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410 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第十五話】  ◆AJg91T1vXs :2011/01/21(金) 23:58:26 ID:QB6qlEts  ジャンが目を覚ましたのは、太陽が既に東の空から顔を出している時刻だった。  ベッドの脇に置いておいた懐中時計を開けると、その短針は八の数字を指している。  さすがに、少し寝過ぎたか。  そう思って隣に目をやると、そこには未だ小さな寝息を立てて眠っているルネの姿があった。  時に気丈な一面を見せながらも、寝顔だけ見ればあどけない少女のままである。  眠りながらも幸せそうに微笑んでいるところを見ると、昨晩のジャンとの行為を夢にでも見ているのだろうか。  隣で寝ているルネを起こさないように気をつけながら、ジャンはそっと身体を起こした。  すると、そのままベッドから離れようと彼の腕を、細く小さい何かがつかんだ。  もっとも、今この場において、自分の腕をつかんでくるものなど一つしかないのだが。 「なんだ、起きてたのかい?」 「はい。  おはようございます、ジャン」  ジャンの腕をとったまま、ルネもゆっくりと身体を起こした。  朝の柔らかな陽射しが射し込む部屋の中、その白い肌もまた輝いて見える。  日光が彼女にとって毒でないというのであれば、このままずっとその身体を眺めていたいという誘惑に駆られそうになる。 「今日は、少し陽射しが強いみたいだね。  肌を焼かないように、早く着替えた方がいいよ」 「心配してくださるのですね。  嬉しいですわ……」  昨日、あれだけ激しく愛し合ったというのに、ルネの笑顔は疲れに負けるということを知らないようだった。  そのままベッドから降りて服を着替えると、改めてジャンの方に向き直る。 「それでは、お父様に朝の御挨拶に参りましょう。  私とジャンのことも、そこでお話しなければなりませんわね」 「ああ、そうだね。  でも……テオドール伯は、僕のことを許してくれるだろうか……」 「心配なさらなくても大丈夫ですわ。  いざとなったら、私がジャンの味方になりますもの」 「なんだか、それも申し訳ないな……。  まあ、僕もできる限り、伯爵にきちんと話ができるように努力するよ」 411 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第十五話】  ◆AJg91T1vXs :2011/01/21(金) 23:59:00 ID:QB6qlEts  ルネはテオドール伯がジャンのことを気に入っていると言っていたが、それでも不安は残る。  あの、気難しそうな伯爵の顔を思い浮かべると、どうしても萎縮してしまいそうになる自分がいる。  だが、ここで引いてしまっては、男としてルネに対する責任を果たしたとは言えないだろう。  昨晩の件も含め、伯爵にきちんと話をした上で認めてもらう。  そうでなければ、それは最終的にルネを悲しませることに繋がるのだから。  着替えを済ませ、ジャンとルネは伯爵の待つ大広間へと向かった。  昨日、ジャンが屋敷に泊まったことは、伯爵の耳にも入っているだろう。  送り迎えの馬車にはクロードが付き添っていたため、彼の耳から伯爵に何かが告げられていることだけは間違いない。  重く、大きい扉を開けると、そこには伯爵とクロードが待っていた。  一瞬、その中に入ることを躊躇いそうになったジャンだったが、すぐ隣にいるルネの顔を見て思い直した。 「おや、ジャン君。  昨晩は、よく眠れたかね?」 「はい……」  開口一番、伯爵がジャンに探るような視線を向けて来た。  やはり、彼はジャンとルネの関係について知っている。  それならば、ここで下手に場を取り繕うことは、返って自分の立場を悪くするだけだ。  大きく息を吸い込んで、ジャンは自分の心を落ちつけながら言葉を選ぶ。  相手に必要以上の気を使うことはないにしろ、これから話すことは、慎重に伝えねばならないということだけは確かだからだ。 「テオドール伯爵。  僕は……あなたにお伝えしなければならないことがあります」 「ほう……私に伝えたいこと、とな」 「はい……。  僕を……僕をルネの、公私におけるパートナーとして認めていただけませんか。  彼女の主治医としてではなく、一人の男として……僕は正式に、あなたの娘との交際を申し込ませていただきます」  思いの丈を全て吐き出すようにして、ジャンはややもすると早口な口調で言った。  が、テオドール伯は、そんなジャンの顔を見つめたまま何も返さない。 「さしでがましいお願いだということは、僕も承知しています。  僕とルネでは、生まれも身分も違い過ぎる……。  でも……それでも僕は、彼女の支えになりたいんです。  彼女の身体のことは十分に理解していますが……その苦しみを共有してでも、彼女と一緒にいたいんです!!」  曇りのない真っ直ぐな言葉で、ジャンは伯爵に告げた。  これが自分の想いの全て。  今、自分が抱いている、ルネに対する正直な気持ちだ。 412 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第十五話】  ◆AJg91T1vXs :2011/01/22(土) 00:00:08 ID:QB6qlEts  ジャンが全てを告げた後、沈黙が大広間を包んだ。  伯爵も、ジャンも、互いに凛とした顔のまま微動だにしない。  その様子をルネが不安そうに見守る中、静寂だけが場を支配している。 「ふっ……。  なるほど……それが、君の答えかね」  沈黙を破ったのは、テオドール伯の方だった。  苦笑交じりに言いながらも、その顔にはどこか光のようなものが射しているようにも思われる。 「ジャン君。  先ほどの言葉……偽りなき、君の本心かね?」 「はい、伯爵。  あなたに何と言われようと、僕の気持ちは変わりません」 「そうか……。  ならば、私は何も言うことはない」  伯爵が、威厳の中に優しさを含んだ笑顔でジャンを見た。  それを見て、ジャンとルネの二人は思わず互いに顔を見合わせる。 「あの、伯爵……。  それは、どういう意味で……」 「どういう意味だと?  それは、君たちが最も良くわかっているのではないかね?  私は君たちの望むように、答えを出してやったつもりだぞ」 「そ、それじゃあ……!!」 「うむ。  今日から君は、我らの一員だ。  今更な気もするが、改めて挨拶をさせてもらおう」  伯爵の手が、ジャンの前に伸ばされた。  リウマチを患い、節だらけになった歪な指。  知らない者が見れば手を握ることさえ憚られるようなそれだったが、ジャンは躊躇うことなく伯爵の手を握り返した。 「ようこそ、ツェペリン家へ。  ジャン君……今から君を、私の娘の正式な許婚とさせてもらう。  よもや、異論はないだろうね?」 「は、はい!!  その言葉……喜んで、お受けいたします!!」  今まで霞のかかっていた視界が、急に晴れて行くような気がした。  自分はルネと一緒にいられる。  今も、そしてこれからも、テオドール伯の正式な許しの下に、ルネと公私におけるつき合いができる。 「ジャン……。  私……私……」  ルネが、その瞳に涙を浮かべながら、ジャンの胸に飛び込んできた。  無論、悲しいから泣いているのではない。  自分の想いが周囲の者にも認められたという、嬉しさからくるものだ。 413 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第十五話】  ◆AJg91T1vXs :2011/01/22(土) 00:01:07 ID:QB6qlEts  肩を震わせながら、それでも喜びを隠しきれないルネのことを、ジャンはそっと抱き締める。  そんな二人の姿を見て、伯爵も満足そうに笑いながら立ち上がった。 「ふふふ……。  どうやら、これで一件落着のようだな。  しかし、ジャン君。  まさか君が、こんなに早く答えを出すとは、私も思っていなかったがね。  仕事一筋の堅物かと思っていたが……どうやらそれは、私の思い違いだったらしい」 「すいません、伯爵。  ですが……これが、僕の決めた、あなたの言葉に対する答えです。  