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92 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第十二話】  ◆AJg91T1vXs :2011/01/06(木) 01:19:05 ID:f6PLVhrx  早朝であるにも関わらず、その日、ジャンは既にテオドール伯の屋敷の前にいた。  昨日の晩にルネから頼まれたささやかな願い。  それを叶えるためである。 「お待たせしました、ジャン」  伯爵とクロードに連れられて、屋敷の中からルネが姿を現した。  いつも以上に黒いドレスに身を包み、頭にも黒い帽子を被っている。  目元は黒いレースで覆われて、その上日傘まで差していた。  太陽の下をまともに歩けないルネにとっては、これ以上にない重装備ということになる。  昨晩、ルネがジャンに頼んだこと。  それは、身体の弱い自分に同行し、一緒に街まで行って欲しいとのことだった。  別に街に出かけて何をするわけでもないのだが、なにしろ、今までほとんど外に出たことのない身である。  今まで、ジャンの旅の話を聞いているうちに、外の世界に興味を持ったということが理由だった。 「では、参りましょう。  今日はジャンが、街を案内して下さいね」  微笑みながら、そう言ってルネが右手を差し出して来た。  黒いレースごしからも、その瞳が今までになく嬉しそうにしているのがわかる。  彼女の言葉と態度から察するに、どうやら今日は半日ほどの間、ジャンがルネをエスコートせねばならないようだ。  差し出された手をそっと握り、ジャンはルネと共に馬車に乗り込んだ。  扉を閉めようとしたその時、今まで後ろにいた伯爵が、一歩だけ前に出てジャンを見る。  普段の険しい表情とは違い、その顔は幾分か柔らかいものになっていた。 「では、ジャン君。  すまないが、娘のことを頼んだぞ。  傘や帽子である程度は防げるとはいえ、ルネが陽の光に弱いのは変わりないのだからな」 「はい。  彼女の身体のことは、クロードさんから聞きました。  僕もできるだけ、無理はさせないように注意します」 「まあ、私も君のことは信頼しておるからな。  実際、そこまで心配しておらんし……できれば、ずっとこの屋敷に留まって欲しいと思っておるくらいだよ。  無論、私のためだけでなく、ルネのためにもな」  どこか含みのある口調で、伯爵はジャンにそう告げた。  その言葉の意味を尋ねようとしたジャンだったが、その前に、ルネが馬車の扉を素早く閉めた。  彼女曰く、「これから出かける者を引き留めて長話をするのは、いくらお父様でも無粋ですわ」とのことである。  ルネが御者に指示を出し、馬車は軽快な蹄の音と共に屋敷を出た。  門をくぐり、丘を下り、目指すはジャンの生まれた街である。  いつもクロードと一緒に馬車に乗って通っている道だったが、今日はなぜか、そんな見慣れた道が違ったものに見えていた。  揺れる馬車の中、ルネがその体をそっとジャンに近づけてくる。  同時に右手をさりげなく伸ばし、その指先でジャンの左手を包むようにして触れた。  相変わらず冷たい指先だったが、その肌は彼女の体温に反し、まるで絹糸のように柔らかい。  そのまま右手を握られると、それだけで妙に気持ちが高まってくる。 「ちょっ……!!  ル、ルネ……!?」  いつものルネとは違う、ややもすれば大胆にも思える行動。  思わず身を引こうとしたジャンだったが、ルネの手はそれを許さなかった。 93 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第十二話】  ◆AJg91T1vXs :2011/01/06(木) 01:20:00 ID:f6PLVhrx  白く、か細い指先が、絡みつくようにしてジャンの手を捕える。  そのまま引き寄せられるようにして、ルネはジャンと肩が触れ合うほどの距離まで体を寄せてきた。  ルネの肩がジャンに触れた瞬間、柔らかな香りが彼の鼻腔を刺激した。  恐らく、ルネがつけている香水の匂いだろう。  