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555 :私は人がわからない ◆lSx6T.AFVo :2010/10/20(水) 12:14:05 ID:KgIpHWOW  ――あなたみたいな人間が誰かに好かれるなんて、不可能よ。  何の変哲も無い、いつもの朝方の教室でのことだった。  ホームルーム前の教室は相変わらず賑やかで、あちらこちらと会話が生まれ、正に談論風発としている。  そんな中、私は彼等の輪の中に入ろうという気も起きず、深海魚のようにじっと座って、ぼんやりと何処か遠くを眺めていた。  そんな風にしていたのがいけなかったのかもしれない。  不意に昨日の言葉が頭を過り、私は顔をしかめたのだった。  ハァと、恋する乙女のような物憂げな溜め息をしてから、眉間の辺りを指で揉む。気分は一向に良くならない。  久しぶりの斎藤ヨシヱとの邂逅は、私にとってはもはや消し去りたい過去のひとつになっていた。  昨日のことは、何度思い出しても恥ずかしくなる。柄にも無く感情的になって、自分の内面の一角を安々とさらけ出してしまった。あのことは確実に、私の黒歴史の一ページに刻まれたことだろう。  ああ、駄目だ。  考えれば考えるほど、心がむずむずとこそばゆくなる。しかし逆に彼女のことを考えないように意識すると、より一層濃く残滓するのだ。  まるで呪いだな、と私はうんざりした。  斎藤ヨシヱと会った後は、いつもこうだった。  彼女はいつも、私の仮面の下の素顔を暴こうと何らかの揺さ振りをかけてくる。  しかも嫌らしいことに、彼女ならそんな仮面簡単に剥がせる筈だろうに、あえてそうしないのだ。じわりじわりと私を追い詰め、いつもギリギリのところで手を引く。  そういう人を手玉に取っているような行動は、はっきり言って腹が立つものだった。自分が道化のような気がしてならないからだ。  あのサディストめ、と私は心中毒づいたが、懲りずに茶道室へと通い続ける私も、またマゾヒストなのかもしれないと思い直し、再び苦い気持ちになる。  とにかく、昨日のことは早く忘れるが吉だ。  私はいやいやするように、軽く頭を振るのと同時に雑念をも振り払った。  そして、何気なく前を見る。  と。  そこに、見覚えのある背中を見つけた。  小動物を思わせる雰囲気を纏ったその背中は、間違いなく彼女だろう。  田中キリエ。  確か、昨日は風邪を患わって休んでいた筈だが、どうやら無事に回復したらしい。  本人は、身体が弱く欠席することが多いと言っていたけれど、あまり病を長引かせるタイプでもないみたいだ。 556 :私は人がわからない ◆lSx6T.AFVo :2010/10/20(水) 12:15:15 ID:KgIpHWOW  それにしても。  たった一日会わなかっただけというのに、彼女を見るのも随分と久しい気がする。  そう思えるということは、田中キリエは私が想像しているよりもずっと大きい存在になっているのかもしれない。  私が無意識にじぃと見つめていたせいだろうか。  突然、彼女が後ろを振り返った。  必然と目が合う。  そのまま目を逸らすのもアレなので、私はニコリと微笑んで会釈した。  すると、田中キリエもはにかみながら会釈を返してくれる。その笑顔に病の余韻は伺えない。  よかった、ちゃんと治ったみたいだ。  私は安心し、それで朝の挨拶も終わりだと思ったのだが――  あれ?  何故か、彼女はまだ私のことを見つめていた。  何かを期待するような、もしくは示唆するような、そんな視線を私に寄越し続けている。  どうしたのかしら。  不思議に思って私も目を離せずにいた中、ガラガラとしたローラー音と共に教室のドアが開いた。  担任が入って来た。  早く席に着け、という鶴の一声によって散らばっていた生徒達も自分の席へと戻っていく。  私も田中キリエもそこで視線を離した。  それから、朝のホームルームが始まったのだが、 「…………」  まだ、見てる。  彼女は、担任の目を盗んではチラチラと私の方を見ていた。  もしや、私の顔に何かついているのか。  そう思って自分の顔をぺたぺたと触ってみたけれど、特に変わったものはついていないように思えた。ついているものといえば、馴れ親しんだ形の悪い目や鼻や口ぐらいだ。  うーん。  私は困ったように頬を掻く。というか実際困っていた。  しばしの思案の後、結論を出す。  無視しよう。  正直、自分からわざわざ、一体全体どうしたのですかと聞きに行くのも面倒臭いし、それに彼女だって子供じゃないんだから、用があるのなら自分から言ってくるだろう。大して気にすることでもない筈だ。  なので、私は担任の話に集中することにした。  なんの面白みの無い平板な声が耳に届く。  期末テストが近いせいか、担任の話は全てテスト関連の話だった。テスト対策や日程について、しつこく生徒達に聞かせている。少しでもクラスの平均点を上げたいのだろう。  私はテストの杞憂よりもむしろ、もうそんな時期になるのか、という時の流れについて驚いていた。 557 :私は人がわからない ◆lSx6T.AFVo :2010/10/20(水) 12:16:46 ID:KgIpHWOW  中間テストをやったのもついさっきのような気がしているのに、もう期末が始まってしまう。まるで私だけが流行に乗り遅れてしまったみたいで、妙な孤独感を感じた。  私は、おもむろに窓の外に目を向ける。  夏の間は緑色に繁っていた桜の木も、今では木の葉ひとつ無かった。  時間は、たしかに流れていっているのだ。  期末テストが終われば、冬休みが始まし。冬休みが終われば、新学期が始まるし。そして新学期が終わる頃、卒業式が行われる。  そして卒業式が終われば――上級生である斎藤ヨシヱは、この学校を去っていく。  そんなことを考えている時。私はなんとも言えない複雑な気持ちになる。  私と彼女の関係は、一言で表せない程に目茶苦茶なものだ。  一応、友人関係ということになってはいるが、実際はポケットにつっこんだイヤホンのコードみたいに、私達の関係はこんがらがっている。  なので私には、彼女が卒業するのは悲しいことであるのと同時に、嬉しいことでもあるのだ。矛盾した言い方であるが、他に適した表現も見つからないので仕方ない。  そういえば、斎藤ヨシヱは進路はどうするのだろうか。  無難なのはやはり進学だが、彼女が大学生っていうのもなんだかイメージが湧かない。そもそも、高校生である今でも違和感を感じているというのに。斎藤ヨシヱは、あの達観している態度のせいかやけに年上に見えるのだ。  まあ、いいか。  今度まとめて聞いておこう、と私は思った。  そんな中でも、視線の矢は未だに私を捉え続けていた。  結論から言えば、無視出来なくなった。  田中キリエは、一限目の数学の時も、二限目の日本史の時も、三限目の現代文の時も、ずっとずっと私のことを見続けていた。  しかも彼女の見方の巧みなことやら。  田中キリエの座る最前列の廊下側という位置上、後列にいる私を見るためには否が応でも後ろを振り向かなくてならないのだが  彼女は周囲の人間が気をそらしたその瞬間を見計らって後ろを振り返るという高度な技術を駆使しているため、私以外の人間は気付いた風ではないのだ。  そんな状況に、思わず私も眉根を寄せる。  こうも見られてしまっては、全く授業に集中出来なかった。  ここまでくると、もはや盗み見というより、むしろ監視だ。気分はまるで看守と囚人。 558 :私は人がわからない ◆lSx6T.AFVo :2010/10/20(水) 12:17:47 ID:KgIpHWOW  正直、ウザい。  ノートも中途半端にしかまとめられてないし、言いたいことでもあるのなら、さっさと言ってしまえばいいのに――と。  そこで漸く、私は気付く。  そうか。したくても、出来ないのか。  田中キリエの恥ずかしがり屋、常に一歩引く控え目な性格を考えると、クラスメイトの目がある教室内で異性の私に話し掛けるなど、到底出来ることではない。  あまり付き合っていることを公言したいような子にも見えないし、むしろひた隠しにしたいタイプだろう。変に話しかけたりして、私達の仲を疑われるのは避けたいはずだ。  まあ、そうとわかれば話は早い。  人目がある所が駄目ならば、人目が無い所に行けばいいまでだ。  私は三時間目が終了すると、ひとり教室を出た。  後ろを見てみると案の定、田中キリエがひょこりと顔を出していた。それから、距離を置いてトコトコとついて来る。  どうやら私の予想は当たっていたらしい。珍しく、今日は冴えている。  私は、彼女がついてきてるかどうかを確認しつつ、非常階段を目指した。  学内で人気が無いとこといえば、あそこぐらいしか思い付かないし、ここ最近は中々の頻度でお世話になっているため、へんな愛着が沸いてるからだ。  