ルネの身体のことは、僕も全力を尽くして快方に向かわせたいと思いますが……それ以上に、彼女の心を支えてやれる存在であろうと思います」 「そう言ってくれると、私も助かるよ。  だが……こんなことなら、もう少し早く君を焚きつけておけばよかったかもしれんな」  「焚きつけるって……。  伯爵、それは、どういう意味で……」 「どういう意味もなにもない。  養父とはいえ、私とて腐ってもルネの父親だぞ。  自分の娘が何を思っているのかくらい、気がつかないとでも思っていたかね?」  伯爵が、少しばかり意地悪そうな笑みを浮かべてジャンに言った。  その言葉に、ジャンとルネはそれぞれが伯爵の方へと顔を向け、その言葉の意味を理解する。  どうやらテオドール伯は、最初からルネの気持ちを知っていたらしい。  だが、例え娘がジャンのことを慕っていても、ジャン自身の気持ちがなければ無意味である。  己の権力を用いてジャンをルネと交際させたところで、その先に待つのは不幸な結末でしかない。  そう、わかっていたからこそ、伯爵はあえてジャンを試すような言葉を投げかけたのだ。  果たして、そんな彼の試みは成功し、ジャンはルネに対して正直に自分の気持ちを伝えるまでに至った。  自分の考え通りに事が運び、更には娘の幸せそうな顔を見られたことで、伯爵も満悦した表情を浮かべていた。 「ジャン……。  これからは、ずっと一緒にいられるのですね……」 「ああ、そうだね。  僕も、この土地に残るのに躊躇いがあったけど……今は、もうそんなこともない。  君のためなら、過去の辛い思い出だって清算できるさ」 414 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第十五話】  ◆AJg91T1vXs :2011/01/22(土) 00:02:06 ID:QB6qlEts  この土地は、自分と父親を追い出した街のある土地だ。  そんな考えに縛られていたこともあったが、それも過去のことである。  街の人間に、どう思われようと構わない。  自分の側に、自分を愛してくれる人が一人いれば、それでいい。  父の背負った業や、自分の中に流れる血のことなど、今となっては些細なことだ。  未だ自分の胸の中にいるルネを前にして、ジャンは自分の心の中にある闇が、ふっと晴れてゆくような気がしていた。 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※  ジャンが宿場に戻ったのは、もうじき正午になろうかという時刻だった。  馬車の外に見える街の市場では、露店も含めて様々な店が忙しなく客を呼び込んでいる。  いつも通りの見送りを終え、ジャンはクロードに礼を言って馬車を降りた。  もっとも、今まではこの時間に伯爵の屋敷に向かっていたため、昼に帰って来るというのは少し不思議な感じがする。  去り行く馬車を横目にし、ジャンは宿場の裏口へと回った。  リディから渡されていた合鍵を使い、その扉にかけられた鍵を外す。  古びた木の扉を開くと、金具の軋むような音がジャンの耳に響いた。 「ただいま……」  辺りの様子を窺うようにして、ジャンはそっと宿場へ足を入れた。  別に、やましいことをしていたわけではないのだが、昨日はリディに何の連絡も告げずに外泊してしまった。  そのことで、彼女に変な心配をかけていないかどうか。  居候をさせてもらっている身としては、それだけが気がかりである。  一階の廊下を見て回ったが、リディの姿は見当たらなかった。  ならば、二階の受付か、三階の自室にでもいるのだろうか。  そう思って階段を上がろうとしたその時、ジャンは自分の後ろから、鋭く刺すような視線を感じて振り返った。 「あっ……」  それ以上は、言葉が出なかった。  彼の目の前に現れた者。  それは、今しがた探していたリディ本人である。  その瞳はどんよりと灰色に濁り、目の下には深い隈が刻まれていた。  まるで、昨晩は一睡もしていないかのように、ぐったりと疲弊しているのが見て取れる。 「ジャン……。  