避と云えるのではない 
か。 
そう思う事にして、僕は立ち上がった。 
組み付いている一ツ橋は恐ろしく軽い。 
吹けば飛ぶようなこの少女を、嵐の中へ巻き込む訳には往かないと改めて思う。 
「一ツ橋・・・もう、充分だ」 
もう充分救って貰った。 
もう充分、癒して貰った。 
痩身矮躯を引き離し、床の上へと降ろし置く。 
掌を乗せた頭は、こんなにも低く、ちいさくて。 
「充分とはどういう意味ですか」 
「・・・」 
言葉通り。 
答えるべき何ものも無い。 
「私が邪魔ですか」 
「邪魔じゃない」 
「・・・」 
「邪魔じゃないから、帰るんだ」 
お前は『外』にいるべきだ。 
今まで通り、傍観者でいるべきだ。 
嵐の中に、来てはいけない。 
僕は背を向ける。 
「待って、下さい」 
細い指が、服を摘んだ。 
力が込められている様子が感じられる。 
僕はそれを振り払う。 
「ごめんな」 
そう呟いたつもりだけれど。 
ちいさすぎた僕の声は、多分彼女には届かなかった事だろう。 



601 :ほトトギす ◆UHh3YBA8aM [sage] :2009/02/06(金) 16:59:54 ID:TeLSZvAo 
振り返って考える。 
今の今まで、僕は一体、何をどうして来たのかと。 
傍観している者が居れば、唯一言。 
右往左往。 
そう、評する事だろう。 
否定はしない。 
そもそも出来ない。 
能力と実績と、その両方で拵えた結果であるからだ。 
どうせ過去の改変など出来はしない。 
ならば、これから先をどう生き、どう過ごすかが重要だ。 
思い出してみれば、幾度あの後輩に助けられていた事か。 
直接的に間接的に。 
或は積極的に消極的に。 
フォローと云い援助と云うべき行動で、事ある度に救われて来た。 
これからは、『それ』が無い。 
差し伸べられた手を、自ら振り払った。 
その行動自体に間違いは無いと考えたいし、妥当であったと思いもするが、僕の決断が正しかった事と 
今後起こりうるであろう事象に対する困難性の増大とは、また別の問題である。 
たとえば、今。 
現在のこの瞬間。 
僕の自宅で僕を抱きしめているこの人を掣肘してくれる人間は、もういない。 
「日ノ本くん、どこへ往ってたの?心配したんだから」 
幽かに怒気を孕む織倉由良の声は、それでも安堵の方が、より主立った成分であっただろう。 
僕の背に回る腕が、ちいさく蠕動している。『情愛』が伝わる所作ではあった。 
聞けば昨晩の電話の後、真っ直ぐここへ来て、ずっと留まっていたらしい。 
心配されもされたり――と云うべきではあるのだろう。 
しかし鬱鬱として楽しまない。 
彼女の好意を、重く感じる。 
そう考えてしまうのは、僕の傲慢なのだろうか。 
ともあれ、家を空けたのは、結果的に正解であったように思う。 
昨夜の精神状況では、とてもこの人の相手は出来なかったであろうから。 
勿論今も度し難いし、御し得るとは思えない。 
けれど、これ以上一ツ橋を巻き込む事の出来ぬ僕である。 
自分の力一つでもって、事態に当たらねばならぬ。 
どれ程それがぎこちなく、不格好であろうとも。 
「日ノ本くん・・・何があったか聞かせて欲しいの。鍵も掛けずに家を空けるなんて」 
「・・・」 
それは、彼女の立場からすれば、尤もな疑問であったろう。 
僕と彼女の中の僕の齟齬は置いておくとして、『恋人』が――いや、知己が一晩行方を眩ませているの 
だから、気にしない方がおかしい。 
そういう意味で、先輩は正しい。 
けれど、どうにも対蹠的な態度を取った矮躯の少女と比較してしまう。 
何も聞かない。 
何も云わない。 
その上で他所の男を自宅に上げる。 
無防備に過ぎる後輩の態度の方が、気が休まった。 
無論それは僕にとって都合が良いと云うだけの、身勝手な云い分に過ぎない。だが、確かにそれで救わ 
れたのは事実だ。 
――その結果として、無口な少女は休学と云う名の迷惑を被った訳ではあるが。 
織倉由良も、今日は欠席のはずだ。本人の弁を信じるならば、昨晩も家に戻っていないのだろうし、品 
行方正で通っているのだから、それは流石にまずいだろう。 
「先輩・・・」 
「なぁに、日ノ本くん」 
「学校へは往かなかったんですか」 
