「黒い陽だまり第一話」の編集履歴(バックアップ)一覧はこちら

黒い陽だまり第一話」(2010/07/21 (水) 22:55:20) の最新版変更点

追加された行は緑色になります。

削除された行は赤色になります。

353 :黒い陽だまり ◆riLyp5qrlZvj :2010/07/20(火) 01:49:38 ID:vYO+AfJ3 今でも折にふれて、僕はあの時のことを思い出す。 あの時の僕の選択は、間違っていたのだろうか。 僕に依存しきっていた彼女をそのままに受け入れ、空虚な瞳をした彼女の細い体を抱きしめてあげれば、彼女は死なずに済んだのだろうか。 何度考えても答えは出ない。 でも、僕がもう一度あの時をやり直せたとしても、僕は彼女を受け入れないし、 あのレストランに彼女を置いて外で雨に打たれることを選ぶだろうということだけは、わかっていた。 「先輩って」と彼は言った。「どういう人なんですか?」 新入社員歓迎会が終わった後の帰りのタクシー、という状況を除いたとしても、それはかなり唐突な質問と言えた。 「自分がどういう人間かを正確に把握してるやつなんて、そうそういないんじゃないかな」 「いや、そういうことじゃないっす。えっと、なんていうか、要するに周りからどう思われてるかでいいんです」 酔いの影響もあるのだろう。僕がさりげなく論点をずらそうとしても、彼は諦めずに食い下がってきた。 「社会人としての社交性は持っているし、仕事もそつなくこなすけど、喜怒哀楽の感じられない気味悪い奴、ってとこかな」 「感情が薄い、ってことですか?」 「うん、そうだね。自分でもそう思う。でも、それで別段困ってないからそのまま放っといてるよ」 彼は、狐につままれたような顔をした。どうやら彼は、自分の感情に疑問を持つなんて事とは一切無縁の世界に生きているようだ。 そういう人生もある。 それを鼻で笑いたい気持ちもあったけれど、憧れにも似た羨望を感じたこともまた、事実だった。 「で、仕事もそつなくこなせるんですか?」 彼は赤らんだ顔で聞いてきた。 随分無粋な質問だった。 こんな質問が出来るなんて、相当酔いが回っているのだろうか。 もしかしたら、酒を飲むとはそういうことだ、と大学で刷り込まれたのかもしれない。 「そつなく、というか、誰にでもできる仕事は確実にこなせるし、仕事の質や速さも真ん中よりは上だと思ってる。ただ、別段上位ってわけではないけどね」 「なるほど。後、最後にもうひとついいですか?」 「何?」 「あの、気を悪くしないでくださいよ。社会人としての社交性は、持ってるんですか?」 「僕は今、大して知りもしない酔った後輩をタクシーで送りながら、そんな質問に答えようとしている」 「確かに」と彼ははにかみながら言った。「社交性がなきゃ、そんなことやってられないっすね」 窓から外を見ると、まだ終電が残っているのだろうか、歩道を歩く中年のサラリーマンが視界に入った。 飲み会の帰りのようだ。もしかしたらそれは、飲み会という名の接待だったのかもしれない。 深夜に我が家へとたどり着いた時、果たして、彼を待っていてくれる家族はいるのだろうか。 「でも」と僕は十分に間を開けてから言った。「何でそんなこと聞いたんだ?」 「いや、あのですね。普通初対面でも、話してたら何となく感じるものってあるじゃないですか。 ああ、こいつは自信家だな、とか、こいつとはそりが合わなさそうだな、とか、こいつは優しい奴だな、とか。 先輩には、そういうのが一切なかったんです。 ほら、あれです、雲をつかむような感じです。 どういう人間なのか見当もつかなくて。どうしても気になったんです。 それで、あの、すいません。失礼な質問しちゃって」 「いや、別に気にしてないよ」 その言葉を額面通りに受け取ったのかどうかは分からなかったけど、僕がこれ以上話しかけられたがっていないことは察知できたようだ。 彼はそうっすか、と一言呟いた後は一切僕に話しかけようとしなかった。 もしかしたら彼は好奇心旺盛なだけで、僕が思っていたよりは有能な人間なのかもしれない。 それとも、質問をしたところで一向に正体のつかめない僕という存在を、ただ気味悪がっただけなのだろうか。 354 :黒い陽だまり ◆riLyp5qrlZvj :2010/07/20(火) 01:50:42 ID:vYO+AfJ3 ようやく自分の家にたどりついたころには、時計は一時を回っていた。 玄関に入ってすぐ横の棚には、プラスチック製の虫カゴが置かれていた。中には一匹のカマキリと、乱雑に置かれた草や枝が見える。 数か月ほど前に、地元の小さな昆虫ショップに売られているのを見かけて、何となく飼い始めたのがはじまりだった。 最初は近くの草むらから餌を捕まえていたけど、昆虫ショップで餌用のバッタが売られていることを知ってからは、そちらを利用することにしていた。 今では、餌用のバッタを生かしておくための虫カゴも別に用意している。 何故そんなものが必要かというと、カマキリは、生きた餌しか食べないからだ。 生きているやつをそのまま食べないと満足しないなんて悪趣味だな、なんて最初は笑っていたけど、 実物を見たこともない動物の細切れにされた死肉を好んで食べるのが、もっと悪趣味なことに気づいたのは、ずっと後になってからだった。 リビングに入ると、美香は椅子に座ったまま、机にもたれかかる形で眠っていた。 机の上には、美香の手料理が並べられている。僕の帰宅を待っている内に、こらえ切れずにうたた寝してしまったのだろう。 僕はそれを見て、美香に今日が新入社員歓迎会の日だと伝えるのを忘れていたことに気づいた。 明日の美香に対して、軽率な行動は絶対に取れない。五年間の結婚生活の中で、僕はそれを身をもって体感していた。 明日の美香を少しでもいつもの美香に近づけるため、僕は机の上にある食事を黙々と食べ始めた。 もちろん美香の手料理なんだから、美味しいことには違いない。 しかし、飲み会終りの僕の胃にとって、それは苦行以外の何物でもなかった。 何とか机の上に並んだ料理の数々との激闘を潜り抜けた僕は、ぼんやりと美香の寝顔を見つめていた。 穏やかな寝顔だ。 それは、今世界中でどんな問題が起こっていようと、数分後には全て解決すると錯覚してしまいそうになるような、純粋で安心しきった表情だった。 食事を終えてシャワーを浴び、寝間着に着がえた所で僕は一つの問題に気づいた。 僕と美香との間には、今年で4歳になる娘がいる。 名前は果林だ。 美香は今、目の前でうたた寝をしている。 では、果林はちゃんと寝かしつけられているのだろうか。 僕は急いで寝室に向かった。ドアを開ける。 暗闇の中で小さな身体が布団に横になっているのが見えて、僕は安堵の息を漏らした。 美香は果林をちゃんと寝かしつけてから僕の帰りを待っていたようだ。 考えてみれば母親として当たり前のことだし美香がそれを見落とすわけもなかった。 僕は自分の早とちりに思わず苦笑した。 とりあえず僕は寝室の毛布を手にとって、リビングまで持って行った。 それを美香の背中にそっとかける。 美香を起こして寝室まで移動させても良かったけど、美香は睡眠を邪魔されると途端に不機嫌になる。 今の状況では、それは出来る限り避けたかった。 かといって何もしないでいても後で文句を言われる。 それに、このまま放っておいたらいくら何でも美香がかわいそうだった。 だから僕は、彼女がうたた寝をした時には毎回毛布だけかけることにしている。 寝室に戻った。 電気を付けて果林を起こしてしまうのはまずいので、僕は闇の中を手さぐりで進み、自分の布団まで移動した。 そのまま横になる。新入社員歓迎会での疲労もあって、僕はすぐさま眠りに落ちた。 355 :黒い陽だまり ◆riLyp5qrlZvj :2010/07/20(火) 01:52:38 ID:vYO+AfJ3 夢だと気付いている状態で見る夢のことを、明晰夢と言う。 その中で人は空を飛んだり巨大化したり、好きなことができるらしい。 ならば、今僕が見ているこの夢は、一体何なのだろうか。 夢の中で夢と気づいている点では疑いようもなく明晰夢だったけど、僕はその中でなんの行動も起こせなかった。 自動的に体が動いている。 たとえるなら、映画を見ているようなものだ。 ただひたすら目の前を流れる過去の映像を受け取るだけ。 映画と違うのは、その当時の感覚も同時によみがえるということだろうか。 映像は、明らかに見覚えのあるものだった。この夢は今までに何度も見ている。 果林が生まれたときのものだ。 相当な難産であり、直接果林と対面できたのは、果林が五日間保育器にいれられた後のことだった。 僕は丁寧に、目をつむって寝ている生後五日の果林を抱き上げた。 果林は、本当に小さかった。 目が二つ、鼻が一つ程度の共通点で、自分と同じ人間と判断するのが馬鹿らしくなるほどだ。 しかし僕は、それとは根本的に違う部分で、不思議な違和感を感じていた。 生まれたばかりの赤ちゃんは猿みたいな顔だというのをどこかで聞いたことがあったけど、果林はもう随分と目鼻立ちがはっきりしていた。 眉尻が微かに上がっており、勝ち気で少し気の強そうな印象を与える顔。 赤ちゃんだということを考慮しても小さめで可愛らしい鼻。 化粧もしていないのに、鮮やかに赤い唇。 生まれて間もない割に量のある髪は、奇麗な栗色だ。 少し気の強そうな顔、小さめの鼻、鮮やかに赤い唇、綺麗な栗色の髪。 そのどれも、いつか、どこかで見覚えがあった。思い出す寸前まで来ているのに、ギリギリの所で引っかかっている。 無理やり思い出そうとすると、まるで頭がそれに抵抗しているような軽いめまいを感じた。 ここまではいつものことだ。しかしそこから、今まで見てきた夢とは異なる事態が起こった。 僕は、思い出したのだ。その、どこかで見たことのある顔が、一体誰のものなのかを。 僕の顔から血の気が一斉に引いていくのと同時に、腕の中の小さな果林が、その大きな眼を見開いた。 その瞳はあの見覚えのある、奇麗な、奇麗な、鳶色だった。 356 :黒い陽だまり ◆riLyp5qrlZvj :2010/07/20(火) 01:53:00 ID:vYO+AfJ3 僕は、小さく叫び声をあげて目を覚ました。 それが夢であることを改めて確認して、僕は息をつく。 安堵した僕は、左半身に感じる違和感に気がついた。 恐る恐る左を見ると、僕のYシャツを着た果林が、左腕に抱きついている。 その顔は、夢で見た果林より、さらにはっきりと、彼女に似ていた。 僕は原始的な恐怖を感じ、思わず彼女、いや、果林を振りほどこうとした。 しかし果林は、眠ったまま決して僕の腕を放さない。 幼児とは思えない、恐ろしい力だった。 大人の男とまではいかないが、成人女性と言われてもおかしくないぐらいの力だ。 僕はそこでまた、不必要な想像力を働かせてしまった。 僕が自分の想像に恐怖している中、美香が寝室に入ってきた。 僕に抱きついている果林を見ると、美香は笑いながら果林を起こした。 「ほら果林、また抱きついてたわよ」 果林は目を覚ましたもののまだ寝ぼけているようで、うにゃうにゃ言いながら小さい声で謝った。 その姿は純粋に愛らしい。 既に果林から、彼女の影は消え去っていた。 少し落ち着いた僕は、当然の疑問を感じた。 「果林は」と僕は言った。「何で、僕のYシャツを着てるんだ?」 「ああ、それはね、なかなか寝付かないんでどうしようかと思って、試しに渡してみたら気にいっちゃったみたい。ほら、果林はお父さんっ子だから」 父親の立場から言うのもなんだけど、果林は確かにお父さんっ子だった。 それも極度の。 美香がどんなに食べさせようとしても口にしなかった離乳食を、試しに僕があげようとしたら、あっさりと喜んで食べた。 今では我慢できるようになったけど、最初の頃は、僕から離れるだけですぐに泣き叫んでいたものだ。 泣きじゃくっていても、僕が抱きあげてあやすとすぐに泣きやみ、嬉しそうな声をあげてはしゃぎ出すのが常だった。 今だって、長時間僕と会えないでいるとすぐ聞かん坊になる、とは彼女談だ。 僕の前では素直な良い子でいてくれるのは嬉しいけど、このまま幼稚園にあがって大丈夫なのか、と以前は夫婦で心配していた。 実際果林は幼稚園に行くことを随分と嫌がったけど、最終的には僕の根気強い説得に渋々折れてくれた。 親バカかもしれないけど、果林は、我慢することを知っている頭の良い子だったのだ。 「さ、ご飯よ」 僕は美香にそう言われて、寝室から出ようとした。 寝室のドアを開いたところで、気がついた。果林が寝室を出るのを、僕は見ていない。 僕は、後ろを振り返った。 果林は寝室で一人、立ちつくしていた。 その姿からは愛らしさではなく、何故だろう、どこか懐かしい美しさを感じた。 そして果林は、あの綺麗な鳶色の瞳で、僕を、ただじっと見つめていた。

表示オプション

横に並べて表示:
変化行の前後のみ表示: