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543 :忍と幸人 第七話:2011/05/23(月) 21:44:41 ID:j9.VA8uo 7  トリップした頭を覚醒させたのはその日の晩、幸人宅の盗聴をしていた時の事だった。最初は取り立てて聞き入る事もない雑音や、あの女のぼやき事ばかりだったのが、ある時から状況が一変したのだ。耳に入ってきたのは呼び鈴の音と何者かの声、それに応対するあの女の声……どうも針巣が訪ねてきたらしい。  意外と行動が早かったな。  私は迷彩服を羽織り、イヤホンを繋いだ受信機を胸ポケットに入れた。手早く支度を済ませて家を後にし、真っ直ぐに幸人のいる公営団地に向かう。  耳に入ってくるのは針巣とあの女との会話ばかりで、幸人の声は入ってこない。  幸人は周囲にいないのだろうか? それとも、黙って二人のやり取りを見つめているのか……。  針巣の声が耳に響く。  「君は言ってくれたよね? 何時かはこの稼業から足を洗って、その時が来たら僕と一緒になってくれるって!」  大人の男にしては情けない、弱々しい叫びだ。サユキはそれに対し、「ええ、いきなりどうしたの、針巣さん」と宥めようとする。余裕に満ちている声だ。  「僕は君の助けになるならばと、君が喜ぶ顔が見られるならばと、色々と援助をしたりプレゼントも贈った。日々の疲れを癒せると思って食事に誘ったりもしたよね。君はその都度、何時もありがとうって言ってくれたよね」  サユキに泣きつく針巣の姿が容易くイメージできた。  「ええ、そうね。針巣さんには毎回助けられて、本当に感謝しているわ。貴方は恩人だから、私が借金を全て片付けられたら……一緒になりたいと思ってる。貴方の気持ちは本当に嬉しかったもの。それを実現できたらどんなに良いだろうって、どんなに素敵だろうって……」  分かり切ってはいたが、これには開いた口が塞がらない。あの面の一体どこからこんな身の毛のよだつ言葉が出てくるのか。一度対面しているだけに、余計に気持ちが悪い。思い切りその口の奥にまで拳を打ち込んで悶絶させてやりたくなる。 544 :忍と幸人 第七話:2011/05/23(月) 21:47:22 ID:j9.VA8uo  サユキの媚びへつらいに戸惑ったか、針巣の口が止まる。サユキが口から垂れ流す虚言に時折呻き声で答えるぐらいで、明らかに勢いが削がれているみたいだった。  舌打ちをする。このままサユキに言い包められて終わってしまう節が色濃くなってきている。もっと胸の中にある不信感を吐露してしまえと毒づくが、無駄な後押しでしかない。肩ががっくりと落ちそうになった。  あの女の不愉快な顔が公然とのさばり続けるというのか。冗談ではない。  最悪、私自身が動くしかないか……。  拳に血が滲むかというところで、ふと力が緩んだ。針巣が言葉の壁に包まれながらも一抹の抵抗を試みたのだ。  「……そう言えば、僕が贈った鞄とかネックレスはどうしているの? 君が実際に着飾ってくれたのってあんまりないんだけど……」  今日、私が指摘してみせたポイントだった。今までノータッチだった事に一言も二言も言いたかったが、はっきり問うただけでも上等か。  サユキは少し言い淀んだ。言葉に迷いながら出した返答は意外と素直だった。「売った」の一言だ。  針巣はそれを聞いて失った調子を取り戻したらしく、少し舌の回りが良くなった。「何故、どうして」と早口で問い掛け、彼女に詰め寄っていく。サユキは段々と疎ましくなってきたか、声色が変わってきているのがイヤホン越しに聞き取れた。縋りつく針巣を振り払おうとするサユキが目に浮かぶ。  針巣の追及はさらに深みに行った。私が針巣に聞かせた盗聴内容の話だ。  盗聴したという事実を察せられないかと思ったが、それは不要な心配であった。針巣の言は端的な物であったし、おまけにはっきりと「言っていただろう」と問い質すのではなく、「言っていたのではないか?」と確認する口調であった事も幸いした。皆まで口にすれば――本人は知らなかったとは言えども――幸人もただでは済まないであろう事を意識したのだろう。  サユキは業突く張りで、さらに気が短い女だ。顔を合わせた時に見せたヒステリックな態度を思えば明らかだ。針巣のしつこい責めにいい加減辟易している事だろう。  二、三やり取りをして、とうとうサユキが隠していた素顔を見せた。  「グダグダうるさいね! 鬱陶しいったらない!」  耳に突き刺さるサユキの声。彼女に問い詰めていた針巣は言葉を止めた。 545 :忍と幸人 第七話:2011/05/23(月) 21:49:49 ID:j9.VA8uo  「ああそうよ! そうですよ! アンタなんか好きでもなんでもない! アンタはただ、私に都合の良いカモでしかないの!」  立場は変わって、今度はサユキが全てを暴露をし始めた。その言葉の一つ一つが針巣を傷付けていく。  「ちょっと優しくしてあげただけで自分が好かれているなんて幻想抱いちゃってさ、ホントにアンタは良い客だったわ。頼んでもないのに服や鞄にネックレス……色んな物を持ってきてくれちゃってさ、笑っちゃうわ! それで私の嘘も見抜けずにホイホイ貢いでくれちゃって……童貞を捨てて良い気になって、脳みそパープリンになったかと思ったわよ」  言葉は止まらない。何時息継ぎをしているのか、よくもまぁここまで悪口が出てくると感心する。  公営団地が見えた。耳には針巣の啜り泣きが微かに聞こえている。  「これだから彼女もできやしない童貞野郎はうざったいのよ! 少し図星を突かれたら泣きだして! 全く……。もうアンタの顔なんか金輪際見たくもないわ! さっさと出て行って頂戴、根暗の童貞野郎が!」  ガタン、ガタンと物が激しく叩きつけられる音がした。何かが倒れる音、崩れる音……男と女の怒声も……様々な音が混ざって一度に入り込んでくる。  音が止んだ。誰かが荒々しく息づいている。サユキが針巣を殴り倒したのか。  そう思っていたら、「な、何よ」と、明らかに動揺したサユキの声がした。  「……してやる……」  それに答える形で耳に響いた針巣の声は、腹の底から這い出てきた呪詛の声だった。  「殺してやる……!」  あのひ弱で、骨が皮を被っている体付きの針巣からこんな声が出るとは驚いた。  ガタガタッと部屋の中を掻きまわす音と恐怖に染まった女の悲鳴、何かが倒れた音、その後に何かを激しく打ち付ける音が断続的に続く。くぐもった呻き声もそれに合わせて聞こえていたが、しばらくして途絶える。が、憎しみの込められた打ち付けはなお続いていた。 546 :忍と幸人 第七話:2011/05/23(月) 21:53:14 ID:j9.VA8uo  階段の死角に回り、身を屈める。盗聴器から送られている音声は静かなものだった。ただ一つ、嗚咽を混じえて息づいているのが聞こえるだけだ。  しばらく続いていたが、それが次第に遠のいていく。ドアが開かれる音がして、針巣が降りてきたのはあの騒動から十分近くは経っていた。  死角からその背中を見送る。精も根も尽き果てたとはあの事を言うのだろう、風に吹かれればそのまま飛んで行ってしまいそうだった。  針巣が闇夜に消えて行ったのを見届けてから、階段を上って部屋を覗いてみる。予想通りではあったが、それは惨憺たるものだった。テーブルの上に置かれていたのであろう、インスタントの食料品と皿がバラバラに散らばっていて、椅子も足が折れた状態で横たわっている。置き時計は文字盤が飛び、中の物がぶちまけられていて、二度と使えそうになかった。電気スタンドも傘と電球を粉々にされ、転がっている。床でキラキラと光っている欠片は鏡の様で、手持ち鏡か何かが力任せに割られたらしかった。  それら普段目にする品々の無残な残骸はそれぞれが赤黒く染まっている。その残骸達に囲まれる形で倒れている女……サユキの腹から流れ出ている赤い水がそうさせていた。  サユキの死体を調べてみる。脇に転がっていた包丁による刺殺――それも滅多刺し――が直接の死因であろうが、顔にも多数の打撲跡がある。顔面が変形する程のかなり痛々しいものだ。あの時の打ち付ける音はこれだったみたいだ。  かつては美しかったその容姿はすっかり見る影を無くしていたが、ボコボコにされたこの醜い顔面は、この女の本性を体現しているとも言える。  サユキだった肉塊を早々に見捨て、部屋の奥に入る。畳の敷かれた四畳と少しのその部屋の片隅に彼はいた。  ――針巣について少し訊ねてみてくれないか?  彼が遊びに来た日の帰り際、彼に頼んだ事だった。  ――針巣という過去の知り合いがいて、彼がここら辺に住んでいるらしい事を聞いた。もしかすると、幸人のママが何かを知っているかもしれないので、それとなく訊いてもらえないだろうか?  そんな名目で彼にお願いすると、彼は素直にそれを信じて了承してくれた。そのおかげで、針巣について、あの女の本音を握る事ができた。 547 :忍と幸人 第七話:2011/05/23(月) 21:55:39 ID:j9.VA8uo  少し胸が痛む気がしないでもない。自分を散々虐待してきたとは言え、実の母親が殺されたのだ。それも針巣は、殺すだけでは飽き足らず、死後も痛めつけるのを止めなかった。  人が人を殺す――それを彼は目にしたのだろう。ショックのあまりか、放心状態となってしまっている。あの人形になっている時とはまた違った様子だが、反応が薄いに変わりはない。  頬を軽く叩き、強く名を呼び掛ける。しばらく続けてようやく彼が反応を見せた。  「……おねえちゃん……」  衰弱した声だった。飢えと渇きに苦しむ者が上げるとしたらこういった感じになるのかもしれない。  「大丈夫か、幸人」  彼の頭を胸で包み、ぽんぽんと頭を撫でる。頭の中の整理ができたのか、彼は次第に感情を見せ始め、嗚咽を上げて涙をボロボロと零した。  「怖かったな……怖かったな……」  よしよしと慰めるが、彼の塞き止められていた感情を止めるには至らない。赤ん坊が大声で泣く様に、幸人も大声を上げて泣いた。ついさっきまでは細かった声が、どこにそんな体力があったのか、あっという間に太く大きくなっている。  「おねえちゃん……ママが……ママが……」  頬を濡らし、話し辛そうな彼がようやく喋ったのがそれだった。  彼の長い黒髪を手櫛で梳く。あの時、あの女はこの黒髪を千切らんばかりに引っ張っていた。幸人は痛みに顔を歪ませ、それでも文句を言う事すらもできなくて……最後には心のスイッチを切り替えて人形になってしまっていた。  そんな事が日常的に繰り返され、そればかりか売春までさせられていた。にも関わらず、幸人は母親の死をここまで悲しんでいる。  そうか……幸人、お前はまだあの女の悪夢に憑かれているんだな……可哀想に……。  彼の涙と鼻水で塗れた顔に両手を添え、口付けをする。  幸人、もう大丈夫だ。あの女は地獄へ堕ち、永遠の苦しみに身を焼かれ続けるんだ。今まであの女がそうしてきたのと同じで、今度はあの女が地獄の鬼達に食らい尽くされる。永遠に……。  唇と唇の触れ合いに緊張の糸が切れたのか、彼は意識を手放した。  彼を静かに抱き上げ、その部屋を後にする。この部屋の主はもうこの世にはいないのだから、幸人がここに留まる意味はない。 548 :忍と幸人 第七話:2011/05/23(月) 21:57:10 ID:j9.VA8uo  今後、この部屋に纏わりつく噂は人を遠のかせ続けるだろう。殺人事件が発生し、床が血に染まった部屋に住む酔狂なんてそういない。この部屋は朽ちるまで、そこに横たわる女の棺桶となるのだ。  視線を左右にやる。忘れてはいけない物は瓦礫の陰にひっそりとあった。私が幸人に贈った紺のボールペンだ。この騒ぎのおかげで少し傷が付き、色が剥げてしまっている。  おもむろに拾い、迷彩のジャケットの胸ポケットに忍ばせる。これをここに置いたままにするわけにはいかない。幸人と私の掛け橋になってくれたのもあるが、何より警察の手に渡ったら面倒だからだ。  ボールペン型盗聴器――ペン軸の中に集音マイクが内蔵されていて、かつ普通のボールペンとして使用する事も可能。数万の出費は決して安いものではないが、結果から言えばお釣りが来る買い物だった。

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