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70 :私は人がわからない ◆lSx6T.AFVo :2010/06/05(土) 14:57:07 ID:GnfQ6JQS  熱い夏の日だった。  空には入道雲が浮かび、その中で輝く白い太陽はジリジリ地面を照り付けている。コンクリートの道路はまるで鉄板のように焼き上がっていた。  遠くには陽炎も出来ていて、街路樹が並ぶ街道をゆらゆらと揺らしている。  アブラゼミがミンミンと騒ぎ、それは何かを急き立てるように感じた。  そんなありふれた七月の光景。  その上を、弾丸のように駆けて行く少年が一人。  彼は溢れ出てくる汗をシャツの袖で拭い、タッタッタッと小気味好く地面を蹴りつけて、ひたすらに走っている。  呼吸は不規則で、息もままならないといった風ではあるが、その顔は決して苦しそうなのものではない。  むしろ、愉快そうに口元を歪めていて、苦楽を共にしたような奇妙な笑みを浮かべていた。  額に張り付く髪の毛が気になっているようだが、走る速度は決して下げない。  少年はただ一心不乱に、前へ前へと歩を進めて行く。  その日は土曜日だった。  土曜日の学校というものは平日とは違い、時間割も短縮されてしまい、時計の針が十二を越えることなく、さっさと下校時間となってしまう。  少年は土曜日の学校が嫌いだった。  授業は道徳や総合などの微妙なものばかりであるし、昼休みになると必ず行うドッジボールも出来ない上、楽しみの給食も出ないからだ。  彼は帰りのホームルームが終わるまで、ずっと唇を尖らして過ごしていた。  そして、放課後。  全ての時限を終え、学校も終了なるのだが、遊び盛りの少年がこのまま一日を終わらせる筈がない。  彼はクラスの男子達を集め、皆の予定がないのを確認すると、昼から遊ばないかと提案した。  男子達はそれを快諾し、各自昼食を摂った後、学校のグラウンドで野球をしようということになったのだ。 71 :私は人がわからない ◆lSx6T.AFVo :2010/06/05(土) 14:58:05 ID:GnfQ6JQS  少年は、いつもクラスの中心にいた。  彼は頭も良く、運動神経にも優れ、授業中にはいつもくだらない冗談を言ってはクラスを沸かしていた。  加えて責任感も十分にあるので、学校の行事等を行う時は率先してクラスをまとめ上げていた。  友人も多く、人望もある。そんな少年だった。  自宅が見えてくると、少年はより一層走るスピードを上げ、ただいまも言わずに玄関の扉を開けた。  勢いそのままに階段を駈け登り、バットとグローブがある自室を目指す。  しかし、疲れ知らずに稼働していた彼の足が、まるで電源が切れてしまったかのように、突然ピタリと止まってしまった。  微かに開いた隣りの部屋から、しくしくと啜り泣きが聞こえたからだ。  そこは彼の妹の部屋だった。  少年は狂ったように脈打つ心臓を静め、額に浮かぶ汗を拭うと、扉の前で耳をすませる。  自身の口から漏れ出る息がうるさかったが、部屋の中からは確かに泣き声が聞こえた。  少年はそっと扉を開けて中を覗き込む。  部屋の中に、妹は居た。  彼女は部屋の隅で膝を丸く屈めて、溢れる涙を両手で擦りながら静かに泣いている。  彼女のその姿を見て、少年は堪らず声を掛けた。 「リンちゃん」  少年の声を聞いて、妹は顔を上げる。  そして、その瞳一杯の涙を溜めこんで彼に飛び付いた。 「うわっ」  受け止める準備をしていなかった少年は体勢を崩し、二人して倒れこんでしまう。  妹は少年の胸の辺りを掴み、お兄ちゃんお兄ちゃんと連呼した。  スカートがだらしなく捲り上がり、下着が見えてしまっていたので、さり気なくそれを直してやり、その涙やら鼻水やらでくしゃくしゃになった顔を汗まみれのシャツで拭いてやった。  そしてしばらく背中を撫でていると、徐々に妹の落涙も落ち着いてきた。 「どうしたの?」  頃合いだと思って少年がそう聞くと、思い出してしまったのか、妹の目に再び涙が溜まり始める。  それから、しゃくり混じりの声で言った。 「あのね、あのね。トラが……ひっく……トラが苦しそうなの……」 「トラ?」 72 :私は人がわからない ◆lSx6T.AFVo :2010/06/05(土) 14:59:01 ID:GnfQ6JQS  トラというのは、一年程前から妹が飼い始めているジャンガリアンハムスターの名前であった。  ハムスターのくせに虎とはやけに強そうな名前をしているなと、少年は前々から思っていた。 「トラに何かあったの?」  そう聞いてみたが、妹は少年の質問には答えず、ぐいぐいと彼の腕を引っ張った。  そして、トラの住むケージの前にまで移動させられた。妹が中を見るように促したので、少年はケージの中を覗きこむ。  いつもなら元気よく滑車を回し、せまいケージ内をこれでもかと言うぐらいに駆け回っているトラであったが、そんな元気一杯の姿も今は見る影無く、ケージ内の丁度真ん中辺りでぐったりと横たわっていた。  少年は一目見て、トラの異常を察した。 「トラにエサをあげてから、ずっとこうなの」  事の継起を説明する妹の顔は、不安と動揺に震えている。  そんな彼女とは対照的に、少年は涼しげな顔でふむふむと頷いていた。  実を言えば彼自身も、目の前で起きている突然の事態に、中々に動揺していたのだが、妹の手前うろたえるわけにもいかず、精一杯の平静を試みていた。  せめて妹の前ぐらいはカッコつけたいのが、兄というものだ。  少年は、その小さな頭で考えた。  どうして、トラはこのような状態になってしまったのだろうか。  妹は、エサをやってからトラの容体がおかしくなったと言っていた。  と言うことは、やはりエサが原因でこうなってしまったのか、はたまたもっと別のことが原因なのか。  少年は色々と考えてみたが、結局わかったのは、これが自身の手に負える問題ではないということだった。  時計を見ると、時刻はもうそろそろ一時を回る頃になっていた。もう野球には間に合わないだろう。  頼りになる母は仕事に出かけていた。帰って来るのはよくて夕方、悪ければ深夜になるだろう。  頼りになるのは少年一人。ここでしっかりしなくちゃいけないのは自分なのだと、少年は自身に言い聞かせた。  とにかく、こういう時はまず病院だ。それも人間のではなく、動物の。  少年は脳内で地図を広げ、近くに動物病院があるかを探した。  目を瞑って、さらに集中する。  しかし、いくら探しても見つからない。  ただの病院ならともかく、普段特別注視する訳でもない動物病院など、例えあったとしても、少なくとも少年は覚えていなかった。 73 :私は人がわからない ◆lSx6T.AFVo :2010/06/05(土) 14:59:49 ID:GnfQ6JQS 「トラ、すごく苦しそう……早く楽にしてあげたいな」  妹が横で呟いた。  少年はそこで一度目を開け、ケージ内のトラを見つめた。  トラは相変わらずの虫の息で、その小さな鼻をひくつかせ、びくびくと痙攣していた。  少年はその姿を見て、顔をしかめた。  なんたる脆弱な姿なのだろうか。あまりに弱々しく、本当に今にでも死んでしまいそうだ。  少年はいつの間にか、トラから目が離せなくなっていた。  とり憑かれたように、ケージ内のただ一点を見据える。  その虚弱な姿態を見ていると、頭の中が妙にクリアになっていく気がした。濁り一つない水面のように、思考が透き通っていく。  そんな、やけに判然とした意識の中で、少年はトラを見つめ続けていた。  その時だった。  パチン、と指を鳴らす音が室内に響いた。それと共に、思い切り後頭部を殴られたような、そんな衝撃が、少年を襲う。  そしてその衝撃は消えることなく、彼の体を蝕んだ。  身体中の神経が薄れていくような奇妙な感覚。  眠っているような、起きているような境界の曖昧さ。  すとん、と彼の顔から表情が落ちた。 「……お兄ちゃん?」  妹が不思議そうに少年を見上げていたが、彼は全然気にする様子でない。  少年はあまりにも自然な動作で、ケージの入口を開け、既に息絶え絶えのトラを手のひらの上に乗せた。  トラの体はまだ暖かかった。これはまだしっかりと生きているのだ。  手のひらを通して伝わる、微かに光る命の灯。  それを感じながら、少年は少しずつ指に力を込めていく。  徐々に力を強めていき、最後には指が白くなる程の力で、手中の小動物を握り締める。  やがて、ポキリと枯れ枝が折れるような音が、耳に届いた。 「えっ?」  そこで、暗示がかかったように動いていた少年の顔に表情が戻る。  眠っていたような意識が、一気に現実に引き戻された。  そして、今起きた出来事を頭が受け入れ始めると、少年の顔はみるみると青ざめていった。  どうして、自分はこのような行動に至ってしまったのだろうか?  それが、少年にはわからなかった。まるで何者かに操られていたかのように、自分の意志とは全く無関係に、気がつけばトラを殺していた。  異様なまでの現実感の無さがあった。  しかし、手のひらの上に乗るソレが、今のが決して夢でないことを物語っている。 74 :私は人がわからない ◆lSx6T.AFVo :2010/06/05(土) 15:00:49 ID:GnfQ6JQS 「……お兄……ちゃん」  妹の一声で、少年は混乱から立ち直った。  彼はハッとして顔を上げる。  先程までシャツの裾を掴んでべったりとくっついていた妹が、いつの間にか遠くに居た。 「なんで……そんな……」  妹はいやいやとかぶりを振りながら、兄を見る。 「えっ……?」  少年は驚愕した。  妹の瞳が、兄を見つめるその瞳が、いつもの敬虔な光を携えていなかった。  いや、それどころか彼女の目はまるで得体の知れないモノでも見るかのような、そう、まるで、異常者でも見るかのように少年を見ていた。  彼はそんな妹を見て、知らず口を開いていた。 「だって、リンちゃんが言ったんだろ。トラを楽にしてあげたいって」  少年は続ける。 「そうだよ。だから、僕は悪くない。これっぽっちも悪くない。だって僕はリンちゃんのお願いを聞いてあげただけなんだから」  だから、だから。 「そんな目で僕を見るなよっ!」  少年は叫んだ。  顎の先から汗が一粒落ち、カーペットに滲む。  妹は一歩、一歩と後退り、部屋を出る最後に、こう言った。 「お兄ちゃん、普通じゃないよ」  母が帰宅してきた後、少年はトラについての一連の騒動を説明した。  母ならわかってくれると思った。自分が悪くないということを。自分はただ妹の願いを聞いてあげただけに過ぎないのだと。  しかし、話を進めていくうちに、母の顔が怪訝なものへと変わっていった。  そして、話を終える頃には、母の瞳にも妹と同じ光を携えていた。  母もそれから、少年を忌避するようになった。  それからというもの、少年は時々人々から奇異な視線で見られることがあった。  その視線で見られる度に、少年は自身の異常性が浮き彫りにされるような気がして、怖くなった。  自分が普通でないと、嫌でも認識させられてしまうのだ。  結局、少年は少しクラスメイト達と距離を置くことにした。  不用意に近付きすぎると、悟られてしまうと思った。  少年は、普通になりたかった。  異常者から脱却したかった。  彼はただ、また以前のような日々を過ごしたいだけなのだ。それ以上のものは何も望んでいない。  そうして急に孤独になってしまった少年は、普通になるための模索を始める。  何が普通で、何が異常かを見極めるのだ。そうすれば、いつか普通になれると信じていた。  けれど、少年は心の隅ではわかっていたのだ。  自分が一生このままであることを。 75 :私は人がわからない ◆lSx6T.AFVo :2010/06/05(土) 15:01:32 ID:GnfQ6JQS  翌朝、朝食を摂るために階段を降りていると、玄関で妹の鳥島リンと鉢合わせた。  セーラー服姿の妹は、いつものように髪を結い上げ、その眩しいうなじを惜し気もなく晒していた。  昨日のこともあるので、そのまま無視していくのも気まずいと思い、私は片手を上げて挨拶する。 「やあ、おはようリンちゃん。今から朝練?」  と、軽い質問も織り交ぜて聞いてみるが、妹はそんな私に一瞥もくれず、黙々と青のスポーツバックを背負い、ローファーを履くと「行ってきます」と言って出て行ってしまった。  今の行ってきますは、当然私に向けられたものではないだろう。  虚しく空中をさ迷っていた片手は力無く下がり、私は閉まってしまったドアを名残惜しく見つめた。  昨日の、数年振りに交わした妹との会話が蘇る。  ――兄さんみたいな人間が、誰かと付き合えるはずがないじゃない。  あの言葉には肉親に対する親愛の情など全く無くて、あったのは私に対する畏怖と軽蔑と、ほんの少しの心配だった。まあ、その心配も田中キリエに向けられたものだけど。  でも、それでもいい。  私はそう思った。  どんな形であれ、昨日久しぶりに妹と会話が出来たのは紛れも無い事実なのだ。  今までの彼女との関係を考えれば、昨日行われたささやかな会話だって、とてつもない進歩と言える。  これを契機に、彼女と仲良くなっていくことだって出来るかもしれない。何もそう全てを悲観してしまうこともないだろう。  元々、私は根っからのオプティミストなのだ。昨日のこともプラスに考えて、直ぐに切りかえるとしよう。  私はうんうんとひとり頷いた。  そんな楽観的な心持ちでリビングに入ると、今度は今まさに出かけんとする母と出くわした。 「あら、おはよう」  何かのついでのように母が挨拶する。  おはようございます、と私も挨拶を返した。 「もう、行くんですか?」 「ええ、最近はどうも忙しくてね。しばらくはこんな調子が続くと思うからよろしく」 「わかりました」 「朝ご飯は、いつもみたく適当に自分で用意しといて。後、家の戸締まりとガス栓のチェックはしっかりやっといてね。それじゃ」  わかりました、と返事をする頃には母の姿はもう無く、扉の閉まる音だけが耳に届いた。  母は私の背中の壁ばかり見ていて、最後まで目を合わせようとしなかった。 76 :私は人がわからない ◆lSx6T.AFVo :2010/06/05(土) 15:02:20 ID:GnfQ6JQS  念のため玄関の扉の鍵を閉めてから、キッチンに向かい、コーヒーをいれて椅子に座った。  テーブルの上に置かれた買い置きのパンをかじりながら、テレビの電源をつける。  テレビからは突然、陰欝なBGMが流れ始めた。  ブラウン管に映る女性アナウンサーが、沈痛な表情でニュースを伝えている。  画面の右上には“とある一家を襲った放火事件。同一犯の可能性か!?”と四角い枠で囲まれたテロップが浮かんでいた。  どうやら、最近隣り町で頻繁に起きている連続放火事件のことらしい。  普段は寡聞な私も、この連続放火だけはよく知っていた。  私は黙ってコーヒーを啜る。  女性アナウンサーが手元の資料を見ながら、事件の概要を話し始めた。  昨夜、深夜二時頃。隣り街に住むある一家に魔の手が襲った。  被害者は、何処にでも居そうな平凡な四人家族で、家族構成は両親二人に小学校に上がったばかりの兄弟が二人だった。  火元が一階のキッチン付近であったため、階下で寝ていた父親と母親は、早急に家宅の異変に気付き、幸いにも素早く避難することが出来た。  しかし、二階で寝ていた兄弟二人が気付いた時には既に遅く、二人は燃え盛る家宅の中に取り残されてしまう。  そこで、救助隊の到着を待ち切れなかった父親は、勇敢にも二人の息子を助けに再び火の中へと飛び込んで行ったのだ。  けれど、現実とはいつも非情なものである。  結果、消防隊により鎮火された家の中からは、三人の焼死体が発見された。  不謹慎な物言いではあるが、正にミイラ取りがミイラになると言ったところであろう。 「父親、か……」  私は画面に映る、父親という二文字を見つめた。  私には父親が居なかった。  いや、生物学的な観点から見ればそんなことは有り得ないので、存在することには存在するのだろう。  けれど、鳥島家にはいない。  私には父親に関する記憶は全く無いので、父は少なくとも私の物心がつく前には居なくなってしまったことになる。  私は幼い頃、よく父のことを知りたがった。が、母はあまりその事を話したがらなかった。 77 :私は人がわからない ◆lSx6T.AFVo :2010/06/05(土) 15:03:15 ID:GnfQ6JQS  ただ、ずっと昔に死んでしまったとだけ聞かされている。  しかし私は大して、父がいないことを寂しく思わなかった。  鳥島タロウにとって、自分の家に父親がいないことが普通であったからだ。  けれど、妹は少し違った。  彼女は時たま、父の不在を嘆くことがあった。 「どうして私の家にはお父さんが居ないの?」と私は幼い彼女によく聞かれたものだ。  そんな家庭状況なので、私は母によくこう言われていた。 「タロウはお兄ちゃんなんだから、しっかりとリンちゃんのことを守ってあげるのよ」  母は毎日ことあるごとにそう言い、私はそう言われる度に誇らしい気持ちになった。  任せておくれよと言って、胸を張ったものだ。  けれど、いつしか母は私にその言葉を言わなくなった。  最後に言われたのは何時だっただろうか。  そんなことを考えて、少し淋しくなった。  朝食を済まして、私は登校の支度を始めた。  洗面所で顔を洗い、歯を磨き、寝癖を直してから自室へ向かい制服に着替える。  ワイシャツのボタンを閉め、厚手のセーターを着込んでから、ハンガーにかかったブレザーに手を伸ばした。 「んっ?」  その時、小さな違和感を感じた。  うまく言えないけれど、なんだかブレザーが少しおかしい気がする。  けれども、何がおかしいのかはわからない。何とも形容し難い、まるで靴の中に小石が入っているような、そんな違和感。 「気のせいかな……」  私はしばしブレザーを睨んでいたが、そんなことを気にしていては学校に遅刻してしまうので、さっさとブレザーを着込んで準備を再開した。  そして、学生カバンに教科書やノートを詰め込むと、早足で家を出た。  そして、鍵を閉める時。  ふと、今朝の放火事件のことが頭をよぎった。  家族構成は四人で死者数は三人。  生き残ったのは、確か母親であったはずだ。  愛する夫と幼い子供に先立たれてしまい、ただ一人とり残されてしまった母親は、一体どんな心境なのだろう。  私は少し気になりながら、鍵を閉めた。 78 :私は人がわからない ◆lSx6T.AFVo :2010/06/05(土) 15:03:57 ID:GnfQ6JQS  いつも通り、ホームルーム開始五分前に学校に到着する。  私はあまり朝は強くないので、普通に登校すると大抵この時間帯に学校に着くのだ。  下駄箱で靴を履き変えてから、冷え切った廊下を抜けて、教室のドアを開けた。 「あっ、タロウ!」  そしてドアを開けるやいなや、クラスメイト達が一斉に私に駆け寄って来た。  ここ最近は、ドアを開ける度に皆に集まられている気がする。  勘違いだとはわかっているが、まるで自分が人気者になったみたいで、少し嬉しい。 「タロウ、お前昨日結局どうなったんだよ?」  クラスメイトの一人が口を開く。  質問内容は予想通り、マエダカンコに関することだった。  何時の時代でも、人間のゴシップ好きとは変わらないものだ。 「えーと……」  昨日のことをそのまま話す訳にもいかないと思い、私は適当に話をごまかすことにした。  ただ彼女が、普通の人間には手の負えない、物凄く恐ろしい怪物だということを懇切丁寧に教えてあげた。  話を聞いたクラスメイト達は震え上がり、そして無事生還した私を不思議そうに見た。  そんな質疑応答を繰り返していると、黒板側のドアを開けて担任が入って来た。気がつけば始業のチャイムも既に鳴っている。  それを契機に、クラスメイト達は散り散りに自分の席へと戻り、遅れたホームルームが始まる。  担任の点呼が始まった。  次々と生徒の名前が呼ばれていく中、私はあれ?と首を傾げる。何故か田中キリエの名前が呼ばれていない。  見れば、最前列の廊下側の席がぽっかりと空いている。あそこは確か、彼女の席だった筈だ。  今日は欠席なのだろうか?昨日はあんなに元気そうだったのに。  私は田中キリエの柔和な笑顔と、無骨な形をした金づちを思い出した。  何はともあれ、こういう時は本人に聞くのが一番であろう。  私は朝のホームルームが終わると、携帯電話を開き、彼女にメールを送ってみることにした。  昨日の内にアドレスは交換している。  私の数少ないアドレス帳の中には、きちんと田中キリエの名前が入力されていた。  メールを送るのは随分と久しぶりの事だったので、多少操作を忘れているところもあったが、なんとか無事送信することが出来た。  よし、それでは次の授業の準備を始めようと思って、私が携帯電話をポケットにしまおうとした時、手中のそれが突然震え出した。 79 :私は人がわからない ◆lSx6T.AFVo :2010/06/05(土) 15:04:57 ID:GnfQ6JQS  誰かからメールが届いたようだ。  迷惑メールかしら、と思って携帯電話を開くと、驚くべきことに届いているのは田中キリエからの返信メールであった。  早い。相当に早い。いくらなんでも早過ぎる。  私は、彼女の返信の早さに脱帽した。  まだ送ってから数分も経って居ないのに……。  到着時刻を見てみると、なんと受信時間と送信時間とが同分であった。メールの受信から返信までが一分も経っていない。  まるで一日中携帯電話を握りしめてたかのような早さだった。  もしかしたら、彼女は昨日からずっと私のメールを心待ちにしていたのだろうか?まあ、そんなことは有り得ないか。  メール内容を確認する。  どうやら田中キリエは風邪をひいてしまったらしい。  元々あまり身体が強くないので、時たまこうして休むことがあるのだということが、絵文字を交えて丁寧に語られていた。  私はメールを返す。  てっきり生理で休んだんだと思っていました、と送信すると、再び一分足らずで返事が返ってきた。  自分は生理痛で休んだのではないということが、句読点を交えて克明に語られていた。  私はとりあえず、今日はしっかりと自宅で療養して早く学校に復帰してほしいという意のメールを送り、彼女のそれに対する感謝のメールを確認してから、今度こそ携帯電話をポケットにしまった。  ふぅ、と一息ついて窓の外を眺める。  なんだか、急に暇になってしまった気がした。  私は、今日から田中キリエとの甘く切ない恋人生活が始まるのだと意気込んでいたので、どうも肩透かしをくらった感は否めない。  突然、異動命令を出されてしまったサラリーマンのような気持ちだ。  それなら、放課後はどうしよう。  ここは彼氏らしく、恋人を気遣ってお見舞いにでも行ったほうがいいのだろうか。  だけれど彼女の性格を考えれば、私が訪ねてしまっては、何よりも当の本人の気が休められない気がする。  やはり、ここは大人しく帰ることにするべきか。  私がそう思っていると、ふと学校内の隅にある部活棟が目に入った。  頭をよぎるのは、茶道室の住人。  そういえば、少し前まではそれなりの頻度で会っていたけれど、最近は忙しかったせいもあってか、彼女とも久しく会っていなかった。  そうだな。  放課後の予定が決まる。  どうせ、これから忙しくなるのだ。最後くらいに一度、斎藤ヨシヱと会っておこう。

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