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679 名前:愛と憎しみ 第六話 ◆O9I01f5myU[sage] 投稿日:2011/08/28(日) 23:12:28 ID:CDaVdRE2 [2/6] 6  拳から流れる血液が床を汚し、足はガラスを砕く大女。荒々しく息を吐き、眉間に皺を寄せ、一歩、一歩と近づいてくる彼女のその姿からは、狂える獣の発する威圧感がぴりぴりと感じられる。  入院服を着たままなので、実にシュールな光景だ。今の彼女を見てケタケタと笑う者はいないが、背筋に氷が這う感触は覚えたという者なら多数現れるであろう。  「……忍ちゃん……」  香山は感情の込められていない声で呟いた。  忍は彼女を真っ直ぐ見据えたまま、歩を進める。香山はその場に座り込むばかりで、何一つリアクションを見せない。  広い肩幅、高い背筋、見る者を畏怖させる目を持つ「肉の壁」は、香山を直下に見下ろせる所まで近づいてきた。  香山は路肩の石を眺めるかの様に彼女を見上げた。  「見損なったよ、忍ちゃん。まさか忍ちゃんが、ショタコンの変態さんだったなんてね」  彼女の突然の来訪にも全くうろたえている様子はない。さっきまでの、幸人への暴行の限りを尽くしていた現場を押さえられたにも関わらず、それら全てを棚に上げて彼女を非難した。  「それに、今までこの子が何をやっていたのか知っているの? この子は色んな奴らの慰み者にされてきたんだよ? そんな汚い体で、手で、忍ちゃんに触れて――」  その先は続かなかった。  彼女の胴が舞い、床に強く叩き付けられる。忍の蹴りが入ったのだ。細見な彼女ではかなりの痛手を負うだろうが、加減は一切されていない。  香山は胃の中の物を全部ぶちまけた。  聞くに堪えない不快な音が続く中、忍は横たわる幸人を優しく抱きしめた。  「……ママ……?」  力の無いか細い声だった。  「遅くなってすまなかった、幸人」  そう言って、優しくキスをする。  「帰ろう。怪我の治療をしなければ」  背中に手を回したまま足を掬い、そのまま抱き上げる。  「あっ、待って……」  そのまま立ち去ろうとしたその時、幸人が忍を止めた。  彼が指差した物は、うずくまる香山の脇に転がる紺色のボールペンだった。さっき香山を蹴り飛ばした時に一緒に吹っ飛んでしまっていたのだ。  このボールペンは数年前に忍が幸人にプレゼントした物だ。既にボールペンとしての機能性は損なわれているが、「何時も持っていてほしい」という忍の頼みを彼は律儀に守っていたのである。 680 名前:愛と憎しみ 第六話 ◆O9I01f5myU[sage] 投稿日:2011/08/28(日) 23:14:29 ID:CDaVdRE2 [3/6]  幸人を降ろし、それを拾いに行く。そのすぐ傍には香山がいるというのに意にも介さない。  「……忍ちゃん」  ボールペンを拾う忍の手に、香山の掌が絡み付く。  鬱陶しそうに目をやる忍。  「私は……忍ちゃんの事、ずぅっと前から好きだったんだよ……?」  悲しみに打ちひしがれた顔だった。  「忍ちゃんは何時も硬派を気取っていたけど、結構可愛い所もあったよね。クールな顔の下には女の子らしさがあるんだ。恋に憧れているんだけども、それを素直に表現できなかったりしてたよね……」  忍のこめかみがぴくっと動いた。  「……私はそんな忍ちゃんの事がずっと好きだったの。愛しているの。ねぇ……忍ちゃん……お願い、私を見て。私を……見てよぉ……」  大粒の涙が零れた。  ボブ・ヘアの良く似合う彼女の流す涙。男連中の心なら大きく揺さぶった事だろう。この儚さすらも感じさせる泣き顔に動じない男がいるとしたならば、それは余程のクールガイか同性愛者か、或いは彼女の本性を知った者かの何れかであろう。  無論、忍の返答は火を見るよりも明らかである。  「私はお前をどうとも思っていないし、眼中にすら無い」  頭頂部に足を乗せると、そのまま踏み抜く勢いで体重を掛ける。  香山の顔がガラスの破片の散らばる床に打ち付けられた。破片が幾つか刺さり、床に血痕が刻まれる。呻き声を上げて身悶えた。  忍は無言でそれに背を向け、幸人を抱き上げた。  「さぁ、行こう」  「う、うん……」  香山の姿を見て少し気の毒に思う幸人だが、先程までの自分がされていた事を思い出すと、目を背けてしまった。  二人はそのまま、割れたガラス戸からその場を後にした。  喧騒が過ぎ行き、無音に包まれたこの室内に、雀の囀りが皮肉に冴えた。見れば、山の端を照らしていた太陽が顔を見せている。夜が明けたのだ。  暖かな日光に目を細める。  彼女の顔は血塗れになっていた。刺さったガラス片から流れる物と、床に流れた血が悶えていた際に付着した物によって、顔全体が真っ赤になっていた。  その真っ赤になった顔が光り輝く。血の赤みに染まった肌が光に照らされた事によって、黄金色に見える。 681 名前:愛と憎しみ 第六話 ◆O9I01f5myU[sage] 投稿日:2011/08/28(日) 23:16:22 ID:CDaVdRE2 [4/6]  掌にも血がべっとり着いている。  おもむろにそれを広げて眺めてみる。綺麗だと思った。  頭が酒に漬けられる感覚。思考が歪み、視界も歪む。床や壁が、ぐねぐねと波打っているみたいだ。体が平衡感覚を失って、右へ左へと揺れる。  忍の冷徹な一言がフラッシュバックする。  お前をどうとも思っていないし、眼中にすら無い。  そうか、そうかと香山は唇の端を吊り上げる。  「私は、忍ちゃんにとって、どうでもいい存在だったんだぁ……」  舌足らずにそう言うと、けらけらと笑い始める香山。  「あははははは……おっかしぃのっ! おっかしぃの! あははははははははは!」  血とガラスが散らばる床、割れたガラス戸、その中に一人、血に塗れ、膝立ちのままで狂った笑い声を高らかに上げる。  女の目から流れていた涙はもう無い。とうに渇き、涸れてしまった。  もはや悲しいとも悔しいとも感じなくなってきていた。只、面白可笑しくて、笑いが止まらない。  掌を太陽にかざす。金色にキラキラと光る手。まるで天からの祝福を受けたみたいだと香山は思った。  今の自分に不可能は無くなった。この魔法の手を授かった今なら、どんな事でも成し遂げる事ができる。それこそ、人の命や心を、一手に操る事も……。  床に転がる大きめのガラスを拾い、それを両の腕に刺す。不思議と痛いとは思わなかった。  血がなみなみと溢れ出てくるのを恍惚とした目で眺める。血がこんなに美しいとは今まで思った事もなかった。  「綺麗だなぁ……綺麗だなぁ……」  血液を弄ぶ。幼稚園児が泥と戯れる姿を連想させるものがあるが、微笑ましいとは到底言えない。狂人の奇行を笑って見守る人間なんている訳がない。  落ちた血を掬って、手から零して、また掬う。そんな事を何回も繰り返す。肘から先はすっぽりと赤黒くなり、戯れている内に全身の至る所も染まってきた。人間は三分の一の血液の流出で命が危なくなるが、彼女の影みたいに従う血だまりはそろそろ致死量になるのではないかという程広がっていた。 682 名前:愛と憎しみ 第六話 ◆O9I01f5myU[sage] 投稿日:2011/08/28(日) 23:17:38 ID:CDaVdRE2 [5/6]  散々に血だまりを捏ね繰り回していたが、いきなりぱったりと動きを止める香山。  にへらっと気味悪い笑顔を浮かべる。顔からは血の気が失せており、笑顔の不気味さをより引き立たせている。  「忍ちゃんの血は、どんなのかなぁ」  プレゼントを心待ちにする小学生の様に首を傾げる。  「見てみたいなぁ」  ふらっとよろめきながら立ち上がる。  「忍ちゃんの、血、見てみたいなぁ」  血の沼から這い上がる鬼女の姿が、そこにあった。

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