「ラ・フェ・アンサングランテ 第十話」の編集履歴(バックアップ)一覧はこちら

ラ・フェ・アンサングランテ 第十話」(2011/02/08 (火) 07:24:42) の最新版変更点

追加された行は緑色になります。

削除された行は赤色になります。

この作品は投稿者の意思により削除されました。
253 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第十話】   ◆AJg91T1vXs :2010/12/20(月) 00:57:10 ID:dWxH0GEx  街を吹き抜ける風が、宿場の窓を叩いていた。  霙はいつしか雨に変わり、夜の世界を容赦なく冷やして行く。  三階に与えられた自分の部屋で、ジャンはその日、一日の間にあったことを再び思い出していた。  光のない、淀んだ瞳を携えて、人が変わったように血を求めてきたルネ。  そして、先ほどの浴室で、こちらを誘うようにして近づいてきたリディ。  自分の周りで、何かが狂い出している。  それが何なのかはわからないが、ジャンにはそうとしか思えない。  ルネも、リディも、その行いは悪戯と言うにしてはあまりに酷い。  なにより、彼女達が自分に悪戯を仕掛けて来る理由がない。  いったい、あれは何だったのか。  考えても答えなど出るはずもない。  医者として、人の身体のことはわかっても、心の中まで覗く術など持ち合わせてはいなかった。  煌々と輝くランプの火を前に、時間だけが無情に過ぎてゆく。  窓を叩く風の音も、街を濡らす雨の音も、今のジャンの耳には届かない。  どれくらい呆けていたのだろうか。  気がつくと、既に時刻は丙夜の刻に入ろうとしていた。  外からは相変わらず雨音が響いて来ていたが、風は幾分か落ち着いたようだった。 (これ以上、考えていても仕方ないか……。  でも……明日、伯爵の家に行った時、僕はルネにどんな顔をすればいい……?)  リディのことも気になるが、やはり気がかりなのはルネのことだった。  彼女は拒絶を恐れている。  それは、クロードから聞かされた話からも、ジャンは十分に理解しているつもりだった。  が、しかし、自分は今日のルネを見て、思わずその場から逃げ出してしまった。  薄暗がりの中、瞳に仄暗い闇を宿し、血を求めてこちらに迫って来る少女。  あんな姿を見せられたら、普通は怯えて当然だ。  そう、頭では納得しようとしていたが、それでもジャンにはどこか割り切れない部分もあった。  ルネに何があったのかは知らないが、彼女を拒絶したことには変わらない。  それは、彼女が最も恐れる行為。  彼女に対する裏切りであり、彼女の心に傷を残す行いに他ならない。  結局、自分がルネの話し相手になったのは、ただの偽善だったということだろうか。  自分ではルネを理解しようとしていたつもりでも、本質的な部分で、彼女に偏見の眼差し抱いていたのではあるまいか。  医者として、否、人として取り返しのつかないことをしてしまった。  そんな自責の念だけが、今のジャンを支配していた。  全ては明日、ルネに会えばわかること。  そうしなければ何も始まらず、また変わらないと知りながらも、自分の過ちが悔まれて眠れそうにない。 254 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第十話】   ◆AJg91T1vXs :2010/12/20(月) 00:57:52 ID:dWxH0GEx (どうすればいい……。  僕は……どうすれば……)  いっそのこと、逃げるようにしてこの街を去ってしまおうか。  元より長居は無用と考えていたのだ。  自分にとっても居心地の悪いこの街を去るには、これは絶好の機会ではないか。  時折、そんな逃げの気持ちが頭をよぎったが、それでも決断には至らなかった。  ここで逃げても何もならない。  自分の責任を放り出して逃げ出すことは、父の繰り返して来た愚行にも等しい。  あの、忌むべき父親と同じ道に堕ちることだけは、どうしても避けねばならないという気持ちがある。  逃げるか、それとも留まるか。  堂々巡りの考えに頭を支配されたまま、時間は更に過ぎて行った。  さすがにこのままでは、明日の仕事に支障をきたしかねない。  そう思い、ジャンが寝床に就こうとした時だった。  部屋の扉が、軋んだ音を立てて開いた。  ジャンが振り返ると、そこに立っていたのは見覚えのある人影。  片手にランプを持って佇む、寝巻姿のリディだった。 「ジャン……。  まだ、起きてたんだ……」 「えっ……!?  ああ……ちょっと、考え事をしていてね」  先刻の浴室でのことが思い出され、ジャンは思わず適当に言葉を濁す様な言い方をした。 「考え事、か……。  誰のことを考えていたの?  今の患者さん?」 「まあ、そんなところだね。  でも、リディが気にすることはないよ。  これは、僕自身の問題だから……」  言えるはずもなかった。  ルネの身体のこと、その行いのこと、どれをとっても普通の人間には受け入れ難いものがあるだろう。  それに、下手にルネのことを話して、彼女が誰かから好奇と偏見の眼差しを向けられるのも嫌だった。  例え、それが幼馴染であるリディのものだったとしてもだ。 「ねえ、ジャン……」  ランプを台の上に置き、リディがそっとジャンの側に立つ。  いつもとは違う、どこか憂いを帯びたような口調だったためか、ジャンは思わず身構えた。 「実は、少し気分が悪いの。  私のこと、ちょっと診てくれないかな?」 255 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第十話】   ◆AJg91T1vXs :2010/12/20(月) 00:58:27 ID:dWxH0GEx 「気分が悪いって……大丈夫なのかい?」 「うん。  なんか、熱っぽくってさ。  最近は寒かったし、風邪でもひいたのかも……」 「そうだな。  じゃあ、ちょっと診てみるから、額を出して」  椅子から立ち上がり、ジャンはリディの額に手を当てる。  冷え切った自分の手に比べれば暖かかったが、さして高い熱が出ているとは思えない。  むしろ、至って普通なくらいの平熱だ。 「熱がある……ってわりには、そんなに熱くないね」  訝しげな顔をしつつも、ジャンはリディの額にかざした手をそっと退けた。  これで、頭痛がするなどと言い出すようであれば、薬を与えて部屋に帰せばよい。  真偽の程は定かではないが、とりあえずリディに熱はないのだ。 「たぶん、単に疲れているだけだと思うよ。  頭とか……どこか痛むって言うなら、薬を出しておくけど?」 「本当に?  でも……もっと、ちゃんと診ないと、わからないんじゃない?」  医者として適切な判断を下したつもりだったが、リディは納得していないようだった。  あからさまに不満そうな表情を浮かべると、ジャンの頭に自分の手を伸ばして来た。 「冷えた手で触っても、きっとわからないでしょ?  だから……ジャンのここで診て……」  そう言いながら、リディは自分の額をジャンの額に押し付ける。  口と口が触れそうになるほどに、二人の顔が近づいた。  それは身体も同じことで、ジャンは自分の胸に、リディの胸元にある柔らかいものが当たっているのを感じていた。 「ちょっ……リディ!?」 「動かないで、ジャン……。  私……熱っぽいでしょ?  こうやって近づけば、ジャンだってちゃんとわかるよね?」  リディの口から漏れる息が、言葉と共にジャンの口元にかかる。  寝巻の下には何も着けていないのか、押し付けられる二つの膨らみが妙に生々しい。  甘酸っぱい息と胸に当たる確かな感触に絆されて、ジャンは一瞬だけ自分の理性が揺らぎそうになった。  が、すぐに屋敷で見たルネの顔が頭に浮かび、済んでのところで意識を戻す。  暗闇の中で光る、赤銅色の二つの瞳。  血に飢えた獣のようなルネの姿と、目の前で自分に顔を近づけるリディの姿。  二つはまったく異なるものだったが、今のジャンには、それらの姿が重なって見えた。 256 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第十話】   ◆AJg91T1vXs :2010/12/20(月) 00:59:06 ID:dWxH0GEx 「何やってるんだよ、リディ!!」  自分の中に湧いてきた邪な気持ちを振り切るように、ジャンはリディの身体を引き剥がす。  その言葉に、ただ茫然と立ち尽くすリディ。  そんな彼女の姿を前に、ジャンは半ば呆れたような口調で言葉を続けた。 「いいかげんにしてくれないか……。  君、熱なんてないんだろう。  だったら、どうしてこんなことをするんだよ……」 「どうしてって……それは……」 「風呂場でのこともそうだけど……今日のことは、悪戯にしては性質が悪過ぎるよ。  毎日忙しくて、リディと話ができないのはわかっているけど……こんな時間に、こんなことしなくてもいいだろう!?」 「そんな……悪戯だなんて……。  私、そんなつもりじゃ……」 「だったら……悪いけど今は、ちょっと席を外してくれないかな?  正直、冗談を言って笑っていられるような気分じゃないんだ……」 「なら、私に相談してよ!!  私、ジャンのためなら何でもするよ!!  こんな私じゃ頼りないかもしれないけど、ジャンの話だったら、どんな話でも最後まで全部聞くよ!!」 「そういうことじゃないんだよ……。  今は、ちょっと一人で考えていたんだ……」  懸命にジャンに縋るリディだったが、ジャンの表情は優れなかった。  ここでリディに話をしたところで、何も解決しないことはわかっている。  自分がリディの好意に甘えたところで、ルネを傷つけた罪が許されるわけでもない。  ベッドの傍らで立ちつくすリディを他所に、ジャンは再び机の前にある椅子に腰かけた。  そのままリディに背を向けて、両手を額の前で組んで考える。  リディが後ろで何かを言っているようだったが、ジャンはそれに答えなかった。  部屋を覆う静寂の中、外の雨音と風の音だけが聞こえて来る。  何も言ってくれなくなったジャンの背中を見つめたまま、リディはそっと近くにあったランプを取った。 「それじゃあ……私、もう行くね。  ジャンも、あまり遅くまで起きていると、身体に悪いよ……」  やはり、返事はない。  自分がジャンの気持ちを害してしまったことを悔いつつも、リディはそれ以上は何も言わず、そっと逃げるようにして部屋を出た。 257 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第十話】   ◆AJg91T1vXs :2010/12/20(月) 00:59:38 ID:dWxH0GEx  誰もいない廊下を渡り、すぐ隣の部屋の扉を開ける。  入口近くの台の上にランプを置くと、そのまま鍵も閉めず、ベッドの上で丸くなった。  夕方、浴室でジャンに近づいたのは、彼を癒してあげたいと思ったからだ。  先ほど、ジャンの部屋を訪れたのは、もっと自分のことを女として見て欲しいと思ったからだ。  だが、そんなリディの気持ちに気づくこともなく、ジャンはその全てを悪戯の一言で片づけてしまった。  リディにしてみれば、精一杯の自己表現。  そんな彼女の行いでさえ、ジャンに気持ちを伝えるには至らない。  相手はすぐ隣の部屋にいるというのに、まるで遙か遠い異国の地に行ってしまったような気がしてならなかった。  体は側にあっても、心は遠く離れている。  十年前、ジャンがリディに何も告げずに街を去った時から、二人の心の距離は縮まっていない。 (ジャン……。  どうして、気づいてくれないの……?)  この時期の寒さには慣れているはずだったのに、身体の震えが止まらなかった。  外の雨と風は未だ街を冷やしていたが、リディが寒さを感じているのは、それだけが原因ではない。 (寒い……寒いよ、ジャン……)  本当は、今すぐにでもジャンの部屋に戻りたい。  戻って、この気持ちを伝えて、抱きしめて欲しい。  彼の腕で、胸で、冷えた心を暖めてもらいたい。  だが、先ほどのジャンの様子を思い出すと、とてもではないができそうになかった。  ジャンを求める気持ちよりも、拒絶を恐れる心の方が大きかった。 (ジャン……暖めてよ……。  昔みたいに……私のこと、守ってよ……)  近いのに遠い。  手を伸ばせば届きそうなのに、届かない。  