「Tomorrow Never Comes10話「Lemon Head」」の編集履歴(バックアップ)一覧はこちら

Tomorrow Never Comes10話「Lemon Head」」(2009/04/28 (火) 00:15:40) の最新版変更点

追加された行は緑色になります。

削除された行は赤色になります。

372 :Tomorrow Never Comes10話「Lemon Head」 ◆j1vYueMMw6 [sage] :2009/04/26(日) 01:24:46 ID:+FzmB3YR  どんな病気だろうが、当人の心持次第で良くも悪くもなる。要は気合論だ。  それが精神的な病ならば余計に顕著、というよりは、むしろ、100%それが原因だと、俺は身をもって証明した。  浅井叶とのあの短い会話は、僅かながらも俺の心を晴らした。仲直りとは到底言えなければ、俺を都合よく利用しようとしている可能性だって十二分にあった。  それでも、もう目も合わすことのないと思っていたかつての親友が俺の名前を呼んだのだ。この後どう転がろうとも、今はそれでいいじゃないか。たった一筋の細い光明だが、俺に悩みを忘れさせるには充分だった。  叶の後を追って練習に復帰してからは1時間少ししかやれなかったが、本日分の部活は最高の状態のまま終わることが出来た。 まるで自分の手が伸びてボールを支えているような安定したトスを上げれたし、ネット際でのダイレクトプレーも冴えた。 急激にテンションの上昇した俺に周りは引き気味だったような気もするが、それすらも気にならないほど俺はハイになっていた。 「いい汗かいたなぁ」着替えながら思わず声を大にして言ってしまった。  部活が終わり、 ロッカーが並んだだけの質素な部室で着替えていた。 1年生は人数の関係で使えないが、2年生に進級すると、ようやく使用許可が与えられる。せまっくるしいものの、自分用のロッカーがあるというのは予想以上に便利である。  横で、佐藤が笑った。「はいはい、お疲れちゃん」 「ぞんざいだな、おい」 「むやみやたらにテンションたけーんだよ、憲輔」 振り向くと、既に着替えを済ませ、カバンを担いだ叶がいた。ワイシャツの裾はズボンに入れられていない。 「なんだ、もう帰るのかよ」 「逆だね。これから居残りだよ」ため息をついたかと思うと、空いた手で髪をいじり始めた。「この前の補習サボったから、タイマン勝負だよ」 「昔のお前なら考えられないな」 「俺だって変わったの。じゃあ、くるみちゃんによろしくな」 「浅井」部室を出ようとした叶を、先輩が呼び止めた。「明日、3年の卒業アルバム用の写真撮るから、ユニフォーム忘れるなよ」  うっす、と返事をし、後ろ手に手を振って去る叶を見送って、再び着替えに専念する。  すると、佐藤が素早く近寄り、耳打ちをしてきた。「お前ら、仲直りしたの?」  佐藤を含め、高校の人間で俺たちの確執について詳しく知るものは、当人である俺と叶以外はいない。 それでも同じ中学出身であることは知れ渡っているし、地元の高校なので、同じ地区でバレーをしていた人間にはそれなりに名が通っている。誰が初めでもなく、自然と俺たちの不仲説は学校に浸透していったのだ。 それが部内ならなおさらである。 「仲直りっつうか、半歩近づいたっつうか」 「なんだそれ」 「前よりはマシになったってことかな」  手際良くワイシャツのボタンを閉めて、ズボンを履くと、シャツの裾をしまった。 汗と清涼スプレーの匂いが蔓延した狭い部室から一刻も早く脱出したかったのだが、このまま外に出て、すぐに帰路に着くことにも、若干の抵抗があった。 373 :Tomorrow Never Comes10話「Lemon Head」 ◆j1vYueMMw6 [sage] :2009/04/26(日) 01:25:14 ID:+FzmB3YR 「それよりさ、昼飯食いにいかないか?」奢るぞ、と喉まででかかったが、理性がハイテンションを押さえつける。 「やや、かたじけないでござる御大将。拙者とウメ丸はこれより城の周囲に罠がないかの確認をせよ、との命が城主殿より下っているのでござる」 「意味わかんね」 「シンプルに言えば、俺とウメは今から地域清掃の罰則よ」 「罰則?」コンプレックスに言う意味があるのか、とツッコミたかったが、呑みこんで別の疑問を口にする。 「ほら、俺この前、事情聴取うけたじゃん?あれで『怪しまれるようなマネするんじゃない』ってさ」 「ああ、そうか、ドンマイ」 「おいこら、てめぇ」佐藤の左腕が俺の首を締め上げてくる。「冗談、冗談ですから」と必死になって謝る。  解放されると、息を整え、出来るだけ真摯な態度で向き合う。「俺のせいで迷惑かけてごめんな」  佐藤が罰則を与えられるのは勘違いとはいえ、俺の責任であることは間違いない。 「気にすんなよ、元はと言えば、そそのかした俺が悪いんだ」  もちろんウメもな、と笑う佐藤を見ながら、声に出さずとも、俺は最大限の感謝を彼に贈っていた。 「俺らは無理だけどさ、恭を誘えば?」 「ごめん、これから麻雀」いきなりのフリにも動じることなく、彼は素早く答えた。  柴崎恭平(しばさき きょうへい)は1年勢の中では一番の遊び人だ。見た目が良く、センスもあるため、それなりにモテる。 ただ、何を勘違いしてるのか、彼の口癖は『麻雀できなきゃ大学で友達作れないよ?』である。 「相変わらず、3年の先輩の家でやってんのか」 「まぁ、学校から近いし」 「あの竹林の辺りだっけ?」 『あの竹林』という言葉に、身震いがした。薄暗い空間が目に、蒸し暑さが肌に、木霊する冷えきった声が耳にフラッシュバックする。 「とりあえず、ラウンジ行かね?」場所を変えて、あわよくば話題も変えてしまおうと思った。右脚のケガがひどく痛んだ、ように思えた 。  部室を出て歩いている時、俺が「そういえばシバちゃんは」とうっかり言ってしまった。案の定、彼は指を指して文句を言ってくる。「恭平だ」  彼は苗字で呼ばれることを、さらにはシバちゃんと呼ばれることを、ひどく嫌う。先輩や後輩、ましてや先生までもに名前で呼ぶことを強制しているのだ。 曰く、「『柴崎』のあとに続いていいのは『コウ』だけなんだ」らしい。意味が解らないが、迫力があるのでみんな従っている。自分の名前が『コウ』だった場合、どうするつもりだったのだろうか。  ちなみに、大半の人は彼を『恭』と縮めて呼ぶ。俺の場合は、叶と被るのを避けるため、最後まで呼ぶことにしている。  「恭平は浅井のことは誘わないのか?」  俺も佐藤もウメちゃんも、どちらかと言うと地味な部類に入るため、恭平は俺たちと深く関わろうとはしてこない。それは構わないのだが、叶と絡まないのが、俺にも理解できなかった。 「あいつは」恭平は眉間にしわを寄せたかと思うと、俺を睨み付けてきた。「あいつはダメだ」 「ダメですか」 「ダメだ。悪い、良くない、Bad、Badly」呪文のように呟くと、それ以来、恭平は口を閉ざした。  佐藤と顔を合わせて、首を傾げる。  似たもの同士、凡人にはわからないライバル意識のようなものがあるのだろうか。 374 :Tomorrow Never Comes10話「Lemon Head」 ◆j1vYueMMw6 [sage] :2009/04/26(日) 01:25:35 ID:+FzmB3YR 「帰ろう、お兄ちゃん」  休日の部活だというのに、くるみは学校まで来ている。普段通り、生徒会室で篭って自習をしているそうだ。ただ、今日は髪に癖がついていたので、昼寝でもしていたのかのしれない。  みんなにフられた俺は、素直にくるみと2人で、コンクリートから上がる熱気に苦しみながら家路を辿っている。うだるような暑さの中、響くセミの声が鬱陶しい。  さきほど聞いたとおり、佐藤とウメちゃんは清掃だ。何度か手伝うと提案したのだが、くるみとの事を気遣われ、断られた。正直、俺は手伝ったほうが気が楽だった。  窪塚さんとの関係が崩壊寸前なのだから、当然、くるみとの関係も不安定になってしまっている。 俺が女子と二言三言会話を交わしているだけで、くるみはあの敵意に満ちた表情を向けてくる。その度に俺は総毛立つ思いをするハメとなる。  原因は、やはり俺だろう。事故で全てを失った彼女は傍にいた俺に依存した。一種の吊り橋効果というやつだろうか。だが、今の俺は彼女を支えきれていない。 俺では役不足なのだ。役不足ならば、適任者を捜す以外あるまい。このことを考える度に、僅かに頭が痛むが、いつも無視した。  ふと、叶の顔が浮かぶ。 「なぁ」 「ん?」少し前を歩いていたくるみは踊るように、華麗なターンを決めた。両手を後ろに回し、少し汗ばんだ顔で微笑む。「なぁに?」 「それ、蒸れないか?」右目のアイパッチを指差して、言った。 「これ?夏用の薄いやつにしてるから大丈夫だよ」 「そんなものがあるのか」本来の機能と矛盾しているような気もしなかったが、世の中には俺の知らないことが多くあり、これもその一つだと思ったので、言わないことにした。  事故によって傷ついた眼球は、幸い、摘出という最悪の結果にはならなかった。この状態で1番恐いのは化膿らしく、手術は主にそれに対するためのものだった。 今でも通院を定期的に行うのはその経過を見るためで、たいしたことは行われていない。医者が言うには、アイパッチを外しても問題はないらしいのだが、くるみはまだ付けている。 理由は言わないが、どこか恐怖があるのだろう。何せ、未だに医者に睡眠薬を貰っているぐらいだ。トラウマは俺が思うよりずっと深いのだろう。  指先でアイパッチを撫ぜるくるみを見ながら、本題を切り出す。 「好きな人とかいないのか?」 「んひっ」この上なく変な声の後、硬直した。「な、なんでそんなこと」 「いや、嫌ならいいんだ、別に」 「嫌じゃないっ、よ」  俯きながら口をもごもごさせるくるみに首を傾げながら待っていると、意を決したように俺を見上げてきた。 その表情はどこかニヤついているようにも見えるが、まるで焦点が合っていないかのように俺の視界はぼやけて、表情がよく見えない。 「あの、ね。好きな人は・・・いる、よ」 「誰だ?」 「えっと・・・昔から、そばにいる人」 昔から、と聞いて俺の胸は躍る。 「それって、地元のか?」 「違うよっ、その、こっち、東京の人だよ」 「そうか」思わず笑顔になってしまった。 375 :Tomorrow Never Comes10話「Lemon Head」 ◆j1vYueMMw6 [sage] :2009/04/26(日) 01:26:00 ID:+FzmB3YR  よもや、俺の知らない人ではあるまい。こっちに来ている時、くるみはいつも俺と一緒で1人で出歩くことはなかった。となると、必然的に絞られてくる。  叶との短い会話の中で思い出された情景が、より鮮明になって、再び脳裏に浮かぶ。  あれは確か、小学校低学年の頃だ。家から数分歩いた先の河川敷にある、芝生が敷き詰められたグラウンド。俺は、くるみと叶の三人で、いつも通り遊んでいた。 くるみは終業式よりも早く遊びに来ていて、あの日、7月7日はくるみの誕生日だった。  当時からダメっぷりを発揮していた俺は、確かその辺にあった綺麗な小石をあげたような気がする。それに対して叶は小学生にあるまじき、小洒落たアクセサリーをプレゼントしていたと思う。 その時、叶が言ったのだ。“俺はくるみちゃんが好きだ”と。そして、首を縦に振ってくるみは答えた。  叶が言うまで、俺は完全に忘れていた。それでもあいつは覚えていたし、くるみだってそうだった。  昔から一緒にいて地元の人といえば、叶以外にいない。 「よかったじゃないか、くるみ」 「え?」 「お前のこと好きだぞ、あいつも」 「ほんっ・・・あいつ?」 「部活のときに話したんだよ、叶と。そしたら、あいつもお前のことが好きだってさ」  今まで分からなかった問題の解き方が分かったような気分になる。暗闇だった視界が晴れて、光が溢れてくるようだ。 「安心しろよ、俺が間取り持つからさ」  そう、これでくるみの問題は解決する。  叶は、根はとてもいいやつだ。頭も手も遅い俺とは比べ物にもならないほど有能で、器量だってある。そんな叶なら、きっとくるみを支えてやれる、支えてくれる。  くるみは俺では手に余る。俺には無理なんだ。だったら、他人に任せるしかない。好き合ってる同士ならなおさらだ。  胸を締め付ける痛みも、脳が発する警告も、俺は無視した。  これでいいんだ、と言い聞かせ、暑さに立ち眩みながら駅へと向かった。 376 :Tomorrow Never Comes10話「Lemon Head」 ◆j1vYueMMw6 [sage] :2009/04/26(日) 01:26:27 ID:+FzmB3YR  窪塚りお。彼女に対して好意的な感情を抱いたことは、一瞬たりともなかった。  4月、入学式。私はお兄ちゃんと一緒に登校するだけで有頂天になってしまい、その余韻を抱き締めながら教室に足を踏み入れた。その途端、私の周りには人だかりが出来てしまった。 テレビで見たと言い、上っ面だけの心配やいたわりの言葉をかけてくる人たちに、恐怖が過ぎった。病院の窓から見た、記者の群れと姿が重なってしまったからだ。  思わず、ワイシャツの上から指輪を握り締めた。お兄ちゃんが私にプレゼントしてくれた、あのチョーカーだ。  握った掌を中心に、暖かさが全身へと広がる。大丈夫だ、とお兄ちゃんが言ってくれている気持ちになった。  私は今までにないほどの笑顔で、知らない人と話が出来た。ありがとうございます、とお礼を言い、心配するほどじゃないですよ、と謙遜した。友人に囲まれた今を思えば、あの時の私はきっと100点満点だ。  一段落して席につくと、ふいに近づいてくる人がいた。どのような人かという印象を抱く前に、彼女は机の横を通り過ぎた。 ━━消してやる。  そう一言残して。  聞き間違いだと、そう自分に言い聞かせた。それから、テレビに出て目立つ私を不愉快に思う人だっているかもしれないとも考えた。チョーカーを握っても、震えは止まらなかった。  その後、クラスの大半と友人になったことを考えれば当り前なのだが、一般的にイジメと呼べるような出来事はなかった。ラブレターというドッキリ紛いのものは何度もあったが、平和だった。 ━━消してやる。  でも、私の視界の隅にはいつも、窪塚りおがちらついていた。同時に、聞こえないはずの声が、耳を侵していくように、日に日に明瞭さを増していくようになった。  入学式からほんの数日後、私は窪塚りおがバレー部のマネージャーになったことを知った。私はすぐに、彼女がお兄ちゃんを狙っているのではないかと疑い、部活を見学したとき、それは確信となった。  お兄ちゃんを狙う存在は前々から予見していた。あれだけ魅力的なのだから、気を惹かれるのは仕方のないことだ。彼女を責めるつもりはない。  だからといって、お兄ちゃんは絶対に渡さない。私にはお兄ちゃんしかいない、お兄ちゃんが必要なのだ。  私は努力した。できるだけ彼女と引き離そうと頑張った。彼女が歩み寄ってくるのなら、お兄ちゃんを遠ざけた。接触を試みるものなら、私が壁となった。  だけど、無理だった。私では止め切れなかった。  恐い。彼女に限らず、誰かの手でお兄ちゃんが遠くに行ってしまうのが恐い。  どん底に突き落とされたとき、手を差し伸べてくれたのはお兄ちゃんだ。私が落ち着くようにずっと傍にいてくれた。 私を傷つけようとする存在から守ってくれたし、私のために生活を投げ出そうともしてくれた。どんな時でも、お兄ちゃんは私のために行動してくれた。  私自身が異常なのは理解していた。お兄ちゃんと離れると息が詰まるし、他の人と仲良くしているのを見ると歯止めが利かなくなりそうになる。 でも、仕方ないのだ。今の私にはお兄ちゃんが必要。もうお兄ちゃん無しでは生きていけない。  掴んだこの手は絶対に離さない。離してしまえば、私はたちまちに落ちて、もう二度と這い上がれなくなる。  いやだ、あそこに帰るのは嫌だ。血まみれのシート、砕けたガラス、激痛、トラック、血溜まり、潰れた腕、暗闇、重み。 ━━消してやる  その声と同時に、私は叩きつけられるような衝撃で、現実へと引き戻された。 