「今はそんな場合じゃないでしょう?日ノ本くん、凄く窶れた顔してる。事情を聞かないと学校どころ 
じゃないわよ」 
「・・・」 
方向性が異なるとしても、僕を心配してくれているというのは間違いないようだ。 


603 :ほトトギす ◆UHh3YBA8aM [sage] :2009/02/06(金) 17:02:14 ID:TeLSZvAo 
元来、彼女は面倒見の良い好人物だった。それがいつの間にか変質しただけで、本質的には善良なのか 
もしれない。 
蓋し、性格の善悪と、行動の善悪と、結果としての善悪は、総て別のものだ。 
――強き想いは善であるか悪であるか。 
等と云う問いには、答えられるはずもない。 
悪心が発端で幸福をもたらす事もあろうし、その逆もあるであろう。 
善悪とは事象の周囲と影響にこそ付いて回る言葉なのだから。 
だから、いや、だからこそ、何があったかなんて話せる訳もない。 
話せば、そこから先は、奈落だけ。 
誰も望まぬ暗い滝壺だけが、筏に揺られる乗員達の往き先となるだろう。 
『妻』と『恋人』の凄惨な争いを目にするつもりは更更無い。 
だから僕は、昨日失踪した理由と、それ以前――『恋人』をほったらかしにして『別の女』と昼食を取 
っていた理由を再三、再四問われても答えなかった。 
唯、擦れた声でこう云った。 
「先輩・・・兎に角、今日は休ませて下さい」 
疲労は事実ではあるが、欺瞞である事も判っている。問題の先送りである事も。 
だが、先延ばしであったとしても、何も云わない事が正解であると信じた。 
必要なのは時間であると思いたかった。 
僕の顔には覇気も生気も無い。 
元からそんなものは具備していないが、昨日の出来事で根刮ぎ消えた。 
それが顔に出ている事は、後輩の家を出る時に確認している。 
陰鬱な表情が、この場合は発言に重みを与えてくれるであろうと思われた。 
「・・・」 
織倉由良は黙って僕を見ている。 
暫くそうしていたが、やがて変化が顕れる。 
強ばったような、けれど笑顔でも作ろうといているような、不思議な顔であった。 
「・・・判ったわ。日ノ本くん、本当に疲れてるみたいだし、今は何も聞かない。でも、約束して?何 
があったか、今度話してくれるって。それから、何かあったらすぐに私を呼んで欲しいの。私は日ノ本 
くんの恋人なんだから。日ノ本くん為だったら、命だって掛けられるんだから」 
そう云って、彼女は包帯の巻かれた腕を押さえた。 
生命が流れ出した跡の残る、細く綺麗な左腕。 
命を掛けられる―― 
それは多分、本気なのだろう。 
心配していると云うのもそうだ。 
だけど、僕には彼女の気遣いがどうにも横滑りして往く。 
噛み合わないから、心に響かない。 
失礼な云い分だとは思うけれど、織倉由良が思う程、僕は彼女と相性が良いわけではないみたいだ。 
ともあれ、今は二つの嵐を引き離す必要がある。 
この人と綾緒を逢わせてはいけない。 
『妻』と『恋人』の問題は、あくまで別個の件に留めねばならない。 
個別な対処ならば、まだ望みはあるだろう。 
どうするかを考える為にも、今は時間が必要だ。 
だから、心配を寄せる先輩を丁重に送り出す。 
「傍にいる」、と云い張られでもするかと思ったが、彼女は意外な程アッサリと帰宅を了承した。 
(先輩を“否定”するのではなく、“納得”させれば、ある程度行動を律する事が出来るのかも知れな 
い・・・) 
誤った認識かも知れないが、もしもそうならば、貴重な発見である。 
その点、閲する為にも、時間と空間が必須であろう。 
去り際、織倉由良は何度も何度も振り返りながら、こう云った。 
「夜にでも、また様子を見に来るからね?」 
「・・・・・・」 
ああ、成程。 
簡単に引き下がる訳だ。 
僕は力なくに肩を竦めるだけだった。 



604 :ほトトギす ◆UHh3YBA8aM [sage] :2009/02/06(金) 17:04:36 ID:TeLSZvAo 
一体、疲労とは思考を鈍らせるものである。 
今後の身の振り方を云云する前に、今の身体を休める必要がある。 
そう思って休もうとした矢先、来客があった。 
ここのところ色色あった所為か、恐怖と警戒とが付きまとい、来訪者の確認に手間取った。 