しかし、無理に近づけば、それは更に溝を深める結果となる。  拒絶の恐怖ともどかしさ。  その二つに身を焦がされて、リディはひたすら暗闇の中で震えていた。 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ 258 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第十話】   ◆AJg91T1vXs :2010/12/20(月) 01:00:12 ID:dWxH0GEx  翌朝は、久しぶりに太陽が顔を覗かせていた。  朝の陽ざしを額に受けて、ジャンは眠たい目を擦りながら起き上がる。  机の上に置いてある眼鏡をかけると、ぼんやりとした視界が急にはっきりした。  それと同時に、昨晩の記憶がまざまざと脳裏に浮かび上がる。  昨日の晩、自分はリディに随分と厳しいことを言ってしまった。  一人になりたかったのは事実だが、よくよく考えてみれば、あれは八つ当たりに等しい行為だ。  髪を整え、服を着替え、ジャンは階下の食堂に向かって足を運ぶ。  その足取りは、いつもとは異なりどこか重たい。  昨晩のことがあるだけに、面と向かってリディと話ができるのかどうか不安だった。  階段を下り、食堂の戸を開けると、そこにはリディの姿があった。  どうやら一人で朝食の準備を進めているようで、テーブルの上にはハムとパン、それにチーズや卵などが並べられている。 「あっ、おはよう、ジャン」 「あ、ああ……」  食事を並べながら、リディはジャンにいつもの笑顔を向けてきた。  気まずい空気になるかと思っていただけに、これにはジャンも、いささか拍子抜けしたような顔になった。  相手がこちらを責めるならば、覚悟を決めて謝ることもできただろう。  ところが、リディはジャンを責めるようなことは一切せずに、いつもと何ら変わらない様子で接してくる。  こうなると、次に何を話して良いのか、返って気にしてしまうものである。 「えっと……昨日は、その……」 「昨日?  ああ、夜、ジャンの部屋に行った時のことね」 「ああ、そうだよ。  あの時は、冷たいこと言ってごめん……。  なんだか、ちょっと気が立っててさ……」 「そんなこと言ったら、私だって、ジャンの気持ちを考えていなかったもんね。  だから、あれはお互い様。  それ以上は、何も言わないことにしましょう」  自分は何も気にしていない。  そんな口調で、リディはさらりと言ってのけた。  ジャンも、それ以上は追及する気にならず、二人の会話はそこで途切れた。  自分の座った席に朝食が並べられてゆく様を眺めながら、ジャンは再び考える。  リディのことは、今はよい。  それよりも、今日の伯爵邸への往診が、果たして平穏に済むのかどうかが気がかりだ。  昨日、血を求めて迫るルネの姿に恐れをなし、馬車にも乗らず逃げ帰った自分。  そんな自分を、果たしてルネは許してくれるだろうか。  信じていた者に裏切られたという事実が、彼女の心を再び閉ざすことになってはいまいか。  考えれば考えるほど、ジャンの中から食欲が消えていった。  周りでは、既に他の宿泊客も席に着き、それぞれがパンやチーズに手を伸ばしている。  が、そんな光景を目にしても、パンを握るジャンの手が進むことはない。 「どうしたの、ジャン?  もしかして……食欲ないとか?」 259 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第十話】   ◆AJg91T1vXs :2010/12/20(月) 01:01:05 ID:dWxH0GEx  気がつくと、いつの間にかリディがジャンの後ろに回っていた。  他の客の目も気にせずに、こちらを心配そうに見下ろしている。 「いや、大丈夫だよ。  昨日、寝るのが遅かったから、ちょっと寝不足でね。  往診に行く時間まで仮眠をとれば、すぐに気分も良くなるさ」  寝不足なのは事実だったが、食欲不振の原因は他にある。  だが、それをリディに語ることはせず、ジャンは適当に理由をつけてごまかした。  食べかけのパンを牛乳で流し込み、手早く皿を重ねて立ち上がる。 