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744 :迷い蛾の詩 【第弐部・繭籠り】  ◆AJg91T1vXs :2010/09/08(水) 23:21:12 ID:RCEah9PV  翌日は、昨日の雨が嘘のような晴天だった。  天を覆っていた暗雲はどこかへ吹き飛び、白く爽やかな色をした雲が、ぽっかりと空に浮いている。  陽神亮太が目を覚ましたのは、四限の終鈴が鳴り終わった時のことだった。  いつもは居眠りなどしない亮太だが、今日に限っては睡魔の方が彼の気力の上を行った。  久しぶりに訪れた温かな陽気に、つい気持ちが緩んでしまったのかもしれない。 「ったく、いつまで寝てんのよ。  もう、とっくに授業は終わったわよ」  突然、教科書で頭を叩かれ、亮太はハッとした様子で顔を上げた。 「なんだ、理緒か……。  いや、ちょっと久しぶりに晴れたもんだからさ。  ヤバいとは分かってたけど、つい睡魔に負けちゃったよ」  両腕を大きく伸ばし、亮太は欠伸交じりに自分の頭を叩いてきた少女に向かって答える。  天崎理緒≪あまさきりお≫。  亮太とは、中学時代からの知り合いである。  たまたま部活が一緒だった故に話をするようになった仲だが、気がつけば同じ高校を受験して、同じクラスになるという始末。  しかし、そんな何かを期待させるような展開とは裏腹に、理緒との仲はあくまで女友達のままだ。  もっとも、亮太自身にも理緒を異性として特別意識するつもりはないため、今の関係に不満はない。  ただ、これが俗に言う『腐れ縁』というやつかと思っているだけである。 「で、ものは相談なんだけど……」  先ほど、亮太の頭を叩いた教科書を手に、理緒がやけにとってつけたような口調で言った。  妙に明るく、無理に笑顔を作って迫る理緒。  こんな時、彼女の口から出る言葉はただ一つだ。 「今日もまた、宿題教えてくんないかな?  五限の数学のやつ、まだ終わってなくてさ」 「相変わらず、計算は苦手なんだな。  それで、どこまで終わってないの?」 「そ、それが……。  しいて言えば、全部かも……」  亮太にとっては、既にお馴染となっているお約束の展開。  中学時代から、理緒は数学だけは駄目だった。  おかげでいつも、彼女に宿題を教えるのは亮太の役目だ。  毎回思う事だが、いったい何の間違いで、これほどまでに数学の出来ない人間が入試を突破できたのかと思う。  きっと、国語と英語の点数が極めて高かったのか、奇跡が起きて補欠合格の切符を手にしたかのどちらかだろう。  まあ、それ以前に、亮太の通う私立校は、数学の問題の難しさだけは群を抜いていると聞いた事がある。  そのため、単に理緒も周りもさして出来はよくなく、数学では差がつかなかっただけかもしれないが。 745 :迷い蛾の詩 【第弐部・繭籠り】  ◆AJg91T1vXs :2010/09/08(水) 23:23:13 ID:RCEah9PV 「それじゃあ、昼ごはん食べたら、図書室で会おうか。  今日の数学の宿題なら、二十分もあれば終わるからさ」 「ああ、やっぱり持つべきものは、気のいい友達よね。  これで今日も、あのバーコードハゲに怒鳴られなくって済むってもんよ」 「先生に向かって、さすがにその呼び方はないと思うけど……。  でも、友達が大切って意見には、俺も賛成かな。  と、いうわけで……交換条件ってことでもないけど、さっきの四限のノート、理緒のやつを写させてくれないか?  解説の部分で爆睡してたから、さすがに自力で後れを取り戻すのは、ちょっと辛くてさ」 「今更言うのもあれだけど、本当にマメねぇ……。  ま、そのくらいだったらお安い御用よ。  明日までに返してくれるんなら、今日は亮太にノートを貸してあげる」    ごく普通の学校生活における、友人との他愛ない会話。  