377 :Tomorrow Never Comes10話「Lemon Head」 ◆j1vYueMMw6 [sage] :2009/04/26(日) 01:26:50 ID:+FzmB3YR 「寝癖ついてるぞ」  校門で待ち合わせたお兄ちゃんは開口一番にそう言った。指差され、慌てて頭の右側を触ると、少しだけ外側に跳ねていた。恥ずかしくなり、俯きながら急いで直した。  どこか疲れた顔をしながら、お兄ちゃんは私を見て笑っていた。恐い夢だったが、こうして笑ってくれるなら見た甲斐もあったといえるかもしれない。  夏本番、コンクリートが溶けてしまうんじゃないかと思うほどに、日差しは強い。お兄ちゃんの近くに寄りたいが、汗の匂いで嫌われたら嫌なので、仕方なく間を空ける。 緑道に入ると日陰が涼しく、これが駅まで続くのだからありがたい。葉が揺れる音とセミの声が調和する。  蒸れないか?、と言ってアイパッチを指差されて、一瞬たじろいでしまった。 「夏用の薄いやつにしてるから大丈夫だよ」嘘をついた。  確かに普通よりさらに薄めのを使っているが、アイパッチに夏用などない。そもそも、通気性を良くしてしまったら意味がない。  医者が外してもいいと言っても、私は外さなかった。  怪我をすれば、絆創膏を貼る。貼っている間、周りの人は大丈夫か、怪我は治ったかと心配してくれる。 だけど、外してしまえば、例え傷が癒えきっていなくても、よかったねと言われ、それで終わってしまう。  それじゃあダメなのだ。お兄ちゃんにはいつまでも私を見てもらわなければ、心配してもらわなければいけない。 騙すのは心苦しいが、彼女が言っていた“『事故に遭った可哀相な子』ていうレッテルがなきゃ見てももらえない”という言葉は本当だ。本来なら、私など、お兄ちゃんの傍にいる価値はない。 「好きな人とかいないのか?」 「んひっ」シリアスになっていた所への不意打ちに、この上なく情けない声が出てしまった。「な、なんでそんなこと」 「いや、嫌ならいいんだ、別に」 「嫌じゃないっ、よ」  勢いで返事をしてしまったが、これはもしかして、遠まわしな告白と言うものだろうか。こんなシチュエーション、本かドラマで見たような気がする。 好きな人を訊いて、訊かれた方が好意をほのめかし、実は俺も・・・というやつだ。  顔が熱い。きっと、今の私はすごく気の抜けた顔をしているに違いない。お兄ちゃんは私から目を逸らしたのは幸いだった。 「あの、ね。好きな人は・・・いる、よ」 「誰だ?」 「えっと」チョーカーを握り締める。「・・・昔から、そばにいる人」  俯きながらお兄ちゃんを見やると、その顔は嬉しそうだった。これはもしかしなくても、と期待を膨らます。 「それって、地元のか?」 「違うよっ、その、こっち、東京の人だよ」 「そうか」  笑顔で頷くお兄ちゃんを見て、私の口元は緩んでしまった。  いきなりすぎる気もするが、これこそが私の待ちわびた展開。お兄ちゃんはずっと、私を妹としか認識していないと思っていたけど、気持ちは同じだったのだ。  ああ、どうしよう。胸の高鳴りが止まらない。まずは予定帳とカレンダー、携帯のスケジュール帳にも記念日として書こう。他が見えなくなるくらい、たくさんのハートマークを書こう。 家に帰ったら記念日の定番、ケーキを焼こうかな。きっとお兄ちゃんは首をかしげるけど、私はそれを見て笑ってあげよう。そういえば、今日は伯父さんは帰ってこないと言っていた。 伯母さんもいつもより遅いと言っていた。お姉ちゃんが帰ってくるのは具体的にはわからないが、多分もう少し先になるんじゃないかな。 ・・・2人きり。最後までとはいかなくても、一緒にお風呂に入るくらいはお兄ちゃんも許してくれるかな。 378 :Tomorrow Never Comes10話「Lemon Head」 ◆j1vYueMMw6 [sage] :2009/04/26(日) 01:27:27 ID:+FzmB3YR 「よかったじゃないか、くるみ」  邪な妄想を展開していたところ、急に言われた。いよいよ、いよいよだと、身構える。 「お前のこと好きだぞ、あいつも」 「ほんっ」世界が色づいたのも束の間、瞬く間に萎れていく。「・・・あいつ?」 「部活のときに話したんだよ、叶と。そしたら、あいつもお前のことが好きだってさ」  話した?キョウト?あいつ?好き?  違うよ、お兄ちゃん。次の台詞は『俺もお前のことが好きなんだ』だよ。ねぇ、なんで私のほうを見ないの? 「安心しろよ、俺が間取り持つからさ」  安心、取り持つ。  だから違うんだって。  あたまがうごかない。いみがわからない。なんでまえをむいたままはなすの?わたしはこっちだよ、ねぇ。  お兄ちゃんは何か勘違いをしている。何かは、具体的にはわからない。でもそれは、窪塚りお同様、私とお兄ちゃんの関係を壊すものだ。 ━━なんで、かな。  なんでみんな邪魔をするのかな。  私はただ、お兄ちゃんと一緒にいたいだけ。誰にも迷惑をかけてない。  それなのに、なんで。  なんで、なんでみんな私からお兄ちゃんを奪おうとするの。なんで私を遠ざけようとするの。  ダメなんだよ。私は弱いから、脆いから、お兄ちゃんがいなきゃ生きていけないの。お兄ちゃんが必要なんだよ。  他には何もいらない。お兄ちゃんだけがいればいいの。  それなのに、それなのに・・・  気付くと、お兄ちゃんは大分前まで行ってしまっていた。私は1人、立ち尽くす。 「大丈夫、大丈夫だよ」  右手でチョーカーを握り締め、左手で涙を拭う。 「今度は私が守るからね、お兄ちゃん」  陽炎がゆらめく中、冷え切った身体を抱き締めた。
372 :Tomorrow Never Comes10話「Lemon Head」 ◆j1vYueMMw6 [sage] :2009/04/26(日) 01:24:46 ID:+FzmB3YR  病は気から、という言葉がある。  どんな病気だろうが、当人の心持次第で良くも悪くもなる。要は気合論だ。  それが精神的な病ならば余計に顕著、というよりは、むしろ、100%それが原因だと、俺は身をもって証明した。  浅井叶とのあの短い会話は、僅かながらも俺の心を晴らした。仲直りとは到底言えなければ、俺を都合よく利用しようとしている可能性だって十二分にあった。  それでも、もう目も合わすことのないと思っていたかつての親友が俺の名前を呼んだのだ。この後どう転がろうとも、今はそれでいいじゃないか。たった一筋の細い光明だが、俺に悩みを忘れさせるには充分だった。  叶の後を追って練習に復帰してからは1時間少ししかやれなかったが、本日分の部活は最高の状態のまま終わることが出来た。 まるで自分の手が伸びてボールを支えているような安定したトスを上げれたし、ネット際でのダイレクトプレーも冴えた。 急激にテンションの上昇した俺に周りは引き気味だったような気もするが、それすらも気にならないほど俺はハイになっていた。 「いい汗かいたなぁ」着替えながら思わず声を大にして言ってしまった。  部活が終わり、 ロッカーが並んだだけの質素な部室で着替えていた。 1年生は人数の関係で使えないが、2年生に進級すると、ようやく使用許可が与えられる。せまっくるしいものの、自分用のロッカーがあるというのは予想以上に便利である。  横で、佐藤が笑った。「はいはい、お疲れちゃん」 「ぞんざいだな、おい」 「むやみやたらにテンションたけーんだよ、憲輔」 振り向くと、既に着替えを済ませ、カバンを担いだ叶がいた。ワイシャツの裾はズボンに入れられていない。 「なんだ、もう帰るのかよ」 「逆だね。これから居残りだよ」ため息をついたかと思うと、空いた手で髪をいじり始めた。「この前の補習サボったから、タイマン勝負だよ」 「昔のお前なら考えられないな」 「俺だって変わったの。じゃあ、くるみちゃんによろしくな」 「浅井」部室を出ようとした叶を、先輩が呼び止めた。「明日、3年の卒業アルバム用の写真撮るから、ユニフォーム忘れるなよ」  うっす、と返事をし、後ろ手に手を振って去る叶を見送って、再び着替えに専念する。  すると、佐藤が素早く近寄り、耳打ちをしてきた。「お前ら、仲直りしたの?」  佐藤を含め、高校の人間で俺たちの確執について詳しく知るものは、当人である俺と叶以外はいない。 それでも同じ中学出身であることは知れ渡っているし、地元の高校なので、同じ地区でバレーをしていた人間にはそれなりに名が通っている。誰が初めでもなく、自然と俺たちの不仲説は学校に浸透していったのだ。 それが部内ならなおさらである。 「仲直りっつうか、半歩近づいたっつうか」 「なんだそれ」 「前よりはマシになったってことかな」  手際良くワイシャツのボタンを閉めて、ズボンを履くと、シャツの裾をしまった。 汗と清涼スプレーの匂いが蔓延した狭い部室から一刻も早く脱出したかったのだが、このまま外に出て、すぐに帰路に着くことにも、若干の抵抗があった。 373 :Tomorrow Never Comes10話「Lemon Head」 ◆j1vYueMMw6 [sage] :2009/04/26(日) 01:25:14 ID:+FzmB3YR 「それよりさ、昼飯食いにいかないか?」奢るぞ、と喉まででかかったが、理性がハイテンションを押さえつける。 「やや、かたじけないでござる御大将。拙者とウメ丸はこれより城の周囲に罠がないかの確認をせよ、との命が城主殿より下っているのでござる」 「意味わかんね」 「シンプルに言えば、俺とウメは今から地域清掃の罰則よ」 「罰則?」コンプレックスに言う意味があるのか、とツッコミたかったが、呑みこんで別の疑問を口にする。 「ほら、俺この前、事情聴取うけたじゃん?あれで『怪しまれるようなマネするんじゃない』ってさ」 「ああ、そうか、ドンマイ」 「おいこら、てめぇ」佐藤の左腕が俺の首を締め上げてくる。「冗談、冗談ですから」と必死になって謝る。  解放されると、息を整え、出来るだけ真摯な態度で向き合う。「俺のせいで迷惑かけてごめんな」  佐藤が罰則を与えられるのは勘違いとはいえ、俺の責任であることは間違いない。 「気にすんなよ、元はと言えば、そそのかした俺が悪いんだ」  もちろんウメもな、と笑う佐藤を見ながら、声に出さずとも、俺は最大限の感謝を彼に贈っていた。 「俺らは無理だけどさ、恭を誘えば?」 「ごめん、これから麻雀」いきなりのフリにも動じることなく、彼は素早く答えた。  柴崎恭平(しばさき きょうへい)は1年勢の中では一番の遊び人だ。見た目が良く、センスもあるため、それなりにモテる。 ただ、何を勘違いしてるのか、彼の口癖は『麻雀できなきゃ大学で友達作れないよ?』である。 「相変わらず、3年の先輩の家でやってんのか」 「まぁ、学校から近いし」 「あの竹林の辺りだっけ?」 『あの竹林』という言葉に、身震いがした。薄暗い空間が目に、蒸し暑さが肌に、木霊する冷えきった声が耳にフラッシュバックする。 