「綾緒お嬢様より、創様の御世話を私が仰せつかりました」 
玄関先に居た人物は、そう云って恭しく頭を垂れる。 
相手は僕の既知で、源逆灯(みなさか あかり)と云う少女であった。 
穏やかな雰囲気と外見を持つこの女性は、楢柴家の使用人だ。 
使用人と云っても、タダノヒトではない。 
従者の身分が『一般人』と云うのは、『普通の名家』だけである。『名家の中の名家』である楢柴家で 
は、従者になるにも一定以上の『資格』が必要だ。 
源逆家は、北面の武士を先祖に持ち、更に遡れば、その血は嵯峨源氏に突き当たる。当然のように長い 
長い家系図を持った、『血統書付き』の人物――要はお嬢様である。 
名家の子女が他家へ奉公へ出るのは、心身の修養と、そしてそれ以上に政治的な配慮が働くが故だ。 
彼女もそんな両親の思惑から、楢柴家へ仕えている。 
尤も、本人は本気で社会勉強兼、花嫁修業と考えている節がある。 
楢柴の当主は、嘗て彼女を評して、『善人』と云った。 
「灯は無邪気ですから――」 
綾緒も嘗て、彼女をそう評した。 
これ等は褒め言葉ではなく、若干の皮肉を含んでいる。 
あの従妹は、たとえ使用人であっても、それが女性ならば、僕に近づく事を好まない。 
それなのに源逆灯を寄越したのは、ある意味で安心されているからだ。 
それが、彼女が『善人』であり『無邪気』であると云う事。 
彼女は両親の政治的意図も知らず、財閥が大を成すには影を纏う必要があるという事も知らない。 
花嫁修業も“いつか現れる素敵な殿方”を夢想してのものだと云うが、源逆家クラスの家ともなると、 
往き着く先は政略結婚である可能性が高い。 
尤も、楢柴の当主である伯父の文人氏は完全な政略結婚であったにも関わらず良好な夫婦関係を営んで 
いるから、一概に政略結婚が駄目と云う訳ではないだろうが。 
だが、それでも一般的な恋愛が困難なのは云うまでもない。 
文人氏は人間的に煉れた人柄ではあるが、それでも未だ僕の父を憎悪する事一方ではない。 
それらを付き合わせて考えると、恋愛観含め、源逆灯がやって往くには、この先大変であろうなとは僕 
も思うところである。 
疲労の極みにあった僕は、この来訪者を受け入れる気にはなれなかった。が、門前払いを食らわす訳に 
も往かない。 
取り敢えず、あがって貰うことにした。 
少し話してみて判ったのだが、彼女は綾緒が謹慎させられた事は知っていても、謹慎させられた理由は 
知らないらしい。 
単純に、綾緒の替わりとして僕の世話をしに来たのだと。 
これは他者が堅く口外しなかったからではあるのだろうが、彼女自身に周囲を察する能力が欠けている 
事を示唆するものでもある。 
この際、それは僕にとっては有り難い事ではある。 
鋭い人間、事情を知る人間では、気が休まらない。 
尤も、察していても気を遣ってくれる人物でもいるならば話は別だが、そんな者はそうは居ない。 
「綾緒の様子はどうですか?」 
表面しか見えない人に聞いてみる。 
表層だけを見る者には、今のあいつは、どう映るのだろう。 
「この間までは凄く落ち込んでいましたが、今日はとても晴れやかなお顔をしておりましたよ。穏やか 
で、心が凪いでいるようでした」 
兎に角、幸せそうでした。 
源逆灯はそう云って笑った。 
(幸せそう、か・・・) 
想い人と身も心も結ばれた―― 
少なくとも、綾緒はそう思っているはずだ。 
だから環境が同じでも、形相は変化する。観測する側も、また。 
「伯父さんの方はどうですか?」 
「旦那様ですか?旦那様とは連絡が取れていないので、何とも・・・申し訳ありません」 
「連絡、取れてないんですか」 
「お忙しい方ですからね」 


605 :ほトトギす ◆UHh3YBA8aM [sage] :2009/02/06(金) 17:07:37 ID:TeLSZvAo 
答えながらも、身支度を調えて往く。若年の頃から奉公に出ているだけあって、様になっているし、ま 
た、手早い。 
「綾緒お嬢様は私等より余程家事に秀でています。至らぬ点はあるかと思いますが、精一杯務めさせて 
頂くつもりですので、よしなにお願い致します」 
家事の腕が綾緒に劣る。 
それは事実だろう、と思う。 
純然たる大和撫子である綾緒は、良妻賢母の鑑のようだと以前は考えていた。 
