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310 :群青が染まる 05 ◆ci6GRnf0Mo [sage] :2010/04/10(土) 12:12:45 ID:q2TxcnQp 「はっ…はっ…」  動かせど動かせど距離が縮まらない。  暗闇の中をなびいて揺れる髪の尾が遠くて、だからこそ気付けなかった…… 彼女の背中を追いかけれるというその異常さに。  どれぐらい走ったのか、どれぐらい走るのかもわからず精神的にも疲労が溜 まっていく。  それでも、ぬかるんだ地面が芯が抜けた足をさらに疲れさせても、呼吸が苦 しくなって来ても足を動かし続ける、目標を見失わないように。  そんな我慢も、精神より先に肉体が限界を迎え、もうだめだと思った時だっ た……映るのは木々だらけだった視界が開けたのは。 「なんやここは」  そこは、木々がないのに関わらず、陽すら射していない開けた空間。  ……あれはなんだ?  辺りの明るさだけで判断するなら夜だと思うほど暗い中に大きな屋敷が浮か んでいるのかと間違えるほどに灯りを撒き散らしてそびえ立っている。  なのにその灯りに引き寄せられる虫の羽音も聞こえず、生命の匂いさえも感 じられない。  それは、まだ荒い呼吸を振り乱す中でも異様と思えるほどだった。  こんな、いかにもな雰囲気の屋敷に入るなんて……、 「?!」  有り得ない思っていたのに、今まさに玄関の扉を開けようとするマリンが見 えた。  そんな彼女を、こんなところに屋敷があるのはおかしいという考えを振り払 って、今だ震えている足で追いかけた。  ……このまま消えていなくなってしまいそうで。 「来なくていい」と、確かに聞こえた言葉を無視してなんとか中に滑り込む、 と同時に重々しい音を辺りに響かせて扉が閉じていった。 「おお、暖かいわ!」  確かに、凍えるように寒かった外とは違い中は暖かいと同意しながらも、 「ハ、ハル……?」  いつの間にか、自分より早くに入ってきていた男に驚いた。 「なんや?」 「い、いや、それよりここは?」  返事はなかったのは、この森を買ったある研究者の屋敷だとは言うまでもな いことだと思ったからなのだろう。  広いエントランスに、光に溢れる屋敷。確かに明るいはずなのに、どこか薄 暗く生活感がなかった。  そんな中で、玄関の真正面に鎮座している二階に繋がる大階段の先を伺うマ リン。  不意にシャンデリアの無機質な灯りが瞬いて、 「ようこそ我が屋敷へ」  声が聞こえたのは、彼女に声をかけようかと迷っていた時だった。  ある程度何が起こっても大丈夫なように準備をしていたのに、ハルのとも、 マリンのとも、そして自分のとも違う声に、身体が一度大きく震えた。 「それで、どうされました? 客人よ」  高そうな服に身を包み、髭を生やした男が丁度マリンが見ていた階段の上か ら見下ろしている。 311 :群青が染まる 05 ◆ci6GRnf0Mo [sage] :2010/04/10(土) 12:15:08 ID:q2TxcnQp  突如現れた男に何と言ったらいいかわからず、言葉が喉から先に出てこない。 「いやー、道に迷ってしまってな。泊めてくれへんか?」  そんな焦る自分の代わりに、一歩前に出たハルに助かったと一息ついた。 「それはそれは、大変でしたね。わかりました、客人を、客人を部屋へ案内な さい」  男が手を数度叩くと、乾いた音と共に数名の生気がなくまるで死んだような 顔をした使用人が部屋から出てくる。  その姿は這い出てきたのかと思うほどに上半身が揺れていた。 「お、なかなかのべっぴんさんやな」 「え……?」  思いがけない言葉にハルの顔を凝視する。 「おおっと、心配せんでええで! わいはマリンはん一筋やからな!!」  それが言いたかったのだろうか、言いながら大きく笑った彼に気を取られて いたから、 「あなた様はこちらになります」  話しかけられたときは喉から悲鳴が飛び出そうになった。 「ち、違う部屋?!」 「トモヤはん怖いんか?」 「こ、怖くないけど、マリン、どう……」  する? と振り向いた先には彼女の姿はなく、使用人の後ろを歩く背中だけ が見えた。  ……彼女へと無意識の内に伸ばしていた手は、やり場がなかった。  