「とりあえず、ラウンジ行かね?」場所を変えて、あわよくば話題も変えてしまおうと思った。右脚のケガがひどく痛んだ、ように思えた 。  部室を出て歩いている時、俺が「そういえばシバちゃんは」とうっかり言ってしまった。案の定、彼は指を指して文句を言ってくる。「恭平だ」  彼は苗字で呼ばれることを、さらにはシバちゃんと呼ばれることを、ひどく嫌う。先輩や後輩、ましてや先生までもに名前で呼ぶことを強制しているのだ。 曰く、「『柴崎』のあとに続いていいのは『コウ』だけなんだ」らしい。意味が解らないが、迫力があるのでみんな従っている。自分の名前が『コウ』だった場合、どうするつもりだったのだろうか。  ちなみに、大半の人は彼を『恭』と縮めて呼ぶ。俺の場合は、叶と被るのを避けるため、最後まで呼ぶことにしている。  「恭平は浅井のことは誘わないのか?」  俺も佐藤もウメちゃんも、どちらかと言うと地味な部類に入るため、恭平は俺たちと深く関わろうとはしてこない。それは構わないのだが、叶と絡まないのが、俺にも理解できなかった。 「あいつは」恭平は眉間にしわを寄せたかと思うと、俺を睨み付けてきた。「あいつはダメだ」 「ダメですか」 「ダメだ。悪い、良くない、Bad、Badly」呪文のように呟くと、それ以来、恭平は口を閉ざした。  佐藤と顔を合わせて、首を傾げる。  似たもの同士、凡人にはわからないライバル意識のようなものがあるのだろうか。 374 :Tomorrow Never Comes10話「Lemon Head」 ◆j1vYueMMw6 [sage] :2009/04/26(日) 01:25:35 ID:+FzmB3YR 「帰ろう、お兄ちゃん」  休日の部活だというのに、くるみは学校まで来ている。普段通り、生徒会室で篭って自習をしているそうだ。ただ、今日は髪に癖がついていたので、昼寝でもしていたのかのしれない。  みんなにフられた俺は、素直にくるみと2人で、コンクリートから上がる熱気に苦しみながら家路を辿っている。うだるような暑さの中、響くセミの声が鬱陶しい。  さきほど聞いたとおり、佐藤とウメちゃんは清掃だ。何度か手伝うと提案したのだが、くるみとの事を気遣われ、断られた。正直、俺は手伝ったほうが気が楽だった。  窪塚さんとの関係が崩壊寸前なのだから、当然、くるみとの関係も不安定になってしまっている。 俺が女子と二言三言会話を交わしているだけで、くるみはあの敵意に満ちた表情を向けてくる。その度に俺は総毛立つ思いをするハメとなる。  原因は、やはり俺だろう。事故で全てを失った彼女は傍にいた俺に依存した。一種の吊り橋効果というやつだろうか。だが、今の俺は彼女を支えきれていない。 俺では役不足なのだ。役不足ならば、適任者を捜す以外あるまい。このことを考える度に、僅かに頭が痛むが、いつも無視した。  ふと、叶の顔が浮かぶ。 「なぁ」 「ん?」少し前を歩いていたくるみは踊るように、華麗なターンを決めた。両手を後ろに回し、少し汗ばんだ顔で微笑む。「なぁに?」 「それ、蒸れないか?」右目のアイパッチを指差して、言った。 「これ?夏用の薄いやつにしてるから大丈夫だよ」 「そんなものがあるのか」本来の機能と矛盾しているような気もしなかったが、世の中には俺の知らないことが多くあり、これもその一つだと思ったので、言わないことにした。  事故によって傷ついた眼球は、幸い、摘出という最悪の結果にはならなかった。この状態で1番恐いのは化膿らしく、手術は主にそれに対するためのものだった。 今でも通院を定期的に行うのはその経過を見るためで、たいしたことは行われていない。医者が言うには、アイパッチを外しても問題はないらしいのだが、くるみはまだ付けている。 理由は言わないが、どこか恐怖があるのだろう。何せ、未だに医者に睡眠薬を貰っているぐらいだ。トラウマは俺が思うよりずっと深いのだろう。  指先でアイパッチを撫ぜるくるみを見ながら、本題を切り出す。 「好きな人とかいないのか?」 「んひっ」この上なく変な声の後、硬直した。「な、なんでそんなこと」 「いや、嫌ならいいんだ、別に」 「嫌じゃないっ、よ」  俯きながら口をもごもごさせるくるみに首を傾げながら待っていると、意を決したように俺を見上げてきた。 その表情はどこかニヤついているようにも見えるが、まるで焦点が合っていないかのように俺の視界はぼやけて、表情がよく見えない。 「あの、ね。好きな人は・・・いる、よ」 「誰だ?」 「えっと・・・昔から、そばにいる人」 昔から、と聞いて俺の胸は躍る。 「それって、地元のか?」 「違うよっ、その、こっち、東京の人だよ」 「そうか」思わず笑顔になってしまった。 375 :Tomorrow Never Comes10話「Lemon Head」 ◆j1vYueMMw6 [sage] :2009/04/26(日) 01:26:00 ID:+FzmB3YR  よもや、俺の知らない人ではあるまい。こっちに来ている時、くるみはいつも俺と一緒で1人で出歩くことはなかった。となると、必然的に絞られてくる。  叶との短い会話の中で思い出された情景が、より鮮明になって、再び脳裏に浮かぶ。  あれは確か、小学校低学年の頃だ。家から数分歩いた先の河川敷にある、芝生が敷き詰められたグラウンド。俺は、くるみと叶の三人で、いつも通り遊んでいた。 