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258 :迷い蛾の詩 【第五部・妖変化】  ◆AJg91T1vXs :2010/09/19(日) 18:47:34 ID:YGAbCuqa  試験の当日というものは、誰しも嫌な気分になるものである。  できれば、今日は学校に行きたくない。  そんな気持ちに駆られるものの、結局は行かざるを得ないという現状。  この日本において、多くの中高生が感じていることだろう。  だが、そんな中にも、真面目に試験を受けようと考えている者は存在する。  そういった者は、試験当日の朝早くから、何の躊躇いもなく学校に来ているというのが相場である。  それこそ、不安な顔一つせずに、どこか自身に溢れた表情で。  その日、繭香はいつもより早く学校へと向かった。  今日は定期試験の最終日。  これが終われば、後は夏休みを待つだけとなる。  試験の日はいつも早めに起きると決めていた繭香ではあるが、今朝の早出の理由はそれだけではない。  校門をくぐり、生徒用の通用口で足を止める。  早朝ということもあり、辺りに生徒の姿はほとんどない。 「ちょっと、早く着き過ぎちゃったかな?」  そう言って、辺りを見回す繭香だが、やはり周囲に人の姿はまばらだ。  時刻を見ると、午前七時半。  試験の開始時刻までには、まだ相当の時間がある。  とくにするべきこともなく、繭香は下駄箱に寄りかかったまま、ぼうっと天井を仰いだ。  時折、鞄の中から取り出した単語帳に目を通し、雑念を払うような素振りを見せる。  やがて、十分程すると、今まで静かだった通用口にも生徒の影が見え始めた。  その中に目的の人物の姿を見つけ、繭香は単語帳をしまって側まで駆け寄る。 「おはよう、亮太君」 「ああ、おはよう。  繭香は、今日は随分と早いんだな」 「そんなことないよ。  私も、今さっき着いたばっかりだし」  待ち伏せしていたとは、さすがに言えなかった。  あくまでさりげなく、それでいて確実に、自分の伝えたいことを告げること。  そのためならば、この程度の嘘をつくことは平気だった。 「ねえ、亮太君」  視線だけを上に上げ、繭香が亮太の顔を覗き込むようにして問う。  恥じらいの中に見せる精一杯の感情が、繭香の存在を亮太にも否応なしに意識させる。 259 :迷い蛾の詩 【第五部・妖変化】  ◆AJg91T1vXs :2010/09/19(日) 18:48:10 ID:YGAbCuqa 「今日、試験が終わった後……何か、用事とかあるのかな?」 「用事?  いや、別にないよ。  今日も午前中で学校は終わるけど、俺の部活が再開されるのは明後日くらいからだし……」 「だったら……今日、私と一緒に早瀬川の花火大会に行ってくれるかな?  あっ……でも、他にやりたい事があるなら、別にいいんだけど……」  繭香の口から出た、唐突な申し出。  思わず目を丸くする亮太だったが、特に断る理由は見つからなかった。  花火大会のことなど完全に頭から抜けていたが、別に何か他の用事があるわけでもない。  それに、誘われて悪い気がしなかったと言えば、それは嘘になる。 「ああ、いいよ。  俺も、特に用事はないしね。  でも……待ち合わせの場所とか、どうするつもりだい?」 「それなら、森桜町のバス停にしようよ。  私の家からも近いし、早瀬川までも、歩いてそんなにかからないから」  そういえば、森桜町のバス停は早瀬川にも近かった。  待ち合わせ場所としては、少々無粋なような気もしたが、代わりの場所を聞かれると言葉に詰まってしまう。  他に良い場所も思いつかず、亮太も繭香の提案に頷いた。 「それじゃあ、待ち合わせ場所はそこでいいかな。  時間だけど……六時くらいでも大丈夫?」 「私は何時でも平気だよ。  今日の六時だね……。  ちょっと、今からでも楽しみかな……」 「おいおい……。  その前に、まだ残りの試験があるのを忘れない方がいいよ。  繭香のことだから大丈夫だとは思うけど……これで追試とかになったら、洒落じゃ済まないし」  亮太は冗談のつもりで言ったようだが、繭香は笑わなかった。  代わりに、少し照れた顔を隠すようにして、亮太からそっと視線をそらす。  時刻は既に、八時を回ろうとしていた。  辺りには、次第に登校してくる生徒の姿も増えてくる。  亮太と繭香は互いに今日の試験について話しながら、そのまま教室へと続く階段を昇った。  花火大会のことは、あえて今は触れないでおく。  余計なことに気を散らせ、先ほどの冗談が現実になってしまったら元も子もない。  やがて、C組の教室が見えたところで、繭香は亮太を見送った。  もうじき予鈴が鳴りそうな時間ではあったが、しばしの間、繭香は去り行く亮太の後姿に見惚れていた。 