案内された部屋の中は広く、とても一人部屋とは思えなかった。  入るやいなや恭しく一礼して踵を返した使用人が部屋からいなくなって、よ うやく一息ついた、のも束の間忙しく部屋の中を歩き回る。  ……落ち着かない。 「怖いんか?」、その言葉が頭を回り続ける。  慌てて頭を振って、こんな屋敷なのだから警戒してしかるべきなんだと、何 度も何度も自分に言い聞かせた。  それでも落ち着かず、部屋の中を散々歩き回り続けた後、意を決して部屋を 飛び出した、マリンがどうしても気になって。  絨毯が敷き詰められた赤い廊下を歩く度に遠慮がちな足音が、誰もいないと さえ錯覚しそうな屋敷に響き渡る。  部屋の前に誰もいなかった幸いだったなと考えて、本当は誰一人としていな いのではないかと本当に思い込んでしまいそうになる。 「……おかしい」  足音が一つまた一つと屋敷内の響き渡る度に大きくなる疑問に対抗するかと でもいうようにひとりごちる。  これならまだ何かしらの反応があったほうがと考えて、どちらにしろ怖いこ とだけはわかった。  そんな事ばかり考えていたから、今自分が迷子になっていると気付くことも、 何よりマリンの部屋も、ハルの部屋さえも知らないという事実は片鱗すら頭を 掠めなかった。 312 :群青が染まる 05 ◆ci6GRnf0Mo [sage] :2010/04/10(土) 12:18:48 ID:q2TxcnQp  やっと迷子になったとわかったのは、時既に遅く自分の部屋に戻る方法は検 討もつかないほどに歩き回った時だった、  過ぎるのは手当たり次第に開けていくという無謀な選択だけ。  そう考えたときに一番手近にあった取っ手に手をかけて、自分は何をしてい るのだろう、と回す手を止めた。  どうするつもりなんだ俺は? 彼女に会って何がしたいんだ?  大人しく部屋で待っていれば……そもそも、この屋敷に入ってこなければ。  だけど頭をちらつくのは、あの夜の泣きそうな、今にも消えてしまいそうな 姿だけだった。  ……はぁ、俺はどうしても彼女の傍にいたいんだな。  止まっていた手を、強く動かすと、軋んだ音を立てて意図も容易く扉が開く と途端にカビの匂いが充満していた部屋から漏れ出す。  あの使用人達は掃除をしないのだろうか? と、そんなどうでもいい疑問を 持ちながら、到る所に散乱した埃に塗れた本だらけの部屋へと足を踏み入れる。  次第に匂いに慣れ始めた頃に何冊か手に取って見るも、虫食いやカビ、黒ず みでまともに見える物はなかった。  中には粘液のようにこびりついた緑色の液体に侵されている本、菌類が侵食 している本もあった。  ……とりあえず、誰もいなくてよかった。  マリンの部屋でなくて残念で、少しだけ胸を撫で下ろした。 「俺は何をしているんだろうな…、っ?!」  自然と口をついて出たか細い疑問が、響いてくる自己を主張するかのような 足音に打ち消される。  足音に身体が反応するのは早く、慌てて棚と棚の隙間に入り込もうと身を滑 らせた。が、その焦りがまずかった、戸棚を身体が掠めた途端にいくつかの本 が埃と、胞子と音を巻き上げて地面へと吸い込まれる。  地に落ちた衝撃で無残にも古びた紙が宙に散らばり、漂う紙にどうしたらい いのか思考が真っ白になる。 「あ……、隠れなきゃ……」  言葉に、口に出す事で無理やり身体を動かし始める。  騒ぎに気付いているのか、気付いていないのか力強い足音は徐々に静かな屋 敷に響き渡らせながら近づいてくる。  普段は気にならない唾が異様に口内に溜まっていく……。  飲むに飲めない唾にどうしようかと迷っていると、扉が異様に軋んだ音を立 てて開くと同時に、一歩一歩迷いなく、さらに高らかに響き渡らせ真っ直ぐ向 かって来る足音。  その足音が自分がいる棚の前に止まるまで、ただ、近づかれるままに飛び出 すにも飛び出せず、待つにも待てず、心臓だけが張り裂けそうなほど音を立て ていた。 313 :群青が染まる 05 ◆ci6GRnf0Mo [sage] :2010/04/10(土) 12:20:13 ID:q2TxcnQp 「出てこないのか?」  それは飛び掛ろうとした瞬間だった、 「っ?! マ、……マリン?」  