「悪いけど、クロードさんが来たら知らせてくれるかな。  僕は昼まで部屋にいるつもりだから……よろしく頼むよ」  食事の終わった食器をリディに預け、ジャンはさっと立ち上がって部屋を出た。  他の宿泊客もいる手前、重たい空気を食堂に持ち込みたいとは思わなかった。 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※  宿場の前で馬の蹄が止まった音で、ジャンは自分が往診に出かける時間だと知った。  昨日、あのまま逃げ帰ってしまった手前、クロードに顔を合わせるのも気が重い。  しかし、患者を放置したまま約束を破るわけにもいかず、ジャンは仕方なしに宿場の外へと出た。 「お待ちしておりました……」  普段と変わらない無機的な空気を纏い、クロードがジャンに一礼する。  感情を表に出さないのを常としているだけに、向こうが何を思っているのかはわからない。 「ああ……。  それじゃあ、行こうか……」  昨日の一件を、クロードは知らないのだろうか。  ふと、そんな考えが頭をよぎったが、決めつけるには早過ぎると思った。  それに、昨日のことは遅かれ早かれ、ルネの口から他の者に告げられるだろう。  自分の不実はわかっていたが、それを知ったテオドール伯やクロードの顔を思い浮かべると、ジャンはどうしても気分が沈んだ。  丘の上の屋敷向かう途中、クロードは始終黙ったままである。  いつもであれば、そんな冷めた態度も気にならなくはなっていたが、今日は一段と馬車の中の空気が重たく感じられた。  相手が感情を押し殺しているだけに、その奥に怒りや悲しみを抱えているのではないかと思うと辛いものがある。 「着きましたよ、ジャン様……」  程なくして丘の上の屋敷に到着し、ジャンは促されるままに馬車を降りた。  冷たい印象を与えるのはいつものことだと思いつつも、クロードの言葉の一つ一つが気になって仕方がない。 260 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第十話】   ◆AJg91T1vXs :2010/12/20(月) 01:01:46 ID:dWxH0GEx 「どうぞ、こちらへ……」  馬車を降りてからも、重たい空気は変わらなかった。  顔には出していないものの、クロードの背中から発せられているものだけは、ジャンにも理解できる。  やはり、クロードは昨日の件を知っているのだ。  自分が信頼した相手に裏切られた怒りと悲しみ。  それを、この男――ここではあえて、男と呼ばせてもらうが――もまた、心の奥で感じているのだろう。  屋敷の中を、ジャンはクロードに言われるがままにして歩いてゆく。  伯爵のいる部屋とは違う方向だったが、あえて何も言わなかった。  長い廊下を歩き、クロードがその先にある部屋の扉を開ける。  伯爵やルネの部屋ではなかったが、ジャンもその部屋には見覚えがあった。  忘れもしない、クロードがジャンに伯爵とルネの関係を語った部屋だ。  己の身体の秘密を明かしてまで伯爵とルネに対する忠義心の深さを語り、ジャンにルネの話し相手になるよう頼んだ場所である。 「どうぞお掛け下さい、ジャン様」  部屋に入るなり、クロードはジャンに椅子に座るよう促した。  立ち話もなんだということなのだろうが、クロードは椅子に腰を下ろすことなく立ちつくしたままだった。 「この部屋でお話をするのは二度目になりますね」 「あ、ああ……」 「何を緊張なさっているのですか?  別に、私はまだ何も言っていませんよ?」  氷のように冷たい視線が、ジャンの顔に向けられた。  その青い目で見据えられると、心臓を貫かれるような気がして落ち着かない。 「では、単刀直入に申し上げさせていただきましょう」  座ったまま固まっているジャンを気遣うこともなく、クロードは唐突に話を始めた。 「昨日、ジャン様は、お嬢様の部屋に戻られましたね?  そこで、何を見たのですか……?」 「な、何って……それは……」 「正直にお答えください。  返答次第では、私の手でジャン様に、しかるべき措置を取らせていただかねばなりませんので……」 「し、しかるべき措置って……。  