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358 名前:愛と憎しみ 第一話 ◆O9I01f5myU[sage] 投稿日:2011/07/22(金) 21:43:30 ID:BEYROaUY [2/6] 1  結末が知れている恋ではあった。  その日、一人の女の抱いていた恋心が儚く散った。  面と向かって拒絶されたわけではない。自分の想いを伝えられるだけ、まだその方が救われたかもしれないが、今の女の心境からすれば、その様なものは詮無い事だろう。  想いが胸で燻り続けている内に感じられていた。どんなに足掻こうとも、報われる事はないだろうと。その隣には誰かがいるのではないかと。自分が入る余裕なんて、既に失われているのではないかと。  それらの不安は的中していた。女が慕うその人は今まで見せた事もない頬笑みを浮かべながら、こう告げてきたのである。「子宝を授かった」と。  何時か宣告されるであろうと思っていたが、恋は終わりを迎えたのだと理解するや、目の前が暗くなった。それでも女はふらつく足をしっかり立たせ、胸で涙を流しながら祝福した。  分かっていた事だ。自分は女で、恋するあの人も女。彼女に正直に告白しても、結ばれる事は万に一つもあり得ない事だと。それに、彼女は非常に扇情的な容姿をしている。彼女を狙う男も多数いるだろう事も予想できていた。  彼女は常に眼尻が吊り上っていて、三白眼と呼ばれる凶相ではある。常に無骨な迷彩服を羽織り、背も高いので、大の大人であっても睨まれたら腰を抜かすだろうと揶揄される事も多い。  それでも彼女は大した美貌の持ち主であると誰もが認めている。  輪郭も含め、顔のパーツの一つ一つがシャープなラインで形作られており、まなじり高い目が輝くクールビューティと認められる顔、両手でも納まらないバスト、大腿部まで届く、豊かに蓄えられた黒のロングヘアも、彼女の印象を深めるのに一役買っている。  一目見たら忘れられない、刺激的な女性。それが女――香山理沙(カヤマ リサ)の意中の人、佐原忍(サワラ シノブ)であった。  その佐原忍が香山宅を訪れたのは、妊娠した事を告げてから数ヶ月経て、すっかり木々が朱に染まった頃の事だった。かつては共にショッピングに出掛けたりと、親しい間柄であった二人だが、忍が身籠ってからは一緒に動く事も少なくなってきていた。せいぜい、外で偶然会うくらいのものだ。 359 名前:愛と憎しみ 第一話 ◆O9I01f5myU[sage] 投稿日:2011/07/22(金) 21:45:11 ID:BEYROaUY [3/6]  こうして互いの家にお邪魔するのも随分久しぶりである。香山はかつての恋心を掘り返される様な気がしないでもなかったが、快く彼女達を迎え入れた。  忍の脇には一人の少年がいる。片目を閉ざしたその子とは、香山も面識がある。  佐原幸人(サワラ ユキヒト)――今年で十二歳になったと聞いている。忍の説明によると、捨て子であったのを引き取ったとの事だった(旦那の連れ子だと思っていた香山は少し腑に落ちなかったが、とりあえず納得する事にした)。  良く見ないでも、忍のお腹は大きくなっている。何時も彼女が羽織っている迷彩服も今では妊婦服、もうすぐ産まれるかもしれない。  その時が来たら、この少年は兄になる。きっと幸人の中では、楽しみと同じくらいの別の感情が生まれ、さぞ複雑な心境に立たされているだろうと思われた。  座布団に座る忍を見て、香山は今回の訪問の真意に気付く。恐らく、幸人の事で彼女は来たのだろう。  忍は旦那については口を割ろうとしない。どれだけしつこく訊ねても、決して教えてはくれなかった。旦那と連れ添って歩いている姿を目撃したという情報も無く、遠方に出張でもしているのか、それとも離婚したのか……等、噂が独り歩きしている(忍はそれらに対しても一切の弁解をしないので、噂は本人を無視したまま、真実味を帯びてくる様になっていた。忍に惹かれる者が多いのは事実だが、刺の多い女であるのも確かなので、その流れを塞き止めるのは困難であろう)。  つまり、いよいよ出産が迫ってきたその時、幸人の面倒を見る人間がいなくなってしまう(彼女は親戚とは折り合いが悪く、親とも絶縁していると前に話していた)。そこで彼女は、自分に一時の間だけでも幸人の世話をしてもらおうと、相談をしに来たのではないか。  香山の思った通り、忍は「済まないが……」と切り出してから、来るべき時が来たその時は、幸人を頼むと頭を下げてきた。  意地悪な人だと心の中で零さずにはいられなかった。どこの馬の骨とも知れない男との子供を産む為に協力してほしいと彼女は言っているのだ。彼女を好きであった、この自分に。  薄い笑みを見せながら、香山は了承する。その笑みは友人に見せるものでも、愛する人に見せるものでもない、只の自嘲であった。 360 名前:愛と憎しみ 第一話 ◆O9I01f5myU[sage] 投稿日:2011/07/22(金) 21:47:01 ID:BEYROaUY [4/6]  忍は香山に感謝すると、幸人を膝元に抱き、「これからお世話になるのだから」と窘めた。  彼はその意を汲み、香山にぺこりとお辞儀する。  「よろしくお願いします」  舌足らずな幼子から脱皮した、一人の少年の凛とした声だ。どういう経緯か、右目を失明してはいるものの、彼のルックスは忍にも劣らない。きっと女子からの人気も厚いと思われた。  「こちらこそ宜しくね、幸人君」  微笑んで握手を交わす。彼も笑むが、少しぎこちない。何回か会いはしたが、深い付き合いはあまり無いので、それによるものだろうか。  彼女の来訪の目的はこれで終わった。後は適当な話題でその場を取り繕い、折を見て席を立ち、「済まないな」の一言で締めに掛かるだろう。  忍が香山の胸中を察する為の「鍵」を得ていないのだから、こんな事を言い出しても仕方ない。  だから心で訴える。「私の気も知らないで」と。  膝の上で拳を固く握る。忍は気付いていないのか、意に介していないのか、世間話をぽつぽつと続けている。それが余計に腹立だしかった。  案の定、忍はある程度の時間だけを繋ぐと、座布団からすっくと立ち上がった。  「久しぶりに会ったというのに、本当に済まないな」  「ううん、気にしなくて良いよ、忍ちゃん」  軽く詫びて、忍と幸人は帰っていった。  寂しくなった部屋を見て溜め息を吐く。胸の中が濃霧にぼかされていく感覚を覚えた。  一体誰との子供なんだろう?  見知らぬ男が忍を組み伏せ、汚らしいペニスを彼女の中に挿入し、精液を撒き散らす……その情景を思い浮かべるや、堪らなくなる程の不快感が襲い掛かってきた。胃が縛り付けられて、その中身を吐き出してしまいそうになるのを懸命に抑える香山だが、その顔色は血の気を失って青味が差している。  洗面所に走り、シンクに顔を突っ込む。  丸い背中がビクンビクンと跳ねた。液状化した物が吐き出されてビチャビチャとシンクを叩き、溢れた涙と一緒に流されていく。  胃から強制的に排出される苦痛、胃酸で喉が焼かれる苦痛に苛まれ、脳内が真っ白になる。一刻も早くこの苦痛が過ぎ去ってほしいと願うばかりで、余計な事は一切浮かばなかった。 361 名前:愛と憎しみ 第一話 ◆O9I01f5myU[sage] 投稿日:2011/07/22(金) 21:48:36 ID:BEYROaUY [5/6]  シンクから離れた香山の顔は痛々しいものだった。頬に張り付いた涙の痕、赤い目、鼻水と嘔吐物で汚れた口元に青ざめた顔色、額には脂汗も噴き出ている。  ボブ・ヘアにつぶらな目、小さな鼻、全体的に小さく収まっている顔である彼女は可愛いと評価されるに十分な容姿を持っているが、今はそれが欠片も残っていない。  鏡に映る己の顔。一時で随分やつれたと思った。心なしか、頬はこけて、目元は窪み、眼窩の奥の目が怪しく光っている様に見える。  顔を洗おう……。  カランから出る水は冷たかった。 今は夕方、涼の必要はないこの季節、おまけに今日は少し気温が下がるとの予報。室内は肌寒く、水の冷たさが体を強張らせる。却って気分を紛らわせられたとも言えるが、細い体には酷だった。  ふらふらとベッドに入り、うずくまる。温もりに包まれてか、体の強張りも解ける。この温かさが骨の髄にまで沁み渡る様だった。  目を閉じると、瞼の裏に忍の顔が出てくる。共に過ごした、過ぎし日の群像が次々と……。  忍の心を奪っていった男の事が改めて憎いと思う。常に助平な視線で女をねちっこく視姦してくる下劣な集団の端くれが最愛の人を手込めにしたなんて、香山は受け入れたくなかった。忍がその男の事をどれだけ愛していたとしてもだ。  彼女の事を愛しているからこそ、祝ってあげるべきだと何回も考えた。忍を祝福したのも、この度の申し出を受け入れたのも、そうやって己に言い聞かせてきたからだ。  努力はしている。が、香山の男嫌いな性格は、彼女自身が考えている以上に根が深かった。  忍は男に汚された。純潔を失い、その男の所有物に成り果てた。彼女はそれを幸福だと、幸せだと思っている。あの笑顔で、少し恥じらいながら……。  愛おしさは募り、恋慕の炎で胸を焦がされる。ときめく心に煤が少しずつ付着していく事に香山は気付かない。徐々に心の灯りが薄暗いものになっていく。  陽の目と向き合えず、日陰育ちを選んだ者達は何時しか僻みを覚え、鬱屈とした闇に犯されていく。  香山も今、その一人となろうとしていた。

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