狙い済ましたかのように声を出した彼女に、まるでかくれんぼをしていたか のような心地で呆然としていた。  そんな彼女に不思議と怒りがわかなかったのは、そんな一面持っていること への驚きのほうが強かったからなのだろう。 「どうしてここに来た?」  尻餅をついたまま、まだ立てない俺のことなど気にも留めず彼女が淡々と喋 り始めた。 「あ、いや、つい入ってしまって……」 「ならば、すぐにあれと一緒にここを出ろ」  やっぱり手当たり次第は無謀だよなという考えはすぐに打ち消され、彼女が 言っているのは、この屋敷にとこの屋敷から、だと気付いた。 「ど、どうやって?」  その質問に答える代わりとでも言うのか、彼女の手が下から上へと軌跡を描 くと共に、何かが飛んできた。 「……鍵?」  それは使えば折れるのではないかというほどに赤黒く錆びていた。何より持 っているだけでいつの間にか折れてしまいそうなほどだった。 「エントランスは無理だ」  そう言って扉に手をかけた彼女を、 「マ、マリン!」  呼び止めた。  次の言葉を待つように振り向いた瞳、心臓が早鐘を打ち始める。 「そ、その……手を握ってご、ごめん!」 「……ああ、そんなことか」  何を言っているのかわからないとでも言うかのような顔が、すぐに納得した ように表情を失くす。 「それだけか? ……ならば、すぐに立ち去れ」 「マ、マリンはあの時何を言おうとしたの?」  どうでもいいと言わんばかりに出て行こうとする彼女に食らいついた瞬間、 また訝しげに眉をひそめた。 「聞いてどうする?」 「いや、その、」  どうして聞いたのか、そんなことは自分でもわからなかった。  そんな俺に、なのだろうか、彼女が溜息をついて今まで出ようとしていた扉 から身体を離した。  その些細な仕草でさえ洗練されていて、目が惹き寄せられる。 「どうせ、追憶もままならず塵と消えるんだ。知ろうとも知らずとも、そなた は覚えていまい」 「それでも!」  もしかすると、何を言っているのか、何が言いたいのかわからなくても彼女 の事を知りたかったのかもしれない。  マリンが呆れたように両手を挙げた。 314 :群青が染まる 05 ◆ci6GRnf0Mo [sage] :2010/04/10(土) 12:22:59 ID:q2TxcnQp 「震えて怖がっていたとは思えない発言だな……、ならば聞こう。そなたは我 に何を期待しているのだ?」 「……え?」 「人間如きを助けるとでも? 興味を持つとでも?」  それに、答える事ができなかった。  ……いや、答えはわかっていた、こんなにも身体が震えて怖がっているのだ から、 「挙句に一緒に居たいだと? わかっているだろう? 存在そのものが違うこ とを。そんな化物と一緒にいるつもりなのか?」  だけど、だけど喉を鳴らして笑う彼女が泣きじゃくる子供のように見えたの はなぜなのだろうか。 「……気は済んだか?」  再び向けた彼女の背中は何もかもを拒絶しているようだった。 「マリン!」  もう自分の呼びかけに彼女は止まることはなかった。 「それでも、一緒にいたい! 一緒にいたいんだ!!」  だから、そんな彼女に言葉を残して、代わりに走り始めて気付いた部屋を知 らないことにも構わず走り続けた。  ……役に立とうと。 「はっ…はっ…」  今日は走ってばかりだ。足が痛いし、おまけに呼吸も苦しい。だけど足が止 まってくれないのは、想いが止まらないから。 「なんだ、」  こんなにも彼女に惹かれているじゃないか。  彼女の役に立てる、それだけで悲鳴を上げる身体はまだ走れた。  不意に、背後で響いた金属の擦り合わせる音に億劫さを感じながら振り返る、 と、目が飛び出しそうになるぐらいの衝撃が身体を駆け抜ける。  屋敷を彩る飾りだと思っていたのに、こちらに向けてうるさい音を響かせて 走ってくるのは紛れもなく台座に鎮座していた金属の鎧。  その異常な速度のせいか、足が地面につくたびに擦れて火花を生んでいた。 「……はっ?」  無機物が動くという事態に理解できるものではなかった。それも自分より早 い速度で。  何かが呼ぶ声をなぞるかのように、必死に足を動かしても、あれほど開いて あった距離が次第に縮まり始める。 「なんで!! なんでなんでなんで?!」  