いつもであれば、このまま購買部にパンを買いに行くことだろう。  しかし、今日に限って、亮太は直ぐに昼食を買いに行く訳にはいかなかった。  クラスメイトの男子生徒が、理緒との会話に割り込むような形で彼を呼んだのだ。 「おい、陽神。  なんか、教室の入り口の方で、女の子がお前を呼んでるぜ?」 「女の子?  それ、他のクラスの子かい?」 「さあな。  なんでもいいから、早く行ってやった方がいいんじゃねえか?」  それだけ言うと、男子生徒は亮太の前から去ってしまった。  その生徒自身、亮太を呼んでいるという女子生徒との面識はなかったようだ。 「悪い、理緒。  昼ごはん食べ終わったら、図書室に来てくれよ」  購買部に向かうのを後回しにし、亮太は教室を後にした。  こんな昼時に、自分をわざわざ呼びつけるのは誰だろう。  もっとも、亮太自身、心当たりが全くないわけではなかったが。  廊下に出て辺りを見回すと、彼を呼んだと思しき者の姿はすぐに見つかった。  教室の前を行き交う生徒達の陰に隠れ、どこか落ち着きなく辺りを見回している。  その胸には丁寧に折り畳まれた、紺色のジャージをしっかりと抱えていた。 「あれは、確か昨日の……」  連れ立って廊下を歩く生徒達の間を器用にぬって、亮太はその少女の下へと歩み寄った。  彼が側まで近付くと、ようやく相手も亮太の姿に気づいたようである。 746 :迷い蛾の詩 【第弐部・繭籠り】  ◆AJg91T1vXs :2010/09/08(水) 23:25:32 ID:RCEah9PV 「あっ、ひ、陽神君……」 「えっと……。  確か、月野さんだったよね。  昨日は、あれからちゃんと帰れた?」 「は、はい。  お陰さまで、あれ以上は雨にも濡れずに済みました」 「そっか。  だったら、よかったよ。  あそこで風邪でもひかれたら、それこそ俺の格好がつかないからさ」  照れ隠しのつもりなのか、亮太は右手を大げさに頭の後ろに回し、繭香に向かって笑いながら言った。  彼にしてみれば、繭香に無用な気遣いをさせないための冗談だったのかもしれない。  だが、そんな亮太の気持ちとは反対に、繭香は少しはにかんだ顔のまま亮太から視線をそらした。  そのまま目の前にいる亮太に向かい、胸に抱えていたジャージを手前に突き出す。 「こ、これ……昨日、お借りした物です。  あの後、きちんと洗って干しましたから……たぶん、変に湿気った臭いとか残ってないと思います」  自分でも声が上ずっていることに気づき、繭香はますます顔が赤くなってゆくのを感じた。  誰かに借りた物を返す。  ただそれだけのことで、こんな風になったことは今までにもない。  いつもなら、天使のような作り笑顔を振りまいて、何の躊躇いも恥じらいもなく返せるというのに。  いったい、自分はどうしてしまったのだろう。  こんな挙動不審な姿を知ったら、周りの者は幻滅するのではないだろうか。  そう、心の中で考えてみるものの、どうしてか普段の調子が出ない。  頭の中が真っ白になり、上手い言葉さえも見当たらない。 「なんだ。  わざわざ届けに来てくれたのかい?  それに、洗濯までさせちゃって……。  なんか、こっちの方が申し訳ない気分だな」  目の前に差し出されたジャージを受け取り、亮太が繭香に向かって言った。  が、そんな彼の言葉も、今の繭香には聞こえていない。   「それじゃあ……私はこれで……」  そう言うが早いか、繭香は一目散に廊下を駆け出した。  正直なところ、これ以上はあの場にいられなかったというのが正しい。  あのまま会話を続けていたら、自分の見せたくない一面、見せてはいけない一面をさらけ出してしまうようで怖かった。 747 :迷い蛾の詩 【第弐部・繭籠り】  ◆AJg91T1vXs :2010/09/08(水) 23:26:49 ID:RCEah9PV 「はぁ……はぁ……」  亮太のいる、一年E組の教室とは反対にある階段までやって来て、ようやく繭香は足を止めた。  普段であれば、人目を気にし、廊下を走ることなどまずしない。  しかし、今はそんな事よりも、亮太の前から少しでも離れることの方が先だった。  昼時の北階段は、南階段と違って人気がない。  下駄箱にも体育館にも遠いこの場所は、化学室や生物室といった特別な教室へ向かう者以外、殆ど利用する者がいないからだ。  ここならば、誰にも気づかれずに今の気持ちを抑える事ができる。  自分の心の奥にある、妙に高揚感のある感情。  それがいったい何なのか、繭香も当に気づいてはいた。  間違いない。  自分は、あの陽神亮太という人間を意識している。  いや、意識というだけでは、あまりにも稚拙な表現だ。  既に単なる意識を通り越し、好意を抱いているといった方がいいだろう。  無償の愛などありえない。  そんな考えしか持たなかった自分が、まさか誰かに好意を抱くとは。  それも、昨日出会ったばかりの、顔も名前も知らなかった男子生徒にだ。  いったい、自分はなぜ、こんなにも彼の事が気になってしまうのだろう。  その理由もまた、繭香の中では大方の見当はついていた。  あの日、バス停の前で困っていた自分に、何の躊躇いもなく声をかけてきた亮太。  彼は、繭香がどんな人間であるかなど関係なく、一人の女の子として扱ってくれた。  今までは、周りの期待に応えることでしか、好意的な感情を向けてもらえないと思っていた自分。  そんな自分に、亮太はあくまで一人の人間として、極めて紳士的に対応してくれた。  お金持ちの家のお嬢様。  清楚でお淑やかで、品行方正で頭脳明晰。  そんな作られたイメージとは関係なく、亮太は自分の意思で繭香に手を差し伸べてくれた。  こんなことは、生まれて初めてのことだった。  繭香にとって、他人との関係は相手の期待に応える事が全て。  故に、一人の人間として彼女に声をかけてくれた者など存在しない。  亮太は、そんな繭香にとって、初めて自分と対等に話をしてくれた相手だったのだ。 「陽神君……。私……」 ――――あなたの事が、好きになりそうです。 748 :迷い蛾の詩 【第弐部・繭籠り】  ◆AJg91T1vXs :2010/09/08(水) 23:27:41 ID:RCEah9PV  その言葉をなんとか飲み込んで、繭香は代わりに大きな溜息をつく。  こんなこと、他人に聞かれでもしたら大事だ。  それに、自分は好きになりそうなのではない。  もう、とっくに好きになってしまっているはずなのだから。  昼休み、昼食を食べることさえも忘れ、繭香はしばし北階段で呆けた顔を浮かべていた。    できることなら、もっと彼と話をしたい。  彼の事を、もっと知りたい。  そして、いずれは自分の本当の姿を、彼にも分かってもらいたい。  そこまで考えた時、急に階段を上る生徒達の声がして、繭香は現実に引き戻された。 「何やってるんだろう、私……」  他愛もない会話をしながら階段を上ってくる生徒達とすれ違いつつ、繭香は大きく息をして感情を落ちつける。  深呼吸を終えた時、そこにいたのは先ほどの繭香ではない。  いつも周りに見せている、清楚でお淑やかな少女の姿だった。 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※  一学期末の定期テストまでは、まだ少しだけ余裕があった。  とはいえ、昼時の図書室は多くの生徒達で賑わっている。  彼らの多くは、自分の勉強をするために図書室を利用する。  まあ、中には三度の飯より読書が好きで、それ故に足しげく図書室へと通っているような変わり者も存在したが。  互いに向かい合うようにして座りながら、亮太は理緒に、彼女が解けなかったという数学の宿題を教えていた。  亮太自身、そこまで勉強ができるという意識はなかったが、理緒からすると間違いなく秀才の部類に入る人間らしい。 「とりあえず、問3までは合ってると思うよ。  問4だけど……これも、さっき教えた公式で解けるはずだから」 「そうなの?  じゃあ、まずは自分で解いてみるね」  設問数にして、たったの五問しかない簡単な宿題。  出題されたのが昨日なだけに、分量としては妥当なところだ。  亮太に限らず数学が得意な者からすれば、全てを解くのにものの二十分とかからない。 749 :迷い蛾の詩 【第弐部・繭籠り】  ◆AJg91T1vXs :2010/09/08(水) 23:28:14 ID:RCEah9PV  理緒に簡単なヒントだけ与え、亮太は昨日出会った繭香のことを考えていた。  四限が終わった時間を狙ったようにして、綺麗に洗濯されたジャージを持って現れた繭香。  昨日、初めて声をかけた時も感じたが、彼女の仕草はどこかぎこちない。  清楚で上品な印象の中に、時折、同い年の少女と変わらぬ姿を垣間見せる。  学年も同じ自分に対し、常に敬語で話をするのも不思議だった。  引っ込み思案で少々照れ屋。  恥じらいを知らず、人前で堂々と化粧を直すような昨今の女子高生から比べると、繭香は十分に変わった少女だった。  もっとも、かくいう亮太自身も変わり者と評されることもあり、あまり人の事は言えないと思うのだが。 「ねえ……ってば……。  ちょっ……聞い……の……!?」  目の前で机を叩く音がして、亮太は思わず我に返る。  見ると、既に問題を一通り解き終えた理緒が、彼の顔に少々苛立った視線を送っていた。 「ああ、悪い。  ちょっと、考え事をしていたんだ」 「考え事?  まあ、別に構わないけどね。  それよりも、この問題……答えはこれでいいの?」 「えっと、どれどれ……」  理緒の指さすその先には、彼女が解いたと思しき計算の跡がある。  かなり苦労して解いたであろう、複雑な文字と数字の羅列を、亮太は素早く読み取ってゆく。  亮太にとっては造作もない事なのだろうが、数学嫌いの理緒は、ただただ感心する他にない。 「残念だけど、この答えは間違ってるね。  式の先頭部分だけ見て、早とちりしている感じかな」 「えっ、そうなの!?  でも、教えてもらった公式通りに解いたはずなんだけど……」 「一つの問題に対して、使う公式が一つだけとは限らないよ……。  まあ、簡単に説明すると、この計算は……」  相変わらず、理緒は数学に関しての理解が皆無のようだ。  下手に専門用語を詳しく説明したところで、返って彼女の疑問を増やすだけである。    亮太は要点だけ手短にかいつまんで話すと、一応、理緒に分かったか否かの確認をとった。  もっとも、理緒は首を縦に振っていたが、本当に理解したのかは怪しいところだ。  もうじき、昼休みも終わりを告げる。  それまでに、残る最後の一問も片付けねばならない。  亮太は理緒にそれ以上は説明をせず、さっさと最後の問題を教える事にした。 750 :迷い蛾の詩 【第弐部・繭籠り】  ◆AJg91T1vXs :2010/09/08(水) 23:28:41 ID:RCEah9PV  六月は、一年の内でも最も日の長い月である。  夏至を迎えた太陽は、冬場であれば当に暗闇に包まれている時間であるにも関わらず、何食わぬ顔をして西の空に光を残している。  もっとも、同時に雨雲に覆われ易い季節でもあるために、あまり日の長さを実感するということもないのだが。  その日、繭香は帰りのバスに揺られながら、今日の廊下でのことを考えていた。  あの時、自分でも自分のことを上手くコントロールできず、どうにもぎこちない態度を取ってしまった。  ジャージはきちんと返せたが、それ以前に、亮太から変な目で見られなかっただろうか。  あそこで逃げ出してしまうなど、どう考えても不自然な行動だ。  あんな自分の姿を見せて、幻滅されたりしないだろうか。  住宅街を右へ、左へと抜けながら走るバスの動きに合わせるようにして、繭香の頭の中にも不安が渦巻いてゆく。  ふと、窓に映った自分の顔を見ると、なんとも言えぬ沈んだ表情をしていた。  いけない。  こんなことでは、自分が見せてはならない一面を、他人に晒しているも同然だ。  公衆の面前、どこで誰が見ているか分からない。  日常の平穏を壊す鍵など、些細なところに転がっている。  例え通学中のバスの中でも、油断は禁物だ。  気がつくと、パラパラという音と共に、雨粒が窓ガラスを打っていた。  昼までは気持ち良いぐらいに晴れていたのに、夕方にはもう雨が降る。  本当に、夏の天気というものは節操がない。  繭香は手にした傘の柄を、胸元に抱きかかえるようにして握った。  無骨で飾り気のない、決して高級ではない黒い傘。  昨日、亮太がなけなしの小遣いをはたいて買ってくれた、どこにでもあるような大きめの傘。  本当ならば、この傘もジャージと一緒に返しておきたかった。  しかし、まさか廊下で傘を返すわけにもいかず、下駄箱で亮太を待ち伏せするような勇気もなかった。  まあ、傘の事は、今はいい。  これは別の機会に返すとして、もうしばらくは貸してもらうことにしよう。  そうやって、少しずつ彼に近づいて、その距離を縮めてゆけばよいのだ。  バスの壁や天井についている、停車を示すブザーが一斉に鳴った。  紫のランプが点灯し、次の停車駅がアナウンスされる。  次の停留所は森桜町。  繭香はバスの定期券を取り出すと、それを片手に車が止まるのを待った。 751 :迷い蛾の詩 【第弐部・繭籠り】  ◆AJg91T1vXs :2010/09/08(水) 23:29:39 ID:RCEah9PV  バス停から住宅街へと伸びる坂道を上がった場所に、その家はあった。  門を抜け、美しいガーデニングに彩られた庭を横目に、繭香は玄関の戸を開ける。  月野家は、確かにこの辺りでは一際裕福な家庭の一つだ。  昔ながらの下町風情が残る家が多い中、庭も車庫も付いた家というのは珍しい。  が、所詮はそれだけである。  いくら金持ちだからといって、誰もが御屋敷や御城のような豪邸に住んでいるわけではない。  そんなものは、漫画かアニメの中の世界だけでの話だ。  一部の人間が作り上げた、誇張の激しい解釈。  それは、繭香の父母に対しても同じことだった。  ロールスロイスで登校し、家には住み込みのメイドが何人もいる。  毎日、食卓には高級な料理が並べられ、父親が高価なワインを片手に豪快に笑っている。  そんな光景は、間違っても月野家の中で繰り広げられることはない。  いくら金持ちとはいえ、それでも働かねば生活して行くことはできない。  常にソファーでふんぞり返っている豪快な成金のイメージとは反対に、繭香の父は、よく仕事で家を空けていた。  付き合いとしての接待も含め、金持ちとは言っても暇を持て余しているわけではない。  母も、それは同様で、よく家を留守にすることが多かった。  専業主婦に務めるセレブな奥様もいるのだろうが、繭香の母は間違っても家に籠って趣味に耽るような人間ではない。  一流の会計士として日々慌ただしく働く、仕事のできる女性なのだ。  脱いだ靴を揃えて玄関の隅に置き、繭香はそのままリビングへと向かった。  今日も、父と母は仕事で帰りが遅くなる。  日中は家政婦の人が家の掃除や庭の手入れなどをしてくれているが、それも夕方までの話だ。  繭香の帰る頃になると、既に仕事を切り上げて帰っているのが常である。  その日、繭香が食べるための、夕食をテーブルに置いたまま。 「結局、今日も一人か……」  テーブルに残されたメモを見て、繭香はそう呟いた。  夕食は、既に家政婦の人が作ってくれたものが用意されている。  テーブルの上にラップをかけられて置かれた皿には、一人分にしては少し多い量の料理が盛られている。 「いただきます……」  米と汁物だけは自分でよそい、それらをテーブルに並べた繭香が言った。  無論、それに答える者はいない。  今は、この広い家に自分一人だけだ。  もう、何度、こうやって一人の夕食を過ごしただろう。  確かに味気なく、そして寂しいものだったが、それでも繭香は夕食の時間が嫌いではなかった。  家の中に誰もいない、夕方から夜にかけての時間。  そんな時は誰の目も気にせず、素の自分でいられるような気がしたから。  誰から見ても間違いなく高価な、しかし、自分にとっては味のしない料理を食べ終えて、繭香はそっと箸を置いた。  やはり、一人で食べるには多過ぎる。  用意された料理の三割ほどが、いつも余ってしまう。 752 :迷い蛾の詩 【第弐部・繭籠り】  ◆AJg91T1vXs :2010/09/08(水) 23:30:47 ID:RCEah9PV  残すのは勿体ないと思いつつも、繭香はそれ以上箸を手にするのを止めた。  なにも、無理して食べる必要はない。  露骨に残せば両親から嫌な顔をされたが、いつも通り、残りはこっそり捨ててしまえばいいのだ。  夕食の残りを隠すようにゴミ箱へ捨て、繭香はそのまま自分の部屋へと向かった。  学生鞄をベッドの傍らに置くと、中から今日の学校で出された宿題を取り出して机に向かう。  決められた勉強を終え、汗を流すために風呂に入り、その後はテレビを見て過ごす。  家に他の人間が誰もいないことを除けば、世間一般の女子高生が送っているであろう、ごく平凡な日常。  唯一の違いは、今見ているテレビの内容を、共に語らう仲間がいないことくらいだろう。  周りの者は、自分に対して清らかで穢れの無い印象を抱いている。  そのことが、過剰とも言える無言の要求として、繭香のことを縛りつける。  学業は、常に完璧に修めること。  俗悪なテレビなど見ず、余暇は読書をして過ごす事。  確かに悪くはない生活かもしれないが、それだけでは息が詰まってしまう。  高校生にもなって、両親に隠れてテレビを見ていることが、唯一の息抜きとは情けない。  番組が終わりCMに切り替わった辺りで、繭香の携帯電話が唐突に鳴った。  着信音から、電話ではなくメールだと判断する。 ―――― 今日は、仕事で遅くなります。 ―――― 帰りは11時くらいになりそうです。  メールの相手は母だった。  今日は、父も接待で帰りが遅くなる。  夜更かしをしていても何の得もないため、繭香は早々にテレビを消して寝る事にした。  家の鍵を閉めたことを確認し、再び二階にある自室へと向かう。  部屋の電気を消すと辺り一面が闇に包まれたが、すぐに淡い光が窓から射し込んだ。  カーテンの隙間から、月の明かりが部屋の中を照らしているのだ。  ベッドの上で身体を丸めながら、繭香はその日にあった色々な出来事を思い出す。  暗闇の中で独り回想に浸るのは、幼い頃からの癖だった。  朝、自宅を出て学校へ向かう自分。  その日の授業は無難に終え、昼休み、真っ先に亮太のいる教室まで向かった。  腕には彼から借りたジャージをしっかりと抱え、妙に落ち着きのない様子で辺りを見回している。  お目当ての相手は見つからず、結局、その辺にいた男子を捕まえて亮太を呼び出した。  程なくして、教室から亮太が姿を現す。  彼の顔が目に入った途端、心なしか胸の鼓動が激しくなっていたのを思い出した。 (陽神君……)  そこまで考えた時、繭香の回想はふっつりと途切れた。  頭の中に浮かぶのは、出会ったばかりの亮太の顔。  彼のことを考えているだけで、妙な高揚感に陥ってくる。  暗闇の中、顔を紅潮させたまま、繭香は右手をそっと自分の胸の上に添えた。  ネグリジェの上から自分の胸を掴み、撫でるように手を動かす。 753 :迷い蛾の詩 【第弐部・繭籠り】  ◆AJg91T1vXs :2010/09/08(水) 23:31:44 ID:RCEah9PV 「んっ……ふぅ……」  まだ、寝巻の上から触れているだけだというのに、早くも気持ちが高ぶってくるのを感じた。  我慢できず、繭香は右手を寝巻の首元から服の中へと挿し入れる。  そのまま左の胸に触れ、それを激しく動かした。 「あ……んっ……やぁっ……」  寝巻の下で、繭香の右手だけが、まるで別の生き物のように動き回る。  撫でるような動きから、それは徐々に、彼女の胸の膨らみに食い込むようなものに変わって行く。  衝動に任せるままに、繭香は左手を寝巻の裾野の中へ伸ばしていった。 「んっ……んんっ……ぁぁ……はぁっ……」  下着の上から触れただけでも、既に身体の奥から熱いものが溢れているのが分かった。  躊躇う事なく、繭香は下着の中へと左手を滑り込ませる。  そのまま自分の敏感な部分を弄り、徐々に激しく動かしてゆく。  時に優しく、時に大胆に、繭香は自分の最も熱くなっている部分を指で刺激した。  その度に、身体の中を何かが這いずるような快感が襲う。  呼吸が荒くなり、胸をつかむ右手からも、自身の激しい鼓動をはっきりと感じられた。  左手の先は温かい液体で濡れ、止め処ない衝動が彼女の理性を徐々に崩壊させてゆく。  自分はいつ頃から、このような行為に耽ることを覚えたのだろうか。  詳しいことは思い出せなかったが、少なくとも、中学に上がって間もない頃から、既に手を出していたと思う。  いつも、周りの人間に見せている、清純で清楚な自分。  そんな姿からは想像できないほどに、今の自分は淫らで背徳的だ。  陽神亮太は、自分の名前を綺麗と言ってくれた。  確かに、繭香の繭という文字は、穢れなき白さを連想させる言葉だ。  普段、自分の周りにいる人間が思っている、清らかな姿に相応しい。  だが、そんな美しい繭の中にあるのは、卑小で薄汚い茶色の蛹である。  自分では木の枝に縋りつくことさえもできず、ただ繭の中に籠り、羽化の時を待つだけの存在。  そして、繭を破り、その蛹から姿を現す者もまた、決して人に好かれるような存在ではない。  純白の繭を破り現れるのは、醜く不格好な一匹の蛾。  太陽の光の下、美しく舞う蝶ではなく、その醜さ故に、宵闇の中を舞うことしか許されない者。  繭とは、そんな蛹や蛾の姿を包み隠し、外の世界から守るための壁だ。 754 :迷い蛾の詩 【第弐部・繭籠り】  ◆AJg91T1vXs :2010/09/08(水) 23:32:29 ID:RCEah9PV  初対面であるにも関わらず、亮太は繭香に真っ直ぐに向き合ってくれた。  彼ならば、自分の本当の姿を受け入れてくれそうな気もしてしまう。  だが、果たしてそんな亮太でも、今の自分を受け入れてくれるだろうか。  月光の下、独り背徳的な行為に耽る、こんな自分の姿を。  外目には美しい繭の姿しか見せず、その中で蠢いている醜い蛹を。 「ひ、陽神君……」  亮太がいかに心の広い人間でも、やはり嫌われてしまうかもしれない。  こんなことは、本当は直ぐにでも止めねばならないのかもしれない。  しかし、気持ちとは反対に、自分の身体を慰める手は止まらない。  昨日会ったばかりの相手を想い浮かべながら、闇の中で自慰に及ぶ。  相手に失礼な事だと分かっていても、その事実が余計に、繭香の身体と精神を刺激してゆく。 「き……嫌いに……なら……ない……で……」  そう、口から漏らした瞬間、繭香の全身を痺れるような快感が走った。  一瞬だけ、体を仰け反るようにした後、そのままベッドに沈みこんで動かなくなる。  未だ火照った身体を冷ましながら、繭香は左手を寝巻の中からそっと引き抜く。  虚ろな表情はそのままに、人差し指を口に咥えた。  暗闇は、繭の中の自分をさらけ出せる数少ない場所だ。  そんな事を考えながら、繭香は月明かりに照らされたまま、未だ身体の奥に残る快楽に身を任せていた。

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