どうしたの……そんなところで……」  いつものリディからは想像もできない、か細く力のない声だった。  一瞬、幽霊にでもとり憑かれたのではないかと思い、ジャンは思わず言葉を失って後ずさる。 「あ、ああ……。  昨日はごめん。  ちょっと……伯爵の屋敷に泊まることになってね。  君には何の連絡も入れなかったから、迷惑かけただろう?」 415 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第十五話】  ◆AJg91T1vXs :2011/01/22(土) 00:02:55 ID:QB6qlEts 「昨日……?  そっか……そうだったんだ……。  でも、ジャンはこうして戻ってきてくれたんだよね……。  これからも、私の宿に居候して、患者さんの往診に行くんだよね……」 「リディ……そのことなんだけど……」  言うべきか、それとも言わざるべきか。  そんな迷いが少しだけ頭をよぎったが、すぐにジャンは気を取り直して息を深く吸い込んだ。  ここで何も言わずに去った方が、リディに対して失礼だ。  そう考えてのことである。 「僕は……今日限りで、ここを出て行くよ。  これからは、伯爵の屋敷で暮らすことができるようになったんだ。  だから……リディはこれ以上、僕のことを気遣って生活する必要もないよ」 「えっ……。  そ、それって……」 「リディには、本当に感謝しているよ。  こんな僕を泊めてくれる人なんて、この街には君しかいなかっただろうからね。  でも……これからは、君に迷惑をかけることもないだろうから。  今まで、本当にありがとう」  考えられる限りの、もっとも丁寧な感謝の言葉だった。  リディに対して感謝の気持ちがないわけではない。  彼女がいなければ、自分はこの街で暮らすことさえもできなかった。  だからこそ、彼女にはきちんと話をした上で宿場を去りたい。  そう思っての行動だったが、リディの視線はどこか遠いところを見るようにして、力なく宙を泳いでいた。 「嘘……だよね……。  ジャンが、私の宿からいなくなるなんて……。  そんなの、嘘だよね……」 「こんなことで、嘘なんかついてどうするんだよ。  僕は僕で、自分の生きる道を決めたんだ」 「そ、そんな……」  あまりのことに、頭が追いついてゆかない。  そんな顔をしたまま、リディは階段を上って行こうとするジャンを引き止めようと手を伸ばす。  が、しかし、彼女の手がジャンの腕に届きそうになったその時、ジャンの身体から漂ってきた覚えのある匂いが鼻腔を刺激した。 416 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第十五話】  ◆AJg91T1vXs :2011/01/22(土) 00:03:44 ID:QB6qlEts (これ……あの娘の匂いだ……)  それは、忘れもしない昨日のこと。  ジャンと一緒に歩いていた、黒ずくめの服に身を包んだ赤い目の少女。  彼女がつけていた、甘く上品な香りのする香水の匂いだ。  女のつけていた香水の匂いが、男の身体から漂ってくる。  それが意味するものを、リディもわからないわけではない。  昨日、ジャンとあの娘の間に何があったのか。  それに気づいてしまった時、リディは自分の中で何かが音を立てて崩れ落ちて行くのを感じた。 (ジャン……。  あなたは……また、私を置いてゆくの……)  気がつくと、涙が頬を伝わっていた。  認めたくないが、認めねばならない事実。  ジャンが自分を選んでくれなかったという現実に、心が震えて壊れそうだった。 (ジャン……。  あなたは私を裏切ったりしないよね……。  だって……私のナイトは、あなた一人だけなんだもの……)  もう、何を言ってもジャンには届かない。  そう頭では理解していても、リディは自分の心の中で、ジャンに対する想いを繰り返し呟き続けていた。 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※  暮になると、酒場というのはいつにも増して忙しくなる。  昨日、リディの誕生会があったにも関わらず、今日も宿場の一階には昨日と同じくらいの人間が集まっている。  パーティーの有無に関係なく、人気のある店とは常に忙しくなるものらしい。  そんなことを考えながら、店主の男は次々と客の注文を受けながら酒を出していた。  いつもと変わりない、明るく活気に溢れた店の様子。  だが、そんな賑やかな店の雰囲気とは裏腹に、リディの心は晴れなかった。  今日の午後、ジャンから告げられた痛烈な一言。  それが彼女の胸を締め付けて離れない。 ≪僕は……今日限りで、ここを出て行くよ≫  リディが最も恐れていた、最も聞きたくない言葉。  それを、こともあろうかジャン本人の口から告げられてしまった。  自分はもう、ジャンと同じ時間を過ごすことは叶わない。  例え同じ土地で暮らしていても、ジャンが自分のところへ戻って来ることは決してない。  今までも、手の届く距離にいながら想いを告げられないジレンマにあった。  だが、それでもなんとか己を保っていられたのは、いつかはジャンに想いを告げられると信じていたからだ。 417 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第十五話】  ◆AJg91T1vXs :2011/01/22(土) 00:04:24 ID:QB6qlEts  ところが、そんなささやかな希望でさえ、今日のことで打ち砕かれた。  これからジャンは、常にリディの手の届きそうな場所で、決して彼女に振り向くことなく暮らすのだ。  こんなことなら、いっそのこと再開などせねばよかった。  そんな考えすら生まれてしまう。  ふらふらと、何かにとりつかれたようにして、リディは客で賑わう酒場へと出た。  周りでは、何やら数人の男達が、酒を飲み交わしながら噂話をしている。  どうやら山を越えた隣の街で、厄介な疫病が発生しているとのことらしい。  全身に黒い痣が出来て死ぬ病気らしく、ネズミが病気を広めるとの話だ。 (病気、か……。  でも、今の私には、そんなことは関係ないな……。  私の病気は……ジャンにしか治してもらえないんだし……)  男達の話を適当に聞き流しながら、リディは酒場の戸を開いて外へ出た。  厚手の外套を纏っているにも関わらず、ナイフで切り裂くような鋭い冷気が頬を撫でる。  こんな夜更けに、女一人で冬の街を歩く。  いつもであれば、そんなことをしようとさえ思わない。  だが、今日に限って、リディには自分を抑えるという考えが浮かばなかった。  昼間、ジャンが言っていたこと。  その真意を確かめたい。  ジャンが伯爵の屋敷で暮らすと決めた理由。  その理由に、あの女の存在が絡んでいないかどうかを確かめたい。  下らないことをしようとしているというのは、リディ自身もわかっていた。  ここで屋敷に行ったところで、自分の最も見たくない現実を見せられることになるかもしれない。  ジャンの心は既に決まっており、自分が何をしても手遅れかもしれない。  しかし、それでもリディは、自分の目で全てを確かめなければ気が済まなかった。  ジャンの口から告げられただけでは、この現実をしっかりと受け止めて受け入れることなど出来そうになかった。  冬の冷たい風が吹く中、リディは独り、街外れの丘にある伯爵の屋敷を目指して歩く。  大人の足で歩いても二刻ほどかかる距離は、決して近いとは言い難い。  が、それでもリディは外套の裾を握り締めながら、凍てつく風に抗うようにして足を進めていった。  市場通りを抜け、街の正門をくぐり、やがてリディは屋敷のある丘へと辿り着く。  風はいよいよ強くなっていたが、今さら引き返そうとは思わない。  頭を押さえ、その体をやや斜めに倒すようにして、リディは屋敷へと続く丘の道を一歩ずつ進んで行った。  途中、何度も風に負けそうになったが、か弱い足に精一杯の力を込めて耐え抜いた。  程なくして、リディの前に石造りの立派な門が姿を見せた。  ジャンがこれから暮らすことに決めたという、テオドール伯の住まう屋敷の入口である。  辺りを見回すと、見張りのような者はいなかった。  門の中を覗いてみたが、やはり誰もいない。  番犬の姿さえも見えず、目の前には閑散とした庭が広がっているだけだ。 418 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第十五話】  ◆AJg91T1vXs :2011/01/22(土) 00:05:05 ID:QB6qlEts  屋敷の門に足をかけ、リディは強引にそれをよじ登った。  運動は決して得意ではなかったが、それでもなんとか頑張って門を越えた。  門から飛び降りると、枯れた芝が彼女の足に触れた。  乾いているかと思ったが、夜露を含んだ芝は湿って冷たかった。  服についた泥を払うようにして、リディは素早く身体を起こし木の陰に隠れる。  植え込みと木の影を伝うようにして、徐々に屋敷へと近づいてゆく  この屋敷に、自分の想いに対する答えがある。  そう思っているからこそ、こんな馬鹿げたことでも平気で行えた。  言葉で別れを告げられても、それでもジャンのことを信じたい。  そんな一心で、リディは屋敷の窓から漏れる淡い灯りへと近づいて行った。  宵闇の中、灯火に魅了されてやってくる虫のように、リディは灯りの漏れている窓辺へとやってきた。  光は二階の窓から漏れているようで、その向こう側には人影も見える。  そっと、木の影に身を隠したまま、リディはその窓の向こう側に移る者の姿に目をやった。  薄暗がりの中ではっきりとはわからなかったが、それでも目の前の人影に見覚えはある。 (ジャン……)  心の中で呟いて、リディは食い入るように窓の中へと視線を向ける。  あの背恰好は、紛れもないジャンのものだ。  更に目を凝らしてよく見ると、ぼんやりとしたランプの光に照らされて、特徴のある癖毛の金髪が目に入った。  間違いない。  あれはジャンだ。  そして、その隣にいる背の低い少女。  あちらは恐らく、リディが昨日の昼に市場で会った少女なのだろう。  温かい橙色の光に包まれたまま、ジャンの身体が少女の身体と重なってゆく。  同時に二人の顔も近づいてゆき、その唇もまた重なった。 (う、嘘……!!)  信じられなかった。  目の前で行われている光景が、果たして本当の事なのか。  これは性質の悪い夢で、明日になれば全てはなかったことになるのではないか。  そう思わずにはいられなかった。  窓越しに見えるジャンは少女の背中に手を回し、その体を慈しむようにして抱いている。  聞こえるはずもないというのに、二人が口と口とをつけ合う音が響いてくるようで、リディはたまらず耳を塞いで顔を背けた。  やがて、部屋の中にあったランプの光も消え去り、辺りは再び静寂の闇に包まれる。  冷気を含んだ風が自分の頬に当たったところで、リディはようやく我に返って立ち上がった。 (そんな……嘘、だよね……。  ジャンが、私を置いて……あんな女を選ぶなんて……そんなこと……) 419 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第十五話】  ◆AJg91T1vXs :2011/01/22(土) 00:05:48 ID:QB6qlEts  未だに現実が信じられない。  自分の見た物を、真実として受け入れたくない。  だが、それでも、今この場で見た物は紛れもない現実なのだ。  ランプの光に照らされて、ジャンはあの女と口づけを交わしていた。  そして、その後に灯りが消えたのであれば、リディとて結末は口にせずともわかる。    暗闇の中で男と女がすること。  それがわからないほど、リディも子どもではない。  力なく項垂れたまま、リディはとぼとぼと屋敷の庭を歩いて行った。  途中で誰かに見つかるかもしれないという気持ちは、既に消えていた。  その瞳を絶望の色に染め、魂の抜け殻のようになって歩き続ける。  どれくらい歩いたのだろう。  気がつくと、リディは伯爵の屋敷を抜けて丘の麓に立っていた。  あの後、どうやって屋敷からここまでやってきたのか。  それさえもまともに覚えていない。 (ジャン……酷いよ……。  私は……私は、ずっと待ってたのに……。  なのに……こんな終わり方なんて……)  屋敷で見たジャンの姿が思い出され、リディの頬を涙が伝わった。  十年だ。  ジャンが街を追い出されてから、自分は十年も待ったのだ。  飲んだくれの父親に苦労をかけられ、母を病気で失っても頑張ってこられたのは、一重にジャンへの想いがあったからだ。  いつか、ジャンが街に戻ってきた時に、一緒に慎ましく暮らすため。  その想いだけを糧に生きてきた。  それなのに、運命の神というものは、至って気まぐれで残酷な存在らしい。  今までの努力、想い、その全てが一夜にして無に消えた。  後に残されたのは、言い様のない焦燥感と底知れぬ程に深い絶望。  自分のこれまでの人生を、全て否定されてしまったかのようだった。 「うふふ……駄目だな、私……。  この十年、ずっとジャンのことを考えて頑張って来たのに……それを、こんな簡単に失っちゃうなんてね……」  これは、自分が見たかった結末ではない。  こんなものは、自分の望んだ終わり方ではない。  そう思ったところで、選択された結果を覆すことなどできはしない。  一番悪いのは、いったい誰だろう。  いつまでもジャンに想いを告げられなかった、自分自身か。  ジャンと彼の父親を、街から追放した連中か。  それとも、自分からジャンを奪っていった、あの伯爵の娘なのか。  その、全てが憎かった。  自分も他人も、あらゆるものが憎くて仕方がない。 420 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第十五話】  ◆AJg91T1vXs :2011/01/22(土) 00:07:46 ID:QB6qlEts  こんな世界など滅んでしまえ。  自分とジャンの中を引き裂くような連中など、全て死んでしまえばいい。  そんな、どす黒く歪んだ感情が、リディの心の中に湧いてきた。 「あはは……。  みんな……みんな死んじゃえばいいのよ……。  私とジャンの中を引き裂く奴らなんて、みんな死んじゃえば……」  いつものリディからは想像もできない、醜くおぞましい言葉が口から溢れ出す。  一度、闇に心を許すと、その先は思った以上に楽だった。 「そう……そうよね……。  街の人達も、あの女も……みんな、みんな報いを受けるべきだわ……。  私とジャンの幸せを奪うような人間なんて……この世に生きている価値もないんだわ……」  深淵よりも深い闇をその瞳に宿しながら、リディは独り丘の麓で呟き続ける。  そのまま神さえも冒涜せんとばかりに、その顔には歪んだ笑みが浮かんでいた。 「あっははははは……。  待っててね、ジャン……。  今、私があなたの周りにいる、悪い虫を潰してあげるわ。  あなたのことを追い出した街の連中も……それに、あなたを誑かしたあの女も……みんな、みんな私が潰してあげるから……」  貴族の令嬢を、一市民でしかない自分が始末する。  そんなことが簡単にできるはずもないということは、リディにも十分にわかっている。  だが、それでも、彼女の中には躊躇いなどなかった。  正攻法で攻められないのであれば、策を練って相手を陥れればいい。  力だけが、勝敗を決める全てではない。  あの女を排除し、自分がジャンと一緒に暮らすこと。  その願いを叶えるためには、この身がいかに穢れようとも構わない。  街の人間の命がいくつ消えようと、そんなものは知ったことではない。 「うふっ……あはは……。  くはっ……あはははははっ……くっ……ははははっ……。  あははっ……あはははははははっ」  月明かりの下、リディの狂った笑い声が丘に響き渡った。  その瞳に恐るべき闇を宿しながら、彼女は夜風に身体が冷やされていることさえも忘れ、延々と狂笑を続けている。  その光景は、さながら月夜の晩に現れる魔物にとり憑かれて、精神の均衡を崩してしまったかのようだった。  自分からジャンを奪った全てに対し、復讐と制裁を加えること。  そのためには、入念な下準備が必要だ。  出掛けに酒場で聞いた男達の噂話を思い出しながら、リディはその胸の奥で、恐るべき計画を練り始めていた。

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