ハル、マリンどころの話ではなく今自分が一番の非常事態に置かれているこ とがありありとわかる。  ……だとしたら、どうしたらいい? 非力な自分はどうやれば彼女の役に立 てる? 315 :群青が染まる 05 ◆ci6GRnf0Mo [sage] :2010/04/10(土) 12:25:21 ID:q2TxcnQp 「ぐっ!!」  そんな考えに気を取られていたから気づけなかった……段差に、そして行き 止まりに。  転んだ衝撃で、地面にしこたま身体を打ちつける。  すぐに身体を起こそうとして、既に限界を超えていた筋肉を酷使していたせ いか足がもはや硬直して少しでも動かそうものなら、攣りそうな勢いだった。  そんな足を身体を引きずりながら、既に金属の擦りあう音さえしない追いつ かれだろうなと痛みもそのままに身体を起こしながら振り返って、 「……?」  気付いた、斧や剣を持った金属の鎧がひしめき合っているだけで、まるで段 差から先には見えない壁があるかのように近寄ろうとしないことに。 「どういう、ことだ……?」  何が起こっているのかわけがわからなかったが、襲われないということだけ はわかった。  やがて、痙攣の収まり始めた足を手で補助しながら無理に立たせて、先にあ るたった一つだけの扉へと吸い寄せられるように錆びた鍵を突っ込んだ。 「あれ?」  鍵は一寸すら動かず、軋む音を立てて固まったまま回ることはなかった。  ……もしかして。  依然として金属の鎧がうごめきあっているほうへは目を向けないようにして、 思いっきり扉を押した。  やはり鍵がかかってはいなかったため勢いよく開く扉、その勢いにささえら れなくなった身体と共に部屋へと倒れ込んだ。 「い、たい……」  取っ手に手をかけたままだったせいか、片手では押さえきれない身体に顔か ら地面へぶつける。  ただ、ぶつけたのは散乱して積み重なった本だったせいか、言うほど痛くは なかった。 「ここは?」  ようやく立ち上がったままに思わず問いかけるも、当然答えるものなどいな かった。  ○月×日  なぜ、出来ない……。  なぜ、一向に成功の兆しすら見せない。  何が間違っているか私には全くわからない。  すぐに目に付いたのは、机の上に置かれた触れば破けてしまいそうなほど古 びた羊皮紙が繋がれ一冊の日記のようなものになっていた。  ……この部屋の主が書いた物だろうか?  何かわかるかもしれないと探すために触れるたび、いつからあるのだろうか 机が乾いた音を立てて亀裂が入る。 316 :群青が染まる 05 ◆ci6GRnf0Mo [sage] :2010/04/10(土) 12:27:36 ID:q2TxcnQp  △月○×日  実験の一つで不思議な反応が現れた、これはもうすぐ実験は成功するのでは ないかと期待できるほどのものだ!  なんと嬉しい日なのだ!  以下、忘れないように実験の手順を示す。  ―――。  ――。  何度も何度も書き直したのか到る所に塗りつぶされた後があることが、持ち 主の嬉しさを表しているようで、読んでる自分も少し嬉しくなる。  □月○日  妻が! 息子が!!  こんな嬉しいことがこの世であるのだろうか!!!  私は実験を成功させた、また家族で過ごせる!!  ああ、神様……。    □月×○日  何かがおかしい。あの日から全てが上手くできる。  まるで、失敗という概念が消えうせたように。  ……それがおかしい。  私は夢でも見ているのだろうか?  少しずつ不穏な空気を醸し始めた日記に慌てて次の紙を捲ろうとして気付い た、その中身のほとんどが抜けている事に。  △月  私はこの世界に終止符を打つ。  協力してくれた妻よ、君の元に息子を連れて行けることを願っていてくれ。  もし のた  以 に   作り を  ておく。  最後に残った意図的に破かれたとしか思えない羊皮紙。  これだけでは何が起こったかもわからず、抜けている部分を探そうと机に手 を置いた時だった、 「その必要はありません……」  しゃがれた声と共に、悲痛な顔をした老人が悲しそうに微笑んでいるのを見 つけたのは。  こんな最中なのに不思議と恐怖はなく、この老人が日記の持ち主なのだろう なと漠然と考えていた。 「あなたは?」