だが、こんな甘く上品な香りは、今までに嗅いだこともない。  パリの市内で貴婦人たちがつけている、バラの香りの香水とは異なるもののようだった。 「あら、どうされました、ジャン?」  ジャンの微妙な変化に気づいたのだろう。  ルネが不思議そうな、それでいて、どこか悪戯っぽい笑みを浮かべながらジャンの顔を覗きこんできた。  それに数秒遅れる形で、ジャンも少し慌てた様子で彼女に返す。 「あ、ああ……。  君のつけている香水、不思議な香りがするね。  いったい、何の香りなのかな?」  自分でも、馬鹿なことを聞いていると思っていた。  いつも通りに話をすればよいというのに、今日はどうしてこうも頭が回らないのだろう。  それは一重に、いつもとは違う服装や態度のルネが隣にいるからに他ならないのだが。 「これは、百合の香りです」  何ら惜しげもなく、ルネはジャンにそう告げた。  彼女から言われて、ジャンも初めてその香りの正体に気づく。  もっとも、百合の花の香りを直に嗅ぐことなどなかったため、あくまで頭で納得したに過ぎない。 「へえ、百合か……。  一度、パリの街に出た時に、バラの香水をつけている貴婦人の人は見かけたけど……百合の香水をつけている人は、初めて見た」 「そうなんですの?  あっ……!!  もしかして……ジャンは、百合の香りがお嫌いでしたか?」 「いや、そんなことはないよ。  甘くて、それでいて品があって……君に似合っているよ。  少なくとも、僕はそう思う」 「うふふ……。  ありがとうございます、ジャン」  黒いレースの向こうにある赤い瞳が、柔らかな笑顔のときのそれになってジャンを見た。  そういえば、ルネのこんな笑顔を見るのも実に久しぶりな気がする。  最近は地下室に籠りきりで、まともにルネと話をすることさえ忘れていた。  自分がルネのためにしていたことが、間違いだったとは思わない。  だが、たまにはこんな風にして、彼女のために息抜きをしてやることも必要だと思い始めていた。 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ 94 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第十二話】  ◆AJg91T1vXs :2011/01/06(木) 01:20:57 ID:f6PLVhrx  ジャンとルネが街についたのは、太陽が東と南の間辺りまで昇った頃のことだった。  空には雲も多いため、陽射しは決して強くない。  だが、それでもルネが日光に弱いことは間違いなく、ジャンは彼女を気遣うようにしながら隣を歩き続けた。  今、二人が来ているのは、街の中にある市場の一つだった。  本来であれば貴族の令嬢が訪れるような場所ではないのだが、それだけに、ルネにとっては何もかもが珍しく映るようだった。  店先に並ぶものを覗いてみては、ルネはジャンに、「あれは何か」と尋ねてくる。  その度に、ジャンはルネに丁寧に説明した。  ルネは、決して高慢故に無知なのではない。  その身体の特性故に、今までずっと陽の光の当たる場所をまともに歩けなかっただけだ。  ジャンのような医者が付き添っていなければ、こうして街を見て回ることさえも難しかったに違いない。  暮も近いためか、街の市場はいつも以上に賑わっていた。  普段であれば売られることのない高級な料理の食材も、ここ最近は惜しげもなく店頭に並べられるようになっている。  聖夜であるノエルの日になれば、この様子はますます顕著なものとなる。 「大丈夫かい、ルネ。  こんな人混みにいたら、返って疲れるんじゃないのかい?」 「いいえ、平気ですわ。  確かに、少し人が多いような気もしますけど……こういった賑やかな街並みを見るのも、たまには良いものですから」 「でも、人の目だってあるだろう。  街の人の誰しもが、僕やクロードさんみたいな人とは限らないんだ。  中には他人を色眼鏡でしか見ない人だっているだろうから、そういった人の前で、あまり君の姿をさらしたくはないよ」  ジャンが、傍らにいるルネを気遣うようにして言った。  ルネの身体のことを考えると、いつまでも人混みの中をうろついているわけにもいかない。  体力的なことも、他人の目のこともある。  どこか、適当な場所に移り、そこでお茶でも飲んだ方が良いはずだ。 「では、どこか休める場所を探しましょう。  この街には、そういった場所はありますか?」 「そうだなぁ……。  僕が子どもの頃には何もなかったけど、最近になって、ようやくカフェができたって噂を耳にしたような……」 「カフェですか。  ジャンも、その場所は御存じないのですね?」 「ああ。  僕も詳しい場所は、ちょっと……。  君を案内するつもりなのに、これじゃあ全然役に立ってないよね」 「いえ、そんなことはありません。  場所がわからないのであれば、一緒に探せばよいことです」 95 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第十二話】  ◆AJg91T1vXs :2011/01/06(木) 01:21:56 ID:f6PLVhrx  気まずそうに頭をかいているジャンだったが、ルネはまったく気にしている様子はなかった。  むしろ、ジャンと一緒に街を探索できることで、喜んでいるようにさえも見える。  年齢に反して幼い顔つきと身体つきも相俟って、その無邪気な行動が純粋に愛らしい。 「それじゃあ、一緒に探そうか。  でも、あまり無理するのはよくないからね。  君のお父様の薬の材料も買って行かなくちゃいけないし……気分が悪くなったら、遠慮しないで言ってくれよ」 「はい。  では、参りましょう」  ルネがにっこりと微笑んで、片手をジャンに差し出した。  馬車の中でのことが思い出され、ジャンは少しだけ複雑な気持ちになる。  が、しかし、ルネの好意を断る理由もなく、今度は自然に彼女の手を引いた。  傘を持っているため、なかなか肩を近づけることができないが、それでもルネは幸せそうにジャンの隣を歩いていた。  どれくらい歩いただろうか。  市場を一通り見て回ったが、カフェらしき建物は見当たらなかった。  さすがに歩き疲れたのか、ルネも少々足取りが重い。  ジャンの手前、なんとか頑張って見せるものの、そろそろ休まねば彼女の身体にも悪いということは一目で分かる。 (まずいなぁ……。  伯爵のための薬の材料は手に入れたけど、このままじゃルネが持ちそうにないか。  こうなったら、誰かに道を聞く他にないのかもしれないな……)  もとより、場所を知らない店を見つけるなど難しいことだ。  最初から道を尋ねればよかったと思い、ジャンが軽い後悔の念を覚えた時だった。 「あっ……!!」  こちらに向けられた強い視線と、あからさまに驚いたような声。  聞き覚えのあるその声に、ジャンは思わず声のした方に顔を向けた。 「リディ……」 「ジャ、ジャン!?  あなた……いつも朝から出かけていたみたいだけど……。  今日は、どうしてこんなところにいるの!?」  そこにいたのはリディだった。  買い物の途中なのか、手にした袋からは食材のようなものがはみ出しているのが見て取れる。  まだ暮の祝いをするには早いというのに、やけに高級そうな食材を買いこんでいるようだった。  意外なところで、意外な相手に会ったものだ。  そう思ったジャンだったが、これは好機でもあった。  見ず知らずの他人に声をかけるならば気が引けるが、顔見知りのリディにならば、カフェの場所を聞くのも難しいことではない。 「ねえ、リディ。  買い物の途中で悪いんだけど……君、この辺に新しくできた、カフェの場所って知らないかな?  僕は小さい頃の街の様子しか知らないから、詳しい場所がわからなくてさ」 「えっ、カフェ?  いいけど……なんで、そんな場所に行きたいの?」 「いや、なんでって言われても……。  この娘を少し、休ませる場所が欲しいだけだよ」  そう言って、ジャンはルネの方に少しだけ視線を移す。  それを受け、多少恥ずかしそうにしながらも、ルネはおずおずと前に出てお辞儀をした。 96 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第十二話】  ◆AJg91T1vXs :2011/01/06(木) 01:22:44 ID:f6PLVhrx 「ルネ・カルミア・ツェペリンと申します。  ジャンのお知り合いの方ですね。  以後、お見知りおきを……」 「え、ええ……。  リディ・ラングレーよ。  私、ジャンとは幼馴染なの」 「そうでしたか。  では、リディ様は、私の知らないジャンも知っておられるのですね。  羨ましいですわ……」  ルネは何気なく言ったつもりだったが、リディはその言葉に対し、露骨に嫌悪感を示すような表情で返した。  が、すぐに気を取り直し、再びジャンに向かって質問する。 「ねえ、ジャン。  その娘……もしかして、前にジャンが言っていた患者さん?」 「ああ、そうだよ。  彼女は伯爵の娘でね。  今は僕が、彼女のことも診ているんだ」 「そ、そうなんだ……。  その娘、患者さんなんだよね……。  患者さんだったら、一緒にいてあげるのも、仕方ないよね……」  まるで念を押すように、リディは何度も確認するような口調で言ってきた。  最後の方は、ジャンに言うというよりも、自分自身に言い聞かせているといった方が正しい話し方だった。  それからリディは、ジャンとルネにカフェの場所を簡単に教えた。  去り際に、ジャンはリディに軽く礼を言って彼女の横を通り過ぎた。  その際、リディの鼻に甘く高貴な香りが流れ込んだ瞬間、彼女の眉が一瞬だけ微かに反応した。  それは、女性特有の直感が成せる技だったのかもしれない。  ルネがジャンのことをどう思っているか。  彼女の全身から発している空気から、リディはそれを敏感に感じ取っていた。  が、しかし、それを知ったリディが何を思っているかなど、当のジャンは知る由もなかった。 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ 97 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第十二話】  ◆AJg91T1vXs :2011/01/06(木) 01:23:56 ID:f6PLVhrx  ジャンとルネが屋敷に戻ってきたころには、太陽は既に南の空に昇っていた。  冬とはいえ、真昼の日差しがルネにとって毒になることには違いない。  それに、伯爵の薬も煎じなければならないし、ルネの病の正体を探るための研究もある。  また、ルネの体力のことも考えると、昼を過ぎても街中を歩きまわるのは得策とは言えなかった。  馬車から降りると、そこには既に伯爵とクロードが迎えに出ていた。  初めは心配そうに見守っていた二人だが、馬車から降りたルネの表情を見て、二人とも安心したようだった。 「お帰りなさいませ、お嬢様。  街のご様子は、いかがでしたか?」 「とても楽しかったですわ、クロード。  途中、美味しい紅茶を飲めるお店も見つけられましたし……」 「それはなによりでしたね。  しかし、あまりはしゃぎ過ぎると、お身体に障りますよ。  真昼の太陽が毒であることは、くれぐれもお忘れなきように……」 「ええ、そうですわね。  ですが、機会があれば、またジャンと一緒に行ってみたいものです」  屋敷に戻る前、ルネはそう言ってジャンに微笑んだ。  ともすれば葬式に参列するかのような衣装に身を包んでいるというのに、その姿に決して暗いものを感じさせることはない。  ルネが去り、クロードが去り、後には伯爵とジャンだけが残された。  これから仕事に戻ることを考えて、ジャンも屋敷の中に入ろうとする。  が、そんな彼の肩に伯爵の手が伸び、強引に引き止めるような形でその肩をつかんだ。 「ジャン君。  少し、よろしいかな?」 「は、はぁ……。  なんでしょうか?」  伯爵の顔は、いつもの気難しそうなそれに戻っている。  決して怒っているわけではないのだが、この顔で迫られると、こちらもどこか必要以上に畏まってしまう。 「私の娘……ルネのことだがね。  君は、あの娘のことをどう思っているのかね?」  心の準備をする時間さえ与えず、伯爵はジャンに尋ねた。  あまりに唐突だったので、ジャンも直ぐには答えられない。  とりあえず、適当に返事をして話を続けるのが精一杯だ。 「ど、どうって……。  ルネは……僕の大切な患者です」 「患者、とな……。  それは、あの娘のことを同情してのことかね?」 「それは……」  伯爵の鋭い視線がジャンに向けられる。  いいかげんな返事をして、その場をごまかせるような雰囲気ではない。 98 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第十二話】  ◆AJg91T1vXs :2011/01/06(木) 01:25:31 ID:f6PLVhrx 「確かに、最初はそうだったかもしれません。  彼女の身体のことも、その身体のせいで彼女が苦しんできたことも、全てクロードさんから聞きました。  でも、僕が彼女の力になろうと思ったのは、それだけじゃないんです」 「ほう……。  では、その理由とは何かね、ジャン君。  できることならば、ぜひ私にも聞かせてもらいたいものだ」  最早後戻りはできない。  この伯爵の前で、迂闊な返事は逆効果だ。  ジャンは大きく息を吸い込むと、一呼吸置いて気持ちを落ち着けた。  そして、そのまま自分の思うことを頭の中で並べて行き、それを一気に口に出す。  決して大きな声ではなかったが、それでも芯のはっきりと通った声だった。 「伯爵は、もうご存知かと思われますが……僕は、しがない旅の医者です。  そんな僕に対して、ルネは何の偏見も持たずに接してくれました。  だから僕も、そんな彼女に何かを返したいと思ったんです。  医者として……そして、人として……僕にはそれをする義務がある。  そう感じました」  可能な限り、言葉を選んだつもりだった。  伯爵は、ルネの嗜好についてまでは知らない。  それだけに、あの日の夜のことを語るわけにもいかなかったのだ。  ルネがその身体に抱えた本当の秘密を知れば、いくらテオドール伯と言えど、驚かないはずがないのだから。 「なるほど、話はわかった。  私は君が、一時の同情からルネに関わっているのではないかと思っていたが……どうやら、こちらの取り越し苦労だったようだな」  安堵のため息をつきながら、伯爵がジャンにそう言った。  その顔に、先ほどまでの険しさはない。  威厳があるのは変わりないが、それでもどこか、少しばかり柔らかい表情になっていた。 「ところで……話は変わるが、ジャン君」 「はい」 「君はルネのため、この地に留まる気はないかね?  私やルネの治療が終わるまでとは言わず、それこそ、このツェペリン家に仕える医師として……」 「そ、それは……」 「まあ、さすがに今ここで返事をもらおうとは、私も思っていないがね。  しかし、私も既に老い先が短い身だ。  これから先、もしも私が亡くなれば、ルネに寂しい思いをさせることになる。  そうなったとき、君には私の代わりとなって、ルネを支えて欲しいと思ったのだがね」 99 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第十二話】  ◆AJg91T1vXs :2011/01/06(木) 01:26:19 ID:f6PLVhrx  どことなく重みのある、ゆっくりとした言い方だった。  最初、伯爵の言っていたことは、ジャンにもすぐに理解できた。  ツェペリン家直属の医師となり、これからも伯爵やルネのために働いて欲しいとのことだろう。  だが、最後に言われた言葉の意味は、さすがにジャンも理解しかねた。  伯爵はジャンに、自分の代わりになってルネを支えて欲しいと頼んだ。  それはいったい、どういう意味なのだろうか。  受け取り方によっては、その言葉の意味は極めて重たいものになる。  目の前の男が、自分とルネにどこまでの関係を望んでいるのか。  今の言葉からだけでは、ジャンには答えを出すことなどできはしなかった。 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※  その日は昼間だというのに、既に酒場の扉が開いていた。  リディの営む宿の下、あの気さくな性格の店主に貸している店には、既に何人もの客が姿を見せている。  聖夜の日にはまだ早く、他に祭りがあるわけでもない。  では、この集まりはいったい何なのか。  その原因は、宿場を切り盛りしているリディ本人にあった。 「皆、今日は、私のために集まってくれて、どうもありがとう!!」  チキンの丸焼きを乗せた皿を持ったリディが、酒場に姿を現すと同時に叫んだ。  その言葉に、周りから歓声のような声があがる。  酒場の店主が豪快にシャンパンの栓を開け、それを合図にお祭り騒ぎが始まった。 「ノエルにはまだ少し早いけど、今日は私の誕生日だからね!!  今までのお礼も込めて、色々と奮発したわよ!!」  リディの声に、酒場に集った人間達は益々盛り上がる。  それぞれがワインやシャンパンを片手に、食事をしながら談笑している。  そんな光景を一通り眺めた後、リディはそっとその場を離れた。  この国では、自分の誕生日に友人を招いて料理を振舞うという慣習がある。  自分の誕生を祝いに来てくれた人に対し、最高のもてなしを行うのが礼儀とされているからだ。  当然、主催者がプレゼントの類を貰うのではなく、いかにして来客を素晴らしくもてなしたかで、その徳が図られるのだ。  街の人間に誕生日を祝ってもらうことが、嬉しくないはずがない。  しかし、リディが本当に祝ってもらいたいと思っていた相手は、残念ながらこの場にいない。 (ジャン……。  あなたは今、どこで何をしているの……)  厨房に戻ったリディの顔は、先ほどの言葉さえも嘘だったかのように沈んでいた。  もっとも、あれは精一杯の空元気。  自分の誕生を祝いに来てくれた人に対し、失礼がないようにと考えた上での最低限の礼儀だ。 100 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第十二話】  ◆AJg91T1vXs :2011/01/06(木) 01:27:04 ID:f6PLVhrx  昔、まだジャンがこの街にいた頃、リディの家は貧しかった。  当然のことながら誕生パーティーなど開くことはできず、リディはジャンに自分の誕生を祝ってもらうことさえできなかった。  あまりに惨めな自分の立場故に、ジャンには誕生日さえ告げていなかったことを思い出す。  きっと、ジャンはこちらの誕生日など忘れているのだろう。  いや、それ以前に、誕生日がいつなのかを伝えていないのだから、ジャンがこの場にいないというのは無理もない。  だが、それでもリディは、自分の心の中にある嫌な不安を拭いきれないでいた。  今朝、街まで買い物に出かけた際、ジャンの隣にいた少女。  ジャンは患者だと言っていたが、ルネと名乗ったその少女は、実にジャンと親しそうにしていた。  あの少女は、ただの患者に過ぎない。  ジャンが忙しいのは、全て仕事が原因だ。  そう考えようとしていたが、どうしても想像が悪い方へと向いてしまう。  あのままジャンが、伯爵の屋敷から戻って来なくなったら……。  そんなことを考えてしまうのだ。 (大丈夫だよね……。  ジャンは、私を裏切ったりしないよね……)  いつもより高級なハムとチーズが並べられた皿を前に、リディは心の中でそう呟く。  少しでも自分に何かを言い聞かせていないと、人前で笑顔が作れなくなりそうで怖かった。 (夜になれば、ジャンは戻って来るんだよね……。  だったら……その時に、たくさんお祝いしてもらえるよね……)  帰りが遅くなるとはいえ、それでもジャンは必ず宿場に帰って来る。  ならば、その時に、ジャンには自分のことを祝ってもらえばよいだろう。  それこそ、今まで祝ってもらえなかった分も含め、特別なお祝いをしてもらわなければ割に合わない。  店の方から、リディの名を呼ぶ声がした。  直ぐに行くことを伝えると、リディは目の前にあった皿を持って酒場へ戻る。  その顔に厨房で見せていた暗い影はなく、彼女の顔は再び笑顔という名の仮面で覆われていた。

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