そして暫く歩いていると、非常階段前に着いた。  想定通り、周りには私以外誰も居なかった。遠くから生徒の騒ぐ声が辛うじて聞こえるくらいで、後は静かなものだ。この場所なら、彼女も気兼ねなく用件を話すことが出来るだろう。  田中キリエは遅れてやって来た。 「あの、なんだかすいません。気を使わせちゃったみたいで」  彼女はぺこりと頭を下げる。 「いえいえ、気にしないでください。それよりも、何か私に言いたいことがあるのでしょう?」 「うっ、うん」  私がそう聞くと、田中キリエは急に顔を赤らめたり指を弄ったりと、もじもじし始めた。  こうなってしまうと彼女が長いことは、今までの経験から知っていた。  のんびりと話を切り出してくるのを待つことにする。 「あの、よかったら……」  蚊の鳴くような声で、彼女は切り出した。 「よかったら、お昼ごはん一緒に食べませんか……?」 「お昼ごはんですか?」 「はい。鳥島くんがよかったらでいいんだけど」 「いや、全然大丈夫です。うん、そうですね。お昼ごはん、一緒に食べましょう」 559 :私は人がわからない ◆lSx6T.AFVo :2010/10/20(水) 12:19:28 ID:KgIpHWOW  私がそう言うと、田中キリエの顔が太陽みたいにパーっと明るくなった。それからありがとう、と言って身体をくの字に曲げる。  昼食ぐらいで大袈裟な人だ。  それにしても、そんなことが言いたいがために授業中あんなに見ていたのか。 「それじゃあ、場所は――」  と、田中キリエが言いかけたところで予鈴が鳴った。  時計を見れば、もうそろそろ戻らないとマズイ時間だ。 「教室に戻りましょうか。昼休みになったら、またここで落ち合いましょう。場所についてはその時に教えてください」  こくりと頷き、了承してくれた。 「後、それと」  私はポケットから携帯電話を取り出すと、苦笑混じりに言った。 「これからは何か言いたいことがあったら、メールにしてくれると嬉しいです。その、授業中にあんなに見られると、あまり落ち着かないので」  私の進言に彼女は、あっと目を開いて赤面した。そして、呟くようにゴメンナサイと言う。  やはり、メールをするという発想には至らなかったみたいだ。  そんな田中キリエを見て、可愛いらしい人だな、と私は頬を緩ませた。  昼休みになって、私は購買部へ赴き昼食を購入した。  残念なことにカレーパンは残っていなかったので、メロンパンとコーヒー牛乳を代替品にする。  購入品の入ったビニール袋を片手に引っ提げて、私は足早に階段を登っていった。  いつもならそのまま教室に向かうのだが、今日はちょっとだけ進路を変えてみる。  自分の教室がある階をさらに飛ばして、私はさらに上へと昇って行った。  目指す先は、屋上だ。 「お昼は屋上で食べませんか?」  四時間目が終わった後。  非常階段の前で再び田中キリエと落ち合うと、彼女は迷わず屋上を指定した。  我が校では、他の高校と比べ珍しく、一般の生徒に屋上が開放されている。  そのため、春や秋などの屋外ですごしやすい季節には、沢山の生徒が屋上で食事をしたり、お喋りをしたり、告白をしたりと中々の賑わいをみせる場所なのだが、生憎今の季節は冬だ。おそらく、屋上には人っ子ひとり居ないことだろう。  確かに人気は無い。  屋上ならば、彼女も気兼ね無く私と共に昼休みを過ごせることだろう。  確かに人気は無い。無いけど。 560 :私は人がわからない ◆lSx6T.AFVo :2010/10/20(水) 12:20:39 ID:KgIpHWOW 「屋上ですか……」  正直、彼女の提案は私としてはかなり頷き難いものであった。  前々から言っていることなのだが、私は根っからの寒がりなのである。  この季節に屋上など行ったら、ヘタしたら凍死してしまうかもしれない。  ということなので、さすがの私も反論を試みようと口を開いたが、何故か肝心の言葉が何も出てこない。屋上以外に昼食をとれる場所が何も思い付かないのだ。  結局、私は渋々承諾することになった。渋々と言っても、もちろん顔や態度には出していないけれど。  そして話し合いの結果、弁当持参の田中キリエは先に屋上で待ち、私は購買部で昼食を購入してから屋上に向かうということになったのだった。  階段を昇り終え、踊り場に辿り着いた。  踊り場に田中キリエの姿は無かった。  此処に居ないということは、おそらく先に屋上で待っているのだろう。  というか、いっそこの踊り場で食事をしてもいいんじゃないのか、と私は思った。  埃っぽいのさえ我慢すれば、問題など全く無いのに。わざわざ屋外で食べる意味がわからない。  けど、そんな文句を言ったって仕方がない。  私は、屋上へと通じる重い鉄製の扉を押し開けた。  開け放たれた扉の隙間から、しんしんと冷え込んだ空気が漏れ出してくる。それだけで嫌になる。  そして、屋上に足を踏み入れた。 「寒い……」  思わず呟く。  わかってはいたことだけど、やはり屋上は寒かった。  寝る時に湯たんぽが欠かせないような自分には、この寒さは中々厳しい。  私はぶるぶると震えながら、辺りを見回した。  春や秋には賑わう此処も、今では誰も居なかった。檻のように囲んでいる転落防止のフェンスと、落書きだらけのベンチが数個設置されているだけだ。  周囲に田中キリエの姿は見えない。 「あっ、鳥島くん。こっちこっち」  と、聞こえてくる声は後ろからだった。  振り向くと、田中キリエは屋上内の隅にある貯水タンクの辺りでちょこんと座っていた。  なんでそんな所に、と私は疑問に思ったが、理由はすぐにわかった。  暖かい。  そこは、ぽっこりと突き出た踊り場の壁と、貯水タンク等がうまい具合に風を遮って、まるでかまくらのような暖かさがあったのだ。  助かった、と私は胸を撫で下ろす。ここならまだ我慢出来ない程ではない。  それにしても、田中キリエも事前に調べていたみたいに良い場所を知っている。 561 :私は人がわからない ◆lSx6T.AFVo :2010/10/20(水) 12:22:19 ID:KgIpHWOW  私は彼女の側に歩み寄ると、その隣に腰を下ろした。  その時、田中キリエがさりげなくハンカチを敷いて、私のズボンが汚れないようにしてくれた。気が利く子だな、と感心した。 「それじゃあご飯にしよっか」  と言って、カバンの中から弁当箱を取り出し、さあ昼食だとなる筈だったのだが、彼女が突然あっと悲鳴を漏らした。 「どうしたんですか?」 「水筒、教室に忘れてきちゃったみたい……」  弁当箱は持ってきているのに水筒を忘れるなんて……。彼女も案外マヌケなことをする。  朝の睨めつけの一件もそうだけど、田中キリエは意外とドジをやらかす娘なのかもしれない。 「今から水筒取ってくるんで、先に食べててください」  彼女はそう言い残すと、すくっと立ち上がり、お尻をはたいてから慌だたしく駆けて行った。  そんな田中キリエの背中を見送る。 「それじゃあ、先に食べるかな……」  お腹も空いていたので、私は彼女の言葉に甘えることにする。  ビニール袋からメロンパンを取り出し封を開けようとしたのだが、その時ふと彼女の学生カバンが目に入った。  チャックが開いたままのカバンの中からは、携帯電話が覗いている。もう何世代か前の、既に型落ちしてしまったスライド型の機種だ。 「…………」  ふと閃く、ある考え。  私は、意味ありげにその携帯電話見つめる。  そして幾らかの逡巡の後、私はその携帯電話を利用することにした。  学生カバンの中に手を突っ込み、そのままの状態で携帯電話を操作する。これなら、田中キリエが戻ってきても直ぐにごまかせるだろう。  他人の携帯電話の慣れない操作に戸惑いながらも、私はなんとかメニュー画面を開いた。  あった。  私は画面に映るアドレス帳の項目を見つけると、迷わずそこをクリックした。  田中キリエは意外と早く帰ってきた。  右手には忘れ物であろうピンク色の水筒が握られていて、急いできたせいか軽く肩を上下させている。 「先に食べてて良かったのに……」  田中キリエは、手中にある封の切られていないメロンパンを見て、申し訳なさそうに言った。 「まあ、そういうわけにもいかないと思いまして」  私は曖昧に笑ってごまかす。 「食事は一人で摂っても美味しくないものですよ。それに、せっかく屋上まで来たんだから一緒に食べたいじゃないですか」  なんていい感じに締めて、私は横に座るよう促した。 562 :私は人がわからない ◆lSx6T.AFVo :2010/10/20(水) 12:23:39 ID:KgIpHWOW  田中キリエは水筒を地面に置いて腰を下ろした。 「それじゃあ、今度こそお昼だね」  彼女はそう言って、学生カバンを膝上に乗せた。そして、弁当箱を取り出そうとカバンの中に手を伸ばしたのだが――不意に動きが止まった。 「どうしたんですか?」  コーヒー牛乳にストローを挿しこみながら、何気なく聞いてみる。 「鳥島くん、もしかして私のカバンいじった?」 「カバン、ですか?」  私はきょとんとした表情で田中キリエを見た。 「いえ、特に何もしていませんけど……。どうかしたんですか?」 「そう、だよね……。ううん。別に気にしないで。多分、私の気のせいだと思うから……」  そうは言うけれど、彼女は中々会得がいかない様子であった。訝し気にカバンの中を覗き続けている。  それから漸く諦めたのか、やがてカバンから弁当箱を取り出した。それは彼女の身体に比例した、とても小さな弁当箱だった。 「お弁当は自分でつくっているんですか?」 「うん、一応」 「すごいですね」 「そんなことないよ。お弁当をつくるなんてことぐらい、みんなやってることだし」  と言いながら、彼女は弁当箱を開けた。  私も自然と視線を移す。 「へぇ」  思わず感嘆の息が漏れた。  田中キリエの弁当は凄く美味しそうだった。  油物と野菜のバランスがいい上に、見た目の色合いもきちんと考えられていて、一目見てそれが美味しいということがわかるような、料理のお手本みたいな弁当だった。高校生の弁当にありがちな、冷凍食品の類も見当たらない。 「料理、上手なんですね」  お世辞とか抜きに、心からそう思った。 「そんなことないよ」  しかし、田中キリエは困ったように謙遜する。人に褒められるのが苦手なのか、早くその話題から逸れてほしそうに見受けられた。 「そういう鳥島くんは、いつもお昼は購買部で買ってるよね」 「そうですね」 「お弁当にはしないの? 家族の人につくってもらうとか」 「出来ればつくって貰いたいんですけど。残念ながら、家族はみんな朝忙しいんで、弁当をつくる暇なんてとてもとても」  と言いながら、私は妹の鳥島リンのことを考えた。  そういえば、リンちゃんは昼食はどうしているのだろうか。彼女も結構器用な人だし、案外自分で弁当をつくっているのかもしれない。 563 :私は人がわからない ◆lSx6T.AFVo :2010/10/20(水) 12:24:54 ID:KgIpHWOW 「それならさ」  と、田中キリエがもじもじと太股を擦り合わせながら言った。 「……よかったら、私が鳥島くんのお弁当つくってこよっか?」 「えっ?」  思わぬ提案に、私は目をパチクリとさせる。 「そんな、悪いですよ」  まず口から出たのは遠慮だった。  弁当をつくって貰うこと自体は、私としては願ってもない提案ではあったが、朝一番から彼女にそんな労苦をいとわせるのはさすがに気が引けた。 「全っ然っ悪くなんかないよっ!」  しかし田中キリエは即座に否定する。 「私のお弁当をつくるついでだしさ、手間とか全然かからないから全然平気。というか、鳥島くんはそんなの全然気にしなくていいよ。本当、全然全然」  全然を連呼する彼女である。 「ああ、でも、その代わり私と同じメニューになっちゃうけど、それでも大丈夫かな?」  どうやら弁当をつくること自体は、もう決定事項らしい。 「そんなそんな。いやあ、嬉しいなあ。それじゃあ、お願いしてもいいですかね?」 「うんっ」  田中キリエは、満面の笑みで快諾した。  私も嬉しくなって、思わず鼻歌でも歌いたくなった。  誰かにご飯をつくってもらうなんて随分と久しぶりだ。彼女の料理の腕は目の前の弁当で証明済みだし、これから昼食は楽しみになるぞ。  ニコニコと微笑みながら、メロンパンをかじる。  恋人を持つのも、そんなに悪くないかもしれないな。  私は初めて田中キリエの存在に感謝した。  それから、私達は弁当をつつきながら談笑に勤しんだ。  私にとって意外だったのは、田中キリエとの会話が弾んだことだった。  私はどちらかと言えば口ベタなほうなので、正直気まずい雰囲気になるんじゃないかと危惧していたのだが、それもどうやら杞憂に終わったらしい。  彼女はかなりの聞き上手だったのだ。  私の何でもない話にも丁寧に相槌を打ち、それに聞くばかりではなく、自分の意見も織り交ぜて返答するので自然と話が続く。それこそ、会話はボールのようにポンポンと弾んだ。  自分にとって、彼女との会話の持続が一番の懸念材料だったのだけに、私はひどく安心した。  そのせいか、多少気が緩んでいたのかもしれない。  気が付けば、彼女のことを話に持ち出していた。 564 :私は人がわからない ◆lSx6T.AFVo :2010/10/20(水) 12:26:38 ID:KgIpHWOW 「そういえば田中さんって、マエダさんと仲が良いんですよね」 「えっ?」  私の口からマエダカンコの名前が出たのが意外だったのか、田中キリエはただでさえ大きい瞳をさらに大きくさせる。 「マエダさんって、もしかしてカンコちゃんのこと?」  彼女の問いに私が首肯してみせると、田中キリエは嬉しそうに破顔させた。 「うん、カンコちゃんとは凄く仲が良いよ。私にとって、一番の仲良しさんじゃないかな」  一番の仲良しときたか、と私は思った。  実を言うと私は、田中キリエとマエダカンコが本当に友人関係なのかを疑っていた。  二人は見ての通り全くタイプの異なる人間だし、マエダカンコの異常愛もあるから、マエダカンコが一方的に田中キリエに好意を寄せているというセンもあったが、今の証言でそれも消滅した。 「マエダカンコって、漢字ではどう書くんですか?」  いい機会だと思って聞いてみる。  すると、田中キリエは空中に人差し指を掲げて、まるで虚空に浮かぶ用紙にでも書くように、つらつらと文字を連ねていく。ちゃんと鏡文字になっていないあたりの配慮が、実に彼女らしい。  やがて、文字を書き終えた。 “前田かん子”  空中に刻まれたその文字を、私はじっくりと見つめる。  その時初めて、本当の意味で彼女の名を知った気がした。 「彼女とは、何時からの付き合いで?」  私はさらに質問を重ねていく。 「えーっと、かん子ちゃんとは中学校からの付き合いになるのかな。て言っても、最初は全然話したりしなかったんだけどね。けど、あることがきっかけでそれから凄く仲が良くなったんだ」 「そのあることとは具体的に?」  私は身を乗り出すようにして、さらに質問する。  我ながら多少強引過ぎるとも思うが、しかし前田かん子の情報はよく聞いておきたかった。  これから、彼女の存在は嫌でも大きなものになっていく。  けれど、私は前田かん子のことをあまりに知らない。知っていることと言えばせいぜい、田中キリエに抱いている異常なまでの愛情と、胸が大きいことぐらいだ。  クラスの人間に聞くという選択肢もあるが、それでは些か信憑性に欠けた。  噂というのはたいてい何かしらの脚色がされて、妙な尾ヒレがついているからだ。  それに比べ、田中キリエから得られる情報は確実である。  なんせ、前田かん子の一番の友人を自負しているのだ。彼女からなら何の誇張表現の無い、ありのままの情報が得られる筈だ。 565 :私は人がわからない ◆lSx6T.AFVo :2010/10/20(水) 12:27:48 ID:KgIpHWOW 「鳥島くん」  と、耳に届いたか細い声で我に返る。  少しがっつき過ぎたか。  そう思って、すいませんと謝りながら後ろへ身を引いたのだが――今度は逆に、田中キリエが私の方に身を乗り出してきた。  あまりに突然のことだったので、私はそのまま体勢を崩し仰向けに倒れた。彼女はその上に乗っかるような体勢をとって私を見下ろし―― 「ねえ、鳥島くん。どうしてそんなに、かん子ちゃんのことを知りたがるの?」  ――静かに詰問した。  思わず、戦慄する。  田中キリエの顔からはいつの間にか、およそ表情と呼べるものがごっそりと抜け落ちていた。のっぺら坊のような無機質な顔で私を見つめる。  人間ってこんな顔も出来るんだな、と少し感心した。 「大して深い意味はないですよ」  しかし私の態度に変化は無い。 「ただ、前田さんってこの学校じゃ凄い有名人じゃないですか。だから、どんな人なのかなってちょっと気になっただけで他意は無いですよ」  田中キリエは私を見下ろしながら、そうなんだ、と短く言った。そのくせ、彼女はこれっぽっちも納得していないように見えた。 「でも、おかしいなあ」  わざとらしく小首を傾げてみせる。 「どうして鳥島くんは私とかん子ちゃんが友達だってことを知っているのかな?」 「それは――」  この時、私は何故かこの質問に対して妙な間を置いてはいけないと思ってしまった。いや、思わされてしまった。  そうしなければ怪しまれるぞ、と。  なので、気がつけば私の舌は私の意思とは無関係に、自分勝手に言葉を紡ぎだしていた。 「それは、クラスの人達が話しているのを小耳に挟んだんですよ。前田さんと田中さんは仲が良いって――」  あっ。やっべ。  言ってから気付く。今の発言はマズった。  私は慌てて口を塞いだが、もう遅い。  田中キリエも勿論、今の失言を見過ごす訳が無く 「おかしいなあ」  とまた呟いた。 「……何がおかしいんでしょうか?」  私は半ば諦め気味に彼女に問いた。 566 :私は人がわからない ◆lSx6T.AFVo :2010/10/20(水) 12:29:02 ID:KgIpHWOW 「だって私、この学校では私とかん子ちゃんが友達だってことを誰にも言ったことが無いんだもの。だから、クラスの人達がそんな話をしている筈が無いんだけどなあ。 「しかも私、かん子ちゃんに学校で話したことも一度も無いんだよね。かん子ちゃん学校で話しかけられるのスゴイ嫌がるから。だから、もし会っても無視しろってきつく言われてるんだ。 「もちろん、かん子ちゃんのことは鳥島くんにも話したことないよね。ねぇ、鳥島くん。なのに、なんであなたは誰も知らないことを知っているのかな?」  思わず、溜め息を漏らしそうになる。  さあて、どうするかな。 「でもそれって、あくまで田中さんが話していないだけですよね」  意味無いとはわかっているが、一応形ばかりの反論をしてみる。 「あなたたちの話をしていたその生徒が、偶然街中で二人でいるところを目撃したのかもしれないし、それとも中学時代のことを知っていたのかもしれない。例え田中さんが話していなくたって、二人の仲を知る可能性はいくらでもありますよ」 「うん。そうだね」  田中キリエはあっさりと同意してみせる。 「確かにその可能性もあるけど、それだと話がますますおかしくなるんだよね。さっき鳥島くんも言ったように、かん子ちゃんってこの学校じゃスゴイ有名人なんだ。学校の皆が、かん子ちゃんの一挙一動に注目してる。  そんな注目を浴びてるかん子ちゃんに友人が居ることが、しかも同じ学校に通っていることが判明して、何も起こらないと思う? 普通は何らかのアクションが起こる筈だよね。  まず起こるのは、間違いなく話の伝播。話は人から人へとどんどん伝わっていって、やがて学校中に広まる。そうなったら、私も今頃はかん子ちゃん並の有名人になってる筈だよ。あの前田かん子の親友の田中キリエだー、ってね。 「けど、もちろん私は今有名人なんかじゃないし、誰かにかん子ちゃんのことを聞かれたこともない。ということはイコール私とかん子ちゃんが友人だってことは、学校の誰も知らないってことになる。そうだよね?」  だーよね。私もそう思います。  ああ、本当どうしようかな。 「ねぇ、鳥島くん」  彼女に呼ばれて視線を上げる。  眼鏡の奥の田中キリエの瞳は、マジックで塗り潰したみたいに真っ黒で、光が無い。 567 :私は人がわからない ◆lSx6T.AFVo :2010/10/20(水) 12:31:11 ID:KgIpHWOW 「答えてよ。どうして私とかん子ちゃんのことを知っていたのかを」 「…………」 「ねぇ。ねぇ。ねぇ。ねぇ。何か言ってよ」 「…………」 「鳥島くん。黙ってたら私、なーんにもわかんないよ」 「…………」 「どうして? どうして? どうして知ってたの? 鳥島くん?」 「…………」 「何で? 何故? どうして? どのようにして? 何処で? 何時知ったの? 鳥島くん?」 「…………」 「ねぇ、鳥島くん。言ってくれないなら、私――」 「……放課後」 「えっ?」 「放課後、一緒に帰りましょうか」 「ほうかご?」 「はい。放課後です。実を言うと私、一度でいいから女の子と一緒に下校してみたかったんですよ。いやぁ嬉しいなぁ、やっと長年の夢が叶うのかぁ。長かったなぁ」 「鳥島くんっ! 私は――」 「それとも」  私は有無を言わせぬ鋭い瞳で、田中キリエを捉える。 「もしかして、私と一緒に帰るのが嫌だったりします?」 「そっ、そんなことないよ! 私も鳥島くんと一緒に帰りたい!」 「それなら、良かった」  私は安堵したように、ふぅと息を吐いた。  と、そこで屋上に設置されているスピーカーからチャイムの音が鳴った。古くなっているせいか、不自然に音が割れていた。 「チャイムも鳴ったみたいですし、そろそろ教室に戻りましょうか。田中さんは先に帰っていてください。一緒に帰っているところを、誰かに見られるのは不本意でしょう?」 「へっ?あっ、うん。わかった」 「放課後については、後でメールしておきます。それでいいですね?」 「うっ、うん」 「それでは、また放課後に」  私は片手を上げて、ひらひらと手を振った。田中キリエに余計なことを言わせる暇は与えなかった。  彼女は学生カバンを肩に引っ提げると、足早に屋上を出て行った。  と思ったが、最後にドアの前で立ち止まり、私のことを見た。  田中キリエは何も言わない。  私も何も言わない。  私達は黙って見つめ合う。  そして、彼女はやおら屋上を出て行った。 568 :私は人がわからない ◆lSx6T.AFVo :2010/10/20(水) 12:32:44 ID:KgIpHWOW  田中キリエが行ったのを確認してから、私は忌ま忌まし気に言葉を吐き捨てる。 「最悪だ」  本当に最悪だった。  どうして私はあの時、たまたま二人のことをクラスで聞いたなんて変な嘘をついてしまったのだろうか。私があそこで嘘をつく必要など、これっぽっちも無かったのに。  そもそも、私と前田かん子の間に面識があるのはもはや周知の事実なのだ。  田中キリエは学校を休んでいたから知らないだろうけど、前田かん子は一昨日、昼休みに私を拉致したり、放課後に堂々と教室に登場したりと、もはやクラスどころか学校中の人間が私達の関係を認知している。  だから私はあの時、ありのままのことを言っておけばよかったのである。私と前田かん子の関係について。なのに変に焦ってしまった揚句、失言した。こんなくだらないミスをするのは、本当に私らしくなかった。  ミスの原因はわかっていた。  彼女のせいだ。全部あの茶道室の魔女のせいなのだ。彼女に会ってからの私は、本当におかしい。まるで平均台の上を歩いているみたいに、精神が安定しない。  私は腕時計の針を気にしながら、今後のことを考えた。  今回のことで、田中キリエの中に私に対する猜疑心が生まれたのはまず間違いないだろう。  問題はその猜疑心が今後どう動き、私にどのような影響を与えるかである。まあ、上手い方向には動かないと思うけど。とにかく、そのことについては用心しておくに越したことはない。  私はそこで大きく伸びをした。  それなら、さっさと切り替えよう。幸い、覆水盆に返らずって程の失敗でもないし、私ならいくらでも軌道修正出来るさ。次だ次。  反省終了。  私は教室に帰ろうと立ち上がった。  その時。  ポツリ、とコンクリートの地面に黒い染みが出来た。  雨かしら、と思って空を見上げたが、頭上には雲ひとつ無い冬晴れの空が広がっている。  どうやら、地面に落ちたのは私の汗のようだった。 569 :私は人がわからない ◆lSx6T.AFVo :2010/10/20(水) 12:33:50 ID:KgIpHWOW 「おかしいな……なんで汗かいてんだろ」  冬なのに。私は根っからの寒がりだというのに。なのに、どうして汗なんか。  制服の袖で額の汗を拭うが、汗は一向にひかない。  もしかして恐れているのだろうか、と私は思った。  けれど、何に?  最初に思い浮かんだのは、やはり田中キリエだったが、私は直ぐに思いなおす。  彼女だけは有り得ない。  確かに、先程の田中キリエの勢いには目を見張るものがあったが、突き止めてしまえばあんなもの只の嫉妬でしかない。  そりゃ、自分の恋人が他の女のことを聞いたりしてたら、不快になるに決まっている。しかも聞いている相手が他ならぬ恋人自身なのだ。田中キリエが怒るのも無理ないだろう。  だったら、なんだ? なんで、私はこんなに震えているんだ? 「あっ」  そして、私はこの感覚が初めてじゃないことに気づき、さらに震えた。  なんで、今さら? 高校に入ってからはめっきりなくなったじゃないか。もう、終わったと思ったのに。 “やっと、わかったと思ったのに――”  くらり、と湯あたりをしたみたいに視界が廻る。そのまま倒れるんじゃないかと思ったが、なんとか踏ん張ってくれた。  私はかぶりを振る。  いや、落ち着け。呑まれるな。  こんなの、気のせいだ。少し考え過ぎてるだけだ。汗をかいてるのだってきっと、さっきのやりとりで疲れただけだ。  だから、落ち着け。私はもう、わかってるんだ。  私は一度深呼吸をしてから、今度こそ屋上を出て行った。その足どりに、不安は見えない。  なのに、教室へ帰る間ずっと、汗は拭っても拭っても際限なく溢れてきた。

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