310 :群青が染まる 05 ◆ci6GRnf0Mo [sage] :2010/04/10(土) 12:12:45 ID:q2TxcnQp 「はっ…はっ…」  動かせど動かせど距離が縮まらない。  暗闇の中をなびいて揺れる髪の尾が遠くて、だからこそ気付けなかった…… 彼女の背中を追いかけれるというその異常さに。  どれぐらい走ったのか、どれぐらい走るのかもわからず精神的にも疲労が溜 まっていく。  それでも、ぬかるんだ地面が芯が抜けた足をさらに疲れさせても、呼吸が苦 しくなって来ても足を動かし続ける、目標を見失わないように。  そんな我慢も、精神より先に肉体が限界を迎え、もうだめだと思った時だっ た……映るのは木々だらけだった視界が開けたのは。 「なんやここは」  そこは、木々がないのに関わらず、陽すら射していない開けた空間。  ……あれはなんだ?  辺りの明るさだけで判断するなら夜だと思うほど暗い中に大きな屋敷が浮か んでいるのかと間違えるほどに灯りを撒き散らしてそびえ立っている。  なのにその灯りに引き寄せられる虫の羽音も聞こえず、生命の匂いさえも感 じられない。  それは、まだ荒い呼吸を振り乱す中でも異様と思えるほどだった。  こんな、いかにもな雰囲気の屋敷に入るなんて……、 「?!」  有り得ない思っていたのに、今まさに玄関の扉を開けようとするマリンが見 えた。  そんな彼女を、こんなところに屋敷があるのはおかしいという考えを振り払 って、今だ震えている足で追いかけた。  ……このまま消えていなくなってしまいそうで。 「来なくていい」と、確かに聞こえた言葉を無視してなんとか中に滑り込む、 と同時に重々しい音を辺りに響かせて扉が閉じていった。 「おお、暖かいわ!」  確かに、凍えるように寒かった外とは違い中は暖かいと同意しながらも、 「ハ、ハル……?」  いつの間にか、自分より早くに入ってきていた男に驚いた。 「なんや?」 「い、いや、それよりここは?」  返事はなかったのは、この森を買ったある研究者の屋敷だとは言うまでもな いことだと思ったからなのだろう。  広いエントランスに、光に溢れる屋敷。確かに明るいはずなのに、どこか薄 暗く生活感がなかった。  そんな中で、玄関の真正面に鎮座している二階に繋がる大階段の先を伺うマ リン。  不意にシャンデリアの無機質な灯りが瞬いて、 「ようこそ我が屋敷へ」  声が聞こえたのは、彼女に声をかけようかと迷っていた時だった。  ある程度何が起こっても大丈夫なように準備をしていたのに、ハルのとも、 マリンのとも、そして自分のとも違う声に、身体が一度大きく震えた。 「それで、どうされました? 客人よ」  高そうな服に身を包み、髭を生やした男が丁度マリンが見ていた階段の上か ら見下ろしている。 311 :群青が染まる 05 ◆ci6GRnf0Mo [sage] :2010/04/10(土) 12:15:08 ID:q2TxcnQp  突如現れた男に何と言ったらいいかわからず、言葉が喉から先に出てこない。 「いやー、道に迷ってしまってな。泊めてくれへんか?」  そんな焦る自分の代わりに、一歩前に出たハルに助かったと一息ついた。 「それはそれは、大変でしたね。わかりました、客人を、客人を部屋へ案内な さい」  男が手を数度叩くと、乾いた音と共に数名の生気がなくまるで死んだような 顔をした使用人が部屋から出てくる。  その姿は這い出てきたのかと思うほどに上半身が揺れていた。 「お、なかなかのべっぴんさんやな」 「え……?」  思いがけない言葉にハルの顔を凝視する。 「おおっと、心配せんでええで! わいはマリンはん一筋やからな!!」  それが言いたかったのだろうか、言いながら大きく笑った彼に気を取られて いたから、 「あなた様はこちらになります」  話しかけられたときは喉から悲鳴が飛び出そうになった。 「ち、違う部屋?!」 「トモヤはん怖いんか?」 「こ、怖くないけど、マリン、どう……」  する? と振り向いた先には彼女の姿はなく、使用人の後ろを歩く背中だけ が見えた。  ……彼女へと無意識の内に伸ばしていた手は、やり場がなかった。  案内された部屋の中は広く、とても一人部屋とは思えなかった。  入るやいなや恭しく一礼して踵を返した使用人が部屋からいなくなって、よ うやく一息ついた、のも束の間忙しく部屋の中を歩き回る。  ……落ち着かない。 「怖いんか?」、その言葉が頭を回り続ける。  慌てて頭を振って、こんな屋敷なのだから警戒してしかるべきなんだと、何 度も何度も自分に言い聞かせた。  それでも落ち着かず、部屋の中を散々歩き回り続けた後、意を決して部屋を 飛び出した、マリンがどうしても気になって。  絨毯が敷き詰められた赤い廊下を歩く度に遠慮がちな足音が、誰もいないと さえ錯覚しそうな屋敷に響き渡る。  部屋の前に誰もいなかった幸いだったなと考えて、本当は誰一人としていな いのではないかと本当に思い込んでしまいそうになる。 「……おかしい」  足音が一つまた一つと屋敷内の響き渡る度に大きくなる疑問に対抗するかと でもいうようにひとりごちる。  これならまだ何かしらの反応があったほうがと考えて、どちらにしろ怖いこ とだけはわかった。  そんな事ばかり考えていたから、今自分が迷子になっていると気付くことも、 何よりマリンの部屋も、ハルの部屋さえも知らないという事実は片鱗すら頭を 掠めなかった。 312 :群青が染まる 05 ◆ci6GRnf0Mo [sage] :2010/04/10(土) 12:18:48 ID:q2TxcnQp  やっと迷子になったとわかったのは、時既に遅く自分の部屋に戻る方法は検 討もつかないほどに歩き回った時だった、  過ぎるのは手当たり次第に開けていくという無謀な選択だけ。  そう考えたときに一番手近にあった取っ手に手をかけて、自分は何をしてい るのだろう、と回す手を止めた。  どうするつもりなんだ俺は? 彼女に会って何がしたいんだ?  大人しく部屋で待っていれば……そもそも、この屋敷に入ってこなければ。  だけど頭をちらつくのは、あの夜の泣きそうな、今にも消えてしまいそうな 姿だけだった。  ……はぁ、俺はどうしても彼女の傍にいたいんだな。  止まっていた手を、強く動かすと、軋んだ音を立てて意図も容易く扉が開く と途端にカビの匂いが充満していた部屋から漏れ出す。  あの使用人達は掃除をしないのだろうか? と、そんなどうでもいい疑問を 持ちながら、到る所に散乱した埃に塗れた本だらけの部屋へと足を踏み入れる。  次第に匂いに慣れ始めた頃に何冊か手に取って見るも、虫食いやカビ、黒ず みでまともに見える物はなかった。  中には粘液のようにこびりついた緑色の液体に侵されている本、菌類が侵食 している本もあった。  ……とりあえず、誰もいなくてよかった。  マリンの部屋でなくて残念で、少しだけ胸を撫で下ろした。 「俺は何をしているんだろうな…、っ?!」  自然と口をついて出たか細い疑問が、響いてくる自己を主張するかのような 足音に打ち消される。  足音に身体が反応するのは早く、慌てて棚と棚の隙間に入り込もうと身を滑 らせた。が、その焦りがまずかった、戸棚を身体が掠めた途端にいくつかの本 が埃と、胞子と音を巻き上げて地面へと吸い込まれる。  地に落ちた衝撃で無残にも古びた紙が宙に散らばり、漂う紙にどうしたらい いのか思考が真っ白になる。 「あ……、隠れなきゃ……」  言葉に、口に出す事で無理やり身体を動かし始める。  騒ぎに気付いているのか、気付いていないのか力強い足音は徐々に静かな屋 敷に響き渡らせながら近づいてくる。  普段は気にならない唾が異様に口内に溜まっていく……。  飲むに飲めない唾にどうしようかと迷っていると、扉が異様に軋んだ音を立 てて開くと同時に、一歩一歩迷いなく、さらに高らかに響き渡らせ真っ直ぐ向 かって来る足音。  その足音が自分がいる棚の前に止まるまで、ただ、近づかれるままに飛び出 すにも飛び出せず、待つにも待てず、心臓だけが張り裂けそうなほど音を立て ていた。 313 :群青が染まる 05 ◆ci6GRnf0Mo [sage] :2010/04/10(土) 12:20:13 ID:q2TxcnQp 「出てこないのか?」  それは飛び掛ろうとした瞬間だった、 「っ?! マ、……マリン?」  狙い済ましたかのように声を出した彼女に、まるでかくれんぼをしていたか のような心地で呆然としていた。  そんな彼女に不思議と怒りがわかなかったのは、そんな一面持っていること への驚きのほうが強かったからなのだろう。 「どうしてここに来た?」  尻餅をついたまま、まだ立てない俺のことなど気にも留めず彼女が淡々と喋 り始めた。 「あ、いや、つい入ってしまって……」 「ならば、すぐにあれと一緒にここを出ろ」  やっぱり手当たり次第は無謀だよなという考えはすぐに打ち消され、彼女が 言っているのは、この屋敷にとこの屋敷から、だと気付いた。 「ど、どうやって?」  その質問に答える代わりとでも言うのか、彼女の手が下から上へと軌跡を描 くと共に、何かが飛んできた。 「……鍵?」  それは使えば折れるのではないかというほどに赤黒く錆びていた。何より持 っているだけでいつの間にか折れてしまいそうなほどだった。 「エントランスは無理だ」  そう言って扉に手をかけた彼女を、 「マ、マリン!」  呼び止めた。  次の言葉を待つように振り向いた瞳、心臓が早鐘を打ち始める。 「そ、その……手を握ってご、ごめん!」 「……ああ、そんなことか」  何を言っているのかわからないとでも言うかのような顔が、すぐに納得した ように表情を失くす。 「それだけか? ……ならば、すぐに立ち去れ」 「マ、マリンはあの時何を言おうとしたの?」  どうでもいいと言わんばかりに出て行こうとする彼女に食らいついた瞬間、 また訝しげに眉をひそめた。 「聞いてどうする?」 「いや、その、」  どうして聞いたのか、そんなことは自分でもわからなかった。  そんな俺に、なのだろうか、彼女が溜息をついて今まで出ようとしていた扉 から身体を離した。  その些細な仕草でさえ洗練されていて、目が惹き寄せられる。 「どうせ、追憶もままならず塵と消えるんだ。知ろうとも知らずとも、そなた は覚えていまい」 「それでも!」  もしかすると、何を言っているのか、何が言いたいのかわからなくても彼女 の事を知りたかったのかもしれない。  マリンが呆れたように両手を挙げた。 314 :群青が染まる 05 ◆ci6GRnf0Mo [sage] :2010/04/10(土) 12:22:59 ID:q2TxcnQp 「震えて怖がっていたとは思えない発言だな……、ならば聞こう。そなたは我 に何を期待しているのだ?」 「……え?」 「人間如きを助けるとでも? 興味を持つとでも?」  それに、答える事ができなかった。  ……いや、答えはわかっていた、こんなにも身体が震えて怖がっているのだ から、 「挙句に一緒に居たいだと? わかっているだろう? 存在そのものが違うこ とを。そんな化物と一緒にいるつもりなのか?」  だけど、だけど喉を鳴らして笑う彼女が泣きじゃくる子供のように見えたの はなぜなのだろうか。 「……気は済んだか?」  再び向けた彼女の背中は何もかもを拒絶しているようだった。 「マリン!」  もう自分の呼びかけに彼女は止まることはなかった。 「それでも、一緒にいたい! 一緒にいたいんだ!!」  だから、そんな彼女に言葉を残して、代わりに走り始めて気付いた部屋を知 らないことにも構わず走り続けた。  ……役に立とうと。 「はっ…はっ…」  今日は走ってばかりだ。足が痛いし、おまけに呼吸も苦しい。だけど足が止 まってくれないのは、想いが止まらないから。 「なんだ、」  こんなにも彼女に惹かれているじゃないか。  彼女の役に立てる、それだけで悲鳴を上げる身体はまだ走れた。  不意に、背後で響いた金属の擦り合わせる音に億劫さを感じながら振り返る、 と、目が飛び出しそうになるぐらいの衝撃が身体を駆け抜ける。  屋敷を彩る飾りだと思っていたのに、こちらに向けてうるさい音を響かせて 走ってくるのは紛れもなく台座に鎮座していた金属の鎧。  その異常な速度のせいか、足が地面につくたびに擦れて火花を生んでいた。 「……はっ?」  無機物が動くという事態に理解できるものではなかった。それも自分より早 い速度で。  何かが呼ぶ声をなぞるかのように、必死に足を動かしても、あれほど開いて あった距離が次第に縮まり始める。 「なんで!! なんでなんでなんで?!」  ハル、マリンどころの話ではなく今自分が一番の非常事態に置かれているこ とがありありとわかる。  ……だとしたら、どうしたらいい? 非力な自分はどうやれば彼女の役に立 てる? 315 :群青が染まる 05 ◆ci6GRnf0Mo [sage] :2010/04/10(土) 12:25:21 ID:q2TxcnQp 「ぐっ!!」  そんな考えに気を取られていたから気づけなかった……段差に、そして行き 止まりに。  転んだ衝撃で、地面にしこたま身体を打ちつける。  すぐに身体を起こそうとして、既に限界を超えていた筋肉を酷使していたせ いか足がもはや硬直して少しでも動かそうものなら、攣りそうな勢いだった。  そんな足を身体を引きずりながら、既に金属の擦りあう音さえしない追いつ かれだろうなと痛みもそのままに身体を起こしながら振り返って、 「……?」  気付いた、斧や剣を持った金属の鎧がひしめき合っているだけで、まるで段 差から先には見えない壁があるかのように近寄ろうとしないことに。 「どういう、ことだ……?」  何が起こっているのかわけがわからなかったが、襲われないということだけ はわかった。  やがて、痙攣の収まり始めた足を手で補助しながら無理に立たせて、先にあ るたった一つだけの扉へと吸い寄せられるように錆びた鍵を突っ込んだ。 「あれ?」  鍵は一寸すら動かず、軋む音を立てて固まったまま回ることはなかった。  ……もしかして。  依然として金属の鎧がうごめきあっているほうへは目を向けないようにして、 思いっきり扉を押した。  やはり鍵がかかってはいなかったため勢いよく開く扉、その勢いにささえら れなくなった身体と共に部屋へと倒れ込んだ。 「い、たい……」  取っ手に手をかけたままだったせいか、片手では押さえきれない身体に顔か ら地面へぶつける。  ただ、ぶつけたのは散乱して積み重なった本だったせいか、言うほど痛くは なかった。 「ここは?」  ようやく立ち上がったままに思わず問いかけるも、当然答えるものなどいな かった。  ○月×日  なぜ、出来ない……。  なぜ、一向に成功の兆しすら見せない。  何が間違っているか私には全くわからない。  すぐに目に付いたのは、机の上に置かれた触れば破けてしまいそうなほど古 びた羊皮紙が繋がれ一冊の日記のようなものになっていた。  ……この部屋の主が書いた物だろうか?  何かわかるかもしれないと探すために触れるたび、いつからあるのだろうか 机が乾いた音を立てて亀裂が入る。 316 :群青が染まる 05 ◆ci6GRnf0Mo [sage] :2010/04/10(土) 12:27:36 ID:q2TxcnQp  △月○×日  実験の一つで不思議な反応が現れた、これはもうすぐ実験は成功するのでは ないかと期待できるほどのものだ!  なんと嬉しい日なのだ!  以下、忘れないように実験の手順を示す。  ―――。  ――。  何度も何度も書き直したのか到る所に塗りつぶされた後があることが、持ち 主の嬉しさを表しているようで、読んでる自分も少し嬉しくなる。  □月○日  妻が! 息子が!!  こんな嬉しいことがこの世であるのだろうか!!!  私は実験を成功させた、また家族で過ごせる!!  ああ、神様……。    □月×○日  何かがおかしい。あの日から全てが上手くできる。  まるで、失敗という概念が消えうせたように。  ……それがおかしい。  私は夢でも見ているのだろうか?  少しずつ不穏な空気を醸し始めた日記に慌てて次の紙を捲ろうとして気付い た、その中身のほとんどが抜けている事に。  △月  放っておけばあの男は、息子は永遠とこの屋敷に人を巻き込み続けるだろう。  だから、私はこの呪われた世界に終止符を打つ。  協力してくれた妻よ、君の元に息子を連れて行けることを願っていてくれ。  もし のた  以 に   作り を  ておく。  最後に残った意図的に破かれたとしか思えない羊皮紙。  これだけでは何が起こったかもわからず、抜けている部分を探そうと机に手 を置いた時だった、 「その必要はありません……」  しゃがれた声と共に、悲痛な顔をした老人が悲しそうに微笑んでいるのを見 つけたのは。  こんな最中なのに不思議と恐怖はなく、この老人が日記の持ち主なのだろう なと漠然と考えていた。 「あなたは?」

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