技量的には、源逆灯の上を往くのは、経験として知っている。 
だが―― 
包帯の巻かれた左手を見つめる。 
能力的には充分でも、精神的にはどうなのだろうか―― 
多少、複雑な気分になる。 
楢柴綾緒と云う妹には端倪すべからざる面が多多あって、諸事判断が難しい。 
従妹は貴種である為か、『下等』な血統を蔑む傾向がある。 
ただしそれは完全な平民に限られ、下級下位でも『貴族』相手には穏当であるらしい。 
源逆灯との仲は良好であるし、光陰館でも面倒見が良い事で評判が良いと聞く。 
多くの人間に慕われているのは僕も目の当たりにした事実だから、それは正しいのだろう。 
一方で、同校の在学生でも『雑種』には冷淡極まりない。 
光陰館は貴種の学舎なのであって、有象無象の民草が来て良い場所ではない、というのが、その思想の 
根底であろうと思われる。 
爵位や階級が分かれ、整備されているのは、序列を明らかにする事で秩序を守る為。 
それが、多くの光陰館に通う生徒の共通認識であるらしい。 
だから、卑賤の身で光陰館に通う者は、肩身の狭い思いをするようだ。 
綾緒自身、肩身の狭い思いを“させる側”なのだ。 
だが、その一方で従妹は在学する『雑種』に尊敬されている。 
身分の尊さと外見の美しさは単純に憧れを抱かせるに充分であったが、事実、実績を挙げた事も尊崇さ 
れる大きな理由である。 
その実績とは、中等部に所属している時、下級生を暴漢から守った事。 
不審者二人を叩きのめし、或女生徒を危地より救ったのだ。 
光陰館には貴種と平民の間に大きな溝があるが、これによって彼女は両者から賞賛され、慕われる存在 
となった。 
更に、一部の『雑種組』には、身分を問わず接してくれる人物であると幻想を抱かせたようである。 
この話を聞いた当時、僕は綾緒を褒めたのだが、従妹は内容的には喜ばなかった。 
僕に褒められたと云う一事だけで終始満足げで、頬を染めて微笑んでいたのだが、内容に関しては褒め 
られるべきものではないとハッキリと云い切った。 
「護民は我我の責務ですから」 
我我――つまり、貴種である。 
諸外国でもそうだが、貴族は平民と己を同格とは考えない。 
にもかかわらず、戦があれば真っ先に先頭に立って剣を振るう。 
それは、牧畜をする人間が家畜を保護するのに近い心情であっただろう。 
noblesse oblige 、と云う訳だ。 
高貴なる義務、と云えば、彼女――源逆灯の通う聯鏡院(れんきょういん)にも独特な制度がある。 
聯鏡院は、光陰館と双璧を為す名門校である。 
軍服を思わせる黒白の制服は、「華麗」「秀麗」「壮麗」と讃えられ、院の内外より評価が高い。 
その聯鏡院には、他の学院とは大きく異なる制度がひとつある。 
それが、『礼装』と呼ばれる武装の権利。 
生徒が武器を所持すると云う現実である。 
半世紀以上昔――当時の聯鏡院で陰惨な猟奇殺人が起こった。 
聯鏡院は、名門の子弟の通う場所。 
警察に捜査を任せ、後は無為無策でいる等、許される訳がない。 
学院側は調査に乗り出すと共に、自衛の為の手段を講じた。 
それが『礼装』――即ち、生徒の武装である。 
家格高く、血統も尊い“別世界”故に、それはすんなりと受け入れられた。 
在学生の親族達が、持てる“力”を使い、『外』に認めさせた結果がそれだ。 
治外法権の誕生である。 
爾来、聯鏡院の生徒は、その身に武器を帯びる。 
しかし武器とは諸刃の剣だ。 
自身を。 
或は他人を。 


606 :ほトトギす ◆UHh3YBA8aM [sage] :2009/02/06(金) 17:10:14 ID:TeLSZvAo 
望むと望まざると、傷つける可能性を内包する。 
だから、時代が進み平和が当たり前になると、『礼装』の役割は変化していった。 
大切な我が子に危険な武器など持たせられない。 
その思いが『礼装』の伝統だけを残し、制度を形骸化させた。 
現在の聯鏡院在学生が帯びる『礼装』の多くは、装飾を施され、刃落としされたサーベルであったり、 
デザイン重視の優美なナイフ等、実戦に耐えるものではなくなっている。 
『礼装』は身を守る術ではなく、その家の格を表す為の道具となった。 
『礼装』は noblesse oblige. 
そして、stutus symbol. 
そう定義付けられ、用いられることになった。 
正しく、飾りとして。 
しかし、中には現在も“本物”を用いる者がいる。 
“実戦”に耐えうる、正真正銘の武器。 
“殺傷”を可能とする、本物の兇器。 
その持ち手がいる。 
身に合わぬ袈裟。 
唯持っているだけならば、そう嘲笑される事だろう。 
故に、“本物”の所持者達は、器物に相応しい技量を持つよう鍛錬される。 
従って、本物の『礼装』持ちは、かなりの確率で、その武器の熟練者である。 
この少女も、そんな一人であった。 
「そういえば、創様にお願いがあるのです」 
目の前に紅茶を置きながら、源逆灯は云う。 
来訪者はこの家の使用人でもあるかのように、僕の傍に立っている。 
「お願いですか。何でしょう?」 
「綾緒お嬢様を訪ねて頂きたいのです」 
「――」 
その言葉に。 
僕の身体が震えた。 
昨日の今日で綾緒に逢える訳がない。 
何故そのような事を云うのだろうか。 
恐怖混じりの疑問を問う前に、彼女は言葉を続けた。 
「本日は機嫌良くありましたが・・・それ以前は本当に塞ぎ込んでおりました。それはもう、痛痛しい 
くらいに。肌身離さず持っている創様のお写真を、じっと見つめておいででした・・・」 
「・・・」 
「綾緒お嬢様にとって、創様は総てです。謹慎を申しつけられてからはお逢いになっていないのでしょ 
う?どうか、お嬢様を元気付けてあげて下さい」 
(逢っていない?) 
知らない。 
この少女は、僕が昨夜楢柴邸に居たことを知らないのか。 
だとすれば、昨日あった事も知らないのだろう。 
源逆灯は従妹の命でここへ来た。 
当然、言葉を交わしたはずである。 
なのに、彼女は知らない。 
綾緒はアレを口外していないと云う事なのか。 
(他人に語るようなものではないから、それは当然か・・・) 
「どうでしょうか・・・?」 
不安そうに僕を見つめる。 
綾緒に対する好意と善意が伝わる瞳だった。 
しかし、彼女の提案を受け入れる訳には往かない。 
無策のまま綾緒に逢っても、状況が悪化するだけであろう。僕には従妹を御す法がない。 
何より、今はまだ、怖い。 
「・・・今度、暇を見付けて逢いに往きますよ」 
拒絶すれば角が立つし、またその理由を話せねばならないので、そう答えた。 
当たり障りのない、引き延ばし。 
善処しますと誤魔化した。 
目の前の『善人』はそれをどう取ったのだろうか。 
目を輝かせて、柏手を打つ。 
「本当ですか!?綾緒お嬢様を訪ねて下さるのですね!お嬢様、きっと喜びます」 
「・・・」 


607 :ほトトギす ◆UHh3YBA8aM [sage] :2009/02/06(金) 17:12:37 ID:TeLSZvAo 
その今度がいつになるか判ったものではないが、それを云う必要は無いだろう。 
それよりも、今は今で別の問題がある。 
源逆灯をあげてから気付いたのだが、厄介な事がひとつある。 
織倉由良。 
あの、僕の恋人だ。 
彼女はさっき、夜にでも様子を見に来ると云った。 
つまり、この人と鉢合わせする可能性がある。 
源逆灯は専業で使用人をやっている訳ではないから長居はしないタイプだが、万が一織倉由良と遭遇し 
てしまった場合、あまり良くない結果になるのは目に見えている。 
自分以外の女とは口をきかないで欲しいと提案する人物だ。 
僕の傍に女性が居ると云うだけで怒り出す可能性は高い。そうなったら、僕には対処の術が無い。 
元元疲労している僕である。 
その事を理由に、早めに引き取って貰うが上策だろう。 
「あの・・・」 
口を開きかけた瞬間。 
「きゃぁっ」 
源逆灯は飛び退った。 
「どうかしましたか?」 
「え、ええ・・・その・・・」 
彼女は硝子戸の向こうを見ている。 
視線を追っても何もない。 
いつも通りの、狭い庭が見えるだけであった。 
「今――そこに誰かが立っていたんです・・・」 
「そこに、って、庭にですか?」 
戸を開け、顔を出すが、姿は勿論、気配もなかった。 
「誰もいないみたいですが?」 
「いえ・・・でも、確かに・・・」 
「・・・」 
改めて見るが、人影はない。 
気のせいか。それとも本当に何かがいたのか。 
どちらにせよ、判断できるほどの情報はない。 
源逆灯は強ばった面持ちで呟いた。 
「お、お化け・・・じゃないですよね?」 
「お化け?」 
不審者や見間違いの可能性を素通りして、いきなり超常的な可能性を示した少女に首を傾げる。 
「まだ昼間ですよ?どうしてそう思うんです?」 
「だって・・・ちっちゃな女の子が見えました。泥棒さんには思えませんから」 
「ちっちゃな女の子って・・・なら、ここいらに棲んでる子が何かの理由で通り過ぎただけでは?」 
それならば、既に姿がない理由も説明出来るというものだ。 
だが、少女は首を左右する。 
「歩いてなんかいませんでした。こう、ぼーっとして、存在感が希薄で、表情の無い女の子が、じぃっ 
とこちらを見つめてたんです」 
源逆灯の声は必死さの熱を帯びていたが、それ以上に恐怖を抱いていることを感じさせた。 
もしかしたら、彼女はオカルトやそれに類することが苦手なのかもしれない。 
しかし、と、僕は考える。 
源逆灯が見た『幽霊』。それは、本当に実在したのではないか。 
「灯さん」 
「は、はい?」 
僕に向ける表情に穏やかさはない。不安そうに肩を縮めている。 
「そういえばこの間、近所で交通事故がありましてね。小学生の女の子が亡くなったそうです」 
「っ・・・」 
判りやすいくらい、身体が震えた。 
今見たモノと、今聞いた話を脳内で直結させているのは明白だった。 
源逆灯はオドオドと落ち着き無く周囲を見渡している。 
少し可哀想なことをしただろうか。 
だが、彼女がこの場に居辛いというのであれば、酷い話ではあるが、僕の望みに適う。 
来たばかりの少女に、こう云った。 
「実は、一寸疲れてまして。少し休みたいと思っていたんです」 
これは本当のこと。 


608 :ほトトギす ◆UHh3YBA8aM [sage] :2009/02/06(金) 17:14:59 ID:TeLSZvAo 
もとから、そのつもりだったのだ。 
「折角御世話に来てくれたのになんですが、横にならせて貰っても良いでしょうか?」 
恐怖心を利用し、仮病じみた理由で追い払うというのは無礼にも程があろうが、こちらも形振り構って 
はいられない。 
彼女を織倉先輩と逢わせる訳には往かないのだから。 
結源逆灯は僕の身体を気遣って辞去することを承諾した。 
綾緒に僕の世話を厳命されていたらしく、その事を随分気にしてはいたのだが、休みたい、の一言を改 
めて口にすると、身辺を騒がせる訳には往きませんものねと引き下がった。 
荷物と、そして台所から一撮みの塩を持った源逆灯は、何度も何度もお辞儀して、申し訳なさそうにこ 
の場を去った。 
悪いのはこちらなのだから、非礼はいずれ詫びねばならないだろう。 
ともあれ、鉢合わせを避けることが出来たのは事実だ。 
織倉由良の時もそうであったが、塞翁が馬と云うべきなのだろうか。 
静寂を取り戻した居間のソファに凭れ掛かる。 
交通事故云云の件は全くの創作であるので、少女の幽霊等いるはずもないが、源逆灯は確かに『誰か』 
を見たのだろう。 
振り返る庭先には誰もいない。 
けれど、そこには多分。 
迷惑を掛けられて。 
怪我までさせられて。 
それでも尚、誰かを心配してくれた誰か。 
そんな少女が、いたはずなのだ。 
聞こえるはずはない。 
自己満足だと云う事も判る。 
それでも――僕は呟かずには居られなかった。 
目を閉じて、意識が暗黒に沈む、その前に。 
唯一言の、ちいさな謝意を。 
「ありがとな、一ツ橋」