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725 :群青が染まる 08 ◆ci6GRnf0Mo :2010/05/06(木) 21:10:20 ID:4zDbBWIK  ………  ……  … 「神々の試練はとても厳しいものでした」  後半刻ほどもすれば昼時のためか、少しだけ浮ついた空気と、服を絞れば汗が 滲みでるぐらいの日差しの中で、指先の汗が羊皮紙を湿らせても、一枚また一枚 と丁寧に捲っていく。 「とある森にある呪われた人食い屋敷は、人を森に捕らえ惑わせ、そしてその精 神を食べてしまうという恐ろしいものでした。精神の抜けた肉体は屋敷の使用人 としてこき使われるのです」  ゆだった身体に、風が胸を上から下に撫で下ろすように通り抜けていくのを、 心地よいと思いながら、いつまで経っても水を浴びたぐらい濡れて湿っている背 中に、カビでも生えるのではないかと考えても、そのままにしておくしか他にな かった。 「“最果ての森”と呼ばれたその森の中心に居座り、屋敷に取り憑かれた男は最 初、素知らぬ顔をして勇者を出迎えました、が、それは罠でした。なんと、勇者 の食事に毒を盛ったのです!」  口々に「ひきょうだ!」「せいせいどうどうと戦え!」と容赦のない子供達に、 なんだか自分が言われているような気持ちにさせられる。 「身体が痺れて動けなくなった勇者に、男が使用人達を次々と襲い掛らせます。 その中にはそれぞれの手に剣を、斧を槍を握り締めた全身が鉄で出来た中身を持 たない鎧達も混ざっていました」  そこで一度、海が近いせいで素肌にからみつく若干の塩分を含んだ湿気を飲み 込むように、長い文の読み疲れに水分を求めた喉を我慢させようと深く息を吸い、 二つに分けて吐いた。 「多勢に無勢、勇者はもはやこれまでというところまで追い詰められてしまいま した……」 「ねぇ、たぜいにぶぜいってなぁに?」 「しっ、今いいところなんだから静かにしろよ!」  その小さな疑問に、難しい言葉を使いすぎだよ、と内心呟きながら、答える間 もなく続きを待つ子供達のために、若干の痛みを伴い出した口をまた開く。 「追い討ちをかけるように携帯袋にいたはずの猫が、心を許しかけていた大切な 猫が、勇者を置いて一人で逃げてしまっていたのです。これに勇者は、その肉体 の痛みの比にならないぐらい心が打ちのめされてしまいました」 「もうだめか、と勇者はその立とうとしたはずの膝を折りました、しかし!」 「そんな諦めかけていた、絶体絶命の勇者には心強い味方がいたのです。なんと、 逃げたはずの小さな猫が魔法の薬を持ってきたのです! そして猫は言いました 『勇者様! この薬をある老人から授かりました!』、と」  どこかで聞いた事あるような、見たことあるような、 726 :群青が染まる 08 ◆ci6GRnf0Mo :2010/05/06(木) 21:11:22 ID:4zDbBWIK 「勇者はそれに涙を頬に走らせながら、その強い想いを胸に渾身の力を振り絞っ て、人々の魂を抜き取る悪い男に投げつけました。すると、途端に正義の心を取 り戻した男が、勇者にこう言いました『これでやっと父と母の下へ謝りに逝ける』、と」  そんな話に何度か首を捻っても、 「悪い男の両親は、男を助けるための薬を作る途中で、自らの命が絶たれても、 その魂をその想いを受け継ぐ時を待っていたのです。そして、猫が持ってきた薬 こそ、その想いの結晶だったのでした!」  一向に、漂う雲を掴めないのと同じように、ことごとくすり抜けていく。 「勇者はその全身に痣をつけ、疲れ果て、挙句の果てに息も絶えかけなのに、そ れでも尚、役割だけ押し付けられ、誰も助けてはくれなかった自分という存在の ためだけに頑張った猫を、大切に、そして強く優しくその胸に抱き、『ありがと う、これからは私が君を守ってみせる……』、と言ったのです。こうして、誰か の想いを知ることにより勇者は、また一つ強くなったのでした」  区切りの良い頃に、何度読み返してもよく作られているな、と感嘆の念を打ち ながら、この勇者が“彼女”だったのなら間違いなく、全てを破壊しきっていた ことは想像に容易かった。  だからこそ子供用に作られたであろうこの話にある種、拭いきれない違和感を 持ったところで、高らかに響き渡った鐘の音に、座ったまま仰ぐ形で手を天高く 伸ばし倒れこむのではないかというほどに背筋を反らせた。  ……実際にはほとんど反ることができなかったのだけれど。  ………  ……  …  いつもより悲しげな空間を見ないようにただ呆然と、そのどちらかといえば村 と呼べる町は、宵闇にそこ一帯だけ照らし出されていて、周囲から切り取られ浮 いていたが、 「ついてるで、丁度いい時間やないか!」  すりがねの、和太鼓の、篠笛の祭囃子の音がそれらの違和感を和らげている、 陽気さを醸し出す町を見ながら、荷台の横木にもたれかかる。  耳を通り抜けていく不自然な騒がしさも、その源を視界に収めながらも一切頭 に入ってこず、より不自然な荷車の暖かみの消え失せた空間を横目に、さらに深 くもたれかかった。  ……たったあれだけのことなのに、なぜ近づけたと思ったんだろうか。  いつからそんなに空いていたのかと考えて、ついた瞬間、いやつく前から既に その姿を闇に潜めて消えていた彼女の仕草を何度も想い返す。  そんな誰もいるはずのなく、所在無げに戸惑っている空間に手を伸ばしかけて、 不意に似たような事が前になかっただろうか、という思考が一寸過ぎった。 「トモヤはん、そんなところで呆けてないで、行くで!」  まるで思い返す自分を邪魔するかのように、肩に置かれた手に、声に、中へと 入ることができず町の入口近くに停車された馬車に、到着したことを否が応でも 認識させられる。  手を振りながら喜び急ぐハルに従って頭を不必要に振りながら降りて、 727 :群青が染まる 08 ◆ci6GRnf0Mo :2010/05/06(木) 21:12:28 ID:4zDbBWIK  やっと気付いた、祭りが行われているという事実に、 「……!」  辺り一面に垂れ下がっている灯篭に、賑やかな人の騒がしさに、そしてお腹が 空腹感を訴えてくるほど香ってくるタレを焦がす匂いに、焼けた肉の穀物の香り に反射的に気持ちが上向くと共に口内からあふれ出しそうなほどの涎にも、今何 が起こっているのかと何度か瞼を瞬かせる。 「何してるや? 置いて行くでー」  幼い頃より空想に描いた祭りに参加できるという嬉しさが瞬時に胸一杯に広が っても、それでもどこか空虚な、抑えようのない“逃げたさ”を感じたのはどう してなのだろうか。 「い、今、行くよ!」  居心地の悪さと、ほんの少しだけの罪悪感を抱えたまま、見失う事のない自分 より一回り大きく、お腹を空かせ今か今かと待ちぼうけした後の少年のように先 を歩く彼の背中を追いかけた。  ……誰かと一緒にいる嬉しさと、彼女と一緒にいれない寂しさを抱えて。  そこには、怒声のようにも聞こえるほどの掛け声がひしめきながら立ち並ぶ出 店群、それに子供達がこれもあれもと手にとっては物珍しそうに、また手に取っ ては小銭を数えたり、座り込んで動かない子供に参ったように頭を抱えた親達も、 次の瞬間には一緒に笑ってたり、この世の楽園とさえ勘違いしそうなほどの光景 があった。  それは憧れ続けていた祭りで、到底届くことのなかった故郷のあの町よりかは 規模は小さかったが、それでも確かに祭りだった。 「あかん、また負けてもうた! おっさん、もう一回や! 次こそ絶対に勝った るわ!」  だから、子供達に混ざって一緒に笑いながら遊んでいる彼を幾分か離れた位置 で眺めながら、祝福するかように通りすぎた雲のない空に見える星達の中で、小 雨が降った後みたいに、頬を拭う事もなく濡らしていた。 「ほら、トモヤはんもやろうや! 今日はとことん暴れまくったるわ!」  不意に気付けば、旧来からの知り合いのように手招きをしているハルに、思わ ず嬉しくなって駆け足で近づいていく。  だからなのだろう、前を全く見ていなかった事で、 「きゃっ!」 「っ!」  急に現れた人影に、お互いの身体が反発して腰をしたたかに容赦なく打ち付け るほどに、ぶつかり合ってしまった。 「ご、ごめ……ん……」  反射的に謝ろうとして、未だに立ち上がろうとせずに倒れたまま、零れた杖を 取ろうと土を、地面を手で何度も擦っている焦点の全く定まっていない少女に、 目が見えてないのではと、居たたまれなくなる。  同時に、側にあった杖を拾い少女に握らせ有無もなく力に任せて立ち上がらせた。 「あ、あの、ありがとうございます……」  自分も痛いのだから当然、汗を額に満遍なく湿らせた少女の痛いだろう腰を何 度もさすりながら今にも消え入りそうに感謝するその言葉に、ぶつかってしまっ た事への罪悪感が一層募っていく。 728 :群青が染まる 08 ◆ci6GRnf0Mo :2010/05/06(木) 21:13:36 ID:4zDbBWIK 「ご、ごめんね!! ま、前を、見てなく、その、と、とりあえず、ごめん!!」 「い、いえ! わ、私は大丈夫ですから、あの、丈夫な身体ですし、その……」  言葉の終わりに近づくほど聞き取れない大きさになっていく、杖を胸の前に抱 いたまま、何かを探すように見えないだろう視界を下方に落として左右に振りな がら指同士を擦り合わせている少女  ふと背筋をはって行く蛇に睨まれたかのような寒気を感じた時に丁度聞こえた、 「トモヤはん! 遅い、ん? なにをやってるんや?」  ハルの急かす声に、今にも破けそうなほどの麻の服を着た少女に見入ってしま った事にやっと気付いて、慌てて視線を逸らす。 「あ、トモヤ、さんって言うんですね!! わ、私は、「あー、贄やないか、」」 「に、え……?」  その突然の声に、思わずハルを凝視するままに出したオウム返しの声に、少女 は身体を竦ませた。 「そうやで、豊穣を祝う生贄に選ばれた孤児や」 「それは、どういう、!!」  問いただそうと声を張り上げた瞬間、少女が追い詰められた鼠のように肩は一 度大きく震えさせ、定まらなかった視線を固定させる。  見えない目を上げた顔の先には、きっと少女を追ってきたであろう人達が怒声 をあげながら走ってきていた、その手には鍬を鎌を、斧を抱えている。  それに反応してか、慌てて逃げだそうとして転んだ少女の手を無意識に、その 到底丈夫とは思えない華奢な身体を無理に、この賑わいの中で独りだけ世界から 取り残された少女を助けたくて、幼い頃の自分を助けようと手を引いた。 「あっ……」  成すがままに引っ張られるまま何も言わずついてくる彼女に悪いと思いながら、 それでも縦横無尽に、聞こえてくる罵声や悲鳴に耳もくれずに、人波を掻き分け て駆けていく。  足が地面を踏むたびに合わせて、所々痛んで跳ねている、後ろで結った少女の 髪は風にたなびいて馬の尻尾ように揺れていた。  そんな少女が転ばないように、半ば抱きしめるような形で走り続ける。 「はぁ、はぁ……ぜぇ、振り、切った……?」  どこをどう走ったのか、どこまで来たのかわからない。  一つだけわかるのは今いるのは境内だということだけ、随分奥地にあるためか 木々に囲われた社には、豊作祝と書かれ、その舌を軽快に伸ばした蛙の像がしめ 縄と共に奉じられていた。 「あれ、ハルは……?」  大分落ち着いてきた息に、見入っていたその像から視線を外し、知るわけがな いだろう少女に移しても、 「も、もう走れません……」  肩で深い呼吸を繰り返しながら、どこかで落としたのだろう、杖も持たずにた だ座り込んでいた。 「あ、あの、はぁ、ありがとう、はぁ、ござい、ます」  それに、何と答えていいのかわからなくなる。  ハルが言ったのは本当のことなのか、助けてよかったのか、聞きたいことはい くらでもあった、あったのだけれど、どうしても聞くことは躊躇われた。  ……彼女のように力を持たない自分に何が出来る? この少女をどうしたいんだ?  今更ながら少女に自己を投影していたことを恥じながら、ならばどうしたら良 かったんだ、という疑問は一向に答えがでなかった。 730 :群青が染まる 08 ◆ci6GRnf0Mo :2010/05/06(木) 21:14:45 ID:4zDbBWIK 「も、もう大丈夫です、あ、あれ、な、ない……」 「あー、たぶん失くしたの、かなぁ……」  やっと気付いたのか、杖がないことに狼狽える少女に向けた言葉が最後、お互 いに何もいえなくなってしまった。  辺りが静まるとより大きく聞こえてくる賑やかな祭囃子のその音が、擦り傷だ らけの少女の手の平が、いつもより心にささくれをもたらした。 「あの、」  何分にも満たないほどのわずかな時間だが気落ちしていた少女が、不意に口を 開いた。 「本当にありがとうございました」 「い、いや、こんな事になっちゃって……」  見えてないだろうけれど手を左右に振りながら、何度も感謝して頭を下げる少 女を放っておくことはやっぱり出来ないな、と思えてくる。 「どうして、追われていたの?」  その質問に強張った顔で少女が口を開こうとした瞬間、 「いたぞー!!」  聞こえた声に伸ばしかけた手は、未だ疲労し切って肩を上下に動かす少女を掴 んで走る事は出来ず、どうしようもなく宙ぶらりんに浮かせたまま固まった。  そんな自分達を尻目に一人また一人と、十数名ほどの人達が手にそれぞれ武器 を抱え、闇を掻き分け押し入ってくる。 「手間かけさせやがって!!」  苛立ちを露にしながら逃がさないと囲うようにばらける町人達に、成す術なく 固まったままの手を下ろした。  これが彼女なら、マリンなら……。 「す、すみません!! ご、ご迷惑をおかけしました、あ、あの! トモヤさん は何もしていないので、関係ないです! わ、私が勝手に逃げただけです! 怖 くて、そ、その……あの、怖くて!」  “誰か”を庇うようによろめきながら立ち上がろうとする少女に、何も出来な いとわかっているからこそ、胸が締め付けられる。  手を伸ばしてもいつも届かす力がなくて、何をしたらいいのか、どうすればい いのかわからなくて、だから、 「マリン! お願いだ!! 助けてくれ!!」  ……気がつけば呼んでいた。  怒っていることもわかっている、都合のいいことのはわかっている、聞こえる わけが、そして、来てくれるわけがないこともわかっていた  なのに気がつけば、今では呼ぶ事に違和感を持たないほど馴染んだ彼女の名を 木々が痺れるぐらいに大きな声で呼んでいた。  だから、まるで待ち構えてたと言わんばかりに突然に出でた、瞬間に悲鳴を漏 らし、尻餅をついてその場でもがく人々を見下ろす彼女に、 「マ、リン……」 「また大変な目に会っているようだな」  来てくれたことが嬉しくて、そんなことを知ってか知らずか薄い笑みを浮かべ る彼女に、視界が潤んでぼやけていく。 731 :群青が染まる 08 ◆ci6GRnf0Mo :2010/05/06(木) 21:15:58 ID:4zDbBWIK 「あかんでー、豊穣祭の邪魔したら」  また一つ割り込んできた声に、狙い済ましたかのように樹木にもたれながら、 彼女とは違い嫌悪さえ含んだ笑みを仮面として携えた男に、旅が始まって以来感 じていた些細な悪意のような感情を、この時ばかりは強烈に実感できた。 「その娘はこの先の湖の主への供え物や、そうせえへんと、主が怒って湖から穀 物のための水が取れなくなる。そうなると、この町はお終いや。毎年人一人の命 で、たったのそれだけで町が助かるんなら、諸手を上げる行うだろう? それに、」  木々のさらに奥を指差しながら、品定めをするような獲物を捕らえた狩人の目 をしてこちらを向いた彼が笑う。 「孤児が死んでも誰も困らんわ」 「そうだそうだ」と口を濁しながら下を向いて呟く人々はマリンの一挙一動に怯 え戸惑い、動かない足を引きずりながら離れようともがいている。 「わ、わた、し、だ、だい……じょ、う……」  そんな町人のためにならないのかもしれない、それでも、放心して全身の力が 腰が抜けて立てず、喋る事もままならない少女の力に何とかしてなりたかった。 「お、おれが……」  代わりに? そんな馬鹿な……! 「せやな、それしか解決策はあらへん」  次いで、何をわかりきったことを、とばかりにハルが頷いた。  まるで彼の書いた筋書きそのものに乗っかって進んでいるようで、静まり返っ たこの場に座り込んで、新鮮な空気を肺一杯に満たしたくなるほど、力が入らな くなる。  いらないお前が代わりになればいいんだという彼の感情が、まとわりついて離 れてくれない。 「ならばトモヤ、」  その沈黙を破ったのは、決まってマリンだった、彼女しかいなかった。 「主が対価を払うというのなら、我が、殺そうぞ」  暗がりにでも青く輝く彼女の瞳は、どこか影を孕んでいて、蛇に巻きつけられ たように思考が絡みとられていく。 「あかんでマリンはん!」  息を殺しても尚、濁り淀んだ大気、それなのに怖いとは感じられなかった。 「たい、かを、対価を払う! だから!!」  溢れ出した言の葉に、喉を鳴らして、嬉しそうに嬉しそうに、口の両端を吊り 上げ歪めた彼女は――  人々の口々に喉奥底から漏れる恐怖の声色も、弛緩するあまりにどことなく甘 い臭いを漂わせた尿を漏らしてしまった少女も、驚きに後ずさったハルも、さざ めいて木の葉を舞わす木々も、そんな空気を和らげることなく押し潰す太鼓の音 も、町を照らし続ける灯篭の明かりも、一つたりとて余すことなく異様だった。 「その願い、確と聞き入れた」  ――うつし世の別れに迎えに来た、死神のように美しかった。
725 :群青が染まる 08 ◆ci6GRnf0Mo :2010/05/06(木) 21:10:20 ID:4zDbBWIK  ………  ……  … 「神々の試練はとても厳しいものでした」  後半刻ほどもすれば昼時のためか、少しだけ浮ついた空気と、服を絞れば汗が 滲みでるぐらいの日差しの中で、指先の汗が羊皮紙を湿らせても、一枚また一枚 と丁寧に捲っていく。 「とある森にある呪われた人食い屋敷は、人を森に捕らえ惑わせ、そしてその精 神を食べてしまうという恐ろしいものでした。精神の抜けた肉体は屋敷の使用人 としてこき使われるのです」  ゆだった身体に、風が胸を上から下に撫で下ろすように通り抜けていくのを、 心地よいと思いながら、いつまで経っても水を浴びたぐらい濡れて湿っている背 中に、カビでも生えるのではないかと考えても、そのままにしておくしか他にな かった。 「“最果ての森”と呼ばれたその森の中心に居座り、屋敷に取り憑かれた男は最 初、素知らぬ顔をして勇者を出迎えました、が、それは罠でした。なんと、勇者 の食事に毒を盛ったのです!」  口々に「ひきょうだ!」「せいせいどうどうと戦え!」と容赦のない子供達に、 なんだか自分が言われているような気持ちにさせられる。 「身体が痺れて動けなくなった勇者に、男が使用人達を次々と襲い掛らせます。 その中にはそれぞれの手に剣を、斧を槍を握り締めた全身が鉄で出来た中身を持 たない鎧達も混ざっていました」  そこで一度、海が近いせいで素肌にからみつく若干の塩分を含んだ湿気を飲み 込むように、長い文の読み疲れに水分を求めた喉を我慢させようと深く息を吸い、 二つに分けて吐いた。 「多勢に無勢、勇者はもはやこれまでというところまで追い詰められてしまいま した……」 「ねぇ、たぜいにぶぜいってなぁに?」 「しっ、今いいところなんだから静かにしろよ!」  その小さな疑問に、難しい言葉を使いすぎだよ、と内心呟きながら、答える間 もなく続きを待つ子供達のために、若干の痛みを伴い出した口をまた開く。 「追い討ちをかけるように携帯袋にいたはずの猫が、心を許しかけていた大切な 猫が、勇者を置いて一人で逃げてしまっていたのです。これに勇者は、その肉体 の痛みの比にならないぐらい心が打ちのめされてしまいました」 「もうだめか、と勇者はその立とうとしたはずの膝を折りました、しかし!」 「そんな諦めかけていた、絶体絶命の勇者には心強い味方がいたのです。なんと、 逃げたはずの小さな猫が魔法の薬を持ってきたのです! そして猫は言いました 『勇者様! この薬をある老人から授かりました!』、と」  どこかで聞いた事あるような、見たことあるような、 726 :群青が染まる 08 ◆ci6GRnf0Mo :2010/05/06(木) 21:11:22 ID:4zDbBWIK 「勇者はそれに涙を頬に走らせながら、その強い想いを胸に渾身の力を振り絞っ て、人々の魂を抜き取る悪い男に投げつけました。すると、途端に正義の心を取 り戻した男が、勇者にこう言いました『これでやっと父と母の下へ謝りに逝ける』、と」  そんな話に何度か首を捻っても、 「悪い男の両親は、男を助けるための薬を作る途中で、自らの命が絶たれても、 その魂をその想いを受け継ぐ時を待っていたのです。そして、猫が持ってきた薬 こそ、その想いの結晶だったのでした!」  一向に、漂う雲を掴めないのと同じように、ことごとくすり抜けていく。 「勇者はその全身に痣をつけ、疲れ果て、挙句の果てに息も絶えかけなのに、そ れでも尚、役割だけ押し付けられ、誰も助けてはくれなかった自分という存在の ためだけに頑張った猫を、大切に、そして強く優しくその胸に抱き、『ありがと う、これからは私が君を守ってみせる……』、と言ったのです。こうして、誰か の想いを知ることにより勇者は、また一つ強くなったのでした」  区切りの良い頃に、何度読み返してもよく作られているな、と感嘆の念を打ち ながら、この勇者が“彼女”だったのなら間違いなく、全てを破壊しきっていた ことは想像に容易かった。  だからこそ子供用に作られたであろうこの話にある種、拭いきれない違和感を 持ったところで、高らかに響き渡った鐘の音に、座ったまま仰ぐ形で手を天高く 伸ばし倒れこむのではないかというほどに背筋を反らせた。  ……実際にはほとんど反ることができなかったのだけれど。  ………  ……  …  いつもより悲しげな空間を見ないようにただ呆然と、そのどちらかといえば村 と呼べる町は、宵闇にそこ一帯だけ照らし出されていて、周囲から切り取られ浮 いていたが、 「ついてるで、丁度いい時間やないか!」  すりがねの、和太鼓の、篠笛の祭囃子の音がそれらの違和感を和らげている、 陽気さを醸し出す町を見ながら、荷台の横木にもたれかかる。  耳を通り抜けていく不自然な騒がしさも、その源を視界に収めながらも一切頭 に入ってこず、より不自然な荷車の暖かみの消え失せた空間を横目に、さらに深 くもたれかかった。  ……たったあれだけのことなのに、なぜ近づけたと思ったんだろうか。  いつからそんなに空いていたのかと考えて、ついた瞬間、いやつく前から既に その姿を闇に潜めて消えていた彼女の仕草を何度も想い返す。  そんな誰もいるはずのなく、所在無げに戸惑っている空間に手を伸ばしかけて、 不意に似たような事が前になかっただろうか、という思考が一寸過ぎった。 「トモヤはん、そんなところで呆けてないで、行くで!」  まるで思い返す自分を邪魔するかのように、肩に置かれた手に、声に、中へと 入ることができず町の入口近くに停車された馬車に、到着したことを否が応でも 認識させられる。  手を振りながら喜び急ぐハルに従って頭を不必要に振りながら降りて、 727 :群青が染まる 08 ◆ci6GRnf0Mo :2010/05/06(木) 21:12:28 ID:4zDbBWIK  やっと気付いた、祭りが行われているという事実に、 「……!」  辺り一面に垂れ下がっている灯篭に、賑やかな人の騒がしさに、そしてお腹が 空腹感を訴えてくるほど香ってくるタレを焦がす匂いに、焼けた肉の穀物の香り に反射的に気持ちが上向くと共に口内からあふれ出しそうなほどの涎にも、今何 が起こっているのかと何度か瞼を瞬かせる。 「何してるや? 置いて行くでー」  幼い頃より空想に描いた祭りに参加できるという嬉しさが瞬時に胸一杯に広が っても、それでもどこか空虚な、抑えようのない“逃げたさ”を感じたのはどう してなのだろうか。 「い、今、行くよ!」  居心地の悪さと、ほんの少しだけの罪悪感を抱えたまま、見失う事のない自分 より一回り大きく、お腹を空かせ今か今かと待ちぼうけした後の少年のように先 を歩く彼の背中を追いかけた。  ……誰かと一緒にいる嬉しさと、彼女と一緒にいれない寂しさを抱えて。  そこには、怒声のようにも聞こえるほどの掛け声がひしめきながら立ち並ぶ出 店群、それに子供達がこれもあれもと手にとっては物珍しそうに、また手に取っ ては小銭を数えたり、座り込んで動かない子供に参ったように頭を抱えた親達も、 次の瞬間には一緒に笑ってたり、この世の楽園とさえ勘違いしそうなほどの光景 があった。  それは憧れ続けていた祭りで、到底届くことのなかった故郷のあの町よりかは 規模は小さかったが、それでも確かに祭りだった。 「あかん、また負けてもうた! おっさん、もう一回や! 次こそ絶対に勝った るわ!」  だから、子供達に混ざって一緒に笑いながら遊んでいる彼を幾分か離れた位置 で眺めながら、祝福するかように通りすぎた雲のない空に見える星達の中で、小 雨が降った後みたいに、頬を拭う事もなく濡らしていた。 「ほら、トモヤはんもやろうや! 今日はとことん暴れまくったるわ!」  不意に気付けば、旧来からの知り合いのように手招きをしているハルに、思わ ず嬉しくなって駆け足で近づいていく。  だからなのだろう、前を全く見ていなかった事で、 「きゃっ!」 「っ!」  急に現れた人影に、お互いの身体が反発して腰をしたたかに容赦なく打ち付け るほどに、ぶつかり合ってしまった。 「ご、ごめ……ん……」  反射的に謝ろうとして、未だに立ち上がろうとせずに倒れたまま、零れた杖を 取ろうと土を、地面を手で何度も擦っている焦点の全く定まっていない少女に、 目が見えてないのではと、居たたまれなくなる。  同時に、側にあった杖を拾い少女に握らせ有無もなく力に任せて立ち上がらせた。 「あ、あの、ありがとうございます……」  自分も痛いのだから当然、汗を額に満遍なく湿らせた少女の痛いだろう腰を何 度もさすりながら今にも消え入りそうに感謝するその言葉に、ぶつかってしまっ た事への罪悪感が一層募っていく。 728 :群青が染まる 08 ◆ci6GRnf0Mo :2010/05/06(木) 21:13:36 ID:4zDbBWIK 「ご、ごめんね!! ま、前を、見てなく、その、と、とりあえず、ごめん!!」 「い、いえ! わ、私は大丈夫ですから、あの、丈夫な身体ですし、その……」  言葉の終わりに近づくほど聞き取れない大きさになっていく、杖を胸の前に抱 いたまま、何かを探すように見えないだろう視界を下方に落として左右に振りな がら指同士を擦り合わせている少女  ふと背筋をはって行く蛇に睨まれたかのような寒気を感じた時に丁度聞こえた、 「トモヤはん! 遅い、ん? なにをやってるんや?」  ハルの急かす声に、今にも破けそうなほどの麻の服を着た少女に見入ってしま った事にやっと気付いて、慌てて視線を逸らす。 「あ、トモヤ、さんって言うんですね!! わ、私は、「あー、贄やないか、」」 「に、え……?」  その突然の声に、思わずハルを凝視するままに出したオウム返しの声に、少女 は身体を竦ませた。 「そうやで、豊穣を祝う生贄に選ばれた孤児や」 「それは、どういう、!!」  問いただそうと声を張り上げた瞬間、少女が追い詰められた鼠のように肩は一 度大きく震えさせ、定まらなかった視線を固定させる。  見えない目を上げた顔の先には、きっと少女を追ってきたであろう人達が怒声 をあげながら走ってきていた、その手には鍬を鎌を、斧を抱えている。  それに反応してか、慌てて逃げだそうとして転んだ少女の手を無意識に、その 到底丈夫とは思えない華奢な身体を無理に、この賑わいの中で独りだけ世界から 取り残された少女を助けたくて、幼い頃の自分を助けようと手を引いた。 「あっ……」  成すがままに引っ張られるまま何も言わずついてくる彼女に悪いと思いながら、 それでも縦横無尽に、聞こえてくる罵声や悲鳴に耳もくれずに、人波を掻き分け て駆けていく。  足が地面を踏むたびに合わせて、所々痛んで跳ねている、後ろで結った少女の 髪は風にたなびいて馬の尻尾ように揺れていた。  そんな少女が転ばないように、半ば抱きしめるような形で走り続ける。 「はぁ、はぁ……ぜぇ、振り、切った……?」  どこをどう走ったのか、どこまで来たのかわからない。  一つだけわかるのは今いるのは境内だということだけ、随分奥地にあるためか 木々に囲われた社には、豊作祝と書かれ、その舌を軽快に伸ばした蛙の像がしめ 縄と共に奉じられていた。 「あれ、ハルは……?」  大分落ち着いてきた息に、見入っていたその像から視線を外し、知るわけがな いだろう少女に移しても、 「も、もう走れません……」  肩で深い呼吸を繰り返しながら、どこかで落としたのだろう、杖も持たずにた だ座り込んでいた。 「あ、あの、はぁ、ありがとう、はぁ、ござい、ます」  それに、何と答えていいのかわからなくなる。  ハルが言ったのは本当のことなのか、助けてよかったのか、聞きたいことはい くらでもあった、あったのだけれど、どうしても聞くことは躊躇われた。  ……彼女のように力を持たない自分に何が出来る? この少女をどうしたいんだ?  今更ながら少女に自己を投影していたことを恥じながら、ならばどうしたら良 かったんだ、という疑問は一向に答えがでなかった。 730 :群青が染まる 08 ◆ci6GRnf0Mo :2010/05/06(木) 21:14:45 ID:4zDbBWIK 「も、もう大丈夫です、あ、あれ、な、ない……」 「あー、たぶん失くしたの、かなぁ……」  やっと気付いたのか、杖がないことに狼狽える少女に向けた言葉が最後、お互 いに何もいえなくなってしまった。  辺りが静まるとより大きく聞こえてくる賑やかな祭囃子のその音が、擦り傷だ らけの少女の手の平が、いつもより心にささくれをもたらした。 「あの、」  何分にも満たないほどのわずかな時間だが気落ちしていた少女が、不意に口を 開いた。 「本当にありがとうございました」 「い、いや、こんな事になっちゃって……」  見えてないだろうけれど手を左右に振りながら、何度も感謝して頭を下げる少 女を放っておくことはやっぱり出来ないな、と思えてくる。 「どうして、追われていたの?」  その質問に強張った顔で少女が口を開こうとした瞬間、 「いたぞー!!」  聞こえた声に伸ばしかけた手は、未だ疲労し切って肩を上下に動かす少女を掴 んで走る事は出来ず、どうしようもなく宙ぶらりんに浮かせたまま固まった。  そんな自分達を尻目に一人また一人と、十数名ほどの人達が手にそれぞれ武器 を抱え、闇を掻き分け押し入ってくる。 「手間かけさせやがって!!」  苛立ちを露にしながら逃がさないと囲うようにばらける町人達に、成す術なく 固まったままの手を下ろした。  これが彼女なら、マリンなら……。 「す、すみません!! ご、ご迷惑をおかけしました、あ、あの! トモヤさん は何もしていないので、関係ないです! わ、私が勝手に逃げただけです! 怖 くて、そ、その……あの、怖くて!」  “誰か”を庇うようによろめきながら立ち上がろうとする少女に、何も出来な いとわかっているからこそ、胸が締め付けられる。  手を伸ばしてもいつも届かす力がなくて、何をしたらいいのか、どうすればい いのかわからなくて、だから、 「マリン! お願いだ!! 助けてくれ!!」  ……気がつけば呼んでいた。  怒っていることもわかっている、都合のいいことのはわかっている、聞こえる わけが、そして、来てくれるわけがないこともわかっていた  なのに気がつけば、今では呼ぶ事に違和感を持たないほど馴染んだ彼女の名を 木々が痺れるぐらいに大きな声で呼んでいた。  だから、まるで待ち構えてたと言わんばかりに突然に出でた、瞬間に悲鳴を漏 らし、尻餅をついてその場でもがく人々を見下ろす彼女に、 「マ、リン……」 「また大変な目に会っているようだな」  来てくれたことが嬉しくて、そんなことを知ってか知らずか薄い笑みを浮かべ る彼女に、視界が潤んでぼやけていく。 731 :群青が染まる 08 ◆ci6GRnf0Mo :2010/05/06(木) 21:15:58 ID:4zDbBWIK 「あかんでー、豊穣祭の邪魔したら」  また一つ割り込んできた声に、狙い済ましたかのように樹木にもたれながら、 彼女とは違い嫌悪さえ含んだ笑みを仮面として携えた男に、旅が始まって以来感 じていた些細な悪意のような感情を、この時ばかりは強烈に実感できた。 「その娘はこの先の湖の主への供え物や、そうせえへんと、主が怒って湖から穀 物のための水が取れなくなる。そうなると、この町はお終いや。毎年人一人の命 で、たったのそれだけで町が助かるんなら、諸手を上げて行うだろう? それに、」  木々のさらに奥を指差しながら、品定めをするような獲物を捕らえた狩人の目 をしてこちらを向いた彼が笑う。 「孤児が死んでも誰も困らんわ」 「そうだそうだ」と口を濁しながら下を向いて呟く人々はマリンの一挙一動に怯 え戸惑い、動かない足を引きずりながら離れようともがいている。 「わ、わた、し、だ、だい……じょ、う……」  そんな町人のためにならないのかもしれない、それでも、放心して全身の力が 腰が抜けて立てず、喋る事もままならない少女の力に何とかしてなりたかった。 「お、おれが……」  代わりに? そんな馬鹿な……! 「せやな、それしか解決策はあらへん」  次いで、何をわかりきったことを、とばかりにハルが頷いた。  まるで彼の書いた筋書きそのものに乗っかって進んでいるようで、静まり返っ たこの場に座り込んで、新鮮な空気を肺一杯に満たしたくなるほど、力が入らな くなる。  いらないお前が代わりになればいいんだという彼の感情が、まとわりついて離 れてくれない。 「ならばトモヤ、」  その沈黙を破ったのは、決まってマリンだった、彼女しかいなかった。 「主が対価を払うというのなら、我が、殺そうぞ」  暗がりにでも青く輝く彼女の瞳は、どこか影を孕んでいて、蛇に巻きつけられ たように思考が絡みとられていく。 「あかんでマリンはん!」  息を殺しても尚、濁り淀んだ大気、それなのに怖いとは感じられなかった。 「たい、かを、対価を払う! だから!!」  溢れ出した言の葉に、喉を鳴らして、嬉しそうに嬉しそうに、口の両端を吊り 上げ歪めた彼女は――  人々の口々に喉奥底から漏れる恐怖の声色も、弛緩するあまりにどことなく甘 い臭いを漂わせた尿を漏らしてしまった少女も、驚きに後ずさったハルも、さざ めいて木の葉を舞わす木々も、そんな空気を和らげることなく押し潰す太鼓の音 も、町を照らし続ける灯篭の明かりも、一つたりとて余すことなく異様だった。 「その願い、確と聞き入れた」  ――うつし世の別れに迎えに来た、死神のように美しかった。

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