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441 :ワイヤード 第十八話 ◆.DrVLAlxBI [sage] :2009/01/30(金) 09:13:29 ID:vbnov0E+
第十八話『遥か久遠の彼方に・後編』
「ちとせ……」
膝をつき、がくがくと振るえる千歳。久遠が不安げにその名を呼ぶが、答えない。
轟三郎は得意げに千歳を見下す。
「足が動かねえだろ。小僧、それがお前の覚悟の軽さだぜ」
「……違う」
うつむき、呟く千歳。
「ああ? なんだって?」
「俺の覚悟なんて、確かに所詮こんなもんかもしれねえ。でもな……。違う……! 俺は……」
「久遠のためにやった。ってか? だからよ、小僧。そんなもん理由になりゃしねえんだ。お前がやりたいからやった。ただそれだけだろ」
「そうだ。俺は俺の考えを押し通しただけだ……。だけどな……!」
床に手をつき、ゆっくりと身体を起こし始める千歳。
「やめときな、小僧。これ以上動くと二度と足がうごかねえ身体になるぜ」
「それでも……!」
轟三郎の忠告を無視して、千歳は動かない足を鞭打ち、無理矢理立ち上がった。
「ほー。やるもんだな。小僧が」
「それでも……許せないんだよ! 親が子供を見捨てるっていうのはな!!」
「そんなお前の正義が、なんの力になるってんだ」
「なににもなりゃしない。だけどな……。それがあるから、俺は今、立ってる」
「……なら、さっさと沈めや」
ごっ!
轟三郎の拳が千歳の腹部にめり込む。
そのスピードと重さに、千歳の胃液が逆流し、口から吐き出された。
その中には、赤い色も混じっている。
「弱いやつが肩肘張って、久遠を守るナイトにでもなったつもりかよ」
今の一撃で内臓を傷つけた千歳。当然、倒れるべき場面だった。
だが。
「……だとしても」
千歳は、立っていた。
「くだらねー。くだらねえよ、小僧。なんでそんなに頑張る? 俺が気に入らないからか? 久遠に惚れたからか? それとも……お前はお前が守らなきゃならねえ確かな『何か』があるって、本気で思ってんのか?」
「その、どれでもない……それと、どれでもある」
「……」
「俺は……別に誰かを救える人間じゃねえ。誰かに尊敬されたりもしない。だけど……俺は、それでも……」
千歳はそれ以上言わなかった。それ以上の言葉がなかったのか。
それとも、あったのに言えなかったのか。それは定かではない。
だが、轟三郎もそれ以上は聞かなかった。
442 :ワイヤード 第十八話 ◆.DrVLAlxBI [sage] :2009/01/30(金) 09:13:59 ID:vbnov0E+
「じゃあ、そのまま死んでいけよ、小僧」
轟三郎の拳が迫る。凶悪なまでの闘気が込められた一撃。
当たれば、千歳の身体など一瞬で粉みじんになる。
千歳は防御姿勢をとることもままならないまま、その攻撃を、ただ見ていることしかできなかった。
(――俺は……やっぱり……)
そうして、千歳の短く、幸福ではなかった人生は閉じようとしていた――。
――その瞬間、千歳の目に、信じられないものが映った。
千歳の身体を破壊しようとしていた拳が、『吹っ飛んだ』。
腕が。
腕が、肘から切り取られ、回転しながら宙を舞っていた。
目を疑う。
だが、目を擦るまでも無い。武道家の千歳には、これが現実であることがわかった。
「なっ……がっ……!!」
無い腕を押さえ、うずくまる轟三郎。
「な……なんで……」
それを問いかけ終わる前に、千歳の目には答えが映りこんでいた。
久遠が、いつのまにか轟三郎と千歳の間に割り込んでいたのである。
その手には、血塗られた刀が握られている。
――久遠が、轟三郎の腕を切ったのだ。
「ぱぱ……」
久遠から発せられた声に、千歳の背中が粟立つ。
父を呼ぶその声の、あまりに冷徹で、高圧的で、感情がこめられていないことか。
千歳は、久遠の顔をそっと覗き込む。
無。
傷付いた父を見下ろす久遠の瞳には、何の感情も浮かんではいなかった。
口元だけが、ゾッとする程に魅力的な笑みを浮かべていた。
「ぱぱ、ちとせきずつけた」
事実を淡々と述べる久遠。裁判官が判決を述べるかのように、なんの感慨もない、事務的な、抑揚の無い声。
「だから、しんでよ」
そう言ったと同時に、畳と、その先の壁が真っ二つに分かれた。
久遠が刀を振り上げたことも、振り下ろしたことも、千歳には全く近くできなかった。
驚異的な速度の斬撃。
轟三郎は反応したらしく、腕を押さえながらも受け身をとり、ギリギリのところでそれを避けていた。
「親分!」
さっき千歳が吹き飛ばした、轟三郎の部下達と、さらに警備担当の者達が一気に押し寄せてきて、千歳と久遠を取り囲む。
数人の男が刀を振り上げ、久遠に振り下ろした。
「じゃま」
本当に邪魔臭そうに久遠はつぶやく――と、同時に久遠の姿が消えた。
千歳が驚くまもなく、久遠は男達の後ろに現れていて、男達の刀と足が切られていた。
「チャカ持ってこい!」
ヤクザの中の誰かが避けぶ。
すばやくそれに答えた者が拳銃を取り出し、久遠に向けて発射していた。
久遠は発射後にそれを認識した。にも関わらず、恐るべき速度で刀を銃弾の進行方向と入射角度にあわせて向きなおし、銃弾を弾いた。
そのまま銃を持つ男に瞬間移動のごときスピードで接近し、銃ごとその腕を切り裂いた。
(……うそだろ)
千歳は腰が抜けて動けなかった。
ぽやっとしてふわふわして、砂糖菓子みたいだった久遠が。こんな。
「や、やめろ、久遠!」
ぴたり。
千歳が思わず声を張り上げると、久遠の動きが嘘のようにとまった。
「……ちとせ」
「久遠、お前は……。親を傷つけたいのか?」
久遠はふるふると首を横にふった。
「ちがうよ。ぜんぜんちがうよ。ちとせがすき。ちとせがすきなだけ」
「なら、もうやめてくれ……。俺は、お前に親を殺させるためにここに来たんじゃない」
「……うん」
あれだけ強烈だった気迫も消え、久遠は最初と同じ、おどおどした少女に戻っていた。
♪ ♪ ♪
443 :ワイヤード 第十八話 ◆.DrVLAlxBI [sage] :2009/01/30(金) 09:14:30 ID:vbnov0E+
騒動は終わり、九音寺轟三郎の部屋には、轟三郎、千歳、そして千歳にぴったりとくっついて離れない久遠が残された。
久遠は傷つけた親を前に萎縮しているのか、振るえたまま動かない。さっきの剣幕はどこへいったのか。
「……おっさん。病院いかなくていいのかよ」
「なんだ、心配してんのかよ。小僧」
「あ、当たり前だ!」
「変わった奴だな、お前さんはよぉ」
轟三郎は肘から先を失った腕を、平気そうにぷらぷらとふる。
「止血はした。お抱えの医者も呼んだ。こんな痛みでは俺はどうもしやしねえ。それで充分だろうがよ」
「で、でも。この業界は腕っ節が命なんだろ!? 俺のせいで、腕が……」
「うぬぼれんなよ、小僧が。さっきから言ってんだろうが。俺の腕がどうなるかは、俺が決める。俺の腕一本をささげる価値が、お前さんにあったってことよ」
「俺に……?」
「お前さん、名前は?」
「千歳……。鷹野、千歳」
「千歳。おめえはもう小僧じゃねえな。立派な男だぜ」
轟三郎は懐からキセルを取り出し、吹かせ始めた。
「女のために、殴られても立ち上がる。俺の組のやつにも、そこまで気概のあるやつはいねえ」
「……勝ったのは久遠だ。俺じゃない」
「いや、お前だよ、千歳」
轟三郎は、優しい目で千歳を見つめる。
「この『目』はよ」
そして、潰れているほうの目を指差した。
「こいつは、久遠にやった」
「どういうことだ……?」
「久遠はな。『鬼』だ」
「鬼……?」
「時々、さっきみてえにあばれやがんのさ。そのたびに、久遠は何人も怪我人を出してやがる。――死んだ奴もいた」
「死んだ……」
「まあ、今日ほど強くなったのは今日を含めて二回目だ。いつもは俺が止めてる。前は、俺の目がぶっ潰れてやっと取り押さえた」
千歳は目を伏せる。
久遠は『鬼』。つまり、計り知れない凶暴性と戦闘力を秘めた存在ということだろう。
だからだ。だから、九音寺家は久遠を山に閉じ込めた。被害者をださないように。
――間違ってたのは、俺だ。
「久遠は山が好きでよ。特に、あの御神木が好きだ。あれにふれてりゃ、あばれねえ。だから、あそこに閉じ込めてるってわけだ」
「……おっさん」
千歳は頭を畳につけた。
「なんだ? そりゃ」
「俺が間違ってた。俺が勝手に思い込んで……。勝手に、久遠のしあわせを作ろうとした。……親のあんたが、それを一番望んでいるはずなのに」
「……バカが。なんで謝る? 千歳、お前の行動を評価すんのは、俺じゃねえ。久遠だ」
「久遠……」
千歳は久遠に向き直る。そして、また頭を下げた。
「久遠……。俺が悪かった。俺が……」
「ちとせ。くおん、ちとせのおかげでここにいる。ちとせ、くおんしんぱいしてくれた。だから、すき」
久遠が千歳の頭をそっと撫でた。
「ちとせ、わるくないよ」
そう言って、久遠は父に向き直り、千歳と同じく、手をついて頭を下げた。
「ごめんなさい、ぱぱ。ちとせ、ゆるして!」
轟三郎は、一瞬微笑んで、照れたように口をとんがらせた。
「別に、怒っちゃいねえよ。ただ……。ひとつだけ、お前らに言っておくことがある」
「……?」
「ここまで見せ付けてくれたんだ。もちろん、千歳、お前は男らしく責任とって、久遠を嫁にすんだよなぁ?」
「なっ!?」
「じゃねえと俺の腕の分、ゆるさねえぞこらぁ!」
「え、ええ!?」
「くおんもさんせい。くおん、ちとせのおよめさんになる!」
♪ ♪ ♪
444 :ワイヤード 第十八話 ◆.DrVLAlxBI [sage] :2009/01/30(金) 09:15:01 ID:vbnov0E+
そんなこんなで、千歳と九音寺家の付き合いは始まった。
結局山で暮らすのが一番いいとされた久遠は、山小屋に逆戻りとなった。
ただ、九音寺組は千歳の意見を聞き入れ、ある程度は久遠のもとに人をやって、久遠が淋しくないようにすることとなった。
轟三郎も、以前よりもずっと多く久遠のもとを訪れるようになったという。
また、ろくな教育を受けていなかった久遠は、千歳が教育することとなった。これは九音寺組の受けた被害の賠償だとのことだ。
久遠はぽけっとしているが、知能は低くは無い。覚えも早いほうで、学力自体は年齢相応になった。
ただ、話し方はもともとのぽやぽやしたものが引き継がれている。
さて、久遠が『鬼』だとされる根拠について、補足しなければなるまい。
数百年前のことである。
九音寺家党首だった久遠聖人は、若くして出家をし、山奥の庵へこもった。
人柄もよく、仏道の知識も多く、もしや悟りに近いのではないかと囁かれ、一部の伝承では晩年悟りを開いたとされる彼だが、九音寺家に伝わる、ある伝説では、全く違う人生を辿っている。
久遠聖人は出家をしたが、その目的は悟りではなく、妖魔たちに苦しめられる人々の救済だったという説。
その説話では、久遠聖人の住む山には『鬼』が住んでおり、時折村に下りてきて人々を苦しめたという。
これは農作物を食い荒らす虫の大群を意味しているのだろうと言われているが、事実は不明だ。
とにかく、久遠聖人は、その生涯を鬼との闘いに費やした。そう語られている。
その末路には、救いが無い。
久遠聖人は鬼を自らの体のうちに封じ込めることに成功するが、鬼の意思は死なず、久遠聖人の子孫代々に乗り移っていったという。
僧侶である久遠聖人がなぜ子を残したのかは全くわからないが、悟りが目的ではなかったという説である、無い話ではない。
轟三郎が言うには、実際に九音寺家に生まれる子の中には一人だけ必ず他を遥かに超越した力を持つものが現れるという。
それが、轟三郎であり、久遠なのだった。
久遠は特にその傾向が顕著で、幼少時から卓越した力を持つがその代わり感情が爆発した時の凶暴性も半端ではないのだ。
それが、久遠が『鬼』と呼ばれる所以である。
ただ、千歳はその説を疑わしいと思っている。
久遠が何らかの爆弾を抱えているとはいっても、久遠の屈託のない笑顔をみていると、そんな話も笑い話に思えるのだった。
久遠は、血生ぐさい世界から、本人の努力次第で切り離せるのではないか。
それを信じて、千歳は久遠を育てていくのだった。
だが、それは久遠が千歳に依存していくことを促進しているだけだという事実には、まだ、だれも気付いていない。
445 :ワイヤード 第十九話 ◆.DrVLAlxBI [sage] :2009/01/30(金) 09:15:36 ID:vbnov0E+
第十九話『イロリ日記』
高崎は、あるアパートの『西又』という表札が掲げられた一室の前にいた。
(鷹野氏の学友に、一人不可解な経歴を持つものがいた)
それが、『西又イロリ』。先ほど高崎は主人のもとにゲームのデータを渡しに行ったが、その際に主人と一緒にいたのも、その人物だった。
本来カナメに指示されたのは鷹野千歳のデータだったが、高崎は長年裏社会で働いてきた中で養った感覚に、何かひっかかるものを感じていた。
この西又イロリという人物のデータはほとんどが闇につつまれている。
先ほどにも述べたように主人に指示された範囲では不必要な人物でもあるのだが、高崎にとってはもはやそうではなかった。
――あの女には、何らかの邪悪がある。
高崎が初めて西又イロリの現物をみたとき抱いた感想である。
純粋無垢な笑顔と振る舞いにかき消されているが、その本質は、なにより邪悪な、凶悪な狂気に包まれている。
高崎は当初自身の疑心暗鬼ではないかともちろん疑ったが、その疑念は完全には消すことが出来ない。
故に、こうして未だ調査を続けている。
無論、この行動には全く意味が無いかもしれないし、カナメの利益になるようなことではないかもしれない。
故に、この調査はあくまで高崎個人の、独断によるものだと、そういう建て前にしている。
さて、高崎はこのアパートをよく観察したが、高崎の感覚にはセンサーや、見えない範囲のカメラは感じられない。
あまり警戒しなくてもよさそうだった。
なにより、鍵が旧式であけやすい。
ちょいちょいと、数秒作業すると、イロリの部屋の鍵は簡単に開いた。
「失礼」
盗聴器、カメラ、赤外線センサーの類いの波長は、高崎の感覚にも、高崎の持つミカミエレクトロニクス社製の高感度センサーにも引っ掛かっていない。
あまり用心はされていない。
西又イロリは一人暮らしで、今はカナメと遊んでいるということは知っている。
誰かが中にいることも無いだろう。
中に踏み込む。
暗い部屋。今まで調査してわかっていたが、カーテンは常に閉められている。
独特の湿っぽい雰囲気がただよっている。
「ふむ」
狭い部屋であり、中が人目で見渡せる……わけでもない。暗すぎて見えない。
高崎はペンライトでスイッチを探し当て、オンにした。
「っ……!? これは……!?」
思わず、高崎は声をあげて飛びのいた。
異様な雰囲気だとは思ったが、蓋を開けてみると、高崎の予想を遥かに越えた混沌がそこにあった。
イロリの部屋の一面に、写真が張ってあったのだ。
それだけなら、ジャーナリスト的な意味合いがあると、無理に納得できるかもしれない。
しかし、その写真の内容は、もはやどうあがいてもイロリの異常性を弁護できないものにしていた。
「これは……鷹野氏か」
その全てに、鷹野千歳の姿が映っていた。
写真はほとんど幼少期のころのもの。高崎は千歳のデータを隅々まで調べたため、幼少期でも判別することが出来た。
写真は、壁だけではなく天井、床、中に置かれているテーブルの上、裏、イスにまで貼り付けられている。
ご丁寧に透明なシートで保護までされて、だ。
よく見ると、ほぼ全ての写真に小さな文字が書き込まれている。
高崎が目を近づけてみる。
"ちーちゃんかわいいよちーちゃんかわいいよちーちゃんかわいいよちーちゃんかわいいよ……"
延々と繰り返されている。めくり上げて裏を見ると、裏にもびっしりと書き込まれていた。
他の写真を見る。
幼少時のイロリと千歳のツーショット。
"お似合いの二人! 結婚確定だね!"
裏を見ると、イロリの可愛らしい丸文字で、千歳とイロリのどこがどう相性がいいのか、ご丁寧に説明がなされていた。
性格や容姿はともかく、性的なことまで書き込まれている。性的な相性など、交渉をもったことがないのにどうやって知るのだろうか。
――恐らくは妄想だろう。
高崎はそう結論づけた。そしてそれは間違いではない。
446 :ワイヤード 第十九話 ◆.DrVLAlxBI [sage] :2009/01/30(金) 09:16:21 ID:vbnov0E+
他の写真を見る。
珍しく、最近の写真。苦笑いの千歳と、千歳に無理矢理だきついて満面の笑みのイロリ。
"帰ってきた記念の一枚!"
裏を見ると、京都から帰ってきて千歳を見たときの感想のようなものが書かれていた。
ちーちゃんが非常にかっこよくなっただの、やっぱり優しいだの、天才だのフルーツポンチだの、実に甘ったるい内容。
と、そこに気になる文言を見つけた。
"大人になったちーちゃんの良さは語り尽くせない! 続きは日記に!"
「日記……か」
ここで写真を見るのをやめる。高崎は小型のカメラを取り出し、かしゃかしゃと部屋の全体像と、何枚かの写真の書き込みを写した。
そして、『日記』とやらを探し始める。
日記はすぐに見つかった。端の本棚にびっしりと詰め込んであったからだ。
書き込み癖のあるらしいイロリらしく、『日記』は数十冊にも及んでいた。
左斜め上、おそらく最初の日記をひっぱりだす。
『いろりにっき・いち』とかわいらしい文字でかかれたそのノート。高崎は一ページ目を開いた。
"すてきなおとこのこにあったよ。だから、いろりはにっきをつけて、そのかんどうをのこします"
一ページ目は大きくそれだけ書いて終わっていた。
ページをめくる。
"たかのちとせ。としはあたしとおなじ。かおはかっこいい。こえもかっこいい。なにもかもかっこいい。せいかくはかわいい。やさしい。にっくねーむはちーちゃん。いっかげつまえにあった。さいしょは、だいきらいだった"
大嫌い。
イロリらしからぬ表現に、一瞬疑問を感じる高崎。だが、次の瞬間にそれは消え去った。
"あたしは、いっかげつまえのあたしをけしたい。ちーちゃんをすきじゃないあたしなんて、さいてー。ごみ。ちーちゃんをすこしでもきらいだったあたしは、ほんとうにはずかしい"
やはり。高崎はある意味納得した。
"いまは、だいすき。あいしてる。けっこんしたい。する。けっこんする。あたしとちーちゃんは、ぜったいけっこんする。まだやくそくはしてないけど、いつか、こんやくしちゃう!"
ほほえましいじゃないか。子供なのだから当たり前だ。高崎は自分にツッコミを入れた。
パラパラとページをめくる。
"ちーちゃんは、あたしをいっちゃんとよんでくれる。いっちゃん。ちーちゃんだけだよ。そうよんでいいのはね"
"ちーちゃんとあそんだ。ちーちゃんはあたしをいろんなところにつれてってくれる。たのしい! どこでもたのしい! ちーちゃんといっしょなら、どこでもたのしいよ! ちーちゃんも、そうでしょ!"
"あたしがわるいことをしちゃった。ちーちゃんはあたしをおこった。あたしはないてあやまった。ちーちゃんはゆるしてくれた。ちーちゃんのかお、かなしそうだった。あたしはちーちゃんにそんなかお、してほしくない"
"あたしはわるいこ。だから、かみそりでてくびをきってみた。おいしゃさんにおこられた。おとうさんとおかあさんにおこられた。あとでちーちゃんにもおこられた"
"ちーちゃんはあたしがきずつくのはいやだっていった。ちーちゃんも、あたしがすきなんだね! じゃあ、しにたくない!"
"ちーちゃんがかわいいいちにちだった"
"ちーちゃんはおはしのもちかたがまちがってる。こんどただしいもちかたをおしえてあげよう"
"ちーちゃんにおはしのもちかたをおしえてあげた。ちーちゃんのてにふれると、なんだかむねがどきどきした。しばらくてをあらわなかったら、おかあさんにおこられた"
などなど。始終この調子だった。
千歳を好きすぎる感はあるが、危険というほどでもない。イロリの人格の本質に迫るには、不十分らしい。
447 :ワイヤード 第十九話 ◆.DrVLAlxBI [sage] :2009/01/30(金) 09:17:07 ID:vbnov0E+
『イロリにっき・5』まで、飛ばしてみる。この時期からカタカナと数字を使うようになっている。
"ちーちゃんはかくとうぎをはじめた。どうじょうにかようらしい。あたしとあそぶじかんがすこしへった。うらめしい"
"ちーちゃんのうで、ちょっとたくましくなった。さわりたい"
"ちーちゃんのからだをなめまわしたい"
"ちーちゃんがおんなのこをつれていたのをみた。だれ?"
"しね"
"しねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしね……"
それ以降のページは、全て涙の跡と、『しね』の文字で埋まっている。ご丁寧に赤鉛筆でだ。
『イロリにっき・6』に移行する。
"そうてんいん りかこ。にっくきどろぼうねこのなまえ。あたしはこのこをころしたい。でも、ころすのはわるいこと。わるいことをしたらちーちゃんがかなしむ"
"ちーちゃんは、りかこをあたしにしょうかいした。ちーちゃんのどうじょうのおししょうさんのむすめらしい。くやしいけどかわいい。くさってしまえ"
"ちーちゃんはりかこを、りっちゃんとよんだ。ちーちゃんにしたがってあたしもりっちゃんとよぶ。りっちゃんはうれしそうなかおをした。ともだちになったとおもってるのか。こういうのをあさはかっていうらしい"
"りっちゃんはかわいい。くやしい。ちーちゃんのめは、りっちゃんをむいてる"
"りっちゃんをころす"
"りっちゃんとおりょうりをした。てがすべったふりをしてりっちゃんにほうちょうをさそうとした。そしたら、りっちゃんはすででほうちょうをくだいた。くやしい! くやしい! くやしい!"
"りっちゃんはバケモノだ。ころせない"
"ちーちゃんは、りっちゃんのこと、すきなのかな……"
"こわいよ"
"ちーちゃんがりっちゃんのことすきになったらどうしよう"
その後は、イロリが蒼天院理科子に対して抱いた嫉妬と不安と、理科子を殺そうとして全て失敗したことが長々と書かれていた。
さらに飛ばし、『イロリにっき・9』。
"もうなにもこわくない"
"ちーちゃんとキスしちゃった。ちーちゃんがねてるときに、こっそりくちびるをくっつけた"
"ながいことそうしてたら、たりなくなってきて、ちーちゃんのくちびるをしたでなめた"
"それでもまんぞくできないから、ちーちゃんのくちびるをむりやりあけて、したをいれた"
"ちーちゃんのくちのなかでしたをうごかした。くちのなかはあったかくて、あまくて、すごかった。とにかくすごかった"
"ちーちゃんのしたをぺろぺろして、ちーちゃんのくちびるをすった"
"ちーちゃんはおいしい"
"やめらんない"
"それから、くせになった。ちーちゃんはねるとなかなかおきない。ちーちゃんがおひるねすると、いつもあたしはちーちゃんとキスする"
"あたしはりっちゃんよりもちーちゃんをしってる"
"りっちゃんにかった!"
はいはい、良かった良かったと、高崎は次の日記を手にとる。『イロリにっき・13』。
"ちーちゃんとおわかれ……"
その日記は、それだけぽつんと書かれていて、あとは涙でぐしゃぐしゃになっているだけだった。
次の日記からは、散文的だった今までと変わり、日付けがかかれている。千歳と幼稚園の終わりごろに分かれてから、数年後のようだ。
448 :ワイヤード 第十九話 ◆.DrVLAlxBI [sage] :2009/01/30(金) 09:17:54 ID:vbnov0E+
『イロリ日記・14』。この頃から漢字が徐々に使われ始めている。
"ひさしぶりに日記を書く。私は京都大学のけんきゅうじょで、変なおくすりのじっけんだいになっている。とうごうきょうだんっていうグループと協力しているらしい"
"お父さんとお母さんは、それでいっぱいおかねをもらえるらしい。そんな理由で、あたしとちーちゃんを別れさせた。人間のクズ"
"でも、かまわない。お別れの前に、けっこんするって約束した。ちーちゃんは約束をまもるひとだから!"
"ちーちゃんのことを思い出すと、胸がドキドキする"
"ちーちゃんに会いたい"
比較的まともな人間になっている……のか? それほど過激ではない内容で、その日記は終わった。
が、次の高崎は次の日記を見て、思わず吹き出しそうになった。完全に油断していた。
"ちーちゃんを想うと、おまたがむずむずする"
"ちーちゃんのくちびるにふれたことを思い出すと、おまたがむずむずする"
"ちーちゃんの手にふれた私の手を見ていると、おまたがむずむずする"
"あまりにもむずむずするから、手でさわってみた。なんだかあつくて、ビクッとした。でも、きもちいい。私、変になっちゃったかも"
"ちーちゃんのことを思い出すたびに、おまたが変になる。しめってきて、ぱんつがぬれちゃう"
"あまりにもむずむずするから、机のかどにこすりつけてみた。そしたら、すっごくきもちよかった!"
"もしかしたら、私は変なのかもしれないと思うけど、きもちよくてやめられない"
"ちーちゃんのくびすじがたまらない"
"ちーちゃんの指はきれい"
"ちーちゃんの足にさわりたい"
"ちーちゃんの……おまたにも、ふれてあげたい。こんなにきもちいいことがあるんだから、してあげたい"
その後、延々とイロリのオナニーライフが綴られていた。
それ以降の何冊かも、似たような内容だったので、高崎は再び飛ばした。
『イロリ日記・23』
"一応、学校には行かされる。けど、友達はいない。いらない"
"女の子は好き。かわいい。けど、将来ちーちゃんをたぶらかす可能性をみんな持ってると思うと、なんかやだ"
"男の子はどうでもいい。ちーちゃん以外の男の子はみんなバカ。ちーちゃんみたいな紳士はいない"
"今日、男の子に告白された。「好きな人がいるから、ごめん」と言ったら、次の日、教室中で、私の好きな人が誰なのかをみんなが勝手に予想していた。はっきり言うけど、この学校にはいないよ"
"学校の中で一番かっこいいとか言われている男の子が、私に告白してきた。自信たっぷりでうざったらしい。「好きな人がいるから」と断ったら、「僕のどこがいけないの?」と訊いてきた。「全部」と答えた"
"ちーちゃんの好きなところはどこかって訊かれると、「全部」って答えると思う。詳しく答えてたら、一生かかっても終わらない"
"いつのまにか、私は学校で一番かわいい子ってことになっていたらしい。そんなあだ名いらないから、ちーちゃんが欲しい"
"私がいくらかわいくても、ちーちゃんに振り向いてもらわないと意味無い"
"ちーちゃんが気に入る見た目じゃなかったら、私はただのブスだ"
"そもそも、この学校の子は、誰も人の内面に興味が無い。私が勉強ができることとか、私が運動ができることとか、私の見た目が美しい部類だとか、そういうことにしか目がいかない。子供っぽすぎる"
"学校で性教育を受けた。私は、子供の作り方と、私が今までちーちゃんを思ってしていたことが、その欲求を自分で満たすための行為だと知った"
"ちーちゃんの子供が欲しい"
"ちーちゃんと、子作りしたい"
"ちーちゃんとえっちなことをしたい"
その後には、千歳との初夜の妄想が100ページ近くにも渡って書かれていた。
それからの数冊は、何度も繰り返される初夜妄想によって消費された。
"もちろん、えっちな意味だけでちーちゃんが好きなわけじゃない。ちーちゃんの心を好きになったのが、始まり"
最後にそうかかれ、初夜妄想ラッシュは沈静化した。
449 :ワイヤード 第十九話 ◆.DrVLAlxBI [sage] :2009/01/30(金) 09:18:26 ID:vbnov0E+
『イロリ日記・31』
"二次性徴が始まったらしい。おっぱいが大きくなってきた"
"みんなが私のおっぱいを見る。気持ち悪い目線。身体の芯からくさってきそう"
"ちーちゃんに見て欲しい。ちーちゃんは、私の今の身体を見たら、どう思うかな? えっちな気分になるかな?"
"まあ、そういう人じゃないのがちーちゃんなんだけどね。私はわかる"
"でも、男の人はほどんどがおっぱい大きいほうが好きらしいから、嬉しい。ちーちゃんが特殊な人じゃなければ、これは武器になる"
"それと、おっぱいを揉んでると気持ちよくなった"
『イロリ日記・38』
"夢にちーちゃんがでてきた。最高の一日!"
"でも、統合教団の実験はきつくなってきた。もうやだ……"
"どうしよう。逃げたい"
"でも、味方はいない。お父さんもお母さんも、最低な人間だから"
"こんなときちーちゃんがいたら、私を助けてくれたのかな……?"
"でも、ちーちゃんは東京にいる。私がなんとかしないと"
『イロリ日記・39』
"統合教団に、私と同じくらいの歳の女の子が入ってきた。アリエスという名前らしい"
"アリエスは真面目で堅物だけど、学校の女の子たちよりよほど良い子で、強くて、頼もしくて、ちょっとちーちゃんに似てるかな"
"もちろん、ちーちゃんと比べてしまうと一気にゴミ以下なんだけどね♪"
『イロリ日記・40』
"アリエスと友達になった。いろんな話を聞いた"
"アリエスは、家族をみんな殺されてしまったらしい"
"私もアリエスにいろいろお話をしたけど、ちーちゃんのことは教えなかった。ちーちゃんのような素晴らしすぎる男の子を知って、普通の女の子は正気じゃいられない"
"おろかにも、ちーちゃんを好きになってしまったら大変だ"
"アリエスは見た目も性格もいい。ちーちゃんをたぶらかしてしまったら、危ないかも"
『イロリ日記・41』
"アリエスと会ってから、ちょっとだけ気がまぎれたけど、なんだか不安。ちーちゃんがピンチな気がする"
"ちーちゃんのことが気になって仕方ない。いつになったら、統合教団を出て東京に帰れるのかな"
"たぶん、あの親がいる限り、無理かもしれない"
"どうやって殺そうかな"
"今の私には、その力がある"
『イロリ日記・42』
"とりあえずお母さんを殺してみた"
"お父さんが「誰がこんなことを……」と言ったので、「私だよ」と言った。目を見開いて動かないお父さんに、私はお父さんの罪深さを説明した"
"ちーちゃんと別れさせたことが、どれだけいけないことか。わからないまま死なせるなんて、やだ。後悔したまま死んで行け"
"できるだけ痛めつけて殺した"
"これは、ちーちゃんに会えなかった私の心の痛みだよ。受け止めてね"
『イロリ日記・43』
"統合教団が、私を処分しようとし始めた。そりゃあ、飼っていた実験動物が人を殺したら、処分する。あたりまえ"
"でも、処分されるのはあなたたちのほう。私を死神に変えたしっぺがえしをくらうのは、あなたたちのほう"
"やった……やっと全滅させた!"
"あとは、アリエスだけ"
"アリエスは、仲間になってくれるかもしれない。ちーちゃんと会わせたくは無いけど、唯一の友達なんだ"
『イロリ日記・44』
"アリエスは私を拒んだ。悲しいけど、私はアリエスを倒した"
『イロリ日記・45』
"とりあえず色々して、東京へ自力で帰れるようにした。これでちーちゃんにあえる!"
"ちーちゃん、待ってて!"
"ちーちゃんに会えると思うと、ぱんつが湿ってくる!"
450 :ワイヤード 第十九話 ◆.DrVLAlxBI [sage] :2009/01/30(金) 09:18:56 ID:vbnov0E+
『イロリ日記・46』
"やったああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!"
"ちーちゃんかっこいい! 大人ちーちゃん最高! 想像の何千倍もいい!!!"
"もうちーちゃんしか見えない!!!!!!"
"しかも、相変わらず優しい! 変わってない! ちーちゃんかっこいい! 最高! もう、とまんない! トイレでオナニーしちゃった!!!"
"でも、私とちーちゃんの間に入ってくる女の子がいた"
"野々村 ナギ"
"新しい泥棒猫"
"消そうかと思ったけど、色々あって友達になってしまった"
"胡散臭い女の子だけど、妙に説得力がある。「自分が頑張れば、他人を排除しなくてもいい」という主張は、確かに正論だと思う"
"そうだ……。これ以上人殺しをしちゃったら、ちーちゃんに迷惑がかかる"
"ちーちゃんに迷惑をかけたくない。だから、殺さない"
"そうしよう"
"それにしてもちーちゃんは相変わらずイイ。何がいいって、全ていい。見てるだけで発熱する。脳みそ沸騰しちゃう!"
"これからずっと一緒にいられるんだと思うと、もうね! 言葉ではいいあらわせない!"
"ナギちゃんの扱いは、今は保留。邪魔になったら消しちゃおう"
(以下、千歳との初夜妄想で埋められている)
『イロリ日記・47』
"ナギちゃんは思ったより何倍も手ごわい。テニスで負けるなんて、思ってなかった"
"ちーちゃんも、この子が好きみたいだ。でも幸いだったのは、ナギちゃんはちーちゃんを諦めちゃっているということ"
"この子から、ちーちゃんに好かれる要素を学び取ったら、消そう。それからでも遅くない"
"それにしてもちーちゃんはすばらしい。何がすばらしいって、全てすばらしい。見てるだけで発情する。おっぱいではさみたい"
"正直、たまんない。ちーちゃんのおちんちんを舐めたい"
(以下、千歳との初夜妄想で埋められている)
『イロリ日記・48』
"ちーちゃんが貧乳好きだったらどうしよう。ナギちゃんには魅力がたくさんあるのはわかるけど、ちっちゃいところとか、貧乳なところとか、毛が生えてないところが好みとかだったら、勝ち目が無い"
"ナギちゃんは、私の知らないちーちゃんをいっぱい知ってる。……私は、ちーちゃんのことを一番良く知ってるとは思うけど、もしかしたそれすらナギちゃんに負けるのかと思うと、怖い"
"怖い……ナギちゃんを殺したい"
"でも、まだだめ。それは早計。あくまで自然な形で死んでくれないと。ちーちゃんにも私にも不都合だ"
"それと、りっちゃんにまた会った。りっちゃんは相変わらず強かったけど、ちーちゃんとの仲は進展していない"
"警戒の必要は、さしてない。よかった。りっちゃんは消さなくて大丈夫みたい"
"殺しは、本当は好きじゃない。けど、必要になったら躊躇はしてられない。私は、ちーちゃんを諦める気は毛頭ない。だれかがちーちゃんを奪ってしまったら、実力行使も辞さない"
"本気を出せば、私は誰だって殺せるはずだ"
"押し入れのお父さんお母さん。イロリに力を与えてくれてありがとう。私が幸せになるの、見守ってね"
ここで、高崎は読むのをやめた。
「押し入れ……?」
高崎はそれが頭に引っ掛かった。押し入れを探す。
写真が邪魔で分かりにくかったが、一応すぐ見つかった。
そっとあける。
「……これは……!」
仲良く寄り添った二つの白骨死体。
おそらく、イロリの両親。西又夫妻のものだろう。
「ばかな……!」
静かな狂気に満ちた日記。そして、白骨死体。
西又イロリは……。
自覚はしていないだろう。精神異常や精神疾患の類でもないだろう。
西又イロリは、あくまで純粋に鷹野千歳を追い求める、それだけの存在。
そのためだけに生き、そのためだけに殺してゆく。
人間が、自らの基本的な食欲を満たすために他の生物の命を奪うように。
生きることと、千歳を求めることが、当価値なのだ。
この日記は、確かに極端な狂気は見当たらない。文面もまともだし、文字も丁寧。一見、異常者の日記に見えない。
そうだ。西又イロリは異常ではない。普通だ。
451 :ワイヤード 第十九話 ◆.DrVLAlxBI [sage] :2009/01/30(金) 09:19:38 ID:vbnov0E+
西又イロリの普通こそが、異常であり、それを忠実に実行している西又イロリはある意味究極の普通人であり、同時に比類なき異常者。
イロリは幼少期から一貫して、表面上はどうあれ、千歳のことが脳内のほとんどを占め、千歳と比較すると他の全てがくだらないものに見えている。
そして、邪魔なら殺す。そこになんの躊躇もない。
人殺しは悪いことだからしないのではない。人殺しは、千歳に迷惑がかかるからしないだけだ。
全てが、千歳を基準にして動いている。
それだけだ。
そこに、何の疑いもないだけだ。
"あたしは、いっかげつまえのあたしをけしたい。ちーちゃんをすきじゃないあたしなんて、さいてー。ごみ。ちーちゃんをすこしでもきらいだったあたしは、ほんとうにはずかしい"
この文章が、イロリの全ての行動原理を端的に表している。
鷹野千歳を愛していない西又イロリなど、存在自体が無意味なのだ。
イロリは、千歳なしには、もはや自分にすら価値を見出さない。イロリが価値を見出すのは、千歳のみ。
自分よりも、千歳が重要なのだ。
「そろそろ時間が……」
高崎は、日記の写真と、白骨死体の写真をいくつか撮影してから、痕跡を完全に処理してから部屋をでた。
鍵を閉め、これで完璧だ。
(カナメ様が危ない。報告し、早々に対策せねば……)
このままでは、主人の命も危険だと判断した高崎は、早足に……。
「まだ、終わっていませんよ」
その背中にかけられたのは、女の声。
――見られた!? 西又イロリか!?
「失礼、どなたでしょうか」
表面上は落ち着き払って振り向き、話し掛ける。
見ると、黒のショートヘアに眼鏡の、一見地味な女子高生だった。
「私、西又イロリさんの友達なんです。あなたは、ご家族の方ですか?」
どうする。高崎は考える。話をあわせるべきか。
――いや。
この少女の目を見れば分かる。こちらを完全に見下した目。
不法侵入者であることくらい、わかっている。
「いえ」
正直に答えた。
「賢明ですね」
少女は魅力的な笑顔を浮かべた。
「では、不法侵入者ということになりますね。『高崎 忍(たかさき しのぶ)』さん」
「なぜ私の名を……?」
「情報は武器ですよ。あなたがよく知っているはずです」
「あなたは一体……」
「高崎さんは私のことを知らないでしょうけど、私はあなたのこと、たくさん知っていますよ。千歳君を小うるさくかぎまわっていましたね、あなた」
「……」
そこまで知っているというのか。場合によっては、『処理』しなければならない。
高崎がそこまで考えたところで、少女はさらに邪悪に笑った。
「私を消しても無駄ですよ。あなたの御主人様を危険にさらすだけです」
「どこまで知っている……!」
「必要事項は、ほぼ全て。少なくとも、高崎さんとその御主人様――御神カナメさんに対しては、圧倒的有利に立てる程度に」
「何が、望みですか」
「理解がはやいですね。そうです。取り引きしましょう……。ですが、ここはまずいですね。喫茶店にでも行きましょう」
♪ ♪ ♪
452 :ワイヤード 第十九話 ◆.DrVLAlxBI [sage] :2009/01/30(金) 09:20:18 ID:vbnov0E+
のんきに紅茶をすする少女に、高崎はいらだち始めた。
「あの……!」
「せっかちですね。女の子は雰囲気を重視するんです。あなた、だからモテないんですよ」
「くっ……!」
少女は紅茶をおき、本題に移る。
「私が持っていない情報は、西又イロリさんに関してのものです。外形は大抵把握できましたが、あなたのように家に踏み込む所までは行きませんでした――だって、私は命がおしいですから」
「どういうことですか」
「高崎さんと、御神カナメさんは、命の危機だということですよ」
「それは、我ら御神家の力を知っての発言ですか?」
「そう、もちろんです。世の中、お金でも権力でもどうしようもないものがあります。それは、『個人の意思』です」
「それは……」
「金で買える、といいたいんですか。確かに、あなた方の世界ではそうでしょうね。でも、それはあなたが『意思』を持った人間に会ったことがないからいえることですよ」
少女は紅茶に砂糖を追加した。
「人間の意志には自由がある。そう言われたのは近代思想が浸透して以降ですが、その言葉は上っ面だけ見ていても本質を掴み取ることはできません」
少女は非常にあまったるくなったであろう紅茶を、おいしそうに一口すする。
「人間は社会に常に埋没しています。人間が自由意志を持ったと勘違いするその行為そのものも、それは社会意思を反映した結果の域をでません」
ここまできて、やっと高崎にも理解できた。
こうして遠まわしに少女が表現した『個人の自由意志』とは、西又イロリの人格についてだ。
「西又イロリさんは、あなたがた御神グループの手に負える存在ではありません。貴方達は個人同士のつぶしあいがどういうものか、理解していない」
「統合教団が壊滅した事実を指しているのですか……?」
「はて、なんのことでしょうか。そんな組織は聞いたことが無いので」
はっとして口をつぐむ高崎。統合教団という組織と西又イロリに関連があると知ったのは、今自分が部屋に侵入し、日記をみたからだ。と、思い至る。
つまり、これはこの目の前の少女に対する『カード』。巧みに引き出されては意味が無い。
こうして話している間に、こちらが不利になる。
結果的にカナメを不利にしてしまえば、高崎の失態ということになる。
(それは避けねば)
高崎はあくまで慎重にしようと、堅く決心した。
「――つまり、西又イロリの個人の力は、御神家ではなくあくまでカナメさま個人の命の危機に直結すると、そういう意味ですか?」
「はい、そうです」
なるほど。少女の持つカードは、それだ。
少女はこの口ぶりだと、おそらくだか組織力を持たない。あくまで個人。
何者かは分からないが、一人ですでに組織を凌駕するような、気迫がある。
それは、カナメと同じ。『王の器』とでも呼ぶべき……。
「ここで主張する私のカードは、『西又イロリによる御神カナメへの危害の阻止』です。これはおそらく、あなたや御神家の人間には不可能であると思っています」
「あなたになら、可能だと?」
「そういうことですよ、高崎さん」
自信に溢れた表情。
真意が読めない。この少女は、西又イロリと同等の厄介さを秘めているかもしれない。
「そして、先ほどにも行ったように、私が高崎さんに要求するカードは、『部屋の中に秘められた、西又イロリの情報』です」
「……少し、お時間を」
「いえ、即決してください」
「カナメ様に報告しなければ……」
「私は、御神カナメさんと取り引きしているのではありません。高崎さん、あなたと取り引きしているんです」
「私と……?」
「そう、あなたがカナメさんを守りたいか。判断基準はそこです」
「……」
「さらに言うなら……。私は西又イロリさんと友人なのですが、あなたが部屋に侵入した事実をイロリさんに漏らしてしまったら、どうなりますかね? 想像してください」
高崎の脳裏に、最悪の状況が思い浮かんだ。
例えば、西又イロリとカナメが共にいるはずの今、この少女がもしメールかなにかで高崎のことを西又イロリに漏らしたら……。
カナメが、その場で殺される可能性も無くは無い。
「……わかりました」
♪ ♪ ♪
453 :ワイヤード 第十九話 ◆.DrVLAlxBI [sage] :2009/01/30(金) 09:20:48 ID:vbnov0E+
(これで、良かったのか……?)
高崎は、結局あの少女に情報を与えた。嘘が通用しないだろうあの少女には、全て本物の情報を伝えてしまった。
リターンは、意味があるのか無いのかもわからない、あの少女によるカナメの保護。無いに等しい。
むしろ、カナメを人質にとられて情報を垂れ流した形となった。これは、カナメにとって有利に働くのは、不利に働くのか。現時点ではわからない。
絶対的優位とは、こういうことか。
あの少女は、カナメと同じ制服を着ていた。調べればすぐに素性は割れるだろう。
だが、おそらく意味は無い。
カナメと同じタイプの、圧倒的なまでの勝負強さ。それを感じる。
記録に残るような何かをやらかすタイプではない。むしろ、あの少女は記録上はできるだけ特筆事項のない地味なタイプとして生きているに違いない。
手ごわい。
だが。
(だが、何が起ころうが、カナメ様を守るのが私の任務だ……。命を捨ててでも)
その決意だけは、高崎の胸の中で、静かに燃えているのだった。
441 :ワイヤード 第十八話 ◆.DrVLAlxBI [sage] :2009/01/30(金) 09:13:29 ID:vbnov0E+
第十八話『遥か久遠の彼方に・後編』
「ちとせ……」
膝をつき、がくがくと振るえる千歳。久遠が不安げにその名を呼ぶが、答えない。
轟三郎は得意げに千歳を見下す。
「足が動かねえだろ。小僧、それがお前の覚悟の軽さだぜ」
「……違う」
うつむき、呟く千歳。
「ああ? なんだって?」
「俺の覚悟なんて、確かに所詮こんなもんかもしれねえ。でもな……。違う……! 俺は……」
「久遠のためにやった。ってか? だからよ、小僧。そんなもん理由になりゃしねえんだ。お前がやりたいからやった。ただそれだけだろ」
「そうだ。俺は俺の考えを押し通しただけだ……。だけどな……!」
床に手をつき、ゆっくりと身体を起こし始める千歳。
「やめときな、小僧。これ以上動くと二度と足がうごかねえ身体になるぜ」
「それでも……!」
轟三郎の忠告を無視して、千歳は動かない足を鞭打ち、無理矢理立ち上がった。
「ほー。やるもんだな。小僧が」
「それでも……許せないんだよ! 親が子供を見捨てるっていうのはな!!」
「そんなお前の正義が、なんの力になるってんだ」
「なににもなりゃしない。だけどな……。それがあるから、俺は今、立ってる」
「……なら、さっさと沈めや」
ごっ!
轟三郎の拳が千歳の腹部にめり込む。
そのスピードと重さに、千歳の胃液が逆流し、口から吐き出された。
その中には、赤い色も混じっている。
「弱いやつが肩肘張って、久遠を守るナイトにでもなったつもりかよ」
今の一撃で内臓を傷つけた千歳。当然、倒れるべき場面だった。
だが。
「……だとしても」
千歳は、立っていた。
「くだらねー。くだらねえよ、小僧。なんでそんなに頑張る? 俺が気に入らないからか? 久遠に惚れたからか? それとも……お前はお前が守らなきゃならねえ確かな『何か』があるって、本気で思ってんのか?」
「その、どれでもない……それと、どれでもある」
「……」
「俺は……別に誰かを救える人間じゃねえ。誰かに尊敬されたりもしない。だけど……俺は、それでも……」
千歳はそれ以上言わなかった。それ以上の言葉がなかったのか。
それとも、あったのに言えなかったのか。それは定かではない。
だが、轟三郎もそれ以上は聞かなかった。
442 :ワイヤード 第十八話 ◆.DrVLAlxBI [sage] :2009/01/30(金) 09:13:59 ID:vbnov0E+
「じゃあ、そのまま死んでいけよ、小僧」
轟三郎の拳が迫る。凶悪なまでの闘気が込められた一撃。
当たれば、千歳の身体など一瞬で粉みじんになる。
千歳は防御姿勢をとることもままならないまま、その攻撃を、ただ見ていることしかできなかった。
(――俺は……やっぱり……)
そうして、千歳の短く、幸福ではなかった人生は閉じようとしていた――。
――その瞬間、千歳の目に、信じられないものが映った。
千歳の身体を破壊しようとしていた拳が、『吹っ飛んだ』。
腕が。
腕が、肘から切り取られ、回転しながら宙を舞っていた。
目を疑う。
だが、目を擦るまでも無い。武道家の千歳には、これが現実であることがわかった。
「なっ……がっ……!!」
無い腕を押さえ、うずくまる轟三郎。
「な……なんで……」
それを問いかけ終わる前に、千歳の目には答えが映りこんでいた。
久遠が、いつのまにか轟三郎と千歳の間に割り込んでいたのである。
その手には、血塗られた刀が握られている。
――久遠が、轟三郎の腕を切ったのだ。
「ぱぱ……」
久遠から発せられた声に、千歳の背中が粟立つ。
父を呼ぶその声の、あまりに冷徹で、高圧的で、感情がこめられていないことか。
千歳は、久遠の顔をそっと覗き込む。
無。
傷付いた父を見下ろす久遠の瞳には、何の感情も浮かんではいなかった。
口元だけが、ゾッとする程に魅力的な笑みを浮かべていた。
「ぱぱ、ちとせきずつけた」
事実を淡々と述べる久遠。裁判官が判決を述べるかのように、なんの感慨もない、事務的な、抑揚の無い声。
「だから、しんでよ」
そう言ったと同時に、畳と、その先の壁が真っ二つに分かれた。
久遠が刀を振り上げたことも、振り下ろしたことも、千歳には全く近くできなかった。
驚異的な速度の斬撃。
轟三郎は反応したらしく、腕を押さえながらも受け身をとり、ギリギリのところでそれを避けていた。
「親分!」
さっき千歳が吹き飛ばした、轟三郎の部下達と、さらに警備担当の者達が一気に押し寄せてきて、千歳と久遠を取り囲む。
数人の男が刀を振り上げ、久遠に振り下ろした。
「じゃま」
本当に邪魔臭そうに久遠はつぶやく――と、同時に久遠の姿が消えた。
千歳が驚くまもなく、久遠は男達の後ろに現れていて、男達の刀と足が切られていた。
「チャカ持ってこい!」
ヤクザの中の誰かが避けぶ。
すばやくそれに答えた者が拳銃を取り出し、久遠に向けて発射していた。
久遠は発射後にそれを認識した。にも関わらず、恐るべき速度で刀を銃弾の進行方向と入射角度にあわせて向きなおし、銃弾を弾いた。
そのまま銃を持つ男に瞬間移動のごときスピードで接近し、銃ごとその腕を切り裂いた。
(……うそだろ)
千歳は腰が抜けて動けなかった。
ぽやっとしてふわふわして、砂糖菓子みたいだった久遠が。こんな。
「や、やめろ、久遠!」
ぴたり。
千歳が思わず声を張り上げると、久遠の動きが嘘のようにとまった。
「……ちとせ」
「久遠、お前は……。親を傷つけたいのか?」
久遠はふるふると首を横にふった。
「ちがうよ。ぜんぜんちがうよ。ちとせがすき。ちとせがすきなだけ」
「なら、もうやめてくれ……。俺は、お前に親を殺させるためにここに来たんじゃない」
「……うん」
あれだけ強烈だった気迫も消え、久遠は最初と同じ、おどおどした少女に戻っていた。
♪ ♪ ♪
443 :ワイヤード 第十八話 ◆.DrVLAlxBI [sage] :2009/01/30(金) 09:14:30 ID:vbnov0E+
騒動は終わり、九音寺轟三郎の部屋には、轟三郎、千歳、そして千歳にぴったりとくっついて離れない久遠が残された。
久遠は傷つけた親を前に萎縮しているのか、振るえたまま動かない。さっきの剣幕はどこへいったのか。
「……おっさん。病院いかなくていいのかよ」
「なんだ、心配してんのかよ。小僧」
「あ、当たり前だ!」
「変わった奴だな、お前さんはよぉ」
轟三郎は肘から先を失った腕を、平気そうにぷらぷらとふる。
「止血はした。お抱えの医者も呼んだ。こんな痛みでは俺はどうもしやしねえ。それで充分だろうがよ」
「で、でも。この業界は腕っ節が命なんだろ!? 俺のせいで、腕が……」
「うぬぼれんなよ、小僧が。さっきから言ってんだろうが。俺の腕がどうなるかは、俺が決める。俺の腕一本をささげる価値が、お前さんにあったってことよ」
「俺に……?」
「お前さん、名前は?」
「千歳……。鷹野、千歳」
「千歳。おめえはもう小僧じゃねえな。立派な男だぜ」
轟三郎は懐からキセルを取り出し、吹かせ始めた。
「女のために、殴られても立ち上がる。俺の組のやつにも、そこまで気概のあるやつはいねえ」
「……勝ったのは久遠だ。俺じゃない」
「いや、お前だよ、千歳」
轟三郎は、優しい目で千歳を見つめる。
「この『目』はよ」
そして、潰れているほうの目を指差した。
「こいつは、久遠にやった」
「どういうことだ……?」
「久遠はな。『鬼』だ」
「鬼……?」
「時々、さっきみてえにあばれやがんのさ。そのたびに、久遠は何人も怪我人を出してやがる。――死んだ奴もいた」
「死んだ……」
「まあ、今日ほど強くなったのは今日を含めて二回目だ。いつもは俺が止めてる。前は、俺の目がぶっ潰れてやっと取り押さえた」
千歳は目を伏せる。
久遠は『鬼』。つまり、計り知れない凶暴性と戦闘力を秘めた存在ということだろう。
だからだ。だから、九音寺家は久遠を山に閉じ込めた。被害者をださないように。
――間違ってたのは、俺だ。
「久遠は山が好きでよ。特に、あの御神木が好きだ。あれにふれてりゃ、あばれねえ。だから、あそこに閉じ込めてるってわけだ」
「……おっさん」
千歳は頭を畳につけた。
「なんだ? そりゃ」
「俺が間違ってた。俺が勝手に思い込んで……。勝手に、久遠のしあわせを作ろうとした。……親のあんたが、それを一番望んでいるはずなのに」
「……バカが。なんで謝る? 千歳、お前の行動を評価すんのは、俺じゃねえ。久遠だ」
「久遠……」
千歳は久遠に向き直る。そして、また頭を下げた。
「久遠……。俺が悪かった。俺が……」
「ちとせ。くおん、ちとせのおかげでここにいる。ちとせ、くおんしんぱいしてくれた。だから、すき」
久遠が千歳の頭をそっと撫でた。
「ちとせ、わるくないよ」
そう言って、久遠は父に向き直り、千歳と同じく、手をついて頭を下げた。
「ごめんなさい、ぱぱ。ちとせ、ゆるして!」
轟三郎は、一瞬微笑んで、照れたように口をとんがらせた。
「別に、怒っちゃいねえよ。ただ……。ひとつだけ、お前らに言っておくことがある」
「……?」
「ここまで見せ付けてくれたんだ。もちろん、千歳、お前は男らしく責任とって、久遠を嫁にすんだよなぁ?」
「なっ!?」
「じゃねえと俺の腕の分、ゆるさねえぞこらぁ!」
「え、ええ!?」
「くおんもさんせい。くおん、ちとせのおよめさんになる!」
♪ ♪ ♪
444 :ワイヤード 第十八話 ◆.DrVLAlxBI [sage] :2009/01/30(金) 09:15:01 ID:vbnov0E+
そんなこんなで、千歳と九音寺家の付き合いは始まった。
結局山で暮らすのが一番いいとされた久遠は、山小屋に逆戻りとなった。
ただ、九音寺組は千歳の意見を聞き入れ、ある程度は久遠のもとに人をやって、久遠が淋しくないようにすることとなった。
轟三郎も、以前よりもずっと多く久遠のもとを訪れるようになったという。
また、ろくな教育を受けていなかった久遠は、千歳が教育することとなった。これは九音寺組の受けた被害の賠償だとのことだ。
久遠はぽけっとしているが、知能は低くは無い。覚えも早いほうで、学力自体は年齢相応になった。
ただ、話し方はもともとのぽやぽやしたものが引き継がれている。
さて、久遠が『鬼』だとされる根拠について、補足しなければなるまい。
数百年前のことである。
九音寺家党首だった久遠聖人は、若くして出家をし、山奥の庵へこもった。
人柄もよく、仏道の知識も多く、もしや悟りに近いのではないかと囁かれ、一部の伝承では晩年悟りを開いたとされる彼だが、九音寺家に伝わる、ある伝説では、全く違う人生を辿っている。
久遠聖人は出家をしたが、その目的は悟りではなく、妖魔たちに苦しめられる人々の救済だったという説。
その説話では、久遠聖人の住む山には『鬼』が住んでおり、時折村に下りてきて人々を苦しめたという。
これは農作物を食い荒らす虫の大群を意味しているのだろうと言われているが、事実は不明だ。
とにかく、久遠聖人は、その生涯を鬼との闘いに費やした。そう語られている。
その末路には、救いが無い。
久遠聖人は鬼を自らの体のうちに封じ込めることに成功するが、鬼の意思は死なず、久遠聖人の子孫代々に乗り移っていったという。
僧侶である久遠聖人がなぜ子を残したのかは全くわからないが、悟りが目的ではなかったという説である、無い話ではない。
轟三郎が言うには、実際に九音寺家に生まれる子の中には一人だけ必ず他を遥かに超越した力を持つものが現れるという。
それが、轟三郎であり、久遠なのだった。
久遠は特にその傾向が顕著で、幼少時から卓越した力を持つがその代わり感情が爆発した時の凶暴性も半端ではないのだ。
それが、久遠が『鬼』と呼ばれる所以である。
ただ、千歳はその説を疑わしいと思っている。
久遠が何らかの爆弾を抱えているとはいっても、久遠の屈託のない笑顔をみていると、そんな話も笑い話に思えるのだった。
久遠は、血生ぐさい世界から、本人の努力次第で切り離せるのではないか。
それを信じて、千歳は久遠を育てていくのだった。
だが、それは久遠が千歳に依存していくことを促進しているだけだという事実には、まだ、だれも気付いていない。