くるみは終業式よりも早く遊びに来ていて、あの日、7月7日はくるみの誕生日だった。  当時からダメっぷりを発揮していた俺は、確かその辺にあった綺麗な小石をあげたような気がする。それに対して叶は小学生にあるまじき、小洒落たアクセサリーをプレゼントしていたと思う。 その時、叶が言ったのだ。“俺はくるみちゃんが好きだ”と。そして、首を縦に振ってくるみは答えた。  叶が言うまで、俺は完全に忘れていた。それでもあいつは覚えていたし、くるみだってそうだった。  昔から一緒にいて地元の人といえば、叶以外にいない。 「よかったじゃないか、くるみ」 「え?」 「お前のこと好きだぞ、あいつも」 「ほんっ・・・あいつ?」 「部活のときに話したんだよ、叶と。そしたら、あいつもお前のことが好きだってさ」  今まで分からなかった問題の解き方が分かったような気分になる。暗闇だった視界が晴れて、光が溢れてくるようだ。 「安心しろよ、俺が間取り持つからさ」  そう、これでくるみの問題は解決する。  叶は、根はとてもいいやつだ。頭も手も遅い俺とは比べ物にもならないほど有能で、器量だってある。そんな叶なら、きっとくるみを支えてやれる、支えてくれる。  くるみは俺では手に余る。俺には無理なんだ。だったら、他人に任せるしかない。好き合ってる同士ならなおさらだ。  胸を締め付ける痛みも、脳が発する警告も、俺は無視した。  これでいいんだ、と言い聞かせ、暑さに立ち眩みながら駅へと向かった。 376 :Tomorrow Never Comes10話「Lemon Head」 ◆j1vYueMMw6 [sage] :2009/04/26(日) 01:26:27 ID:+FzmB3YR  窪塚りお。彼女に対して好意的な感情を抱いたことは、一瞬たりともなかった。  4月、入学式。私はお兄ちゃんと一緒に登校するだけで有頂天になってしまい、その余韻を抱き締めながら教室に足を踏み入れた。その途端、私の周りには人だかりが出来てしまった。 テレビで見たと言い、上っ面だけの心配やいたわりの言葉をかけてくる人たちに、恐怖が過ぎった。病院の窓から見た、記者の群れと姿が重なってしまったからだ。  思わず、ワイシャツの上から指輪を握り締めた。お兄ちゃんが私にプレゼントしてくれた、あのチョーカーだ。  握った掌を中心に、暖かさが全身へと広がる。大丈夫だ、とお兄ちゃんが言ってくれている気持ちになった。  私は今までにないほどの笑顔で、知らない人と話が出来た。ありがとうございます、とお礼を言い、心配するほどじゃないですよ、と謙遜した。友人に囲まれた今を思えば、あの時の私はきっと100点満点だ。  一段落して席につくと、ふいに近づいてくる人がいた。どのような人かという印象を抱く前に、彼女は机の横を通り過ぎた。 ━━消してやる。  そう一言残して。  聞き間違いだと、そう自分に言い聞かせた。それから、テレビに出て目立つ私を不愉快に思う人だっているかもしれないとも考えた。チョーカーを握っても、震えは止まらなかった。  その後、クラスの大半と友人になったことを考えれば当り前なのだが、一般的にイジメと呼べるような出来事はなかった。ラブレターというドッキリ紛いのものは何度もあったが、平和だった。 ━━消してやる。  でも、私の視界の隅にはいつも、窪塚りおがちらついていた。同時に、聞こえないはずの声が、耳を侵していくように、日に日に明瞭さを増していくようになった。  入学式からほんの数日後、私は窪塚りおがバレー部のマネージャーになったことを知った。私はすぐに、彼女がお兄ちゃんを狙っているのではないかと疑い、部活を見学したとき、それは確信となった。  お兄ちゃんを狙う存在は前々から予見していた。あれだけ魅力的なのだから、気を惹かれるのは仕方のないことだ。彼女を責めるつもりはない。  だからといって、お兄ちゃんは絶対に渡さない。私にはお兄ちゃんしかいない、お兄ちゃんが必要なのだ。  私は努力した。できるだけ彼女と引き離そうと頑張った。彼女が歩み寄ってくるのなら、お兄ちゃんを遠ざけた。接触を試みるものなら、私が壁となった。  だけど、無理だった。私では止め切れなかった。  恐い。彼女に限らず、誰かの手でお兄ちゃんが遠くに行ってしまうのが恐い。  どん底に突き落とされたとき、手を差し伸べてくれたのはお兄ちゃんだ。私が落ち着くようにずっと傍にいてくれた。 私を傷つけようとする存在から守ってくれたし、私のために生活を投げ出そうともしてくれた。どんな時でも、お兄ちゃんは私のために行動してくれた。  私自身が異常なのは理解していた。お兄ちゃんと離れると息が詰まるし、他の人と仲良くしているのを見ると歯止めが利かなくなりそうになる。 でも、仕方ないのだ。今の私にはお兄ちゃんが必要。もうお兄ちゃん無しでは生きていけない。  掴んだこの手は絶対に離さない。離してしまえば、私はたちまちに落ちて、もう二度と這い上がれなくなる。  いやだ、あそこに帰るのは嫌だ。血まみれのシート、砕けたガラス、激痛、トラック、血溜まり、潰れた腕、暗闇、重み。 ━━消してやる  その声と同時に、私は叩きつけられるような衝撃で、現実へと引き戻された。 377 :Tomorrow Never Comes10話「Lemon Head」 ◆j1vYueMMw6 [sage] :2009/04/26(日) 01:26:50 ID:+FzmB3YR 「寝癖ついてるぞ」  校門で待ち合わせたお兄ちゃんは開口一番にそう言った。指差され、慌てて頭の右側を触ると、少しだけ外側に跳ねていた。恥ずかしくなり、俯きながら急いで直した。  どこか疲れた顔をしながら、お兄ちゃんは私を見て笑っていた。恐い夢だったが、こうして笑ってくれるなら見た甲斐もあったといえるかもしれない。  夏本番、コンクリートが溶けてしまうんじゃないかと思うほどに、日差しは強い。お兄ちゃんの近くに寄りたいが、汗の匂いで嫌われたら嫌なので、仕方なく間を空ける。 緑道に入ると日陰が涼しく、これが駅まで続くのだからありがたい。葉が揺れる音とセミの声が調和する。  蒸れないか?、と言ってアイパッチを指差されて、一瞬たじろいでしまった。 「夏用の薄いやつにしてるから大丈夫だよ」嘘をついた。  確かに普通よりさらに薄めのを使っているが、アイパッチに夏用などない。そもそも、通気性を良くしてしまったら意味がない。  医者が外してもいいと言っても、私は外さなかった。  怪我をすれば、絆創膏を貼る。貼っている間、周りの人は大丈夫か、怪我は治ったかと心配してくれる。 だけど、外してしまえば、例え傷が癒えきっていなくても、よかったねと言われ、それで終わってしまう。  それじゃあダメなのだ。お兄ちゃんにはいつまでも私を見てもらわなければ、心配してもらわなければいけない。 騙すのは心苦しいが、彼女が言っていた“『事故に遭った可哀相な子』ていうレッテルがなきゃ見てももらえない”という言葉は本当だ。本来なら、私など、お兄ちゃんの傍にいる価値はない。 「好きな人とかいないのか?」 「んひっ」シリアスになっていた所への不意打ちに、この上なく情けない声が出てしまった。「な、なんでそんなこと」 「いや、嫌ならいいんだ、別に」 「嫌じゃないっ、よ」  勢いで返事をしてしまったが、これはもしかして、遠まわしな告白と言うものだろうか。こんなシチュエーション、本かドラマで見たような気がする。 好きな人を訊いて、訊かれた方が好意をほのめかし、実は俺も・・・というやつだ。  顔が熱い。きっと、今の私はすごく気の抜けた顔をしているに違いない。お兄ちゃんは私から目を逸らしたのは幸いだった。 「あの、ね。好きな人は・・・いる、よ」 「誰だ?」 「えっと」チョーカーを握り締める。「・・・昔から、そばにいる人」  俯きながらお兄ちゃんを見やると、その顔は嬉しそうだった。これはもしかしなくても、と期待を膨らます。 「それって、地元のか?」 「違うよっ、その、こっち、東京の人だよ」 「そうか」  笑顔で頷くお兄ちゃんを見て、私の口元は緩んでしまった。  いきなりすぎる気もするが、これこそが私の待ちわびた展開。お兄ちゃんはずっと、私を妹としか認識していないと思っていたけど、気持ちは同じだったのだ。  ああ、どうしよう。胸の高鳴りが止まらない。まずは予定帳とカレンダー、携帯のスケジュール帳にも記念日として書こう。他が見えなくなるくらい、たくさんのハートマークを書こう。 家に帰ったら記念日の定番、ケーキを焼こうかな。きっとお兄ちゃんは首をかしげるけど、私はそれを見て笑ってあげよう。そういえば、今日は伯父さんは帰ってこないと言っていた。 伯母さんもいつもより遅いと言っていた。お姉ちゃんが帰ってくるのは具体的にはわからないが、多分もう少し先になるんじゃないかな。 ・・・2人きり。最後までとはいかなくても、一緒にお風呂に入るくらいはお兄ちゃんも許してくれるかな。 378 :Tomorrow Never Comes10話「Lemon Head」 ◆j1vYueMMw6 [sage] :2009/04/26(日) 01:27:27 ID:+FzmB3YR 「よかったじゃないか、くるみ」  邪な妄想を展開していたところ、急に言われた。いよいよ、いよいよだと、身構える。 「お前のこと好きだぞ、あいつも」 「ほんっ」世界が色づいたのも束の間、瞬く間に萎れていく。「・・・あいつ?」 「部活のときに話したんだよ、叶と。そしたら、あいつもお前のことが好きだってさ」  話した?キョウト?あいつ?好き?  違うよ、お兄ちゃん。次の台詞は『俺もお前のことが好きなんだ』だよ。ねぇ、なんで私のほうを見ないの? 「安心しろよ、俺が間取り持つからさ」  安心、取り持つ。  だから違うんだって。  あたまがうごかない。いみがわからない。なんでまえをむいたままはなすの?わたしはこっちだよ、ねぇ。  お兄ちゃんは何か勘違いをしている。何かは、具体的にはわからない。でもそれは、窪塚りお同様、私とお兄ちゃんの関係を壊すものだ。 ━━なんで、かな。  なんでみんな邪魔をするのかな。  私はただ、お兄ちゃんと一緒にいたいだけ。誰にも迷惑をかけてない。  それなのに、なんで。  なんで、なんでみんな私からお兄ちゃんを奪おうとするの。なんで私を遠ざけようとするの。  ダメなんだよ。私は弱いから、脆いから、お兄ちゃんがいなきゃ生きていけないの。お兄ちゃんが必要なんだよ。  他には何もいらない。お兄ちゃんだけがいればいいの。  それなのに、それなのに・・・  気付くと、お兄ちゃんは大分前まで行ってしまっていた。私は1人、立ち尽くす。 「大丈夫、大丈夫だよ」  右手でチョーカーを握り締め、左手で涙を拭う。 「今度は私が守るからね、お兄ちゃん」  陽炎がゆらめく中、冷え切った身体を抱き締めた。

表示オプション

横に並べて表示:
変化行の前後のみ表示: