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ヤンデレ家族と傍観者の兄第四十四話」(2010/09/12 (日) 23:55:40) の最新版変更点

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 俺と弟は、世間から見て、人並みに仲良しな兄弟だと思う。  同じ高校に通っているし、勉強を教えているし、特に予定がなければ登下校を一緒にするし。  そんなわけで、休日にもたまに弟と一緒に行動するのだ。  年末以外で、祖母の家に帰る際に弟が一緒することが、何度かあった。  たいていそういう場合は、子供達が長期休暇に入ったことで、両親が二人きりで旅行にでかけることになり、保護者が家に居ない時だ。  はっきり言おう。祖母の家は非常に居心地がいい。  普段住んでいる家など比較にならないぐらい、穏やかな時間が過ぎていく。  祖母の家は、言ってはなんだが、田舎っぽいところにある。  誰もが思い浮かべる田園風景は無いが、コンビニエンスストアやデパートには車で遠出しないと行くことはできない、そんな場所。  そういった部分では不便極まりないのだが、その代わりに、隣人とのふれあいという、普段は味わえないものに触れることが出来る。  すれちがう人と挨拶するのは当たり前、家の前でお茶するような光景はありふれたもの。  友人に祖母の家周辺ののどかさを説明する際、もっとも理解を得られるのが、「軽トラックがどの家の前にでも駐まっているようなところ」。  決して誇張ではない。八割の家に軽トラックがあるのは事実。  祖母の話では、じゃがいもや稲作をする人が多いから、軽トラックが必要なのだ、ということだった。  俺が普段住んでいる街にも農家をやっている人は居るが、それとは比べものにならないほど農家の割合が高いのだろう。  都会レベルが二つか三つ下の町。あくまで俺の判断基準だが、おおまかに言ってそんな感じ。  そんな祖母の居る町に行くために、俺ら兄妹はバスを利用することがある。  バスが到着するまでの待ち時間、退屈を持てあました俺らは、近辺で昼食を食べられる場所を探した。  なるべく人が足を運ばず、人目につかず、ゆっくりしていられるような場所。  なかなか難しい条件だったが、俺達はそこを発見した。  きっとこの状況下で弟が向かうとしたら、そこしかない。街の人に見つからず、存分に話し合いをできる場所。 「それが、神社の裏にある空き地、というわけか」 「ああ。神社はかなり寂れてて、神主も居ない。近くに住宅がないから、大声で話しても聞かれることはない。  一応手入れはされてるみたいだけどな。それもせいぜい正月ぐらいのもんだろう、あの神社は」 「……ふうん。ナビゲーション役の君が言うなら、運転手の私はそれにしたがうことにするよ」  もしも外れたとしても責めたりしないよ、なんてことを言いながら、藍川は車を走らせる。  目印になる信号があったら曲がるよう伝え、着いたら教えるよう頼んだ。  座席のシートに背中を預け、ぼんやりと天井を見つめる。 「ねえ、ちょっと、いい?」  葉月さんが小さな声で呼びかける。  まだ彼女は藍川の目から逃れるように体を折り曲げたままだった。視線だけは俺に向けていた。  事情を知らない他人からすると、窓の外にいる誰からも見えないよう、かくれんぼをしている人に見えるかもしれない。 「あなた、弟君と、葵紋花火と木之内澄子、三人のところに行くつもりよね」 「うん」 「……あなた、どうやって弟君の抱える問題を解決するつもりなの?」 「どうやって、って。それは……」  言えない。今から良い案がないか考えようとしていた、なんて言えない。  しかし、あえてハッタリを使ってみる。  結果オーライという方向性でいくしかない。  だって、神社に到着するまであと三分も要らないぐらいのところまで来てるんだ。 「まあ、見ていてもらえばわかるよ。ここで言ったらたぶん面白みがなくなるよ」 「……まさか、何も考えてないとか、言うつもりじゃないでしょうね?  もしもそうだったら、私は力尽くで鎮圧するわよ。あの三人を」  あっさり鎮圧とかいう物騒な単語が出るあたり、葉月さんは普通の女の子とは違うなあ。 「葵紋花火に、木之内澄子。あの二人が争う動機は、弟君の取り合い。  私があの二人を力尽くで気絶させれば、この場は収まるでしょう。でもそれは根本的な解決にはなっていない。  解決するための手段は二つ。どちらかに弟君への恋を諦めてもらうか、二人とも諦めるか、それだけよ。  弟君が木之内澄子から逃げようとしたのは、争いを避けるためにはいい手段だったと思うわ。ベストではないけどね。  あなただったら、どうするの? 二人を止めるために、どんな手段を用いるつもり?」 「……なんとか、するさ」 「そう、わかった。私は今日だけはあなたに全面的に協力するから、その言葉を信じてあげる。  でも、忘れないで。これだけは。この事態を解決するためには、あなた一人だけじゃなく、弟君の力も、きっと必要になるわ。  相手が二人なら、互角よ。今日は私も居るから、三対二で押し切れるはず。  ……頑張りましょう。弟君の幸せのために」 「ありがとう」  私も忘れてもらっては困るな、という藍川の呟きは、どこか遠くから聞こえてくるようだった。  神社はやはり変わらない姿で、俺が案内した場所にあった。  取り壊されたわけでもなく、見違えるように綺麗になったわけでもなく、閑静に佇んでいた。  藍川の車から降りると、遠くから人の声が聞こえてきた。  明らかに神社の方向からだった。しかし、境内に俺が探している花火と澄子ちゃんの姿はなかった。  代わりに、鳥居の下で座り込んでいる弟を見つけた。 「弟君、どうしたの! 大丈夫!?」  葉月さんが駆け寄る。少し遅れて俺も弟のもとへ。  弟の肩を揺すると、ゆっくりと顔を上げた。 「兄さん……葉月先輩……」  一瞬だけ、認識が遅れた。それは確かに弟の姿をしていて、顔つきまで弟のままだった。  でも、そいつは完全に脱力しきっていた。  生気のない目をしているだけで全くの別人に見えたのだ。 「お前、ここで何してるんだよ! 花火は、澄子ちゃんは!」 「二人? ……ああ、どうしたんだっけ? わからないよ、兄さん」 「わからないじゃねえよ! さっきまで一緒だっただろうが!」 「……あのさ、兄さん」  弟は虚ろな目のまま喋りだした。  喉を使わないで、舌と唇だけで喋っているような、微かな声で。 「僕は、兄さんじゃないんだよ。だからなんでもは知らないんだ」 「何を、当たり前のことを」 「どうしたらいいのか、僕にはわからない。  兄さんだったらどうするのか、こんなときどうするのか、ずっと考えたけど、駄目だ。  僕にはわからない。兄さんの考えなんか――ちっとも想像できない」 「……俺は俺だ。お前はお前。だから、お前のやりたいようにしろよ。  そうするって言っただろ。喧嘩を売ってきた時の威勢はどうした」 「もういいんだ。僕には――花火を幸せにすることなんかできない。  彼女を幸せに出来るのは、兄さんだけだ」  こいつがここまで落ち込んでいる姿を見るのは、初めてだ。  絶えず笑っているような男で、怒ったり、悲しんだりと言った強い感情を見せない。  こいつがそんな奴だったからこそ――ここまで情けない奴だと思わなくて、腹が立った。 「お前は花火が好きだって言っただろうが。そのために自分の出来ることはなんでもやるって、言ったよな? 言っただろ!  簡単に、あいつのことを諦めるな。花火がどれだけお前を好きなのか、お前はわかってるのか」 「知ってる。でも、僕には花火を受け止める資格なんか、ないんだ。  僕は弱いから――兄さんじゃないから。兄さんみたいに強くない」 「こ、の、馬鹿、が…………」  頭に血が上る。ぷるぷると震え出す。  自分がどんな奴かも自覚せずに、いつまでも、いつまでも。  兄さん、兄さん、兄さん、と! 「気安いんだよ、てめえはっ!」  弟の胸ぐらを掴み、額をくっつけて、唾が飛ぶぐらいでかい声で叫んだ。 「俺とは違う、そんなの当たり前だ! 俺とお前が一緒だったら、気持ち悪いってんだ!  俺との距離を縮めようとすんな! 弟とくっつくなんざ、まっぴら御免だ!」 「僕は、そういう意味で言ったんじゃ……」 「同じだ! 俺が同じだって言ったら、同じだ!  俺になりたいんだったら、ぶっ殺してみろ! そんで、お前の魂を俺の身体に入れてみろ!  そしたらどうだ、あら不思議! お前は花火に毛嫌いされて、澄子ちゃんに爆殺されるぞ!  そんなの嫌だろ! お前が花火に好かれてるのは――お前が、お前だからだ!」  ここで呼吸を挟む。怒鳴りすぎて、弟に殴られてできた傷が痛み出した。 「僕が、僕だから?」 「花火は、俺じゃなくて、お前に惚れたんだ。  たとえ花火が過去に俺をどうこう思っていても、そんなもんは過去の話だ。  助けてくれたから、一緒に居てくれたから、そして、好きだと言ってくれたから。  花火はお前のその想いが嬉しかったから、それに応えて、お前と一緒に暮らしてもいいって考えたんだ。  仮に俺が花火に告白しても、無視されるか、最悪、急所を蹴りつぶされる。  澄子ちゃんでも同じだ。あの子は多分、ものすごくいい笑顔で俺の目をえぐり出す。  でも、お前なら。お前が相手なら、彼女たちは応えてくれる。  お前の強さを教えてやる。それは――女を惚れさせる才能だ!」  びしっと、弟の顔に人差し指を突きつけた。 「……私がこれまでに聞いた決め台詞の中でも、ワーストワンに輝くほどの酷さだよ、それは」 「そうね。私でも、さすがにこれは酷いと思うわ……」 「その説得の流れでそれはないだろう、ジミー君。……引くぞ」  背後にいる藍川と葉月さんが同調した。  仕方ないだろう。俺が弟について最も評価している部分があるなら、それは女を引きつける能力だ。  他にも運動が得意とか、喧嘩に強いとかあるけど、それはこの場で口にするのにふさわしくない。 「お、女の人を、惚れさせる……?」 「そうさ。他ならぬ俺が、太鼓判を押してやる。  女を手に入れる技術において、お前以上にレベルの高い人間は、どこにも居ない!  自信を持て、お前に口説かれて墜ちない女は居ない!  花火だろうと、澄子ちゃんだろうと、妹だろうと、葉月さんだろうと――」  口にする直前、背後にいる葉月さんの存在に気付き、台詞を改める。 「葉月さん以外の女は、全員お前に口説かれて墜ちる運命にある!   たぶん俺の友人T君も同じ事を言うだろうよ。  立て、弟! 俺を超えたいと思うなら、花火と一緒に居たいと思うなら、立ち上がれ!」 「じゃあ、僕は兄さんを目指さなくてもいいの?」 「むしろ目指すんじゃない。そんなことをしたら、お前の強みが消えるだろうが。  俺はプラモ作りが得意で、お前は女作りが得意。得意分野ってもんがあるんだ。  お互いの強みを活かそうぜ、兄弟!」 「僕は、僕、は……」  弟の目の色が変わりだした。よし、もう少しで―― 「――今の、悲鳴?!」 「違いない。時間を喰いすぎた、止めにいかないと!」  社の方向から、女の悲鳴が聞こえた。葉月さんと藍川が駆け出す。  まずい。最悪の結果になる前に、あの二人を止めにいかないと。 「弟、先に行くから、後でお前も来い! お前じゃないと二人は止められない! 絶対だぞ!」  弟を置き去りにして、社の裏側へと向かう。  肩越しに振り返った時、弟はまだ立ち上がっていなかった。  ただ、虚ろな目は普段の輝きを取り戻して、俺の目を真っ直ぐに見ていた。  もう何メートルも離れているのに、弟と目が合うほど、しっかりしていた。  社の裏には、争う花火と澄子ちゃんの姿があった。  二人とも、これまで激しい争いをしていたようで、ボロボロの状態だった。  花火は息が上がり、膝に手をついて体を支え、どうにか立っているような状態だった。  澄子ちゃんは、全身泥と落ち葉にまみれて、真っ黒だった。  さっきの悲鳴がどちらだったか。それは――足下を見たら一目瞭然だった。  澄子ちゃんの足下に、小さな血の点がぽつぽつとあった。体のどこかから、出血している。  目には力が無い。おそらく彼女も体の限界が近いのだろう。 「澄子……お前」 「あら、京子……悪いけど、後にして。今、すっごく辛いから」  そう言う声までも、普段の軽快さを失い、途切れ途切れだった。  花火が動いた。  気力を振り絞って叫び、澄子ちゃんの方へと走り、勢いをそのまま保ちタックル。  花火の全体重を乗せた肩が、澄子ちゃんの胸元へ命中した。  澄子ちゃんは弾き飛ばされ、枯れ葉だらけの地面に倒れた。  激しく咳き込み、そのまま動けなくなる。 「澄子、しっかりしろ!」 「……近寄るなっ! 京子!」  助けに行こうとした藍川を怒鳴りつける。  澄子ちゃんはまだ力尽きていない。いや、ほぼ尽きているようなものだったが。  そんな状態で、震えながら上半身を起こして、彼女は言った。 「こんなの、何ともない。あの時に比べれば、全然、なんてことない。  アタシは、アタシは……こんなことじゃ」 「……もういい、もういい。喋るな、澄子」 「アタシは、絶対に! 彼を諦めたりなんかしないんだっ!」  澄子ちゃんの目に再び力が戻る。  立ち上がろうとして、しかし叶わず、地面に手をつく。  それでもなお、彼女は諦めない。  諦めてしまえば楽になるのに、彼女はそうしない。  執念が澄子ちゃんの体を奮い立たせ、限界を超えてもなお、体を休ませない。  このままだと、間違いなく力尽きて――命を失う。 「絶対、葵紋、なんかにはっ!」 「……だ、まれ……木之内っ!」  まだ膝を着いたままの花火が、澄子ちゃんへ向かって言った。 「渡さない……あいつは私と一緒に居る。そう言ってくれた」 「だから、言ってんで、しょ……そんなの、認めないってぇ!」 「なら、現実を認めないまま――お前は死ね」  花火が立ち上がった。よたよたと歩き、澄子ちゃんのすぐ近くへ。  無防備に脇を晒した澄子ちゃんに向け、花火が蹴りを放とうとした。 「そこまでだ! 止まるんだ二人とも!」  突然声が割り込み、花火は動きを止めた。  声は背後からだった。振り返って見ると、弟が駆けてくるのが見えた。 「葉月先輩! 花火を!」  待ってましたとばかりに、葉月さんが飛び出し、あっという間に花火を地面に組み伏せた。 「葉月、お前……邪魔をするな」 「お断りするわ。力尽くで何とかなさい」 「くっ!」  弟は澄子ちゃんのところへ向かっていた。  彼女の身体を支え、声をかける。 「……澄子ちゃん」 「あれ? おっかしいなあ。どうしてあなた、こんな近くに居るの?  葵紋花火の所に、行かなくてもいいの?」 「いいんだ、今は」 「じゃあ、これからは……アタシの傍にずっと居てくれるの?」  弟は数秒間沈黙し、逡巡の後、こう呟いた。 「……うん」 「ああ、よかった……やっと、その言葉を聞けた」  澄子ちゃんに笑顔が浮かぶ。心の底から安堵したような安らかさだ。  しかし、弟の言葉を聞いて取り乱す奴が、この場にはいた。  葉月さんに取り押さえられたままの花火だった。 「うそ、だろ……嘘だって言ってくれ! あんなに好きだって言ってたじゃないか!  ずっと、ずっと一緒に居るって、私を一人にしないって言ってくれた!  お前まで、私を見捨てるのか! そこのアニキみたいに!」  嘆く花火に向けて、弟が言う。 「……違うよ、花火。僕は嘘は言ってないし、前言撤回もしてない」 「じゃあ、今木之内に言った言葉はなんなんだ!」 「全部、真実さ。それが僕の決めたことだ」 「全部? 私と一緒にいる、けど木之内とも一緒にいる?  お前……まさか! そんなの、私は嫌だぞ! どっちかにしろ!」  目を剥いて叫ぶ花火、よくわかっていない様子の澄子ちゃん、とんでもないことを言った弟。  葉月さんと藍川は揃って唖然として、弟の顔を見つめていた。  そんな中、唯一冷静だったのは――たぶん俺だけだろう。  なにせ、こうするように弟をけしかけたのが、俺自身なのだ。 「僕は二人とずっと一緒に居る。そうすれば、二人は喧嘩する必要は無い。何の問題もないよね?」  ――以前から考えていたのだ。腕の怪我で病院に入院していた頃から。  弟を巡る、花火と澄子ちゃんの争い。  それを平和的に解決、もしくは解決せずとも、争う理由を無くすための方法。  馬鹿げていて、実現困難な問題だったが、入院生活で有り余った時間を潰すにはいいお題だった。  入院している時点では、花火と澄子ちゃんが直接争っていることは知らなかった。  だが、花火が弟誘拐事件の犯人である澄子ちゃんを許すはずはないとわかっていたから、二人の衝突は想定できていた。  二人とも弟が好き。二人とも諦めない。二人ともお互いを敵視している。この三つが前提。  一番いい解決策である、どちらかに諦めてもらうという策は、前提の時点でコケている。  次に考えたのは、弟の信用を失墜させ、失望させるという策。  しかし、信用を失墜させる方法がなく、また俺も弟を貶めるのは嫌だったので、ボツとなった。  次は、花火か澄子ちゃんのどちらかに監視役を置き、争いを未然に防ぐ策。  ストッパー役は俺が務めるつもりだった。だが、あまりにも難易度が高い。さらに俺の身の安全は保証されない。  そもそも根本的な解決になっていない。故にこの策もボツとなった。  他にも色々な策を検討したが、いずれも失敗の危険が付きまとうか、事態の解決には至らないものばかり。  最終的に残ったのは、弟が二人まとめて恋人にして面倒見るという、すけこまし策。  これにも問題はあった。  弟が花火に一途なため、弟をその気にさせるのが困難。  しかし、こっちはもう解決したようなものだ。  さっきの説得が功を奏して、弟は女性二人に向けて堂々と浮気する、と宣言した。  それはいい。だが――問題はもう一つ、残っている。 「ふざけるな! 私は木之内なんかと仲良くしたくない!」 「そうね。アタシも……こればかりは同意見。どっちかにしなさいよ」  そう。花火と澄子ちゃん、どちらも弟を独占しようとして、譲らない。  こればかりはどう対処すべきかわからなかった。  二人には弟以外の人間の言葉は響かない。弟になんとかしてもらうしかない。  なんとかできるはずだ。  俺にけしかけられたとはいえ、二人を同時に恋人にすると決めたのは弟なのだ。  説得できるだけの材料があって、言い出したに決まっている  刮目しろ、花火、澄子ちゃん。  君たち二人が惚れた男は、本物のすけこましになったのだと、思い知るんだ。 「僕はね、二人にこれ以上争ってもらいたくない。本気でそう思ってる」 「仕方ないじゃない。だって、他の女にあなたを譲る気なんか、さらさらない。  片時も離れず一緒に居たい。あなたの気持ちが少しでも離れるなんて許せない。  どうしてわかってくれないの……そんな、そんな形で、あなたに好かれるぐらいだったら!」  ぱしっ、と。  肌と肌のぶつかる音がした。  澄子ちゃんの右腕が動いた瞬間、弟がそれを止めた。枯れ葉だらけの地面にボールペンが落ちて、見えなくなった。 「手加減してるね、澄子ちゃん」 「な、なにを」 「今僕にそのペンを突き立てようとしたけど、君は本気じゃなかった。  君は本当は、優しい子だ。だから、僕を……殺すことなんか、できるわけがない。違う?」 「違うわ。アタシはそんないい子じゃないの。知ってるでしょ、バレンタインで、アタシがあなたに何をしたのか。  誘拐して、監禁して、強引にしたじゃない。あなたがやめろって言っても、アタシはやめなかったじゃない!」 「でも君は、僕の命を奪おうとはしなかった。どれだけ君を拒んでも。  澄子ちゃん、君が何かの影に怯えてるのは知ってた。……僕も、君と事情は違うけど、怖くて仕方ない人がいた。  その人は、僕をいじめて、妹をいじめて、笑っているような人だった。その顔は、今でも思い出せる」  ……伯母の話か。  俺ら兄妹にでかいトラウマを残した、あの出来事。  澄子ちゃんの過去を俺は知ってる。彼女も虐待を受けてきた、被害者だ。  どちらがより酷いか。それはきっと、愚問だ。  虐げられた経験は、その人にとっては最悪で、二度と味わいたくないものになる。 「ど、どうして知ってるのよ。アタシ、一言も喋ってなんか……」 「細かい事情は知らないよ。澄子ちゃんの怯えが伝わっただけだ。  初めて同じクラスになった時にさ、なんとなく君を見て、君と話して、気付いたんだ。  この子は僕と同じだ。昔悲しいことがあったのに、元気に振る舞っている。  僕が澄子ちゃんをなんとなく放っておけなくなったのは、それからだ。  優しくしてあげなきゃ、って思った。妹みたいに」 「じゃあ、あなたは同情してただけ?」 「同情よりも、もっと積極的な気持ちだよ。  話すことで癒しになるなら。そう思って君と接してきたんだ」  弟が澄子ちゃんの右手を離した。  その代わりに、泥だらけになった体を抱きしめた。躊躇う瞬間すら見せなかった。 「……もうやめよう、澄子ちゃん。  悲しい出来事を経験する必要なんかないんだ。悲しまなくていいんだ。泣く必要なんかない。  僕はもう、悲しい思いをしたくない。僕たちは充分、苦しんできたんだ。  争って解決しても、それはまた別の争いの種になる。  僕は君と生きていきたい。ずっと穏やかに、不幸に目を向けられないように、かばい合っていきたい」 「……馬鹿じゃないの」 「馬鹿でもいい。そうすることで、一緒にいられるなら」 「馬鹿じゃないの、そんなに上手くいくはずがないのに。……アタシは、そう思って疑わなかったのに。  きっと、あなたと居る時だけしか嬉しくなくて、それ以外は悲しいことばかりだって。  本当に、アタシと一緒に居てくれる? こんなちっさい女の子を、他人に恋人だって紹介できる?」 「できるよ。自分から紹介するさ。他人からどう思われてもいい。  僕はそうやって生きていこうって――決めたんだから」  澄子ちゃんが弟の胸の中で泣く。啜り泣く。  その様子をしばらく見ていたが、恥ずかしくなったので目を逸らした。 「手、離せよ。葉月」 「あなたが暴れないって誓うならいいわよ」 「暴れねえよ。……もう、色々と疲れて、そんな気じゃなくなった」  そうだった。弟の方に気を取られて忘れていたが、花火はまだ葉月さんに押さえられたままだった。  葉月さんが花火の手を離す。言ったとおり、花火は暴れ出さない。  その代わりに、目を覆い隠した。  泣いているのかと疑ったが、目を凝らして見てもわからない。  花火の姿を見て、葉月さんが問いかける。 「泣いてるの、あなた?」 「……泣きたい気分だよ。あいつがまさか、こんなことを言い出すなんて。  悲しいのは、こっちだってんだ。決まってるだろ」 「それは、弟君が二股するって言い出したことについて? それとも――」  葉月さんの台詞の途中で、俺はわざと割り込んだ。  ここで聞いておきたかったのだ。  花火を悲しませたのは、他でもない俺だから。  聞きたかったし――花火に今の気持ちを吐き出させてやりたかった。 「俺がお前にしたことに関して、か?」    しばしの沈黙。  花火はたっぷりと溜めをつくってから、口を開いた。 「……うるせえ、馬鹿アニキ。話しかけるんじゃねえよ。私の前から消えちまえ。  私はお前なんか…………世界で一番大嫌いだ」  拒絶の意志しか宿らない言葉。  その言葉は、実に彼女らしく、わかりやすくて、ぶっきらぼうだった。  でも俺にはそれだけで伝わった。  これからも俺は花火の憎まれ役でいられる。彼女が憎み続けるかぎり。  それでいい。花火の俺を憎む感情は、そのままでいい。  頬に消えない傷を残したことについての、今なお残り続ける憎しみ。  それに加えて、澄子ちゃんに向いていたはずの憎しみを、全部俺に向けてくれればいい。  憎しみが消えないなら、俺にぶつけてしまえ。  俺だって悲しいのは嫌だが、家族や大切な人達が悲しむよりも、自分が悲しんだ方が楽だ。  自己犠牲は英雄的行為だが、高橋流に言えば、誰も認めてくれない俺の行為は英雄的ではない。  ビジュアル的に見ても、弟こそが英雄役にふさわしいだろ。  あいつだって自分を犠牲にして、花火と澄子ちゃんを止めたんだ。  特撮ヒーローが、新旧問わず長く人々に愛され続けるのは、何より格好いいからなんだ。  今度高橋に会ったら、言ってやる。  格好良くなくちゃ、そいつは英雄じゃないんだ、ってな。
 俺と弟は、世間から見て、人並みに仲良しな兄弟だと思う。  同じ高校に通っているし、勉強を教えているし、特に予定がなければ登下校を一緒にするし。  そんなわけで、休日にもたまに弟と一緒に行動するのだ。  年末以外で、祖母の家に帰る際に弟が一緒することが、何度かあった。  たいていそういう場合は、子供達が長期休暇に入ったことで、両親が二人きりで旅行にでかけることになり、保護者が家に居ない時だ。  はっきり言おう。祖母の家は非常に居心地がいい。  普段住んでいる家など比較にならないぐらい、穏やかな時間が過ぎていく。  祖母の家は、言ってはなんだが、田舎っぽいところにある。  誰もが思い浮かべる田園風景は無いが、コンビニエンスストアやデパートには車で遠出しないと行くことはできない、そんな場所。  そういった部分では不便極まりないのだが、その代わりに、隣人とのふれあいという、普段は味わえないものに触れることが出来る。  すれちがう人と挨拶するのは当たり前、家の前でお茶するような光景はありふれたもの。  友人に祖母の家周辺ののどかさを説明する際、もっとも理解を得られるのが、「軽トラックがどの家の前にでも駐まっているようなところ」。  決して誇張ではない。八割の家に軽トラックがあるのは事実。  祖母の話では、じゃがいもや稲作をする人が多いから、軽トラックが必要なのだ、ということだった。  俺が普段住んでいる街にも農家をやっている人は居るが、それとは比べものにならないほど農家の割合が高いのだろう。  都会レベルが二つか三つ下の町。あくまで俺の判断基準だが、おおまかに言ってそんな感じ。  そんな祖母の居る町に行くために、俺ら兄妹はバスを利用することがある。  バスが到着するまでの待ち時間、退屈を持てあました俺らは、近辺で昼食を食べられる場所を探した。  なるべく人が足を運ばず、人目につかず、ゆっくりしていられるような場所。  なかなか難しい条件だったが、俺達はそこを発見した。  きっとこの状況下で弟が向かうとしたら、そこしかない。街の人に見つからず、存分に話し合いをできる場所。 「それが、神社の裏にある空き地、というわけか」 「ああ。神社はかなり寂れてて、神主も居ない。近くに住宅がないから、大声で話しても聞かれることはない。  一応手入れはされてるみたいだけどな。それもせいぜい正月ぐらいのもんだろう、あの神社は」 「……ふうん。ナビゲーション役の君が言うなら、運転手の私はそれにしたがうことにするよ」  もしも外れたとしても責めたりしないよ、なんてことを言いながら、藍川は車を走らせる。  目印になる信号があったら曲がるよう伝え、着いたら教えるよう頼んだ。  座席のシートに背中を預け、ぼんやりと天井を見つめる。 「ねえ、ちょっと、いい?」  葉月さんが小さな声で呼びかける。  まだ彼女は藍川の目から逃れるように体を折り曲げたままだった。視線だけは俺に向けていた。  事情を知らない他人からすると、窓の外にいる誰からも見えないよう、かくれんぼをしている人に見えるかもしれない。 「あなた、弟君と、葵紋花火と木之内澄子、三人のところに行くつもりよね」 「うん」 「……あなた、どうやって弟君の抱える問題を解決するつもりなの?」 「どうやって、って。それは……」  言えない。今から良い案がないか考えようとしていた、なんて言えない。  しかし、あえてハッタリを使ってみる。  結果オーライという方向性でいくしかない。  だって、神社に到着するまであと三分も要らないぐらいのところまで来てるんだ。 「まあ、見ていてもらえばわかるよ。ここで言ったらたぶん面白みがなくなるよ」 「……まさか、何も考えてないとか、言うつもりじゃないでしょうね?  もしもそうだったら、私は力尽くで鎮圧するわよ。あの三人を」  あっさり鎮圧とかいう物騒な単語が出るあたり、葉月さんは普通の女の子とは違うなあ。 「葵紋花火に、木之内澄子。あの二人が争う動機は、弟君の取り合い。  私があの二人を力尽くで気絶させれば、この場は収まるでしょう。でもそれは根本的な解決にはなっていない。  解決するための手段は二つ。どちらかに弟君への恋を諦めてもらうか、二人とも諦めるか、それだけよ。  弟君が木之内澄子から逃げようとしたのは、争いを避けるためにはいい手段だったと思うわ。ベストではないけどね。  あなただったら、どうするの? 二人を止めるために、どんな手段を用いるつもり?」 「……なんとか、するさ」 「そう、わかった。私は今日だけはあなたに全面的に協力するから、その言葉を信じてあげる。  でも、忘れないで。これだけは。この事態を解決するためには、あなた一人だけじゃなく、弟君の力も、きっと必要になるわ。  相手が二人なら、互角よ。今日は私も居るから、三対二で押し切れるはず。  ……頑張りましょう。弟君の幸せのために」 「ありがとう」  私も忘れてもらっては困るな、という藍川の呟きは、どこか遠くから聞こえてくるようだった。  神社はやはり変わらない姿で、俺が案内した場所にあった。  取り壊されたわけでもなく、見違えるように綺麗になったわけでもなく、閑静に佇んでいた。  藍川の車から降りると、遠くから人の声が聞こえてきた。  明らかに神社の方向からだった。しかし、境内に俺が探している花火と澄子ちゃんの姿はなかった。  代わりに、鳥居の下で座り込んでいる弟を見つけた。 「弟君、どうしたの! 大丈夫!?」  葉月さんが駆け寄る。少し遅れて俺も弟のもとへ。  弟の肩を揺すると、ゆっくりと顔を上げた。 「兄さん……葉月先輩……」  一瞬だけ、認識が遅れた。それは確かに弟の姿をしていて、顔つきまで弟のままだった。  でも、そいつは完全に脱力しきっていた。  生気のない目をしているだけで全くの別人に見えたのだ。 「お前、ここで何してるんだよ! 花火は、澄子ちゃんは!」 「二人? ……ああ、どうしたんだっけ? わからないよ、兄さん」 「わからないじゃねえよ! さっきまで一緒だっただろうが!」 「……あのさ、兄さん」  弟は虚ろな目のまま喋りだした。  喉を使わないで、舌と唇だけで喋っているような、微かな声で。 「僕は、兄さんじゃないんだよ。だからなんでもは知らないんだ」 「何を、当たり前のことを」 「どうしたらいいのか、僕にはわからない。  兄さんだったらどうするのか、こんなときどうするのか、ずっと考えたけど、駄目だ。  僕にはわからない。兄さんの考えなんか――ちっとも想像できない」 「……俺は俺だ。お前はお前。だから、お前のやりたいようにしろよ。  そうするって言っただろ。喧嘩を売ってきた時の威勢はどうした」 「もういいんだ。僕には――花火を幸せにすることなんかできない。  彼女を幸せに出来るのは、兄さんだけだ」  こいつがここまで落ち込んでいる姿を見るのは、初めてだ。  絶えず笑っているような男で、怒ったり、悲しんだりと言った強い感情を見せない。  こいつがそんな奴だったからこそ――ここまで情けない奴だと思わなくて、腹が立った。 「お前は花火が好きだって言っただろうが。そのために自分の出来ることはなんでもやるって、言ったよな? 言っただろ!  簡単に、あいつのことを諦めるな。花火がどれだけお前を好きなのか、お前はわかってるのか」 「知ってる。でも、僕には花火を受け止める資格なんか、ないんだ。  僕は弱いから――兄さんじゃないから。兄さんみたいに強くない」 「こ、の、馬鹿、が…………」  頭に血が上る。ぷるぷると震え出す。  自分がどんな奴かも自覚せずに、いつまでも、いつまでも。  兄さん、兄さん、兄さん、と! 「気安いんだよ、てめえはっ!」  弟の胸ぐらを掴み、額をくっつけて、唾が飛ぶぐらいでかい声で叫んだ。 「俺とは違う、そんなの当たり前だ! 俺とお前が一緒だったら、気持ち悪いってんだ!  俺との距離を縮めようとすんな! 弟とくっつくなんざ、まっぴら御免だ!」 「僕は、そういう意味で言ったんじゃ……」 「同じだ! 俺が同じだって言ったら、同じだ!  俺になりたいんだったら、ぶっ殺してみろ! そんで、お前の魂を俺の身体に入れてみろ!  そしたらどうだ、あら不思議! お前は花火に毛嫌いされて、澄子ちゃんに爆殺されるぞ!  そんなの嫌だろ! お前が花火に好かれてるのは――お前が、お前だからだ!」  ここで呼吸を挟む。怒鳴りすぎて、弟に殴られてできた傷が痛み出した。 「僕が、僕だから?」 「花火は、俺じゃなくて、お前に惚れたんだ。  たとえ花火が過去に俺をどうこう思っていても、そんなもんは過去の話だ。  助けてくれたから、一緒に居てくれたから、そして、好きだと言ってくれたから。  花火はお前のその想いが嬉しかったから、それに応えて、お前と一緒に暮らしてもいいって考えたんだ。  仮に俺が花火に告白しても、無視されるか、最悪、急所を蹴りつぶされる。  澄子ちゃんでも同じだ。あの子は多分、ものすごくいい笑顔で俺の目をえぐり出す。  でも、お前なら。お前が相手なら、彼女たちは応えてくれる。  お前の強さを教えてやる。それは――女を惚れさせる才能だ!」  びしっと、弟の顔に人差し指を突きつけた。 「……私がこれまでに聞いた決め台詞の中でも、ワーストワンに輝くほどの酷さだよ、それは」 「そうね。私でも、さすがにこれは酷いと思うわ……」 「その説得の流れでそれはないだろう、ジミー君。……引くぞ」  背後にいる藍川と葉月さんが同調した。  仕方ないだろう。俺が弟について最も評価している部分があるなら、それは女を引きつける能力だ。  他にも運動が得意とか、喧嘩に強いとかあるけど、それはこの場で口にするのにふさわしくない。 「お、女の人を、惚れさせる……?」 「そうさ。他ならぬ俺が、太鼓判を押してやる。  女を手に入れる技術において、お前以上にレベルの高い人間は、どこにも居ない!  自信を持て、お前に口説かれて墜ちない女は居ない!  花火だろうと、澄子ちゃんだろうと、妹だろうと、葉月さんだろうと――」  口にする直前、背後にいる葉月さんの存在に気付き、台詞を改める。 「葉月さん以外の女は、全員お前に口説かれて墜ちる運命にある!   たぶん俺の友人T君も同じ事を言うだろうよ。  立て、弟! 俺を超えたいと思うなら、花火と一緒に居たいと思うなら、立ち上がれ!」 「じゃあ、僕は兄さんを目指さなくてもいいの?」 「むしろ目指すんじゃない。そんなことをしたら、お前の強みが消えるだろうが。  俺はプラモ作りが得意で、お前は女作りが得意。得意分野ってもんがあるんだ。  お互いの強みを活かそうぜ、兄弟!」 「僕は、僕、は……」  弟の目の色が変わりだした。よし、もう少しで―― 「――今の、悲鳴?!」 「違いない。時間を喰いすぎた、止めにいかないと!」  社の方向から、女の悲鳴が聞こえた。葉月さんと藍川が駆け出す。  まずい。最悪の結果になる前に、あの二人を止めにいかないと。 「弟、先に行くから、後でお前も来い! お前じゃないと二人は止められない! 絶対だぞ!」  弟を置き去りにして、社の裏側へと向かう。  肩越しに振り返った時、弟はまだ立ち上がっていなかった。  ただ、虚ろな目は普段の輝きを取り戻して、俺の目を真っ直ぐに見ていた。  もう何メートルも離れているのに、弟と目が合うほど、しっかりしていた。  社の裏には、争う花火と澄子ちゃんの姿があった。  二人とも、これまで激しい争いをしていたようで、ボロボロの状態だった。  花火は息が上がり、膝に手をついて体を支え、どうにか立っているような状態だった。  澄子ちゃんは、全身泥と落ち葉にまみれて、真っ黒だった。  さっきの悲鳴がどちらだったか。それは――足下を見たら一目瞭然だった。  澄子ちゃんの足下に、小さな血の点がぽつぽつとあった。体のどこかから、出血している。  目には力が無い。おそらく彼女も体の限界が近いのだろう。 「澄子……お前」 「あら、京子……悪いけど、後にして。今、すっごく辛いから」  そう言う声までも、普段の軽快さを失い、途切れ途切れだった。  花火が動いた。  気力を振り絞って叫び、澄子ちゃんの方へと走り、勢いをそのまま保ちタックル。  花火の全体重を乗せた肩が、澄子ちゃんの胸元へ命中した。  澄子ちゃんは弾き飛ばされ、枯れ葉だらけの地面に倒れた。  激しく咳き込み、そのまま動けなくなる。 「澄子、しっかりしろ!」 「……近寄るなっ! 京子!」  助けに行こうとした藍川を怒鳴りつける。  澄子ちゃんはまだ力尽きていない。いや、ほぼ尽きているようなものだったが。  そんな状態で、震えながら上半身を起こして、彼女は言った。 「こんなの、何ともない。あの時に比べれば、全然、なんてことない。  アタシは、アタシは……こんなことじゃ」 「……もういい、もういい。喋るな、澄子」 「アタシは、絶対に! 彼を諦めたりなんかしないんだっ!」  澄子ちゃんの目に再び力が戻る。  立ち上がろうとして、しかし叶わず、地面に手をつく。  それでもなお、彼女は諦めない。  諦めてしまえば楽になるのに、彼女はそうしない。  執念が澄子ちゃんの体を奮い立たせ、限界を超えてもなお、体を休ませない。  このままだと、間違いなく力尽きて――命を失う。 「絶対、葵紋、なんかにはっ!」 「……だ、まれ……木之内っ!」  まだ膝を着いたままの花火が、澄子ちゃんへ向かって言った。 「渡さない……あいつは私と一緒に居る。そう言ってくれた」 「だから、言ってんで、しょ……そんなの、認めないってぇ!」 「なら、現実を認めないまま――お前は死ね」  花火が立ち上がった。よたよたと歩き、澄子ちゃんのすぐ近くへ。  無防備に脇を晒した澄子ちゃんに向け、花火が蹴りを放とうとした。 「そこまでだ! 止まるんだ二人とも!」  突然声が割り込み、花火は動きを止めた。  声は背後からだった。振り返って見ると、弟が駆けてくるのが見えた。 「葉月先輩! 花火を!」  待ってましたとばかりに、葉月さんが飛び出し、あっという間に花火を地面に組み伏せた。 「葉月、お前……邪魔をするな」 「お断りするわ。力尽くで何とかなさい」 「くっ!」  弟は澄子ちゃんのところへ向かっていた。  彼女の身体を支え、声をかける。 「……澄子ちゃん」 「あれ? おっかしいなあ。どうしてあなた、こんな近くに居るの?  葵紋花火の所に、行かなくてもいいの?」 「いいんだ、今は」 「じゃあ、これからは……アタシの傍にずっと居てくれるの?」  弟は数秒間沈黙し、逡巡の後、こう呟いた。 「……うん」 「ああ、よかった……やっと、その言葉を聞けた」  澄子ちゃんに笑顔が浮かぶ。心の底から安堵したような安らかさだ。  しかし、弟の言葉を聞いて取り乱す奴が、この場にはいた。  葉月さんに取り押さえられたままの花火だった。 「うそ、だろ……嘘だって言ってくれ! あんなに好きだって言ってたじゃないか!  ずっと、ずっと一緒に居るって、私を一人にしないって言ってくれた!  お前まで、私を見捨てるのか! そこのアニキみたいに!」  嘆く花火に向けて、弟が言う。 「……違うよ、花火。僕は嘘は言ってないし、前言撤回もしてない」 「じゃあ、今木之内に言った言葉はなんなんだ!」 「全部、真実さ。それが僕の決めたことだ」 「全部? 私と一緒にいる、けど木之内とも一緒にいる?  お前……まさか! そんなの、私は嫌だぞ! どっちかにしろ!」  目を剥いて叫ぶ花火、よくわかっていない様子の澄子ちゃん、とんでもないことを言った弟。  葉月さんと藍川は揃って唖然として、弟の顔を見つめていた。  そんな中、唯一冷静だったのは――たぶん俺だけだろう。  なにせ、こうするように弟をけしかけたのが、俺自身なのだ。 「僕は二人とずっと一緒に居る。そうすれば、二人は喧嘩する必要は無い。何の問題もないよね?」  ――以前から考えていたのだ。腕の怪我で病院に入院していた頃から。  弟を巡る、花火と澄子ちゃんの争い。  それを平和的に解決、もしくは解決せずとも、争う理由を無くすための方法。  馬鹿げていて、実現困難な問題だったが、入院生活で有り余った時間を潰すにはいいお題だった。  入院している時点では、花火と澄子ちゃんが直接争っていることは知らなかった。  だが、花火が弟誘拐事件の犯人である澄子ちゃんを許すはずはないとわかっていたから、二人の衝突は想定できていた。  二人とも弟が好き。二人とも諦めない。二人ともお互いを敵視している。この三つが前提。  一番いい解決策である、どちらかに諦めてもらうという策は、前提の時点でコケている。  次に考えたのは、弟の信用を失墜させ、失望させるという策。  しかし、信用を失墜させる方法がなく、また俺も弟を貶めるのは嫌だったので、ボツとなった。  次は、花火か澄子ちゃんのどちらかに監視役を置き、争いを未然に防ぐ策。  ストッパー役は俺が務めるつもりだった。だが、あまりにも難易度が高い。さらに俺の身の安全は保証されない。  そもそも根本的な解決になっていない。故にこの策もボツとなった。  他にも色々な策を検討したが、いずれも失敗の危険が付きまとうか、事態の解決には至らないものばかり。  最終的に残ったのは、弟が二人まとめて恋人にして面倒見るという、すけこまし策。  これにも問題はあった。  弟が花火に一途なため、弟をその気にさせるのが困難。  しかし、こっちはもう解決したようなものだ。  さっきの説得が功を奏して、弟は女性二人に向けて堂々と浮気する、と宣言した。  それはいい。だが――問題はもう一つ、残っている。 「ふざけるな! 私は木之内なんかと仲良くしたくない!」 「そうね。アタシも……こればかりは同意見。どっちかにしなさいよ」  そう。花火と澄子ちゃん、どちらも弟を独占しようとして、譲らない。  こればかりはどう対処すべきかわからなかった。  二人には弟以外の人間の言葉は響かない。弟になんとかしてもらうしかない。  なんとかできるはずだ。  俺にけしかけられたとはいえ、二人を同時に恋人にすると決めたのは弟なのだ。  説得できるだけの材料があって、言い出したに決まっている。  刮目しろ、花火、澄子ちゃん。  君たち二人が惚れた男は、本物のすけこましになったのだと、思い知るんだ。 「僕はね、二人にこれ以上争ってもらいたくない。本気でそう思ってる」 「仕方ないじゃない。だって、他の女にあなたを譲る気なんか、さらさらない。  片時も離れず一緒に居たい。あなたの気持ちが少しでも離れるなんて許せない。  どうしてわかってくれないの……そんな、そんな形で、あなたに好かれるぐらいだったら!」  ぱしっ、と。  肌と肌のぶつかる音がした。  澄子ちゃんの右腕が動いた瞬間、弟がそれを止めた。枯れ葉だらけの地面にボールペンが落ちて、見えなくなった。 「手加減してるね、澄子ちゃん」 「な、なにを」 「今僕にそのペンを突き立てようとしたけど、君は本気じゃなかった。  君は本当は、優しい子だ。だから、僕を……殺すことなんか、できるわけがない。違う?」 「違うわ。アタシはそんないい子じゃないの。知ってるでしょ、バレンタインで、アタシがあなたに何をしたのか。  誘拐して、監禁して、強引にしたじゃない。あなたがやめろって言っても、アタシはやめなかったじゃない!」 「でも君は、僕の命を奪おうとはしなかった。どれだけ君を拒んでも。  澄子ちゃん、君が何かの影に怯えてるのは知ってた。……僕も、君と事情は違うけど、怖くて仕方ない人がいた。  その人は、僕をいじめて、妹をいじめて、笑っているような人だった。その顔は、今でも思い出せる」  ……伯母の話か。  俺ら兄妹にでかいトラウマを残した、あの出来事。  澄子ちゃんの過去を俺は知ってる。彼女も虐待を受けてきた、被害者だ。  どちらがより酷いか。それはきっと、愚問だ。  虐げられた経験は、その人にとっては最悪で、二度と味わいたくないものになる。 「ど、どうして知ってるのよ。アタシ、一言も喋ってなんか……」 「細かい事情は知らないよ。澄子ちゃんの怯えが伝わっただけだ。  初めて同じクラスになった時にさ、なんとなく君を見て、君と話して、気付いたんだ。  この子は僕と同じだ。昔悲しいことがあったのに、元気に振る舞っている。  僕が澄子ちゃんをなんとなく放っておけなくなったのは、それからだ。  優しくしてあげなきゃ、って思った。妹みたいに」 「じゃあ、あなたは同情してただけ?」 「同情よりも、もっと積極的な気持ちだよ。  話すことで癒しになるなら。そう思って君と接してきたんだ」  弟が澄子ちゃんの右手を離した。  その代わりに、泥だらけになった体を抱きしめた。躊躇う瞬間すら見せなかった。 「……もうやめよう、澄子ちゃん。  悲しい出来事を経験する必要なんかないんだ。悲しまなくていいんだ。泣く必要なんかない。  僕はもう、悲しい思いをしたくない。僕たちは充分、苦しんできたんだ。  争って解決しても、それはまた別の争いの種になる。  僕は君と生きていきたい。ずっと穏やかに、不幸に目を向けられないように、かばい合っていきたい」 「……馬鹿じゃないの」 「馬鹿でもいい。そうすることで、一緒にいられるなら」 「馬鹿じゃないの、そんなに上手くいくはずがないのに。……アタシは、そう思って疑わなかったのに。  きっと、あなたと居る時だけしか嬉しくなくて、それ以外は悲しいことばかりだって。  本当に、アタシと一緒に居てくれる? こんなちっさい女の子を、他人に恋人だって紹介できる?」 「できるよ。自分から紹介するさ。他人からどう思われてもいい。  僕はそうやって生きていこうって――決めたんだから」  澄子ちゃんが弟の胸の中で泣く。啜り泣く。  その様子をしばらく見ていたが、恥ずかしくなったので目を逸らした。 「手、離せよ。葉月」 「あなたが暴れないって誓うならいいわよ」 「暴れねえよ。……もう、色々と疲れて、そんな気じゃなくなった」  そうだった。弟の方に気を取られて忘れていたが、花火はまだ葉月さんに押さえられたままだった。  葉月さんが花火の手を離す。言ったとおり、花火は暴れ出さない。  その代わりに、目を覆い隠した。  泣いているのかと疑ったが、目を凝らして見てもわからない。  花火の姿を見て、葉月さんが問いかける。 「泣いてるの、あなた?」 「……泣きたい気分だよ。あいつがまさか、こんなことを言い出すなんて。  悲しいのは、こっちだってんだ。決まってるだろ」 「それは、弟君が二股するって言い出したことについて? それとも――」  葉月さんの台詞の途中で、俺はわざと割り込んだ。  ここで聞いておきたかったのだ。  花火を悲しませたのは、他でもない俺だから。  聞きたかったし――花火に今の気持ちを吐き出させてやりたかった。 「俺がお前にしたことに関して、か?」    しばしの沈黙。  花火はたっぷりと溜めをつくってから、口を開いた。 「……うるせえ、馬鹿アニキ。話しかけるんじゃねえよ。私の前から消えちまえ。  私はお前なんか…………世界で一番大嫌いだ」  拒絶の意志しか宿らない言葉。  その言葉は、実に彼女らしく、わかりやすくて、ぶっきらぼうだった。  でも俺にはそれだけで伝わった。  これからも俺は花火の憎まれ役でいられる。彼女が憎み続けるかぎり。  それでいい。花火の俺を憎む感情は、そのままでいい。  頬に消えない傷を残したことについての、今なお残り続ける憎しみ。  それに加えて、澄子ちゃんに向いていたはずの憎しみを、全部俺に向けてくれればいい。  憎しみが消えないなら、俺にぶつけてしまえ。  俺だって悲しいのは嫌だが、家族や大切な人達が悲しむよりも、自分が悲しんだ方が楽だ。  自己犠牲は英雄的行為だが、高橋流に言えば、誰も認めてくれない俺の行為は英雄的ではない。  ビジュアル的に見ても、弟こそが英雄役にふさわしいだろ。  あいつだって自分を犠牲にして、花火と澄子ちゃんを止めたんだ。  特撮ヒーローが、新旧問わず長く人々に愛され続けるのは、何より格好いいからなんだ。  今度高橋に会ったら、言ってやる。  格好良くなくちゃ、そいつは英雄じゃないんだ、ってな。

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