それ、本気かい?」  思わず耳を疑ったジャンだったが、クロードは至って冷静だった。  普段の彼の様子からして、冗談を言うような人間でないことはジャンも知っている。  ならば、ここで下手に嘘をつけば、それこそ自分の身が危ない。  伯爵やルネに対する忠義心の塊のようなクロードのことだ。  場合によってはジャンを抹殺することでさえ、何の躊躇いもなく行うだろう。 261 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第十話】   ◆AJg91T1vXs :2010/12/20(月) 01:02:12 ID:dWxH0GEx 「わかったよ……正直に話す」  もう、隠すのは無理だとジャンは悟った。  クロードは事実を全て知った上で、こちらを試しにかかっている。  ここで隠し事をするような素振りを見せれば、それはジャン自身の業を重たくするだけである。 「昨日、ルネの部屋に忘れ物の時計を取りに行った時、彼女が僕に言ったんだ。  喉が渇いた、癒して欲しい……そして、僕の血が欲しいってね……」 「なるほど。  やはり、そうでしたか……」  クロードの目が、一瞬だけ憂いを帯びた色になった。  知られてはいけないことを知られてしまった。  そんな時に見せる顔だった。 「あの時は、正直、僕も気が動転していたんだと思う……。  ただ、ルネのことが恐ろしく思えて、無我夢中で逃げだしたよ。  それが……彼女を傷つけることだと知っていても……自分が抑えきれなかった」  ジャンも、俯きながらそう言った。  ルネの行動に疑問こそ残ったが、自分が彼女を傷つけたであろうことは、紛れもない事実である。 「あの……クロードさん」 「なんでしょうか、ジャン様」 「ルネは……彼女は、どうして僕の血なんか欲しがったんだ?  あの時の彼女の瞳は、まるでいつもと様子が違っていた。  あなたは何か、僕にまだ隠していることがあるんじゃないですか?」  遠慮がちに、それでも何とか勇気を振り絞って、ジャンはクロードに尋ねた。  ルネに謝りたい。  それは、紛うことなきジャンの本心である。  だが、同時に、ルネについての真実を教えて欲しいという気持ちもあった。  あんなものを見せられては、これから先も今まで通りに向き合える自信がない。  例え謝罪を済ませたとしても、どこか納得のいかないまま、今まで以上にぎくしゃくした関係が続くことになるだろう。 「ジャン様……。  あなたがそう望まれるのであれば、私からも真実をお話しましょう」  クロードが、その表情をいつものそれに戻しながらジャンに言った。 262 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第十話】   ◆AJg91T1vXs :2010/12/20(月) 01:02:55 ID:dWxH0GEx 「ただし、それには条件があります。  一つ目は、心の底から昨晩の非礼をお嬢様に詫びること。  二つ目は、今から話すことは、全てジャン様の心の中に留めておかれること。  これらをお守りいただけるのであれば、お話しいたしましょう」 「わかった……。  ルネにはきちんと謝るし、ここで聞いたことは誰にも言わない。  それで良いんだろう……?」 「賢明なご判断です……」  クロードが、ジャンの言葉に納得したようにして言った。  ジャンもそれに、無言で頷いて返す。  今から語られることは、きっと自分の想像を越えた話だろう。  それこそ、クロードの身体のことなど比べ物にならないほどの内容に違いない。  先入観は禁物であると知りながらも、ジャンの手には自然と力が入っていた。 「では、語らせていただきましょう。  お嬢様と私しか知らない……呪われた血の宿命のお話を……」  それからクロードは、ジャンの前でルネの身体の秘密について話し出した。  顔は普段のままだったが、その口調だけは、先ほどの憂いを帯びたようなそれに戻っている。  ジャンがまず驚いたのは、クロードの口から語られたルネの年齢だった。  見たところ、彼女は十四歳か十五歳程度だろうと思っていたが、クロードの話によるとルネは十八歳とのことだった。  彼女がテオドール伯の養女になるきっかけとなった落石事故。  それから生還して以来、ルネは身体の成長が止まってしまったらしい。  見た目は少女の姿のままに、既に四年も生きている。  伯爵の養女になってから、彼女はまったく成長する兆しを見せなかったというのだから驚きだ。  奇妙なことは、そればかりではない。  その体質故に、ルネは確かに日光に弱かった。  しかし、事故の前と後では、その耐性に大きな差が生まれたという。  ルネの口から語られた話によると、事故から生還して以来、強過ぎる日光に当たると飛火や瘡蓋ができるようになったそうだ。  酷い時には火傷のような傷を負い、慌てて木陰に逃げ込んだこともあるらしい。  飛火や瘡蓋の話はジャンもクロードから聞いていたが、火傷をするという話までは聞いていなかった。  また、その一方で、彼女の体質には他人とは異なる優れた面もあった。  以前、何かの拍子で指を切る怪我をしたとき、ルネの血は瞬く間に乾いて傷口を塞いだというのである。  薄い傷跡こそ残ったものの、出血は極めて最小限で済んだ。  再生という程の大袈裟なものではないが、怪我に対する自然治癒力だけは、優れた力を持っているようだった。  そして極めつけは、やはり彼女の嗜好である。  昨晩、ジャンの前で見せた、他人の血を欲するというあれだ。  普段は表に出ることはないものの、ルネは定期的に襲ってくる衝動に苦しめられているとのことだった。  焼けるような喉の渇きに襲われて、ひたすらに生きた人間の血を求める。  酷い時には自分で自分を抑えきれなくなり、そのままクロードに襲いかかったこともあるらしい。  今までは衝動も月に二回程度だったが、ここ最近では、クロードの身体が限界に近くなるほどまでに血を欲してくるようになったとのことだった。 263 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第十話】   ◆AJg91T1vXs :2010/12/20(月) 01:03:38 ID:dWxH0GEx 「以上が、お嬢様の抱えておられる秘密です。  これで納得いただけましたでしょうか、ジャン様?」  最後まで淡々とした口調で、クロードはジャンに問うた。  その言葉に、やはりジャンは無言のまま頷いて返事をする。  あまりに想像を絶する内容で、言葉を口にすることさえも躊躇われた。 「このことは、御主人様もご存じではないのです。  血を求めるお嬢様に私自身の血を与え続けることで、今までは秘密を漏らすことなく過ごすことができました。  もっとも、いつかこういった日が来るであろうことは、私も予想はしていましたが……」 「そうだったのか……。  でも、どうしてあなたは、このことをテオドール伯に伝えないんですか?  あの伯爵なら、ルネの秘密のことだって……」 「ジャン様の仰りたいことは、私にもわかります」  ジャンが言葉を言い終わる前に、クロードがそれを遮った。 「しかし、さすがにこの秘密だけは、御主人様にもお話するわけには参りません。  秘密を知ったことで、御主人様が苦しまれるだけであれば……いっそのこと、何も知らないままの方が良いこともあるのです」 「そんな……。  それじゃあルネは……今までずっと一人で、自分の中に闇を抱えていたってことなのか!?」 「一人ではありません、二人です。  私も、お嬢様の秘密を知る者の一人ですからね。  もっとも、他人と容易に共有できない秘密を抱えているという点では、一人でも二人でも、あまり変わらないことですが……」  その顔からはわからなかったが、ジャンはクロードの言葉から、確かに悲しみのようなものを感じ取っていた。  身内にさえも語れない秘密を抱え、偽りの自分を演じ続けるしかない生活。  純粋な心を持って生まれたが故に、その苦しみはジャンの考える何倍にも大きかったに違いない。 「ジャン様……。  お嬢様は、世間では魔物として忌み嫌われる存在なのです。  永久に歳をとらず、太陽の光を恐れ、その一方で、傷を負ってもすぐに傷口が塞がってしまう。  