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484 :ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms [sage] :2007/11/27(火) 01:03:25 ID:nZgZ3m6t  保健室。そこにいくのは本日二回目になる。  一回目にやってきたときは怪我した指に絆創膏を貼るのが目的だった。  そして二回目たる今は、怪我はともかく病気などろくにしないくせに、今日どういうわけか廊下で 倒れていたらしい弟の様子をみるのが目的である。  弟は成績はそれほどよくはないが、その代わりに自身の持つ身体能力を活かして体育や部活動では かなりの活躍を見せている――らしい。  噂でしか聞いたことがないので、その辺りのことは詳しくは知らないのだ。  あえて知ろうとは思わないだけであって、知りたくないわけではない。  兄弟であり同居人であるため、ただでさえ俺は弟のことをいろいろ知っているのだから。    弟が高校にあがってからも妹と風呂に入っていることなど、学校にいる連中は誰一人として知らないだろう。  妹の仲を誤解されるようなことを弟が自分から口にするはずがない。俺だってもちろん口外していない。  他に知っていることとしては、弟が未だに自慰行為の意味すら知らないことがあげられる。  ちなみに、これは嘘ではない。 弟が嘘を言っているのでなければだが。  以前、話の流れで弟にさりげなく「弟。オナ……自慰をしたことがあるか?」と質問したところ、 「示威? ……兄さん、人を脅すのは良くないよ」という天然ボケを思わせる回答が返ってきたのだ。  あの時は、あえて自慰と言い直した俺の言い方が悪かったのかもしれない。  だが、『じい』と言ったら示威よりも自慰の方をすぐに思い浮かべるはずだろう。高校生であるならば。  それはまあ、高校生と言っても様々な人間がいるから自慰のことを知らない者がいてもおかしくはない。  しかし、まさか俺の弟がそうであるなどとは足の小指の爪先ほどにも思わなかった。  この他にも、弟に関して知らなくてもいいのに知っていることはたくさんある。  その代償として、家族として知っておかなければいけないことは全て把握している。  今まで弟が貧血を起こして倒れたりしたことは一度もなかった。持病があるという話も聞いたことはない。  うちの兄妹が近親相姦で生まれたと知ってから今まで、兄妹のうち誰かの体に欠陥がないかと疑ってきたから、 俺はその手のことに関してはかなり気を配っている。   今のところ、俺が平凡で、弟が身体能力が優れていて少し天然ボケが入っていて、妹が弟に対して異常なまでの ブラザーコンプレックスによる執着と独占欲を見せているぐらいで、誰の体にも変なところは見られない。  だというのに、今日弟は倒れた。  もしかしたら何かの病気が発症したのかも、と不安にはなる。  だが、今日に限ってはその不安は外れていると考えられる。  それは、保健室であの女の子に出会ったからだ。  あの子は、俺の身近にいる誰かを気絶させようと目論んでいた。  学校にいて俺と接点のある人間というと、弟と葉月さんとクラスにいる数人の友人ぐらいだ。  それ以外は教師や顔も知らない生徒たちだけだが、あまりに対象が多すぎる。知り合いには含まれない。  それを考慮に入れると、保健室で会った女子生徒の狙いは弟である可能性が高い。  もちろん、あの子に全ての嫌疑をかけるわけではない。  日々大量のラブレターや遊びの誘いのメールを受け取る(らしい)弟は、同学年の女子生徒のあこがれだろう。  弟を無力化して無理矢理モノにしようとする過激な女子がいてもおかしくない。  恋の力というのは人間の正常な判断力を奪うものだ。  俺だってそんな気分になったことがあるのだから、犯人の感情は否定しない。また責めもしない。  しかし、弟や妹や友人に手を出したのならば、俺は犯人を断固否定する。  事を無理に押し進めようとすれば周囲との軋轢が生じるものだ。  その軋みがいかなる結果を生むのか、犯人は分かっていない。  これから先の長い人生を犠牲にしてしまうような取り返しの付かないことになる前に、何としても止めなければ。 485 :ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms [sage] :2007/11/27(火) 01:04:44 ID:nZgZ3m6t  幸いにも廊下を走っている現場を教師に発見されることもなく、保健室に到着した。  保健室の入り口は、その地点だけが高い人口密集度を見せていた。  男女の比率は男ゼロで女が百。集まっているのは全員が女子生徒であった。  事情を知らない生徒であれば一体どんなアイドルが保健室に匿われているのかと疑う状況だ。  しかし俺は知っている。保健室の中にいるのは歌って踊れて演技もできるアイドルではない。  俺の弟だ。特技が『特撮ヒーローの必殺技のモノマネ』の弟である。  ここにいる女子達が弟を心配してやってきたということは言うまでもない。  ポイント稼ぎのつもりだったのだろう。  だが、これだけ集まっていたら弟のポイントは全員に行き渡る前になくなるな。 「ちょっと御免なさい。通してね」  葉月さんが女子達の中へ突っ込んでいった。  俺もそれに続こうとしたのだが、葉月さんの真似をするには難度が高すぎることに気づいた。  女子生徒の人混みに紛れ込んでいいのは同性である女子か、人気者の弟みたいな男ぐらいである。  特徴を挙げるなら地味の一言に尽きる俺がとっていい行動ではない。  先に進むことを逡巡しているうちに、葉月さんは保健室の入り口に到着していた。  しかし、どういうわけか葉月さんはドアを開こうとしない。何かあったのだろうか。  女子達は俺に背中を向けていて、俺の存在には気づいていない。  これ幸いと女子達の人混みに少しだけ接近する。  ……むう。あまりドキドキしないのは俺が葉月さんと話すことに慣れているからなのであろうか。  葉月さんと数人の女子の会話が聞こえる。 「……ちょっと。どいてくれない? 保健室に用事があるのよ」 「駄目です。いくら葉月先輩でも、いやむしろ葉月先輩だからこそ、中に入れるわけにはいきません」  葉月さんに先輩をつけて呼んでいるということは、相手は一年生のようだ。  しかし、なぜ一年の女子は保健室に通してくれないのであろうか。 「中にいる男子生徒に用があるの。倒れたって聞いたけど」 「やっぱり彼に会うのが目的なんですね。……怪我はしていないから安心して帰ってください」 「直接見なくちゃ信じられないわよ。別に変なことしないって。ただ様子を見に来ただけだから」 「それでも駄目です。他の女子生徒を中に入れることはできません」  これはおかしい。まるで面会謝絶状態ではないか。  怪我をしていないのなら、ここまで強硬につっぱねることもないだろうに。  入れられない理由でもあるのか? 「ハア……。あなたたち、やっぱりあれ?あの、噂の」  ん、噂? 「そういうことです」 「確かにあの子は顔もいいし運動もできるから、あなたたちみたいなミーハーな子が騒ぐのも無理ないけど。  だからって私が中に入れない理由にはならない。勝手な決まりを作るなら内輪だけでやって頂戴」 「できません! 会員第四条特例項目、『葉月先輩は要注意』! それに、個人的にも葉月先輩を彼に近づけたくないんです!」  今、変な単語が出たぞ。会員? 第四条特例?  何の会の、どんな決まりのことを言っているんだろう。 「……いいからそこ、どきなさいよ。力づくで通ってもいいのよ、私は」 「できるならやってみてください。すぐに先生を呼びますから」 「言うわね。一人じゃ近づくこともできない、告白する勇気もない、だからせめて誰も近づけないようにしよう、  なんて甘い考えのお嬢様集団が」  まずい。葉月さんの声が低くなり出した。おまけにセリフに毒がにじみ出している。  このままじゃ、葉月さんと対面している女子の身に危険が及ぶかもしれない。  だが、こんな離れた場所からじゃどうにもならない。止めようがない。  お願いだ、見知らぬ女子よ。これ以上葉月さんをヒートアップさせないでくれ。 486 :ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms [sage] :2007/11/27(火) 01:06:52 ID:nZgZ3m6t 「葉月先輩みたいに綺麗な人にはわかりませんよ。私は、自分に自信が持てないんですから……」 「あなたが自分に自信を持っていようがいまいが、私には関係ないでしょう」 「だって……葉月先輩が彼と付き合いだしたら、私は邪魔なんかできないじゃないですかぁ……。  絶対、葉月先輩には勝てないもん……」  涙声。泣いているのは葉月さんと向かい合っている女の子だろう。  そりゃまあ、容姿で葉月さんに勝っている女子はそうはいないから、勝てないと思い込んでも無理はない。  しかし、容姿が良くても恋愛成就するとは限らないぞ。  事実、弟は葉月さんの容姿を褒めることはあっても付き合いたいと言ったことはない。  というか、弟は誰かと付き合いたいという話を持ちかけてこない。  弟が中学時代に女子に付きまとわれ始めてから今まで、ただの一度もだ。  誰か好きな人がいるのかと問い質しても答えをはぐらかすばかりで、未だに奴の真意はつかめない。  ただ、その相手が妹でないのは確かだろう。  もし弟が妹に惚れているのならば、今以上の心労がたたって俺は色々な部分がボロボロになっているはずである。 「言っておくけど、私はあの子と付き合うつもりなんかさらさらないわよ。  だって…………他に好きな人がいるから」  葉月さんのカミングアウト。続いて女子の集団から大きなざわめきが起こる。 「ええっ! ほ、本当ですかっ?!」 「相手は? 三年の男子の小山さんですか?」 「数学教師の奥ちゃんだよ、きっと!」 「そんな……憧れの葉月姉様が……」  保健室のドアの前が多数の驚きの声と少しの悲しみの声で騒々しくなる。  女子達の放つ熱気は俺の足を勝手に後退させるのに十分な勢いを持っていた。  しかし後ずさりしたのは熱気に押されたことだけが理由ではない。  ――激しく嫌な予感がしたのだ。  葉月さんが好きな人。以前ならそれが誰であるのか、俺だって興味津々だった。  今では、葉月さんが誰を好きなのか知っている。  彼女はその相手にラブレターを書き、屋上で告白をし、相手の家に押しかけまでした。  羨ましくも葉月さんにそこまで想われている相手は―― 「そこにいる、彼よ」  葉月さんが短く、しかしはっきりとその場にいる全員に聞こえるように言った。  そう、未だになぜ好かれているのか自分の行いを省みても全く心当たりがないのだが、 どういうわけだか葉月さんが想いを寄せている相手というのは俺なのである。  葉月さんの言葉に反応した女子全員が俺の方を向いた。  振り向いた瞬間の彼女たちの目は隠しきられていない好奇心で一杯だった。  言葉にするなら、一年女子の一部に憧れの目で見られている葉月さんが好意を寄せる相手はどんな人間なのか、 ものすごく素敵な人に違いない、という感じだろう。  だからであろう。全員が俺の顔を見た瞬間に肩透かしを食らったような表情をしたのは。 「えー……っと」 「この人を? 葉月先輩が?」 「あの……とりあえず、こんにちは」  一番近くにいた女子生徒が軽く会釈してきた。頷きで返事する。  ……いや、いいんだけどね。そういう反応されてもさ。  自分の顔は毎日鏡で拝んでどんなものかよくわかっているし、クラスの女子にも似たような反応をされているし。  彼女たちは、なんで俺みたいな地味な奴が葉月さんに好かれているのかわからないのだろう。  俺だってわからない。だから彼女たちに何かを言う資格は俺には無い。  だがそこまで落胆してもらうと、さすがにこっちまで落ち込むというか、なんで同じ親から生まれた兄妹なのに ここまで扱いに差が出るのかとか、そんな微妙な気持ちになってしまうではないか。  最近葉月さんに優しくされているから錯覚していたようだ。  やはり、異性は俺に対して薄い印象しか抱かないらしい。 487 :ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms [sage] :2007/11/27(火) 01:08:01 ID:nZgZ3m6t  この空気に耐えかねてそろそろ立ち去ろうかと思ったとき、葉月さんが俺の方へ戻ってきた。  立ちすくむ俺の腕を取り、保健室の入り口の方向へと連れて行く。  ドアの前にはやはり知らない女子生徒が立ちはだかって進路を妨げていた。 「そういうわけだから、あなたたちの心配するようなことはしないわよ。  もう一人男子が一緒に行くんだから、変なことをする心配もしないで済むしょう?」 「ええ、そういうことでしたら。疑ってすみませんでした、先輩」  女の子は申し訳なさそうに頭を下げると、ドアの前からどいてくれた。 「いいのよ。なるべく危険因子は近づけたくないっていうその気持ち。よくわかってるつもりだから」 「先輩。最後にひとつだけ聞いてもいいですか?」 「何?」 「その人、何者ですか?」 「……質問の意味がよくわからないんだけど」  同意である。何者と言われても、ただのいち高校生としか答えられない。  以前は久しぶりに会った親戚に実年齢より五歳以上年上に見られたりしたが、今は制服を着ているのだから 高校生にしか見えていないはずだ。 「いろいろと疑問に思うことはあるんですけど、一番わからないのはその先輩まで保健室に入ることです」 「あ、そういう意味なの」 「葉月先輩の付き添いできたんですか? それともただ心配で来たんですか?」 「後者よ。だって彼、あの子のお兄さんだもの」 「……お兄さん?」 「そうよ。知ってるでしょ、あの子にお兄さんがいることぐらい」 「じゃあ、この人が、あの」  女子生徒はここで言葉を飲み込んだ。  あの、ってなんだろう。俺に関する噂でも流れ出しているのか?  葉月さんと一緒に登下校するようになってから変な噂が流れていないか耳を澄ませているが、 タチの悪いものはまだ耳にしていない。軽い恨み程度ならしょっちゅう聞いているが。 「そうなんだあ……お兄さんか」  人形でも見るような無機質な女の子の目に色が宿った。  俺の正体が知人の兄だということがわかって、ようやく警戒が解けたようだった。  だが、どうにもそれだけではないような気もする。  さっきまで邪魔者でも見るような目つきだったのに、今ではにこやかに微笑んでいるのだ。  視線を横に流す。他の女子も雰囲気を柔らかくしていて、排斥する気配を消していた。  変わり身が早すぎるだろう、後輩諸君。  俺が憧れの男の兄だとわかっただけでここまで手のひらを返されると、弟の人気者ぶりに少しの誇りと たくさんの嫉妬を覚えてしまうではないか。  左にいた女の子が俺の左手を握った。しかも両手で。 「あの、お兄さん。私村田って言います。いつも弟さんには仲良くしてもらってます。よろしくお願いしますね」 「……はあ」  どう答えたらいいかわからないので、こんな声しかでない。  ぼんやりしているうちに、今度は周囲から色々な声を投げかけられた。 「村ちゃんずるい! あの、私は石川です!」 「平田です! 気軽に平ちゃんって呼んでください!」 「みんな少しは落ち着きなさい。……広瀬です。私の名前だけは覚えてください」  自己紹介の嵐。続々と女の子が俺に向けて名乗りを上げる。  悪いけれど、左手を握ってきた女の子以外の名前はちっとも耳に残っていない。  俺は基本的に人の名前を覚えるのが苦手なのだ。  いや、仮に得意であったとしても十人以上の女の子の名前と顔を一致させる離れ業まではできない。  この子達も、俺に自己紹介したところで弟の好感度がアップするわけではないというのにご苦労さまなことである。 488 :ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms [sage] :2007/11/27(火) 01:09:34 ID:nZgZ3m6t  さて、今の俺は右手を葉月さんに、左手を村田という名の女子に握られたままの状態にある。  両手に華とはまさにこの様子のことをいうのだろう。  むしろ周りは女子だらけなわけだからお花畑の中にいるとでもいった方がふさわしいかもしれない。  しかし、どうにも納得のいかないこともある。  なぜ俺の右手は握られている痛みで悲鳴をあげているのであろうか。 「なによ……あんたたち……勝手に手なんか握って……しかもいきなり馴れ馴れしくなって……!  私でさえ、簡単に声をかけられなかったのに…………」  この声は葉月さんか。いつもと違って声を絞り出すようにして喋っているからすぐにわからなかった。  どうやら葉月さんは怒っているご様子。女の子達が俺に話しかけだしたのが気に入らないらしい。  もしかして、やきもちというやつか? 葉月さんは後輩の女子に嫉妬している?  それほど葉月さんに想われているなんて、俺はなんと幸せ者なんだろう。  右手に痛みどころか触覚まで感じなくなるほど今の俺は喜びに打ち震えている!  学年一の美女プラス多数の後輩女子による似非ハーレム状態を堪能していると、突然保健室のドアが開いた。 「みなさん、少し騒ぎすぎですよ」  と言いながら扉から顔を出してきたのは――我が2年D組の担任であった。  なぜ担任が保健室からでてくるのだろう。授業中以外は職員室で茶を飲みつつ文庫本を読んでいるか 図書館にて分厚い本を読んでいるかという行動パターンしかとらないはずなのに。 「中には寝ている生徒がいるんですから、心配してきたのならもっと気を配ってください」  担任の声を聞き、女子達は急に静かになった。  少しの注意であれだけ騒いでいた女子を鎮めるとは意外である。  もしかしたらうちのクラスの担任は生徒からの人望を集めているのかもしれない。 「あら? お二人ともどうしてここに?」  担任が俺と葉月さんに向けて疑問の声を向けてきた。 「実は弟が倒れたって聞いたもんで。ちょっと見に来たんですよ」 「弟? ああ、そういえば名字が同じでしたね。 ふー……む」  担任は俺の顔を見たまま右手を顎に当てた。何かを考えているようである。 「あまり似ていな――――いえ、なんでもありません」 「……今、似ていないって言おうとしませんでした?」 「弟さんは中にいます。どうぞ、中に入ってください」  この教師は、人のツッコミに対してなんと見事なスルーをするのであろうか。  流石、その年になっても独身でいられるだけある。  聞きたくない人の言葉を切り捨てる技術は並ではない。そこだけは見習いたいものだ。 「ところで先生はなんで保健室に来てるんですか?」 「私が弟さんの倒れていた現場の第一発見者だからです。廊下を歩いていたら偶然倒れている生徒を  見つけたので、他の生徒の手を借りて保健室に運び込んだんです」 「そうだったんですか。それは、どうも……ありがとうございます」 「弟さんは体調管理を怠っているのではないですか? 倒れた場所が校内、しかも廊下だったから  よかったものの、車道の近くで倒れたりしたら命に関わりますよ」 「はい、家に帰ったら言い聞かせときます……」 「まったく。……あら?」  担任の視線が斜め下、俺の右手へと向けられた。  つられて自分の右手を見る。俺の手と葉月さんの手は繋がったままだった。  それはいい。それはいいのだが――指が紫色になっているのはよろしくない。  そして、手が危険な色になっているというのに痛みを感じないのはどういうわけだ。 489 :ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms [sage] :2007/11/27(火) 01:10:34 ID:nZgZ3m6t 「あの、葉月さん?」 「また……女が増えた……」 「手を離して――いえ、お手を離していただけないでしょうか?」 「年増のくせに…………!」  これは――葉月さん、相当頭にきてらっしゃる。やきもちを妬くとかそういうレベルではない。  俺でさえ担任に向けて年増という暴言は頭の中でしか吐かないというのに、葉月さんは口に出してしまった。  ぽつりとつぶやいた感じだったが、これだけ近ければ担任にも聞こえているはずだ。  しかし、担任は相変わらずのやる気があるのかないのかわからない事務的な表情をしたままであった。 「葉月さん、そろそろ手を離してあげてはどうですか?」  葉月さんは答えない。俺の手を握りしめて俯いたままだ。 「そのまま握り続けていると、彼の右手は使い物にならなくなってしまいますよ?」  その通りだ。こんな紫色の手では塗料の瓶の蓋を開けることすら出来ない。  ぜひとも今すぐに離して欲しいところである。 「私と彼の繋がりを……断とうっていうの? そんなのは……」 「まったく……仕方がないですね」  担任はため息を吐くと、葉月さんの耳に口を寄せた。そして小さな声で呟く。 「彼の右手が使い物にならなくなったら、指で弄ってもらえなくなりますよ?」 「――――――あっ!」  突然声をあげた葉月さんから俺の右手がようやく解放された。  右手には葉月さんの手形がはっきりと残っていた。  紫に染まった手の中でそこだけは白いままで、まるで葉月さんの手形によって守られていたみたいだった。  もちろん、右手を変色させてくれたのは葉月さんなわけであるから、感謝しようとは思わない。 「ごめんね! 大丈夫だった?!」  葉月さんが俺の右手をとってマッサージをしだした。  見ている分にはしきりに手を揉み続けているようだったが、どうにも指の感覚があらわれてこない。 「ごめんなさい、ごめんなさい! つい頭に血が上っちゃって、それで……」 「いや、いいよいいよ。そんなに謝ってくれなくても。たいしたことないし、それに感覚も戻ってきたし」  マッサージが効いたのであろう。指の辺りにこそばゆい痺れがあらわれだした。  よかった。まだ俺の右手は生きている。  これからも趣味を継続していける。そんな当たり前のことがこんなに嬉しく感じられるなんて。  幸せというのは日々の生活の中に溶けこんでいるものなんだなあ。 490 :ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms [sage] :2007/11/27(火) 01:13:26 ID:nZgZ3m6t  謝り続ける葉月さんをどうにかなだめ、保健室の中へ。 「あ……兄さん」  するとそこには、どういうわけか相も変わらず柔和な表情の弟が立っていた。  廊下で倒れていたことなどまったく連想させない顔色。  安堵すると同時に、拍子抜けした。無駄な心配をした気分だ。  しかし心配したのが無駄だったとは思わないのも事実。  いつ何時、どんな場所で、俺たち兄妹は体に異常をきたすかわからないから気を配りすぎても配りすぎ、 ということはない。  とはいえ、弟の顔を見て心配させやがって、とか小言を言うと弟を心配していた兄だと葉月さんに思われかねない。  こういうむきだしな感情はなるべく人には見せたくない。俺は冷静な男というイメージを守りたいのだ。  ――待てよ。  今時家族に対する情が厚い男というのはなかなかいないのではないか?  だとすれば、意外に葉月さんの受けもとれるのでは?  よし。ここは兄として、弟を心配していたような振りをするとしよう。 「ごめん、兄さん。心配させて」 「心配させやが…………は?」 「倒れたって聞いて、心配だったから来たんでしょ? だから、ごめん」  なぜこんなときにしおらしい態度をとりやがる、弟。  そんな台詞を聞くと頬がひくつくだろうが。 「…………別に心配してたわけじゃないぞ。勘違いするな」 「そう……」  弟が表情のベクトルをほんの少しだけ残念そうな方へ向けた。  ――しまった。つい天の邪鬼な性質を表に出してしまった。  だって、それはあれだ。家族に謝られたらなんだか気恥ずかしいんだよ。だからついやってしまったんだよ。  軽くさらっと礼を言われたり、憎まれ口を叩かれている方が俺は気楽だ。  弟だって普段勉強を教わった後は深々と頭を下げたりしない。ありがと、とか言うだけだ。  だというのに今日はどうしてそんな反応をとるんだ。  なぜ弟の見舞いに来た俺が、弟からの予想外の謝罪を見舞われなければならない。  機会を逃しては普段通りに冷静で厳しい兄として振る舞うしかないではないか。  葉月さんへの好感度を上げる絶好のチャンスがふいになってしまった。  弟から目を逸らし、回れ右。保健室の出口へ体を向けて、後ろにいる弟に告げる。 「体調が良くなったんならさっさと帰るぞ。葉月さんも送って行かなきゃならないんだから」 「うん……」  やけに低い調子の弟の声。しかし俺は謝らない。  俺は少し不機嫌なのだ。帰りは遅くなるし、ポイントは取り損ねるし。  と、その時。 「ふふふ……」  背後からささやくような笑い声が聞こえてきた。  肩越しに視線を向けると葉月さんが右手を唇に当てながら微笑んでいた。 「弟君。残念がることないわよ。お兄さんはあなたが倒れたって聞いて、  すっとんきょうな声を上げるほどに驚いたんだから」  んな! 「……何を言っているんだい、葉月さん。俺がそんな声出すわけがないじゃないか」  そう。あの時声を上げたのは、――かけ声を出しただけだよ。  うん、文化祭で呼び子をしなきゃいけないから、その練習をしただけさ。  一通り頭の中でそんなことを考え、さらにごまかしついでにハハハハハ、と笑ってみる。 「そうなの? 兄さん」  返答代わりに、ハを連発させる。今度はちょっと長めに。ハハハハハ、ハッハッハッハッハ。 「イエス、だってさ。弟くん」 「兄弟の仲はよろしいようですね。  正直お兄さんの方が劣等感を――いえ、遠慮をしているのではないかと思っていましたが。  仲良きことは美しきかな。これからもご兄弟で助け合っていってくださいね」  声の調子から意外なことに葉月さんのポイントを稼げていたことがわかったとか、担任のごまかしきれていない 失言が聞こえたとか、そんなことはどうでもよかった。  ただ俺は笑った。笑い続けたらこの状況から逃れられそうな気がしたからだ。 491 :ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms [sage] :2007/11/27(火) 01:18:13 ID:nZgZ3m6t *****  俺と葉月さんと弟の三人で校門から出たときには、時刻はすでに六時近くになっていた。  最近は平均気温低下の進行に連動するように、日の暮れるペースもだいぶ早まっている。  そのため六時、つまり今頃の時間には辺りはすっかり暗くなってしまうのである。  黒の色合いを濃くした路地を俺、その左に葉月さん、そのまた左に弟という陣を組んで進む。  正面から見れば俺と弟で葉月さんの両脇を固めているように映るはずだ。  もっとも、暴漢に襲われた際、三人の内で無傷でいられる可能性が高いのは葉月さんである。  だが、もちろんそんなことは言わない。  そんなことを言うのは失礼だし、何より葉月さんだって無敵ではないのだ。万が一ということもある。  いや、万が一という言い方も失礼か。もしかしたらということもある、に訂正。  それに、葉月さんの武道家としての実力云々を別にしても、俺自身が葉月さんを家に送りたいのだ。  学内でも美人と評判の女子生徒との下校。さらにその子は自分の憧れの女の子。  本来ならこちらから頭を下げてでもお願いしたいシチュエーションだ。  幸いにして、俺の場合は葉月さんからの申し出を二つ返事するだけで引き受けることができた。  そんな経緯を経て、頼りない実力皆無の葉月さん専用ナイト(俺)が誕生したわけである。  実は、葉月さんが家に入ったのを確認してから俺の警戒レベルが数段上がるのは秘密である。  最近は学校の中でも冷ややかな視線を浴びている俺としては、暗い夜道など避けたい状況でしかない。  誰かが俺を影から狙っているかもしれない。しかもそれがクラスメイトの誰かである可能性まである。  したがって、葉月さんと別れた後の俺の下校方法は競歩ではなく、またジョギングでもない。  サブスリーを目指すマラソンランナーのようなペースでの疾走である。  走っていると、緊張感から自分の足音を追ってくるような靴の音まで聞こえてくる。  強迫観念により、俺の足はさらに加速する。自分がどんな呼吸をしているのかも意識できなくなる。  よって葉月さん宅から自宅までの距離を、俺が何分で走り抜けているのかは未だに計測していない。  しかし、路地を走る自転車をあっさり抜いている点から考えて結構な記録が出ているのではなかろうか。  足が速くなったところでプラモデル作りの腕が上がるわけではないのだから、嬉しくはないのだが。  俺が考え事をしている間に、左側にいる葉月さんと弟は親しく会話を交わしていた。 「僕、葉月先輩の家に行ったことがないんですよ。学校から遠いんですか?」 「ううん。歩いて十分ちょっとで着くよ。……ほら、見えてきた」  葉月さんの視線の先には、立派な構えの門がそびえ立っていた。  永い時の経過を感じさせてくれる漆黒としけった茶の混ざり合った木柱が四本と、それに支えられて鎮座する 瓦を被った屋根の組み合わせである。長く連なる塀が門の威容を慎ましくも壮大なものとして見せつけている。 「はー……すごいですね。先輩ってもしかしてお嬢様ですか?」 「そんな大したものじゃないよ。道場が敷地の中にあるから、おっきいだけ。  昔からある家をそのまんま残しただけだから、うちの両親も武道が出来る以外は平凡な夫婦だよ」 「そうなんですか。うちの両親は普通――――だけど、ここまで大きな家は持ってないから、ちょっとうらやましいです」 「あははっ。お兄さんと同じこと、言うんだね。実際は知り合いも多いからめんどくさいんだけど。  ほら、家が長く続いてると親戚も比例して増えていくからさ。その分お年玉はがっぽり、ね」 「お年玉、ですか……」 「二人とも、お年玉とかどれぐらいもらうの?」 「えっと……そこそこです。はい」 「そうなの?」  と、葉月さんが俺に話を振ってきた。 「そうだねぇ……。うん、やっぱりそこそこかな。月の小遣いよりも多く、だが決して無駄には使えない、って感じ」 「へー、そうなんだ」  葉月さんは納得したように二回頷いた。どうやら、ボロは出さずに済んだようだ。 492 :ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms [sage] :2007/11/27(火) 01:20:17 ID:nZgZ3m6t  両親が血の繋がったブラザーアンドシスターである我が一家でも、葉月さんの家族のように正月は迎える。  盆と正月ばかりはさすがに両親も実家に帰る。そして両親の生みの親である祖母と過ごす。  他の家庭では正月には親戚なども集まるらしい。だがうちの家族はひと味違う。  親戚がろくに来ないのだ。当然である。別々の家同士を結びつけるはずの結婚を身内同士で行ったのだから。  来てくれるのは祖父方の親族が数名のみ。しかも軽く挨拶して、祖父に線香を供えるだけで帰って行く。  その時に上手く鉢合わせできればお年玉を戴けるのだが、タイミングを逃せば無論のこと……である。  そのため、うちの兄妹はお年玉にあまり縁がない。  祖母と両親からは毎年もらえているから、絶縁状態でないだけマシかもしれないが。  さて、あまり人様の門前で立ち話するのも失礼だ。今日は帰るとしよう。 「葉月さん。また明日、学校で」 「先輩、さようなら。今日はどうもありがとうございました」 「うん、それじゃあね。二人とも気をつけて帰ってね。……バイバイ」  葉月さんに見送られ、弟と二人で自宅への帰途につく。  今日は弟がいるから走って帰る必要はない。  さすがに二人を相手にしてまで襲いかかってくるほど、敵も不用心ではあるまい。  事前に二人を相手にする準備をしていたのならともかく、俺が弟と帰るのは久しいのだから、今日のことは 予想していないはずだ。  冷たい空気の中、腕で伸びをしながら歩きつつ弟に話しかける。 「お前、今日は一体どうした?」 「ん、どうしたって、倒れたことを言ってるの?」 「ああ。お前が倒れるなんて今まで一度もなかったからな。ご飯を抜いて、そのせいで……とかじゃないんだろ?」 「朝も昼も、妹の料理をちゃんと食べたから、それはないよ」  ふと、そのせいで倒れたのではないかとか考えてしまった俺は兄貴失格なのであろうか。  長男としては末っ子の妹のことも信じてやるべきなのだろう。  だが、どうにもなあ。弟よ、わかっているんだろう? 料理しているときの妹の嬉しそうな表情の意味を。  愛しの兄に料理を作っているという理由だけでは、絵本に出てくる魔女みたいに唇の端をあげないぞ。  あれは、興奮状態とか恍惚状態って言うんだぞ。言い換えればエクスタシーだ。  まあいい。今までも弟は妹の料理を食べても倒れなかったのだから、血の繋がった魔女の仕業ではないということだろう。  ――では、一体なぜお前は倒れたんだ、弟? 「実は、僕のクラスは文化祭でコスプレ喫茶なんてものをやるんだ」 「……ほう。どんなプレイをするんだ?」 「プレイって言わないでよ。そうだね、巫女さんとかメイドさんとか、侍とか甲冑を着た騎士とか。  あ、ピーターパンなんてのもあったっけ。僕はヒーローの役をやりたいんだけどね」 「ほっほぅ。それはそれは。素晴らしい事じゃないか」 「うん。で、まだ準備が終わってなくて。放課後も残って作業なんかしてるんだけどね」  くくく、結構結構。僥倖だ。 「僕も残ろうと思ってて、HRが終わってからすぐにトイレに行ったら……後ろからチョークスリーパーをかけられて、  顔にいきなりスプレー……かな、あれは。それを吹き付けられたら眠くなって、たぶんそれで」 「なるほどなあ。ま、無事だっただけ儲けもんだな」 「うん。篤子先生には感謝してるよ」  突然知らない名前が出てきた。 「誰だ? 篤子先生って。担任の先生か?」 「……兄さんのクラスの担任でしょ。名前、覚えてないの?」 「特徴的な外見をしているからすぐにわかる。名前なんて必要ないだろう」  常に文庫本を片手に持ち歩いているセーターとジーンズも似合うけどどんな格好も似合いそうな文学オタ美人、 とでも覚えておけばいいんだ。おっと、年増と独身というフレーズも忘れてはならないか。失礼した、篤子女史。 493 :ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms [sage] :2007/11/27(火) 01:22:42 ID:nZgZ3m6t 「いいけどね、別に。ともかく、さっき説明した通りの状況で眠らされたんだよ」 「ふむ。後ろから襲われたということは顔も見ていないわけか」 「うん。小さい手だったから女の子じゃないかとは思うけど、それだけ」 「女の子、か……」  どうしても今日保健室で会った美少女の顔が浮かんでしまうな。  彼女の不審な言動。俺のことを知っているような素振り。今のところ、彼女が一番疑わしい。  というより、今のところ他にいないか。  女の子という条件で弟を狙いそうな女子というと……保健室の前に集合していた女子達が全員疑わしくなる。  今のところは犯人を特定できない。ヒントが少なすぎる。  ――ならば、こちらから探ってやろうではないか。 「弟、さっき文化祭の準備が遅れている、と言っていたな」 「うん。接客する人だけ衣装を用意すればいいんだけど、クラスの半分以上がやるつもりみたいだから。  裁縫係の女の子たちはすっごいぴりぴりしてるよ。小道具担当もね」  弟の言葉を聞き、自然と頬がつり上がる。  最高だ。この状況こそ、俺が望んだものだ! 「誰か手伝ってくれる人、いないかな。誰でもいいんだけど。兄さん、心当たりはない?」 「ここにいるだろう」 「ここに? ……って兄さんしかいないけど」 「だから、俺がいるだろう、という意味で言っている」 「え……でもさ。兄さんのクラスは?」 「ふん。純文学喫茶など灰にして塵として土に帰してやればいい。俺にはやらなければならないことがある。  そう。お前のクラスのコスプレ喫茶を成功させるため、力を貸すという大事な仕事がな」  正直に言えば俺の欲求不満を満たすのが目的なのだが。  だが、弟はそんな俺の本心など微塵も悟ってはいない。 「ありがとう! 兄さんみたいな器用な人が居れば、準備がもっと早く終わるよ!」  このように、俺の助けを得られるとわかって神の手でも得たときのようにありがたがっている。  期待に応えようではないか。俺の覚悟は今すぐに学校に引きかえすことも辞さない。  途中で通り魔に遭おうと知ったことではない。  襲いかかってくるナイフを鞄で受けて、ウエスタンラリアットの一撃でコンクリートのマットに沈めてやる。 「じゃあ、早速明日からよろしくね! 兄さん!」 「応ともよ」  文化祭まで、あと一週間もない。  だがそれは、一週間近くも時間があるということでもある。  なにせ一日は二十四時間もあるのだ。数日あれば十分だ。十分すぎる。  弟の素晴らしきクラスメイトたちよ――もう、安心していい。俺が居れば全てが上手くいく。
484 :ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms [sage] :2007/11/27(火) 01:03:25 ID:nZgZ3m6t  保健室。そこにいくのは本日二回目になる。  一回目にやってきたときは怪我した指に絆創膏を貼るのが目的だった。  そして二回目たる今は、怪我はともかく病気などろくにしないくせに、今日どういうわけか廊下で 倒れていたらしい弟の様子をみるのが目的である。  弟は成績はそれほどよくはないが、その代わりに自身の持つ身体能力を活かして体育や部活動では かなりの活躍を見せている――らしい。  噂でしか聞いたことがないので、その辺りのことは詳しくは知らないのだ。  あえて知ろうとは思わないだけであって、知りたくないわけではない。  兄弟であり同居人であるため、ただでさえ俺は弟のことをいろいろ知っているのだから。    弟が高校にあがってからも妹と風呂に入っていることなど、学校にいる連中は誰一人として知らないだろう。  妹の仲を誤解されるようなことを弟が自分から口にするはずがない。俺だってもちろん口外していない。  他に知っていることとしては、弟が未だに自慰行為の意味すら知らないことがあげられる。  ちなみに、これは嘘ではない。 弟が嘘を言っているのでなければだが。  以前、話の流れで弟にさりげなく「弟。オナ……自慰をしたことがあるか?」と質問したところ、 「示威? ……兄さん、人を脅すのは良くないよ」という天然ボケを思わせる回答が返ってきたのだ。  あの時は、あえて自慰と言い直した俺の言い方が悪かったのかもしれない。  だが、『じい』と言ったら示威よりも自慰の方をすぐに思い浮かべるはずだろう。高校生であるならば。  それはまあ、高校生と言っても様々な人間がいるから自慰のことを知らない者がいてもおかしくはない。  しかし、まさか俺の弟がそうであるなどとは足の小指の爪先ほどにも思わなかった。  この他にも、弟に関して知らなくてもいいのに知っていることはたくさんある。  その代償として、家族として知っておかなければいけないことは全て把握している。  今まで弟が貧血を起こして倒れたりしたことは一度もなかった。持病があるという話も聞いたことはない。  うちの兄妹が近親相姦で生まれたと知ってから今まで、兄妹のうち誰かの体に欠陥がないかと疑ってきたから、 俺はその手のことに関してはかなり気を配っている。   今のところ、俺が平凡で、弟が身体能力が優れていて少し天然ボケが入っていて、妹が弟に対して異常なまでの ブラザーコンプレックスによる執着と独占欲を見せているぐらいで、誰の体にも変なところは見られない。  だというのに、今日弟は倒れた。  もしかしたら何かの病気が発症したのかも、と不安にはなる。  だが、今日に限ってはその不安は外れていると考えられる。  それは、保健室であの女の子に出会ったからだ。  あの子は、俺の身近にいる誰かを気絶させようと目論んでいた。  学校にいて俺と接点のある人間というと、弟と葉月さんとクラスにいる数人の友人ぐらいだ。  それ以外は教師や顔も知らない生徒たちだけだが、あまりに対象が多すぎる。知り合いには含まれない。  それを考慮に入れると、保健室で会った女子生徒の狙いは弟である可能性が高い。  もちろん、あの子に全ての嫌疑をかけるわけではない。  日々大量のラブレターや遊びの誘いのメールを受け取る(らしい)弟は、同学年の女子生徒のあこがれだろう。  弟を無力化して無理矢理モノにしようとする過激な女子がいてもおかしくない。  恋の力というのは人間の正常な判断力を奪うものだ。  俺だってそんな気分になったことがあるのだから、犯人の感情は否定しない。また責めもしない。  しかし、弟や妹や友人に手を出したのならば、俺は犯人を断固否定する。  事を無理に押し進めようとすれば周囲との軋轢が生じるものだ。  その軋みがいかなる結果を生むのか、犯人は分かっていない。  これから先の長い人生を犠牲にしてしまうような取り返しの付かないことになる前に、何としても止めなければ。 485 :ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms [sage] :2007/11/27(火) 01:04:44 ID:nZgZ3m6t  幸いにも廊下を走っている現場を教師に発見されることもなく、保健室に到着した。  保健室の入り口は、その地点だけが高い人口密集度を見せていた。  男女の比率は男ゼロで女が百。集まっているのは全員が女子生徒であった。  事情を知らない生徒であれば一体どんなアイドルが保健室に匿われているのかと疑う状況だ。  しかし俺は知っている。保健室の中にいるのは歌って踊れて演技もできるアイドルではない。  俺の弟だ。特技が『特撮ヒーローの必殺技のモノマネ』の弟である。  ここにいる女子達が弟を心配してやってきたということは言うまでもない。  ポイント稼ぎのつもりだったのだろう。  だが、これだけ集まっていたら弟のポイントは全員に行き渡る前になくなるな。 「ちょっと御免なさい。通してね」  葉月さんが女子達の中へ突っ込んでいった。  俺もそれに続こうとしたのだが、葉月さんの真似をするには難度が高すぎることに気づいた。  女子生徒の人混みに紛れ込んでいいのは同性である女子か、人気者の弟みたいな男ぐらいである。  特徴を挙げるなら地味の一言に尽きる俺がとっていい行動ではない。  先に進むことを逡巡しているうちに、葉月さんは保健室の入り口に到着していた。  しかし、どういうわけか葉月さんはドアを開こうとしない。何かあったのだろうか。  女子達は俺に背中を向けていて、俺の存在には気づいていない。  これ幸いと女子達の人混みに少しだけ接近する。  ……むう。あまりドキドキしないのは俺が葉月さんと話すことに慣れているからなのであろうか。  葉月さんと数人の女子の会話が聞こえる。 「……ちょっと。どいてくれない? 保健室に用事があるのよ」 「駄目です。いくら葉月先輩でも、いやむしろ葉月先輩だからこそ、中に入れるわけにはいきません」  葉月さんに先輩をつけて呼んでいるということは、相手は一年生のようだ。  しかし、なぜ一年の女子は保健室に通してくれないのであろうか。 「中にいる男子生徒に用があるの。倒れたって聞いたけど」 「やっぱり彼に会うのが目的なんですね。……怪我はしていないから安心して帰ってください」 「直接見なくちゃ信じられないわよ。別に変なことしないって。ただ様子を見に来ただけだから」 「それでも駄目です。他の女子生徒を中に入れることはできません」  これはおかしい。まるで面会謝絶状態ではないか。  怪我をしていないのなら、ここまで強硬につっぱねることもないだろうに。  入れられない理由でもあるのか? 「ハア……。あなたたち、やっぱりあれ?あの、噂の」  ん、噂? 「そういうことです」 「確かにあの子は顔もいいし運動もできるから、あなたたちみたいなミーハーな子が騒ぐのも無理ないけど。  だからって私が中に入れない理由にはならない。勝手な決まりを作るなら内輪だけでやって頂戴」 「できません! 会員第四条特例項目、『葉月先輩は要注意』! それに、個人的にも葉月先輩を彼に近づけたくないんです!」  今、変な単語が出たぞ。会員? 第四条特例?  何の会の、どんな決まりのことを言っているんだろう。 「……いいからそこ、どきなさいよ。力づくで通ってもいいのよ、私は」 「できるならやってみてください。すぐに先生を呼びますから」 「言うわね。一人じゃ近づくこともできない、告白する勇気もない、だからせめて誰も近づけないようにしよう、  なんて甘い考えのお嬢様集団が」  まずい。葉月さんの声が低くなり出した。おまけにセリフに毒がにじみ出している。  このままじゃ、葉月さんと対面している女子の身に危険が及ぶかもしれない。  だが、こんな離れた場所からじゃどうにもならない。止めようがない。  お願いだ、見知らぬ女子よ。これ以上葉月さんをヒートアップさせないでくれ。 486 :ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms [sage] :2007/11/27(火) 01:06:52 ID:nZgZ3m6t 「葉月先輩みたいに綺麗な人にはわかりませんよ。私は、自分に自信が持てないんですから……」 「あなたが自分に自信を持っていようがいまいが、私には関係ないでしょう」 「だって……葉月先輩が彼と付き合いだしたら、私は邪魔なんかできないじゃないですかぁ……。  絶対、葉月先輩には勝てないもん……」  涙声。泣いているのは葉月さんと向かい合っている女の子だろう。  そりゃまあ、容姿で葉月さんに勝っている女子はそうはいないから、勝てないと思い込んでも無理はない。  しかし、容姿が良くても恋愛成就するとは限らないぞ。  事実、弟は葉月さんの容姿を褒めることはあっても付き合いたいと言ったことはない。  というか、弟は誰かと付き合いたいという話を持ちかけてこない。  弟が中学時代に女子に付きまとわれ始めてから今まで、ただの一度もだ。  誰か好きな人がいるのかと問い質しても答えをはぐらかすばかりで、未だに奴の真意はつかめない。  ただ、その相手が妹でないのは確かだろう。  もし弟が妹に惚れているのならば、今以上の心労がたたって俺は色々な部分がボロボロになっているはずである。 「言っておくけど、私はあの子と付き合うつもりなんかさらさらないわよ。  だって…………他に好きな人がいるから」  葉月さんのカミングアウト。続いて女子の集団から大きなざわめきが起こる。 「ええっ! ほ、本当ですかっ?!」 「相手は? 三年の男子の小山さんですか?」 「数学教師の奥ちゃんだよ、きっと!」 「そんな……憧れの葉月姉様が……」  保健室のドアの前が多数の驚きの声と少しの悲しみの声で騒々しくなる。  女子達の放つ熱気は俺の足を勝手に後退させるのに十分な勢いを持っていた。  しかし後ずさりしたのは熱気に押されたことだけが理由ではない。  ――激しく嫌な予感がしたのだ。  葉月さんが好きな人。以前ならそれが誰であるのか、俺だって興味津々だった。  今では、葉月さんが誰を好きなのか知っている。  彼女はその相手にラブレターを書き、屋上で告白をし、相手の家に押しかけまでした。  羨ましくも葉月さんにそこまで想われている相手は―― 「そこにいる、彼よ」  葉月さんが短く、しかしはっきりとその場にいる全員に聞こえるように言った。  そう、未だになぜ好かれているのか自分の行いを省みても全く心当たりがないのだが、 どういうわけだか葉月さんが想いを寄せている相手というのは俺なのである。  葉月さんの言葉に反応した女子全員が俺の方を向いた。  振り向いた瞬間の彼女たちの目は隠しきられていない好奇心で一杯だった。  言葉にするなら、一年女子の一部に憧れの目で見られている葉月さんが好意を寄せる相手はどんな人間なのか、 ものすごく素敵な人に違いない、という感じだろう。  だからであろう。全員が俺の顔を見た瞬間に肩透かしを食らったような表情をしたのは。 「えー……っと」 「この人を? 葉月先輩が?」 「あの……とりあえず、こんにちは」  一番近くにいた女子生徒が軽く会釈してきた。頷きで返事する。  ……いや、いいんだけどね。そういう反応されてもさ。  自分の顔は毎日鏡で拝んでどんなものかよくわかっているし、クラスの女子にも似たような反応をされているし。  彼女たちは、なんで俺みたいな地味な奴が葉月さんに好かれているのかわからないのだろう。  俺だってわからない。だから彼女たちに何かを言う資格は俺には無い。  だがそこまで落胆してもらうと、さすがにこっちまで落ち込むというか、なんで同じ親から生まれた兄妹なのに ここまで扱いに差が出るのかとか、そんな微妙な気持ちになってしまうではないか。  最近葉月さんに優しくされているから錯覚していたようだ。  やはり、異性は俺に対して薄い印象しか抱かないらしい。 487 :ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms [sage] :2007/11/27(火) 01:08:01 ID:nZgZ3m6t  この空気に耐えかねてそろそろ立ち去ろうかと思ったとき、葉月さんが俺の方へ戻ってきた。  立ちすくむ俺の腕を取り、保健室の入り口の方向へと連れて行く。  ドアの前にはやはり知らない女子生徒が立ちはだかって進路を妨げていた。 「そういうわけだから、あなたたちの心配するようなことはしないわよ。  もう一人男子が一緒に行くんだから、変なことをする心配もしないで済むしょう?」 「ええ、そういうことでしたら。疑ってすみませんでした、先輩」  女の子は申し訳なさそうに頭を下げると、ドアの前からどいてくれた。 「いいのよ。なるべく危険因子は近づけたくないっていうその気持ち。よくわかってるつもりだから」 「先輩。最後にひとつだけ聞いてもいいですか?」 「何?」 「その人、何者ですか?」 「……質問の意味がよくわからないんだけど」  同意である。何者と言われても、ただのいち高校生としか答えられない。  以前は久しぶりに会った親戚に実年齢より五歳以上年上に見られたりしたが、今は制服を着ているのだから 高校生にしか見えていないはずだ。 「いろいろと疑問に思うことはあるんですけど、一番わからないのはその先輩まで保健室に入ることです」 「あ、そういう意味なの」 「葉月先輩の付き添いできたんですか? それともただ心配で来たんですか?」 「後者よ。だって彼、あの子のお兄さんだもの」 「……お兄さん?」 「そうよ。知ってるでしょ、あの子にお兄さんがいることぐらい」 「じゃあ、この人が、あの」  女子生徒はここで言葉を飲み込んだ。  あの、ってなんだろう。俺に関する噂でも流れ出しているのか?  葉月さんと一緒に登下校するようになってから変な噂が流れていないか耳を澄ませているが、 タチの悪いものはまだ耳にしていない。軽い恨み程度ならしょっちゅう聞いているが。 「そうなんだあ……お兄さんか」  人形でも見るような無機質な女の子の目に色が宿った。  俺の正体が知人の兄だということがわかって、ようやく警戒が解けたようだった。  だが、どうにもそれだけではないような気もする。  さっきまで邪魔者でも見るような目つきだったのに、今ではにこやかに微笑んでいるのだ。  視線を横に流す。他の女子も雰囲気を柔らかくしていて、排斥する気配を消していた。  変わり身が早すぎるだろう、後輩諸君。  俺が憧れの男の兄だとわかっただけでここまで手のひらを返されると、弟の人気者ぶりに少しの誇りと たくさんの嫉妬を覚えてしまうではないか。  左にいた女の子が俺の左手を握った。しかも両手で。 「あの、お兄さん。私村田って言います。いつも弟さんには仲良くしてもらってます。よろしくお願いしますね」 「……はあ」  どう答えたらいいかわからないので、こんな声しかでない。  ぼんやりしているうちに、今度は周囲から色々な声を投げかけられた。 「村ちゃんずるい! あの、私は石川です!」 「平田です! 気軽に平ちゃんって呼んでください!」 「みんな少しは落ち着きなさい。……広瀬です。私の名前だけは覚えてください」  自己紹介の嵐。続々と女の子が俺に向けて名乗りを上げる。  悪いけれど、左手を握ってきた女の子以外の名前はちっとも耳に残っていない。  俺は基本的に人の名前を覚えるのが苦手なのだ。  いや、仮に得意であったとしても十人以上の女の子の名前と顔を一致させる離れ業まではできない。  この子達も、俺に自己紹介したところで弟の好感度がアップするわけではないというのにご苦労さまなことである。 488 :ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms [sage] :2007/11/27(火) 01:09:34 ID:nZgZ3m6t  さて、今の俺は右手を葉月さんに、左手を村田という名の女子に握られたままの状態にある。  両手に華とはまさにこの様子のことをいうのだろう。  むしろ周りは女子だらけなわけだからお花畑の中にいるとでもいった方がふさわしいかもしれない。  しかし、どうにも納得のいかないこともある。  なぜ俺の右手は握られている痛みで悲鳴をあげているのであろうか。 「なによ……あんたたち……勝手に手なんか握って……しかもいきなり馴れ馴れしくなって……!  私でさえ、簡単に声をかけられなかったのに…………」  この声は葉月さんか。いつもと違って声を絞り出すようにして喋っているからすぐにわからなかった。  どうやら葉月さんは怒っているご様子。女の子達が俺に話しかけだしたのが気に入らないらしい。  もしかして、やきもちというやつか? 葉月さんは後輩の女子に嫉妬している?  それほど葉月さんに想われているなんて、俺はなんと幸せ者なんだろう。  右手に痛みどころか触覚まで感じなくなるほど今の俺は喜びに打ち震えている!  学年一の美女プラス多数の後輩女子による似非ハーレム状態を堪能していると、突然保健室のドアが開いた。 「みなさん、少し騒ぎすぎですよ」  と言いながら扉から顔を出してきたのは――我が2年D組の担任であった。  なぜ担任が保健室からでてくるのだろう。授業中以外は職員室で茶を飲みつつ文庫本を読んでいるか 図書館にて分厚い本を読んでいるかという行動パターンしかとらないはずなのに。 「中には寝ている生徒がいるんですから、心配してきたのならもっと気を配ってください」  担任の声を聞き、女子達は急に静かになった。  少しの注意であれだけ騒いでいた女子を鎮めるとは意外である。  もしかしたらうちのクラスの担任は生徒からの人望を集めているのかもしれない。 「あら? お二人ともどうしてここに?」  担任が俺と葉月さんに向けて疑問の声を向けてきた。 「実は弟が倒れたって聞いたもんで。ちょっと見に来たんですよ」 「弟? ああ、そういえば名字が同じでしたね。 ふー……む」  担任は俺の顔を見たまま右手を顎に当てた。何かを考えているようである。 「あまり似ていな――――いえ、なんでもありません」 「……今、似ていないって言おうとしませんでした?」 「弟さんは中にいます。どうぞ、中に入ってください」  この教師は、人のツッコミに対してなんと見事なスルーをするのであろうか。  流石、その年になっても独身でいられるだけある。  聞きたくない人の言葉を切り捨てる技術は並ではない。そこだけは見習いたいものだ。 「ところで先生はなんで保健室に来てるんですか?」 「私が弟さんの倒れていた現場の第一発見者だからです。廊下を歩いていたら偶然倒れている生徒を  見つけたので、他の生徒の手を借りて保健室に運び込んだんです」 「そうだったんですか。それは、どうも……ありがとうございます」 「弟さんは体調管理を怠っているのではないですか? 倒れた場所が校内、しかも廊下だったから  よかったものの、車道の近くで倒れたりしたら命に関わりますよ」 「はい、家に帰ったら言い聞かせときます……」 「まったく。……あら?」  担任の視線が斜め下、俺の右手へと向けられた。  つられて自分の右手を見る。俺の手と葉月さんの手は繋がったままだった。  それはいい。それはいいのだが――指が紫色になっているのはよろしくない。  そして、手が危険な色になっているというのに痛みを感じないのはどういうわけだ。 489 :ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms [sage] :2007/11/27(火) 01:10:34 ID:nZgZ3m6t 「あの、葉月さん?」 「また……女が増えた……」 「手を離して――いえ、お手を離していただけないでしょうか?」 「年増のくせに…………!」  これは――葉月さん、相当頭にきてらっしゃる。やきもちを妬くとかそういうレベルではない。  俺でさえ担任に向けて年増という暴言は頭の中でしか吐かないというのに、葉月さんは口に出してしまった。  ぽつりとつぶやいた感じだったが、これだけ近ければ担任にも聞こえているはずだ。  しかし、担任は相変わらずのやる気があるのかないのかわからない事務的な表情をしたままであった。 「葉月さん、そろそろ手を離してあげてはどうですか?」  葉月さんは答えない。俺の手を握りしめて俯いたままだ。 「そのまま握り続けていると、彼の右手は使い物にならなくなってしまいますよ?」  その通りだ。こんな紫色の手では塗料の瓶の蓋を開けることすら出来ない。  ぜひとも今すぐに離して欲しいところである。 「私と彼の繋がりを……断とうっていうの? そんなのは……」 「まったく……仕方がないですね」  担任はため息を吐くと、葉月さんの耳に口を寄せた。そして小さな声で呟く。 「彼の右手が使い物にならなくなったら、指で弄ってもらえなくなりますよ?」 「――――――あっ!」  突然声をあげた葉月さんから俺の右手がようやく解放された。  右手には葉月さんの手形がはっきりと残っていた。  紫に染まった手の中でそこだけは白いままで、まるで葉月さんの手形によって守られていたみたいだった。  もちろん、右手を変色させてくれたのは葉月さんなわけであるから、感謝しようとは思わない。 「ごめんね! 大丈夫だった?!」  葉月さんが俺の右手をとってマッサージをしだした。  見ている分にはしきりに手を揉み続けているようだったが、どうにも指の感覚があらわれてこない。 「ごめんなさい、ごめんなさい! つい頭に血が上っちゃって、それで……」 「いや、いいよいいよ。そんなに謝ってくれなくても。たいしたことないし、それに感覚も戻ってきたし」  マッサージが効いたのであろう。指の辺りにこそばゆい痺れがあらわれだした。  よかった。まだ俺の右手は生きている。  これからも趣味を継続していける。そんな当たり前のことがこんなに嬉しく感じられるなんて。  幸せというのは日々の生活の中に溶けこんでいるものなんだなあ。 490 :ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms [sage] :2007/11/27(火) 01:13:26 ID:nZgZ3m6t  謝り続ける葉月さんをどうにかなだめ、保健室の中へ。 「あ……兄さん」  するとそこには、どういうわけか相も変わらず柔和な表情の弟が立っていた。  廊下で倒れていたことなどまったく連想させない顔色。  安堵すると同時に、拍子抜けした。無駄な心配をした気分だ。  しかし心配したのが無駄だったとは思わないのも事実。  いつ何時、どんな場所で、俺たち兄妹は体に異常をきたすかわからないから気を配りすぎても配りすぎ、 ということはない。  とはいえ、弟の顔を見て心配させやがって、とか小言を言うと弟を心配していた兄だと葉月さんに思われかねない。  こういうむきだしな感情はなるべく人には見せたくない。俺は冷静な男というイメージを守りたいのだ。  ――待てよ。  今時家族に対する情が厚い男というのはなかなかいないのではないか?  だとすれば、意外に葉月さんの受けもとれるのでは?  よし。ここは兄として、弟を心配していたような振りをするとしよう。 「ごめん、兄さん。心配させて」 「心配させやが…………は?」 「倒れたって聞いて、心配だったから来たんでしょ? だから、ごめん」  なぜこんなときにしおらしい態度をとりやがる、弟。  そんな台詞を聞くと頬がひくつくだろうが。 「…………別に心配してたわけじゃないぞ。勘違いするな」 「そう……」  弟が表情のベクトルをほんの少しだけ残念そうな方へ向けた。  ――しまった。つい天の邪鬼な性質を表に出してしまった。  だって、それはあれだ。家族に謝られたらなんだか気恥ずかしいんだよ。だからついやってしまったんだよ。  軽くさらっと礼を言われたり、憎まれ口を叩かれている方が俺は気楽だ。  弟だって普段勉強を教わった後は深々と頭を下げたりしない。ありがと、とか言うだけだ。  だというのに今日はどうしてそんな反応をとるんだ。  なぜ弟の見舞いに来た俺が、弟からの予想外の謝罪を見舞われなければならない。  機会を逃しては普段通りに冷静で厳しい兄として振る舞うしかないではないか。  葉月さんへの好感度を上げる絶好のチャンスがふいになってしまった。  弟から目を逸らし、回れ右。保健室の出口へ体を向けて、後ろにいる弟に告げる。 「体調が良くなったんならさっさと帰るぞ。葉月さんも送って行かなきゃならないんだから」 「うん……」  やけに低い調子の弟の声。しかし俺は謝らない。  俺は少し不機嫌なのだ。帰りは遅くなるし、ポイントは取り損ねるし。  と、その時。 「ふふふ……」  背後からささやくような笑い声が聞こえてきた。  肩越しに視線を向けると葉月さんが右手を唇に当てながら微笑んでいた。 「弟君。残念がることないわよ。お兄さんはあなたが倒れたって聞いて、  すっとんきょうな声を上げるほどに驚いたんだから」  んな! 「……何を言っているんだい、葉月さん。俺がそんな声出すわけがないじゃないか」  そう。あの時声を上げたのは、――かけ声を出しただけだよ。  うん、文化祭で呼び子をしなきゃいけないから、その練習をしただけさ。  一通り頭の中でそんなことを考え、さらにごまかしついでにハハハハハ、と笑ってみる。 「そうなの? 兄さん」  返答代わりに、ハを連発させる。今度はちょっと長めに。ハハハハハ、ハッハッハッハッハ。 「イエス、だってさ。弟くん」 「兄弟の仲はよろしいようですね。  正直お兄さんの方が劣等感を――いえ、遠慮をしているのではないかと思っていましたが。  仲良きことは美しきかな。これからもご兄弟で助け合っていってくださいね」  声の調子から意外なことに葉月さんのポイントを稼げていたことがわかったとか、担任のごまかしきれていない 失言が聞こえたとか、そんなことはどうでもよかった。  ただ俺は笑った。笑い続けたらこの状況から逃れられそうな気がしたからだ。 491 :ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms [sage] :2007/11/27(火) 01:18:13 ID:nZgZ3m6t  俺と葉月さんと弟の三人で校門から出たときには、時刻はすでに六時近くになっていた。  最近は平均気温低下の進行に連動するように、日の暮れるペースもだいぶ早まっている。  そのため六時、つまり今頃の時間には辺りはすっかり暗くなってしまうのである。  黒の色合いを濃くした路地を俺、その左に葉月さん、そのまた左に弟という陣を組んで進む。  正面から見れば俺と弟で葉月さんの両脇を固めているように映るはずだ。  もっとも、暴漢に襲われた際、三人の内で無傷でいられる可能性が高いのは葉月さんである。  だが、もちろんそんなことは言わない。  そんなことを言うのは失礼だし、何より葉月さんだって無敵ではないのだ。万が一ということもある。  いや、万が一という言い方も失礼か。もしかしたらということもある、に訂正。  それに、葉月さんの武道家としての実力云々を別にしても、俺自身が葉月さんを家に送りたいのだ。  学内でも美人と評判の女子生徒との下校。さらにその子は自分の憧れの女の子。  本来ならこちらから頭を下げてでもお願いしたいシチュエーションだ。  幸いにして、俺の場合は葉月さんからの申し出を二つ返事するだけで引き受けることができた。  そんな経緯を経て、頼りない実力皆無の葉月さん専用ナイト(俺)が誕生したわけである。  実は、葉月さんが家に入ったのを確認してから俺の警戒レベルが数段上がるのは秘密である。  最近は学校の中でも冷ややかな視線を浴びている俺としては、暗い夜道など避けたい状況でしかない。  誰かが俺を影から狙っているかもしれない。しかもそれがクラスメイトの誰かである可能性まである。  したがって、葉月さんと別れた後の俺の下校方法は競歩ではなく、またジョギングでもない。  サブスリーを目指すマラソンランナーのようなペースでの疾走である。  走っていると、緊張感から自分の足音を追ってくるような靴の音まで聞こえてくる。  強迫観念により、俺の足はさらに加速する。自分がどんな呼吸をしているのかも意識できなくなる。  よって葉月さん宅から自宅までの距離を、俺が何分で走り抜けているのかは未だに計測していない。  しかし、路地を走る自転車をあっさり抜いている点から考えて結構な記録が出ているのではなかろうか。  足が速くなったところでプラモデル作りの腕が上がるわけではないのだから、嬉しくはないのだが。  俺が考え事をしている間に、左側にいる葉月さんと弟は親しく会話を交わしていた。 「僕、葉月先輩の家に行ったことがないんですよ。学校から遠いんですか?」 「ううん。歩いて十分ちょっとで着くよ。……ほら、見えてきた」  葉月さんの視線の先には、立派な構えの門がそびえ立っていた。  永い時の経過を感じさせてくれる漆黒としけった茶の混ざり合った木柱が四本と、それに支えられて鎮座する 瓦を被った屋根の組み合わせである。長く連なる塀が門の威容を慎ましくも壮大なものとして見せつけている。 「はー……すごいですね。先輩ってもしかしてお嬢様ですか?」 「そんな大したものじゃないよ。道場が敷地の中にあるから、おっきいだけ。  昔からある家をそのまんま残しただけだから、うちの両親も武道が出来る以外は平凡な夫婦だよ」 「そうなんですか。うちの両親は普通――――だけど、ここまで大きな家は持ってないから、ちょっとうらやましいです」 「あははっ。お兄さんと同じこと、言うんだね。実際は知り合いも多いからめんどくさいんだけど。  ほら、家が長く続いてると親戚も比例して増えていくからさ。その分お年玉はがっぽり、ね」 「お年玉、ですか……」 「二人とも、お年玉とかどれぐらいもらうの?」 「えっと……そこそこです。はい」 「そうなの?」  と、葉月さんが俺に話を振ってきた。 「そうだねぇ……。うん、やっぱりそこそこかな。月の小遣いよりも多く、だが決して無駄には使えない、って感じ」 「へー、そうなんだ」  葉月さんは納得したように二回頷いた。どうやら、ボロは出さずに済んだようだ。 492 :ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms [sage] :2007/11/27(火) 01:20:17 ID:nZgZ3m6t  両親が血の繋がったブラザーアンドシスターである我が一家でも、葉月さんの家族のように正月は迎える。  盆と正月ばかりはさすがに両親も実家に帰る。そして両親の生みの親である祖母と過ごす。  他の家庭では正月には親戚なども集まるらしい。だがうちの家族はひと味違う。  親戚がろくに来ないのだ。当然である。別々の家同士を結びつけるはずの結婚を身内同士で行ったのだから。  来てくれるのは祖父方の親族が数名のみ。しかも軽く挨拶して、祖父に線香を供えるだけで帰って行く。  その時に上手く鉢合わせできればお年玉を戴けるのだが、タイミングを逃せば無論のこと……である。  そのため、うちの兄妹はお年玉にあまり縁がない。  祖母と両親からは毎年もらえているから、絶縁状態でないだけマシかもしれないが。  さて、あまり人様の門前で立ち話するのも失礼だ。今日は帰るとしよう。 「葉月さん。また明日、学校で」 「先輩、さようなら。今日はどうもありがとうございました」 「うん、それじゃあね。二人とも気をつけて帰ってね。……バイバイ」  葉月さんに見送られ、弟と二人で自宅への帰途につく。  今日は弟がいるから走って帰る必要はない。  さすがに二人を相手にしてまで襲いかかってくるほど、敵も不用心ではあるまい。  事前に二人を相手にする準備をしていたのならともかく、俺が弟と帰るのは久しいのだから、今日のことは 予想していないはずだ。  冷たい空気の中、腕で伸びをしながら歩きつつ弟に話しかける。 「お前、今日は一体どうした?」 「ん、どうしたって、倒れたことを言ってるの?」 「ああ。お前が倒れるなんて今まで一度もなかったからな。ご飯を抜いて、そのせいで……とかじゃないんだろ?」 「朝も昼も、妹の料理をちゃんと食べたから、それはないよ」  ふと、そのせいで倒れたのではないかとか考えてしまった俺は兄貴失格なのであろうか。  長男としては末っ子の妹のことも信じてやるべきなのだろう。  だが、どうにもなあ。弟よ、わかっているんだろう? 料理しているときの妹の嬉しそうな表情の意味を。  愛しの兄に料理を作っているという理由だけでは、絵本に出てくる魔女みたいに唇の端をあげないぞ。  あれは、興奮状態とか恍惚状態って言うんだぞ。言い換えればエクスタシーだ。  まあいい。今までも弟は妹の料理を食べても倒れなかったのだから、血の繋がった魔女の仕業ではないということだろう。  ――では、一体なぜお前は倒れたんだ、弟? 「実は、僕のクラスは文化祭でコスプレ喫茶なんてものをやるんだ」 「……ほう。どんなプレイをするんだ?」 「プレイって言わないでよ。そうだね、巫女さんとかメイドさんとか、侍とか甲冑を着た騎士とか。  あ、ピーターパンなんてのもあったっけ。僕はヒーローの役をやりたいんだけどね」 「ほっほぅ。それはそれは。素晴らしい事じゃないか」 「うん。で、まだ準備が終わってなくて。放課後も残って作業なんかしてるんだけどね」  くくく、結構結構。僥倖だ。 「僕も残ろうと思ってて、HRが終わってからすぐにトイレに行ったら……後ろからチョークスリーパーをかけられて、  顔にいきなりスプレー……かな、あれは。それを吹き付けられたら眠くなって、たぶんそれで」 「なるほどなあ。ま、無事だっただけ儲けもんだな」 「うん。篤子先生には感謝してるよ」  突然知らない名前が出てきた。 「誰だ? 篤子先生って。担任の先生か?」 「……兄さんのクラスの担任でしょ。名前、覚えてないの?」 「特徴的な外見をしているからすぐにわかる。名前なんて必要ないだろう」  常に文庫本を片手に持ち歩いているセーターとジーンズも似合うけどどんな格好も似合いそうな文学オタ美人、 とでも覚えておけばいいんだ。おっと、年増と独身というフレーズも忘れてはならないか。失礼した、篤子女史。 493 :ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms [sage] :2007/11/27(火) 01:22:42 ID:nZgZ3m6t 「いいけどね、別に。ともかく、さっき説明した通りの状況で眠らされたんだよ」 「ふむ。後ろから襲われたということは顔も見ていないわけか」 「うん。小さい手だったから女の子じゃないかとは思うけど、それだけ」 「女の子、か……」  どうしても今日保健室で会った美少女の顔が浮かんでしまうな。  彼女の不審な言動。俺のことを知っているような素振り。今のところ、彼女が一番疑わしい。  というより、今のところ他にいないか。  女の子という条件で弟を狙いそうな女子というと……保健室の前に集合していた女子達が全員疑わしくなる。  今のところは犯人を特定できない。ヒントが少なすぎる。  ――ならば、こちらから探ってやろうではないか。 「弟、さっき文化祭の準備が遅れている、と言っていたな」 「うん。接客する人だけ衣装を用意すればいいんだけど、クラスの半分以上がやるつもりみたいだから。  裁縫係の女の子たちはすっごいぴりぴりしてるよ。小道具担当もね」  弟の言葉を聞き、自然と頬がつり上がる。  最高だ。この状況こそ、俺が望んだものだ! 「誰か手伝ってくれる人、いないかな。誰でもいいんだけど。兄さん、心当たりはない?」 「ここにいるだろう」 「ここに? ……って兄さんしかいないけど」 「だから、俺がいるだろう、という意味で言っている」 「え……でもさ。兄さんのクラスは?」 「ふん。純文学喫茶など灰にして塵として土に帰してやればいい。俺にはやらなければならないことがある。  そう。お前のクラスのコスプレ喫茶を成功させるため、力を貸すという大事な仕事がな」  正直に言えば俺の欲求不満を満たすのが目的なのだが。  だが、弟はそんな俺の本心など微塵も悟ってはいない。 「ありがとう! 兄さんみたいな器用な人が居れば、準備がもっと早く終わるよ!」  このように、俺の助けを得られるとわかって神の手でも得たときのようにありがたがっている。  期待に応えようではないか。俺の覚悟は今すぐに学校に引きかえすことも辞さない。  途中で通り魔に遭おうと知ったことではない。  襲いかかってくるナイフを鞄で受けて、ウエスタンラリアットの一撃でコンクリートのマットに沈めてやる。 「じゃあ、早速明日からよろしくね! 兄さん!」 「応ともよ」  文化祭まで、あと一週間もない。  だがそれは、一週間近くも時間があるということでもある。  なにせ一日は二十四時間もあるのだ。数日あれば十分だ。十分すぎる。  弟の素晴らしきクラスメイトたちよ――もう、安心していい。俺が居れば全てが上手くいく。

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