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ 260 :迷い蛾の詩 【第五部・妖変化】  ◆AJg91T1vXs :2010/09/19(日) 18:48:48 ID:YGAbCuqa  辛い時間というものも、終わってしまえば呆気なく感じる。  その日の試験を全て終え、天崎理緒は大きな欠伸と共に腕を伸ばした。 「ふわぁ~。  終わった、終わった……色んな意味で」  折り畳んだ試験問題を無造作にクリアファイルの中に放り込み、理緒は早々に鞄を肩にかけて席を立つ。  教室には未だ試験の答え合わせ大会を行っている者もいるが、正直言って、あんな輪の中に入ろうとは思わない。  入ったところで、恥をかいて笑いのネタにされるのが関の山である。  試験など、追試の恐怖から逃げられれば、それで良い。  談笑を続ける級友達の姿を尻目に、理緒は自分の斜め右上にある席へと向かって歩いた。  その席では、同じく試験を終えた亮太が、やはり帰り支度を進めている。 「ねえ、亮太。  今日の夕方だけど、何か用事とかあったりする?」 「なんだ、理緒か。  どうして、急にそんなこと聞くんだよ」 「どうしてって……。  今日は、早瀬川の花火大会があるでしょ。  亮太が暇してるんなら、一緒に行ってもいいかなって思ったんだけど」 「ああ、そういうことか。  だったら、悪いけど他を当たってくれないかな。  今日は、ちょっと先約が入ってるからさ」 「なぁんだ、残念。  まあ、そういうことなら、私は私で別に友達を誘おうかな」  口ではそんな事を言いながらも、理緒はどこか名残惜しそうな顔をして亮太を見る。  しかし、そんな彼女の気持ちとは裏腹に、亮太は独り鞄を手に教室を出て行った。 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ 261 :迷い蛾の詩 【第五部・妖変化】  ◆AJg91T1vXs :2010/09/19(日) 18:49:33 ID:YGAbCuqa  何かを待っている時というものは、同じ時間でも妙に長く感じられるものである。  特に、楽しみにしているものを待つ時の時間は、同じ一分一秒でも一時間程に感じてしまうから不思議だ。  ましてや、これが数時間ともなれば、悠久の時のように感じると言っても大げさではない。  自室で浴衣の着付けを済ませ、繭香はふと壁にかかっている時計に目をやった。  待ち合わせの時間までは、まだ小一時間ほどもある。  逸る気持ちを抑えようとするも、どうしても無題にそわそわしている自分がいる。 ――――コツン……。  ふいに、乾いた音が繭香の部屋の窓を叩いた。  思わず目線を音のする方へ移すと、そこには一匹の白い蛾の姿があった。  何かに縋り、追い求めるようにして、蛾は不器用にその羽をバタつかせる。  時折、窓に張り付いては羽の下に隠された腹を見せるものの、すぐにまた飛び立ち、見えない壁に身体をぶつける。  夏至を過ぎたとはいえ、まだ七月に入ったばかりの頃。  夜の帳が世界を包むまでには、ほんの少しだけ早い時刻。  だが、宵闇に紛れて蠢く虫たちは、徐々に活動を始めているようだった。  繭香の見つめるその先で、白い蛾は何度も窓ガラスに身体を叩きつけている。 ――――コツン……コツン……コツン……コツン……。  断続的に聞こえて来るその音に、繭香は耳を向けたままガラス窓の側に立った。  そのまま右手を窓に添え、懸命に羽を動かす蛾の姿に目を落とす。  追い払うでもなく、気味悪いと声を上げることもない。  ただ、無言のまま、窓辺で羽ばたく蛾を見つめていた。  入相の鐘に誘われ、彼らは光を求めてやって来る。  己の醜い姿を昏黒の闇に隠し、決して届かないと知りながらも、命果てるまで光を求める。  机のスタンドの灯りをつけ、繭香は代わりにそれ以外の灯りを全て消した。  ぼんやりと、淡く優しい光が部屋に溢れ、窓の外の蛾は興奮したように宙を舞う。  例え、刹那の泡影であったとしても、光を求めたいという想いは繭香も同じだ。  そんな迷い蛾から光を奪ってしまうのは、どうにも無粋なことに思えたのである。 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ 262 :迷い蛾の詩 【第五部・妖変化】  ◆AJg91T1vXs :2010/09/19(日) 18:50:18 ID:YGAbCuqa  亮太が森桜町のバス停に着いた時、そこには既に繭香の姿があった。  思わず遅刻したかと思ったが、時計を見ると、まだ十分ほどの余裕がある。  一瞬、慌ててしまったものの、どうやら繭香の方が先に着いていただけのようだ。 「ごめん、待たせたかな?」 「ううん、平気だよ。  なんだか焦らせちゃったみたいで、ごめんね」  肩で息をしながら駆けこんできた亮太に、繭香は笑顔でそう答えた。  そんな彼女の顔を見て、亮太はしばし繭香の方を向いたまま言葉を失う。  普段は見る事さえ叶わない、浴衣姿の繭香。  時折、降ろした髪が風に揺れ、腰に巻かれた青い帯が涼しげな空気を演出している。  白い布地に描かれた薄紫の花からは、ほのかに甘い香りさえ漂ってきそうな気さえした。  昨今の、黄色やピンクに彩られた派手な浴衣ではない。  雨露を糸にして織り込んだような、爽涼さを感じさせる美しさだった。 「どうしたの、亮太君?」  自分を見つめたまま固まっている亮太の顔を、繭香が怪訝そうな表情で覗き込む。  下から見上げられているような視線を感じ、亮太は慌てて言葉を返した。 「いや、浴衣っていうのも、なんだか新鮮だなって思ってさ。  俺、いつも学校にいる繭香しか知らないから……」 「そんなこと言ったら、私だって、学校にいる亮太君しか知らないよ。  だから、今日は私も学校以外の亮太君が知れて、ちょっと嬉しいかな」  それ以上は、互いに言葉を交わすことが躊躇われた。  なんとなく、微妙な空気がバス停に流れる。  話題をそらそうと、亮太は繭香の手にしている紙袋に目を向けた。 「ところで……その手に持っている袋、なんだい?」 「残念だけど、今は秘密。  花火大会が終わったら、教えてあげる」 「そうなんだ。  だったら、俺も楽しみは最後までとっておくよ」 「うん。  でも、あんまり期待しないでね」  袋の中身を見られないように隠しつつ、繭香は亮太に向かって微笑んだ。  普段は大人しく、感情の起伏さえも見せない繭香。  それだけに、彼女のこういった何気ない仕草にも、亮太は一々反応してしまいそうになる 263 :迷い蛾の詩 【第五部・妖変化】  ◆AJg91T1vXs :2010/09/19(日) 18:51:02 ID:YGAbCuqa  早瀬川の河川敷までは、バス停から歩いて直ぐの場所だ。  談笑しながら歩いていると、いつも以上に短い距離に感じられるのは不思議なものである。  二人が河に着いた時、既にそこは見物客で溢れかえっていた。  橋の上の歩道は人でひしめき合い、その一部は車道にはみ出ている。  一応、車一台が通る程度の隙間はあるものの、こんな危険な場所に、わざわざ車で乗り入れる者もいないだろう。  どうやら交通規制も入っているらしく、今日はちょっとした歩行者天国のようになっている様子だ。 「はぁ……。  それにしても、凄い人だな……。  こんなことなら、俺だけ先に来て、場所を確保しておけばよかったかも」 「そうだね。  でも、私は別に気にしてないよ。  亮太君と一緒に花火が見られれば、それでいいから……」  最後の方に言った言葉は、人ごみの中に響く雑音に混じってかき消された。  亮太は目ざとく人と人の間にある隙間を見つけ、そこに繭香を手招きして誘う。  橋の手すりに腕を乗せて、二人は夜のカーテンが落ち始めた空を無言のまま見上げた。  河川敷に取り付けられたスピーカーから、何やら低い声が聞こえて来る。  雑音が酷く、殆ど何を言っているか分からないものの、それが花火大会の開始を意味するものであることだけは理解できた。  一瞬、今まで好き勝手に話をしていた観客達の目が、夜空の向こうに釘づけとなる。  宵の河に流れる涼しい風が頬を撫で、夜空に花の咲く瞬間を待ち続ける。  祭りの開始は唐突に訪れた。  白く輝く尾を引いて、第一の蕾が天高く昇る。  その蕾が轟音と共に花開いたのをきっかけに、次々と夜空を彩る花の蕾が打ち上げられた。  赤、白、黄色、大小様々な花が、夜の空を飾ってゆく。  バチバチと、何かが弾けるような音を立て、夜空に散った花びらは風ながされ消えてゆく。  ふと見ると、橋の下に流れる河も、その水面に夜空に咲く花の姿を映し出していた。  風に揺れる水面の中で、ぼんやりと輝く光もまた幻想的である。  どれくらい、二人で夜空を眺めていたのだろうか。  気がつくと、第一弾の打ち上げは幕を閉じていた。  これから第二弾の打ち上げに入るようだが、そのための準備には少し時間がかかるらしい。  束の間の夢から解放され、時間は再び動きだした。  にわかに人の数も増え、橋の上の熱気はますます上昇してゆく。  先ほどまでは、夜風に当たりながら空を見上げることができたものの、この混み具合ではそんな悠長なことも言っていられそうにない。 264 :迷い蛾の詩 【第五部・妖変化】  ◆AJg91T1vXs :2010/09/19(日) 18:51:56 ID:YGAbCuqa 「ちょっと、混んできたみたいだね。  今の内に、少し空いている場所に移ろうか」 「そうだね。  実は……私も人混みの中にいるのは、あまり好きな方じゃないんだ」  人の発する熱気は、独特の重さと匂いがある。  中には全く気にしない者もいるが、大抵の場合、長時間さらされれば息が詰まってしまうのが普通だ。  橋の上から河川敷のベンチまで移動すべく、亮太は人と人の間を掻き分けて脱出を試みた。  しかし、既に観客の数は亮太の予想を超えており、なかなか思うように前へと進めない。 「待って、亮太君!!」  後ろで繭香の呼ぶ声がする。  このままでは、人に押されて離れ離れになってしまわないとも限らない。 「大丈夫かい、繭香。  ちゃんと、ついて来れる?」 「ちょっと……無理かも。  あの……はぐれないように、手を繋いでもらってもいいかな?」  年頃の少女と手を繋ぐという行為に、亮太とて恥じらいの気持ちがないわけではない。  が、今は状況が状況だ。  このまま繭香を置いてゆくわけにもいかず、亮太は仕方なく彼女の手を引いて人混みの中に足を踏み入れた。  目の前に立ち並ぶ人の山を、簡単な謝罪の言葉を述べて掻き分ける亮太。  その左手は、しっかりと繭香の右手を握っている。  時折、無理に押されて手を離しそうになったが、なんとか無事に人の山を抜け出した。 「ふぅ……。  さすがに、この時間になってくると人も多いな。  ちょっと、その辺のベンチで休もうか」  幸い、橋から少しはなれたベンチの周りには、人の姿もまばらだった。  亮太は繭香を座らせると、自分は側にあった自販機に硬貨を放り込んでボタンを押す。  同じ種類のお茶を二つ買い、その内の一つを繭香に手渡した。 「これ、飲みなよ。  こう暑いと、喉も乾いていると思うから」 「うん、ありがとう」  手渡されたペットボトルの蓋を開け、繭香はそっと口をつけた。  冷たいものが喉の奥に流れ込み、火照った身体を冷ましてゆくのが分かる。  いつもは決して美味しいと思わない自販機のお茶も、今日は何故か抵抗なく飲むことができた。 「しっかし、凄い人混みになってきたな……。  繭香、人混みが苦手だって言ってたけど……大丈夫?」 「さっきは少し息苦しかったけど、今はもう平気だよ。  ちょっと休んだら、また花火がよく見える場所を探そう」 「そうだな。  ここからじゃ、木の陰になって、あんまりよく見えそうにないし」 265 :迷い蛾の詩 【第五部・妖変化】  ◆AJg91T1vXs :2010/09/19(日) 18:52:38 ID:YGAbCuqa  そう言って、亮太はベンチの上に枝を広げているポプラの木を見上げた。  真夏の暑い盛り、昼間は木陰で休む人に安息を与えているはずの、大きく張り出した梢を持っている。  そんな木に対して失礼ではあるが、花火を見るのには、少しだけその存在が邪魔となった。  河の水面を撫でるようにして走る風が、ポプラの梢をざわざわと揺らした。  決して強い風ではなかったが、それでも木々のざわめきは、亮太と繭香の二人に近づく足音を消すには十分だった。 「あっ、亮太じゃん!!」  突然、横から名前を呼ばれ、亮太は声のする方に顔を向けた。  見ると、そこには繭香と同じく浴衣に身を包んだ、『腐れ縁』の相手がいる。  もっとも、赤い浴衣に黄色い帯という装いは、繭香のそれとはまるで正反対であるが。 「えっ……理緒?  どうして、君がこんなところに……」 「何よ、それ。  私が花火大会に来たら、何か悪い事でもあるの?」  驚く亮太に、わざとむくれて見せる理緒。  心なしか、どうにも機嫌が悪いように思われる。  今日の試験が終わった時に、亮太は理緒の誘いを断った。  もしや、そのことで腹を立てているのだろうか。  だとすれば、形だけでも謝っておかないと、面倒なことになりそうである。  だが、そんな亮太の考えなど関係なく、理緒は亮太の持っていたペットボトルを彼の手から奪い取った。 「亮太の持ってるやつ、美味しそうじゃん。  喉乾いたし、ちょっとだけくれない?」  そう言って、止める間もなく蓋を開ける理緒。  亮太が席から立ち上がった時、既に理緒は彼の手から奪ったお茶を口にした後だった。 「ああ、生き返る!!  やっぱ、亮太は最高の親友だね!!」 「勝手に飲んでおいて、よく言うよ。  しかも、それ、俺の飲みかけだってのに……」 「あっ、そういえば、そうだったね。  じゃあこれ、亮太と間接キスってことじゃん。  うわぁ~、やっちゃったよ、私!!」 266 :迷い蛾の詩 【第五部・妖変化】  ◆AJg91T1vXs :2010/09/19(日) 18:53:15 ID:YGAbCuqa  間接キス。  その言葉の部分だけを事更に強調し、理緒は大げさにはしゃぐような素振りを見せた。  辺りに流れる微妙な空気など関係なく、どこか露骨に、見せつけるようにして跳ねている。 「あの……私……」  先ほどから、事の成り行きを見ていた繭香も席を立った。  その顔は、どことなく寂しげに、そして悲壮感に包まれている。  それこそ、先日E組の教室の前で見せた、灰色に淀んだ瞳に勝るとも劣らない。 「私……もう、帰ります……。  やっぱり……ちょっと、気分が悪いので……」 「気分が悪いって……。  大丈夫なのか、繭香?」  独りで勝手に盛り上がっている理緒を他所に、亮太は繭香の方へと身体を向けた。 「はい……。  やっぱり、あの人混みに戻るのは、ちょっと辛くて……」  人混みが苦手なのは、繭香の本心だ。  しかし、気分が悪いのは、何も人混みだけのせいではない。  亮太のいる手前、彼に心配をかけたくないという気持ちも確かにある。  が、それ以上に、今は自分の目の前にいる相手に対し、強い嫌悪の念を覚えてならない。  これ以上、この場にとどまれば、今の自分の心境が表に出るのを抑えきれそうになかった。 「ねえ、なにしてるの、亮太。  早く戻らないと、次の花火、始まっちゃうよ」  独り帰ろうとする繭香のことなど眼中にないかのように、理緒が亮太のことを急かす。  服の袖を引っ張って、強引に橋の方へと連れて行こうとする。  だが、そんな理緒の手を冷たく振り払うと、亮太は俯いたまま夜道を帰ろうとする繭香の側に駆け寄った。 「悪い、理緒。  俺、繭香を送って行くよ。  気分が悪いって言ってるのに、放っておけるわけないしさ」  片手を上げ、形だけの挨拶を済ませると、亮太は繭香と足並みを揃えて歩き出した。  歩く速さも半分に、あくまで繭香の歩幅に合わせて足を出す。  時折、繭香の体調を気遣う素振りを見せながら、寄り添うようにして暗がりの道を進んでゆく。  二人の姿は、いつしか宵の闇へと消えていた。  後に残されたのは、ポプラの木の前に佇む天崎理緒、ただ一人。  夜風に吹かれながら見つめるその先には、既に誰の姿もとらえることはできなかった。 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ 268 :迷い蛾の詩 【第五部・妖変化】  ◆AJg91T1vXs :2010/09/19(日) 18:54:01 ID:YGAbCuqa  早瀬川にかかる橋から程なく離れた場所に、その神社はあった。  祭りや正月の時期ともなれば賑わう境内も、今はただ静寂に包まれている。  時折、そよ風が木々の葉を揺する音が聞こえてくる以外は、他に何の音も聞こえてこない。  人のいない神社の境内。  その、社の縁側で、亮太と繭香は夜の風に身を涼ませていた。  二人の手にあるのは、昔ながらの線香花火。  吹けば飛んで消えるような小さな火だが、それでも懸命に火花を散らしている姿を見ると、どこか懐かしい気持ちに包まれる。 「ごめんね、亮太君。  私が気持ち悪いなんて言ったから、結局、花火大会を最後まで見れなくて……」 「いや、別に構わないよ。  それに、こうして二人だけの花火大会をするっていうのも、いいものだと思うよ」  バス停で、繭香が隠すようにして持っていた紙袋の中身。  それこそが、今、二人の手につままれている線香花火だった。  どうやら繭香は花火大会が終わった後に、亮太と二人きりで楽しむつもりだったらしい。  迫力という点では全く敵わないが、繭香にとって、早瀬川の花火大会はあくまで前座だ。  本当の本番は、二人だけでする線香花火だったのだから。  パチパチと、何かが弾けるような音がして、線香花火の光が亮太の顔を橙色に照らす。  特に何かするわけでもないが、こうして同じ時を過ごしているだけで、繭香は幸せだった。  夜の神社に二人きり。  周りには、亮太と繭香の邪魔をする者は誰もいない。  学校の噂好きの級友達も、あの無神経な天崎理緒もいないのだ。 (このままずっと……明日にならなければいいのに……)  一度、そう思い始めると、感情が溢れるのを止められそうになかった。  それでもなんとか堪えようと、繭香は新しい花火に手を伸ばす。  何かをしていないと、高揚する気持ちが抑えきれなくなりそうで怖かった。  だが、繭香が新しい花火に火をつけようとしたその時、乾いた羽音と共に、一匹の蛾が迷い込んできた。  花火の火種として、縁側に立てていた一本の蝋燭。  その灯りに釣られ、迷い出てしまったのだろう。 ―――― バサッ!!  一瞬、繭香が手にした花火を落としそうになるくらいの音を立て、白い羽の蛾は蝋燭の炎に飛び込んだ。  薄く、白い羽が瞬く間に炎に包まれて、見る見るうちにその身を焼き焦がしてゆく。  赤い焔によって翼をもがれた蛾は、そのまま落ちて、じたばたともがく。  気がつくと、蝋燭の炎は完全に消えていた。  その下では先ほどの蛾が仰向けになり、微かに足を震わせている。 269 :迷い蛾の詩 【第伍部・妖変化】  ◆AJg91T1vXs :2010/09/19(日) 18:55:04 ID:YGAbCuqa (可哀想に……。  でも……あなたも、光が欲しかったんだね……)  この歳の少女であれば、その殆どが薄気味悪いと言って近寄ることさえしない虫。  しかも、翼をもがれて芋虫同然の姿となった、無様な死体。  そんな迷い蛾の慣れの果てを、繭香はそっと慈しむように愛でた。  己の姿を白昼に晒すことを恐れ、夜の帳が下りた世界でしか飛ぶ事を許されない迷い蛾。  そんな彼らが恋焦がれるのは、己の身を焼き尽くさんばかりの眩い光。  光に触れれば、破滅することは分かっている。  分かっているはずなのに、それでも光を求めてしまう。  いつしか繭香は、そんな迷い蛾の姿に自分を重ね合わせていた。  もっと、自分を見て欲しい。  もっと、自分を分かって欲しい。  その光を、自分だけのものにしたい。  それらの気持ちが限界まで高まった時、迷い蛾は躊躇うことなく炎へと身を躍らせた。  ならば、自分はどうだろう。  今の自分もまた、亮太に対する想いを抑える事ができないのではないだろうか。  この感情の高まりを、解き放っても良いのではないだろうか。 「ねえ、亮太君……」  蝋燭が消え、月明かりだけが照らす中、繭香はそっと亮太の方へ身体を向けた。  その瞳はどこか艶っぽく、声色はいつも以上に甘美なものになっている。 「私……もう、我慢できないよ……」  そう言うが早いか、繭香は亮太の胸に飛び込んだ。  いや、飛び込んだというのは、少々語弊がある。  強引に押し倒すと言った方が正しい形で、繭香は亮太の上に自分の身体を重ね合わせた。 「ちょっ……!!  ま、繭香!?」  突然のことに、驚きを隠せないまま繭香を見つめる亮太。  しかし、そんな亮太の言葉など聞こえていないのか、繭香はそのまま亮太の首の後ろに両手を回した。  頭を抱きかかえるようにして顔を近づけ、一切の躊躇いなしに唇を重ねる。 「んっ、ちゅっ……ふぁ……んんっ、ちゅっ……れろっ……はぁ……」  口と口を軽くつけるような、ソフトなキスではない。  まず、繭香の舌が亮太の口の中に入り、それから絡め取るようにして口の中で暴れた。  細く、柔らかく、それでいて熱い感触。  それは、亮太の全てを食らいつくさんばかりに、彼の中で激しく動く。  繭香の舌先が口内を這いずりまわる度に、顎の筋肉が徐々に弛緩してゆくのが分かった。 270 :迷い蛾の詩 【第伍部・妖変化】  ◆AJg91T1vXs :2010/09/19(日) 18:56:04 ID:YGAbCuqa  いったい、自分はなにをされているのか。  なぜ、このような状況になってしまったのか。  崩壊しそうになる理性を懸命に繋ぎ止めながら、亮太は混乱した頭で考えた。  が、正しい答えなど出るわけもなく、そのまま繭香に翻弄されてゆく。 「んっ……はぁ……」  唾液を糸のように引いたまま、繭香は亮太からそっと口を離した。  その目は既に、亮太の知る繭香のものではない。  なにか憑かれたようにして、溢れ出る感情を直接ぶつけてくる。 「どうしたんだよ、繭香……。  急に……こんなこと……」  持てる理性を全て使い、抵抗を試みたが無駄だった。  繭香は浴衣の胸元をはだけると、亮太の腕をつかみ、耳元で囁く。 「ねえ、亮太君。  私、亮太君のこと、本当に好きなんだよ……  今も、こんなに胸の奥が熱いんだよ……」  そう言って、自分の胸に亮太の右手を押し当てた。  絹糸のように白い肌が露となり、押し当てられた右手が吸いつくように繭香の胸に沈む。  掌に繭香の鼓動が伝わり、亮太は自分の中の欲望が物凄い勢いで膨らんでゆくのを感じた。  このまま、勢いに任せて抱いてしまおうか。  ふと、そんな邪な考えが頭をよぎる。  その間にも、繭香は亮太の腕を自分の胸に当てたまま、再び唇を重ねてくる。  もう、理性を保つのは限界に近かった。  このままでは、本当に成されるがまま、感情に任せて繭香を求めてしまう。 「ちょっ……駄目だよ、繭香!!」  残された最後の理性を振り絞り、亮太は繭香の身体をなんとか押しのけた。  その、意外な行動に、今度は繭香の方が驚きを隠せない。  社の縁側に腰をついたまま、茫然とした表情で亮太を見つめる。 「ど、どうして……!!  私……亮太君のこと、本当に好きなのに!!  こんなに……こんなに好きなのに!!  やっぱり、私なんかじゃ駄目なの!?  亮太君も……私の事、重いとか考えてるの!?」  繭香の目に、溢れんばかりの涙が浮かんできた。  その顔は、既に先ほどの、亮太を魅了していた時のものではない。  理緒の噂話を耳にして、亮太の目の前から走り去った時の灰色の瞳だ。 「違う……。  そうじゃないんだよ、繭香」  今はまず、繭香を落ち着かせねばならない。  そう頭では分かっているものの、亮太の口からも上手い言葉が出ない。 271 :迷い蛾の詩 【第伍部・妖変化】  ◆AJg91T1vXs :2010/09/19(日) 18:56:39 ID:YGAbCuqa 「だったら、どうして拒むの!?  私は、亮太君と一緒になれるなら、なんだってするよ!!  亮太君がして欲しいことも、なんだってしてあげるよ!!  なのに、どうして……どうして、本当の私を見てくれないの!?」  繭香の手が、亮太の腕を再びつかんだ。  しかし、亮太はそんな繭香の手を握ると、そっと彼女の胸元に押し戻す。 「ごめん……。  俺も、繭香のことは嫌いじゃないけど……。  でも、やっぱり……いきなり、こういうのって無いと思う」 「なんで!?  どうして!?  迷う必要なんてないんだよ!!  躊躇う必要なんてないんだよ!!」  白い肌を露にしたまま、なおも亮太に懇願する繭香。  それでも亮太は、小さく項垂れたまま答えることはない。  月明かりの下、時間だけが無情に過ぎてゆく。  遠くから聞こえていた打ち上げ花火の音も、いつの間にか消えていた。  一秒が一時間にも感じられる程に、辛く重い時間。  これ以上は、繭香の心が耐えられそうになかった。  そして、それは亮太にとっても同じことだ。 「……行こう、繭香」  そう、手を差し伸べたものの、繭香は何の返事もしなかった。  縁側に座したまま服の乱れを直し、音もなくその場で立ち上がる。  光のない、灰色に淀んだ目。  その奥に見えるのは、夜の空よりも濃い深淵の闇。  差し伸べられた手を取らず、繭香は黙ってその場を走り去った。  慌てて追いかける亮太だったが、繭香は何も言わず、そのまま神社の石段を駆け下りて行く。  そして、石段に続く道を曲がったところで、繭香の姿は闇に消えた。 「繭香……」  暗がりの中、街灯の灯りだけを頼りに、亮太は繭香の後を追う。  が、既に路地裏にでも入り込んでしまったのか、繭香の姿を見つけることはできそうになかった。 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ 272 :迷い蛾の詩 【第伍部・妖変化】  ◆AJg91T1vXs :2010/09/19(日) 18:57:35 ID:YGAbCuqa  祭りというものは、終わってしまえば至極呆気ないものである。  つい先ほどまでは花火大会で盛り上がっていた早瀬川も、今はもとの静寂を取り戻していた。 「はぁ……。  結局、何もできないまま終わっちゃったか……」  見物客の去った橋の上で、天崎理緒は独り呟きながら溜息をつく。  自分が亮太のことを意識し始めたのは、いったい何時の頃からだろう。  きっと、かなり以前から、心のどこかで気になっていたはずだ。  もっとも、そんな自分の気持ちに気づいたのは、ごく最近のことなのだが。  きっかけは、あの月野繭香が亮太の前に現われたことだった。  いつ、どこで出会ったのかは知らないが、亮太は繭香と随分と親しい様子だった。  そんな二人の姿を目にした途端、なんだか無性に腹が立ってきた。  中学時代からの腐れ縁。  その程度にしか考えていなかったが、実は自分も亮太のことが好きだった。  ただ、いつも一番近くにいるからといって、その状況に安心しきっていた。  普通に話をして、時に喧嘩をして、何事もない日々が続くものだと思っていた。  しかし、繭香の登場で、そんな日常にも変化が訪れた。  亮太は毎日、試験の勉強と称して繭香と放課後まで図書室で勉強するようになった。  それだけでなく、繭香を自転車の後ろに乗せて、家まで送る始末である。  そのことに気づき、慌てた時には既に遅かった。  自分と繭香では、初めから勝負になりはしない。  清楚で清純なイメージの繭香と、腐れ縁程度にしか思われていない自分。  亮太がどちらを選ぶかなど、火を見るよりも明らかだ。  だから、理緒は自分から亮太と繭香に関する噂を流した。  そのことで、周りの人間が繭香に抱いているイメージが崩れれば、幸いだと考えたからだ。 273 :迷い蛾の詩 【第伍部・妖変化】  ◆AJg91T1vXs :2010/09/19(日) 18:58:06 ID:YGAbCuqa  案の定、繭香は噂によって心を乱され、クラスメイトと喧嘩になった。  それを利用し、今度は亮太に繭香の行為を誇張して伝える。  そうして二人を引き離そうとすることでしか、自分には勝機などありはしなかった。  ずるい女だと言われても構わない。  卑怯者と罵られてもいい。  亮太との日常を失わないで済むのなら、そのくらいの罵倒は甘んじて受けるつもりだった。  だが、それでも、亮太は最後まで繭香を見限ることはなかった。  今日の花火大会も、自分とは一緒に行ってくれなかった。  最後まで諦めずに誘ったつもりだったが、結局、亮太は繭香と一緒にいることを選んだ。 「なんだかんだで、最初から勝ち目なんてなかったのかなぁ……」  できることなら、ここで綺麗さっぱりと諦めたい。  しかし、それができないことは、理緒自身が一番よく知っている。  繭香と亮太は、いったいどこまで進んでいるのだろう。  亮太の口から聞いてしまえれば楽なのだが、さすがにそれは怖くてできない。  もし、自分の一番聞きたくない返事を聞かされたら、恐らく二度と立ち直れない。 「明日……月野さんに、聞いてみようかな……。  よし、そうしよう!!」  顔をはたいて気合いを入れ、理緒は大きく伸びをして歩き出す。  勝負はまだ、完全に決着がついたわけではない。  野球だって、九回の裏まで勝負は分からないと言うではないか。  ならば自分にも、まだ少しの望みは残されているかもしれないのだ。  祭りの終わった橋の上を、理緒は気分を新たにして立ち去った。  もっとも、その時は、今の決断が自分に何をもたらすのか、まだ気づいてはいなかった。 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ 274 :迷い蛾の詩 【第伍部・妖変化】  ◆AJg91T1vXs :2010/09/19(日) 18:59:09 ID:YGAbCuqa  自宅にある自室にて、薄明かりの中、繭香は独り窓辺に映る月を眺めていた。  部屋の電気は、机のスタンドを除いてつけてはいない。  出かけた時の様子はそのままに、繭香は窓ガラスの上から三日月をなぞるようにして指を動かした。  窓越しに見える黄色い月の輪郭が、ぼうっと滲んで見えていた。  抑えようにも、自分で自分の気持ちを操ることができない。  頬を伝わる涙が床に零れ落ち、雫は小さな染みとなって吸い込まれた。 「亮太君は……私のことが、嫌いなの……?」  自分の問いかけに、答える者などいはしない。  そう頭では分かっていても、声に出さずにはいられない。  あの時、亮太は確かに自分のことを拒んだ。  しかし、同時に繭香のことを、嫌いではないとも言っていた。  ならば、なぜ、亮太は自分のことを拒んだのか。  考えれば考える程に、いったい何が正解なのか分からなくなってくる。 ―――― コツン……。  窓辺に佇む繭香の耳に、ガラスを叩く小さな音がした。  見ると、部屋の明かりに誘われて、一匹の蛾が窓を叩いていた。  出かける前にも、自分はこんな光景を見たはずだ。  光を求め、宵の闇の中を彷徨う一匹の迷い蛾。  再びその姿を見た繭香は、自分の中で何かが弾けるのを感じた。 ≪俺も、繭香のことは嫌いじゃないけど……。  でも、やっぱり……いきなり、こういうのって無いと思う≫  あの時、亮太の言っていた言葉と共に、繭香は彼の顔を今一度思い浮かべる。  自分を拒んだ時の亮太の瞳にあったのは、嫌悪ではなく躊躇いの感情。  このまま繭香を受け入れるべきか否か、迷い、苦しんでいるようにも思われた。 「迷う……。  そっか……。  亮太君も、迷っていたんだね……」  亮太が自分を拒んだのは、何も嫌っていたからではない。  繭香が本当の自分をさらけ出すのを躊躇っていたように、亮太もまた、迷いを抱えていたのだ。  きっと、そうに違いない。  あの日、初めて会った時から、亮太は常に自分と真っ直ぐに向き合ってくれた。  そんな亮太が、自分のことを受け止めてくれないはずがない。  少なくとも、繭香自身はそう考えていた。  だが、そんな彼でも、迷いが生まれれば話は別だ。  今まで繭香に向けられていた真っ直ぐな瞳は失われ、彼は遠からず、繭香のことを避けるようになってしまうに違いない。 275 :迷い蛾の詩 【第伍部・妖変化】  ◆AJg91T1vXs :2010/09/19(日) 19:00:26 ID:YGAbCuqa 「このままじゃ、亮太君が亮太君じゃなくなっちゃう……。  私のことを見てくれた、亮太君の瞳がなくなっちゃう……。  そんなこと……耐えられない……」  このまま亮太の心に迷いが残れば、それは繭香にとって、最も辛い終焉を迎えることになる。  ならば、自分が亮太に対し、すべきことはなんなのか。  そんなことは、誰に聞くまでもなく明白だ。  亮太を迷わせ、自分から彼の瞳を奪う者  その全てを断てばよい。 「なあんだ……。  私にだって、亮太君にしてあげられること、あるじゃない……」  繭香の口が、月明かりの下で妖しく歪んだ。  いつもの繭香からは想像できない程に、毒々しい色に染められた病的な笑み。  その瞳には、既に生きた人間の光はない。  陽神亮太を迷わせる原因。  それについては、繭香にも思い当たる節がないわけではなかった。  再三に渡り、自分と亮太の間に割って入った者。  思えば、あの女に初めて会った時から、随分と振りまわされてきた気がする。  そればかりでなく、亮太に余計なことを逐一吹きこんでいたのもまた、他でもないあの女なのだ。 「うふふ……。  待っててね、亮太君。  今、私があなたの迷いを断ち切ってあげるから……。  あなたを迷わせるもの、迷わせる人……私が全部払ってあげる……。  そうすれば、あなたもまた、私を見てくれるようになるはずだよね……。  あの日に出会った時と同じ目で、本当の私だけを見てくれるよね……」  誰に言うともなく、繭香は窓越しに夜空を見上げながら呟いた。  外では先ほどの迷い蛾が、規則正しいリズムで窓を打っている。 「ふふふ……。  あはっ……あはははははっ……。  あははははっ……あはっ……あははははははははっ!!」  月の明かりが射し込む部屋に、繭香の狂笑が響き渡る。  その笑い声に呼応するかのようにして、窓の外の迷い蛾もまた、激しくその身でガラスを叩き続けた。

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