己の内から湧き上る衝動に身を任せ、他人の生き血を啜ることでしか、その身体を襲う渇きを癒すことができない者。  このような存在を、一度は耳にしたことはありませんか?」 「そ、それは……」 「私も、魔女や悪魔の存在を完全に信じているわけではありません。  しかし、世間一般の者からすれば、お嬢様は間違いなく魔物ということになるのでしょう。  世俗では、そのような者を……こと、吸血鬼と呼ぶようですね」 「馬鹿な!!」  そこまで聞いた時、ジャンは思わず声を上げて立ち上がった。  確かに、クロードの話を聞く限りでは、ルネは吸血鬼と言っていいのかもしれない。  だが、だからと言って、彼女が魔物として忌み嫌われなければならない理由はない。  ルネが他人の血を求める行為。  あの場から逃げ出した自分で言うのも憚られるが、そこに悪意はない。  少なくとも、クロードの話を聞く限りでは、彼女は自分の行いに心を痛めているようだった。  それなのに、世間一般の者から見れば、彼女は間違いなく魔物となる。  その容姿も行動も全てが異質な存在とされ、排斥される運命にあるのだ。 264 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第十話】   ◆AJg91T1vXs :2010/12/20(月) 01:04:10 ID:dWxH0GEx  自分がルネにしてしまったこと。  ジャンの中でそのことが、今さらながらにして大きく悔やまれた。  ルネは己の衝動を抑えようとし、苦しんでいたというのに、自分はなんということをしてしまったのか。  謝罪の言葉を述べるだけでは済まされない。  そんな自責の念が、ジャンの心を締めつけた。 「話はわかりました、クロードさん……」  高ぶる気持ちを鎮めながら、ジャンは真剣な表情でクロードを見る。 「昨日、ルネから逃げ出したことは……謝っても許されることではありません。  それは、僕も十分に承知しています」  ジャンの言葉に、クロードは何も答えない。  ただ、その話が終わるのを静かに待っているだけだ。 「だけど……だからこそ、僕はルネに贖罪をしなければならないと思うんです。  もう、彼女が自分のことで苦しまなくて済むように……彼女が普通の女の子として暮らせるように……。  そうすることが……医者としてしなければならない、僕の使命だ」 「ジャン様……」 「彼女が吸血鬼だなんて……そんな馬鹿げた話、僕は信じない。  だから、僕は彼女を治す。  例え、その姿が人とは違うもののままでも……せめて、血を求める衝動からだけでも解放してあげたいんだ」  自分でも、言っていることが信じられなかった。  あれほど街から離れたいと思い、それ故に、他人と深く関わることを避けてきた自分。  それにも関わらず、気がつけばルネのため、自らこの土地に残る選択をしている。  だが、不思議と嫌な気はしなかった。  これがルネにとっての救いになるのであれば、そして、自分にとっての贖罪になるのであれば、受け入れてしまおうとさえ思えていた。  自分にとって、ルネはいったい何なのか。  それはジャン自身にも、まだわかってはいない。  ただ、彼女のことを放っておけない自分がいるのは事実であり、医者として彼女の力になりたいと真剣に思っているのもまた本当だった。  原因不明の衝動に駆られ、他人の血を啜ることでしか渇きを癒せない症状。  そんな病気は聞いたこともないし、ジャン自身、治療の当てがあるわけでもない。  それでも、今ここでルネを救うことができるのは、自分以外にいないとジャンは感じていた。  部屋の中に、無言の静寂が訪れる。  ジャンも、クロードも、互いに見つめ合ったまま何も言わなかったが、それぞれの心の内にあった憂いは晴れていた。  もう、後戻りできないところまで来てしまった。  そう思ったジャンではあったが、今はルネのために何かをしたいという気持ちの方が強い。  だが、この時は、その選択が後の悲劇を生むきっかけになろうとは、クロードも、そしてジャン自身も気づいてはいなかった。

表示オプション

横に並べて表示:
変化行の前後のみ表示: